2009年5月25日月曜日

人体の比率、プロポーション

スタイルのいい人を見て、あの人はプロポーションが良い、なんて言ったりする。感覚的に使っている言葉だが、実際に見栄えのいい人は各部の比率が良い。それは、絶対的な長さのことではなく、ある部分とある部分を比べたときの長さのことだ。いわゆる「八頭身美人」は、身長がどれだけあるかではなく、身長がその人の頭の長さの何個分かが重要なのだ。
それならば、人体各部を比べて、万人が美しいと感じる比率にたどり着けばそれは揺るがしがたい美の基準値となるではないか、と誰もが考え、実際に歴史的に常に研究されてきたようだ。しかし、10人いれば10通りの好みがあり、時代の好みもありという訳で、プロポーションの絶対値は定義されていない。
それでも、古代ギリシアのクラシック期の大理石像は、人体の美の基準としていいのではないかと思わせる調和を持つ。ここで、注意したいのは、それは彫刻としてのバランスであって、もし、かの像と同等のバランスの生身の人間がいたなら一種異様に映るだろう。美の感覚は繊細だ。
さて、基準を求めて残された幾つかの歴史的な図がある。もっとも有名なのは、レオナルドのウィトルウィウス的人体図で、これは確かに美しい。他にも、デューラーも多くの時間を割いて研究をしたそうだ。近代まで、プロポーションの研究は不断に続けられてきているようだ。

人体を計測するには、基準測定部位を求めなければならない。もし、腕の長さを計ろうとしたとき、どこから計ればいいのか?脚の付け根はどこになるのだろう?人体は立体物で、しかも運動をする。体も柔らかく弾力があるので、計る時に押せば沈んでしまう。比率は主に長さを問題にするが、同じ長さでも細いが太いかでまた見え方は変わるだろう。それが立体の量の見え方となれば、ますます比較要素は増大していく。
そういうわけで、人体のプロポーションは、実質的には、制作に大きな補助となるものではないように思う。要素が多い立体を扱う彫刻家ほど、プロポーションのことを云々言わないのはそういう理由もあるのではないか。

結局、作家個人が自ら発見した比率がその作家のテイストとなった。ミケランジェロもロダンも厳密に計ればおかしな数値だろうが、見る者はそれが気にならない。
多くのモチーフを実際に見て、作って、自分の美の基準を発見するのが、芸術的アプローチというわけだ。

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