未だに手段を持たず、しかしそれに形を与え観察し共有したいという人間という動物的な振舞いが芸術活動であろう。芸術はいたずらに逡巡しているのではない。そもそもどこへ向かえば良いのか今でも分からないのである。先が分からずとも進み続けるのは、生物としての本能、いやそれ以前の本質である。言語体系はあたかも完成しているように見えるがそれとて同じである。ただ、刻み、形を与えることで、分節化し、ちょうどパズルのようにまとめて組み上げることが可能になった。しかし、繰り返すが、私たちの内的世界は全てそのようにまとめ上げられない。言語は言語化できるものだけで成り立っているのである。しかし黙考はどうか。そこは言語と非言語が渦巻いている現場である。言語という型に流される前の坩堝(つるぼ)であり、次々と流し込まれ続けている。芸術家は流される前の溶けた鉄に目を向ける人だ。そして型にないものに流し込んで形を与え、視覚化する。その過程だけで言うなら思考と同じである。思考が言語で行われるように、芸術家は非言語で思考する。それは特別なことではないが、忘れがちな事でもある。芸術の種類にも関係する大事なことは、形が作られるには大きく2通りあるということだ。すなわち、何を作るか考えて作る事と、作りながら考えることである。単に人から物が作られるという過程と行為だけを見ると、両者は似ている。しかし、作られる現象としてみるなら両者は全く異なる。我々の身の回りにある人間の為に作られたほとんどの物は前者である。それが洗練され経済に組み込まれたものが商品である。純粋性の高い芸術作品は後者である。それはほとんど常に、人が初めて目にする物である。しかし同時に、いつか見たような気もするはずだ。もしくは、初めてなのにそれが見たかったと思うだろう。そうでなければ、強い嫌悪かも知れない。いずれにせよ、何らかの言葉にならない思いを喚起させるのである。しかしそれは、言語ではない。感情の看板でもない。もし、多く人に共通の思いを抱かせるのであればそれは言語的であり看板に近づいていると言える。そうなったなら、真の芸術家はそこに興味を失うだろう。革命的であろうとする芸術家は、いつも看板を言語化され固定したものを疑うからである。
そして、むしろ考えるべきは、形と音であった。