2016年12月14日水曜日

科博『ラスコー展』感想

 科博で開催している『ラスコー展』。平日午後に行くと空いていた。展示内容は、有名な壁画をただ羅列して見せるというものではなく、発見の経緯や調査技術と関わった人物なども展示することで、子供が見つけた古い壁画が人類の遺産となる経緯も示されている。洞窟の内側はレーザースキャンされ、縮小模型として出力された。それらの展示は、洞窟の壁を1枚の層として、その外側がまず目に入る。細長い様はいびつなヤマイモか何かのようだ。鑑賞者はその両側に開いた穴から、巨人のように洞窟内をのぞき込む。ラスコー洞窟の壁画という言葉の響きや、褐色で描かれた動物の姿は日本人にも有名だが、その洞窟そのものがどういった形の空間なのかはあまり意識されない。洞窟の縮小模型はそれを意識させるために置かれたのだろう。その次に、本展示のメインである、壁画の実物大再現エリアが始まる。主要な壁画の壁そのものが立体的に再現されている。そのユニットが幾つか連続的に続き、さながら洞窟内のようでもある。数分眺めていると部屋が暗転しブラックライトが点灯すると、壁面を引っ掻いて描かれている線描が緑色に光って浮かび上がる。これは素晴らしいアイデアだし、実際、色彩部にそのような線描が刻まれていることなど知らなかった。壁画を含む壁面の再現度は高い。もちろん実際を知らないのでその限りではあるが、一見、本物のように見える。とは言え、洞窟全体がトンネルのように再現されているわけではないし、そこに描かれている動物画も絵画そのものとしての強さが”売り”というのでもないから、そこはかとない白々しさを感じてしまう。それは、皮肉なことに壁面レプリカの再現度が高いゆえなのだ。ラスコーのリアリティは、その現場に立たなければ感じることはできないだろう。

 壁面レプリカのコーナーを越えると、息抜き的な展示が少し続いて、別の部屋へ移ると、次のハイライトがあった。古代人の石器と共にさまざまな芸術的加工品である。私は壁画レプリカよりずっとこちらに目を奪われた。なぜならそのほとんどが実物なのだ。残念なことに日本の博物館展示はとにかくレプリカのオンパレードが当然なので、私はいつも「どうせレプリカだろう」と思いながら冷めて鑑賞する癖が付いている。そんなつもりでアクリルケースを覗くと古代美術の書籍で有名な「体をなめるバイソン」が置かれている。しかし、刻まれた描線の影にキャスト特有の”ぬるさ”がない。キャプションにもレプリカの文字がない!何と、実物が来日していた。半レリーフ状の小品だが、輪郭はバイソンの形に切り出されている。前側から見ると厚みはないものの縁は丸く削られ、裏側も動物の胴体の丸みへの造形配慮が成されていた。隣りのアクリルケースには、殿部突出型ヴィーナスの実物まである!殿部突出型ヴィーナスと言えば「ヴィレンドルフ・ヴィーナス」が有名だが、実際は数多くの同系像が発見されている。これもその1つで、サイズは切手ほどしかない。きれいな半透明の茶色い石を加工してある。透過する素材と像のサイズは考慮された可能性を感じる。それにしてもこの小ささが愛らしく、護符として身につけていたのかも知れないなど想像が拡がる。他にも、トナカイなどの線描が刻まれた石版や骨などの実物が数多く展示されており、素晴らしい。
 その中に、不思議な人物の横顔があった。右を向いた頭部は、鼻と口つまり吻部が突出している。頸は頭部の真下に落ちている。小さな耳が頭部側面に描かれている。頬には縦線が幾筋も彫られている。目頭から鼻へかけて線が引かれている。つまり、この頭部は半獣半人なのだ。どういう訳かキャプションにはその事には全く触れていないが、ほぼ間違いない。もう一つ別に、同様のモチーフが刻まれている物がある。バイソンの細長い骨(棘突起か)に人物が縦に2人。両端は欠損しているがどうやら同じ人物画を繰り返しているようだ。その頭部は鼻面が長く、縦の縞模様が刻まれる。首輪と腕輪をしている。横から描かれた胴体は腹背に広く四足動物の様でありながら腰椎の前弯も表されている。腕は上腕が短く前腕が長く、これもネコ科など四足動物を彷彿とさせるけれども人のように分かれた指を持つ。脚も脚部が短く踵から先が長そう。「長そう」と憶測なのは、足の途中で骨が終わっているため描かれていないからだ。足首には足輪が描かれている。脇の下には垂れて伸びたような乳房がある。背中にはたてがみのような描線がある。このように、全身に渡って半獣半人の特徴が描かれている。それも顎の出たネコ科の風貌はライオンであろう。ライオンと人間女性の特徴を併せ持った何かが崇拝対象だったのか。図録にはもう一つ『ヒトの頭蓋骨の彫像』と名付けられた骨製小品が載っている。これは会場には無かった。キャプションには頭蓋骨とされているが、両耳が作られているので頭蓋骨ではない。両目は窪みになっているので眼窩に見えるが、思うにここには別素材の目が入れられていたのではないか。そして、鼻と口の部分は人間の様には造形されておらず両目の間からハの字型に下へ拡がって吻部を形成している。つまり、この頭部もまた半獣半人である。

 他にも多数、数万年前の人々が作り出した古代芸術の実物が展示されている。カタログを見るとこれらのほとんど全てが東京会場のみの限定展示である。他の会場ではこれらはレプリカ展示となってしまう。何という不平等!ともあれ、非常に貴重な機会なので、むしろこれらを見るために同展(東京会場)へ足を運ぶことをお勧めしたい。

 同展の売り文句のひとつが「芸術はいつ始まったか」である。当然ながらこれら洞窟壁画の古さがそう言わせるわけだが、この言葉は見る人たちを誘導してしまう危険性がある。つまり、これら壁画や小品たちが「人類の芸術活動の最初期のもの」であるという錯覚を抱かせるのである。この思い込みは、「初期のものだから稚拙である」という見方にも繋がる。例えば、「ラスコーは素晴らしい!」という発言の裏には「現代人より劣っている割りには」という但し書きが隠れているだろう。展示会場には、クロマニョン人の復元模型が置かれている。それを見ると、彼らが現代人と全く同じ外形をしていたことが分かる。ショーウィンドウのマネキンに毛皮の衣装を着せただけに見えるのだ。それほどに3万年前の人間は既に我々と同じであって、同じ構造をしているのであればその機能もまた同様であるに決まっている。同じ彼らが生み出した芸術がもし稚拙に見えるのであれば、それは現代の私たちもまた稚拙であるということであるし、彼らの芸術が原始的であるというなら現代の芸術も原始的であると言わざるを得ないだろう。しかし、こんな逆説的な言い方をする必要はもちろんなく、つまり、ラスコーや古代芸術は「既に古くなく、稚拙でもない」のである。別の言い方をすれば、既に芸術行為としての完成を済ませているのである。ラスコーや古代芸術が私を驚かせるのは正にこれで、3万年前に既に今と同じ創作行為とそのための思想が完成していた、という事実である。だから、これらは決して芸術の起源を示す遺産ではない。

 それにしても、2万年前の人物が、真っ暗闇の洞窟内へランプの灯火だけを頼りに侵入して、あれだけの大きさの壁画を描き続けた事実には畏敬の念を抱く。これらの壁画が始めて描かれてから、描かれなくなるまでの期間がどれほどだったのかは分からないが、もしかすると、数万年は開いているかも知れない。引っ掻き傷の線描と色彩描写は違う時代背景を彷彿とさせる。壁画と呼ばれるが、いくつかはほとんど天井画である。それも手を伸ばして描ききれるサイズではない。はしごを動かしながら描いたことだろう。助手もいたのかも知れない。そうやって想像を巡らせることは楽しい。彼らが洞窟から出ても、そこには道路も自動車もなく、食べる物もパンさえまだ発明されていないのだ。この時代、牛は私たちが思う牛ではなかった。ライオンは”大型のネコ科動物”ではなかった。線や色は光学現象ではなく、女性は性別ではなかったのである。そういった、同じであっても全く違う世界に生きた人々の感性の記録がこれら古代芸術には封入されている。

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