2009年5月23日土曜日

美術解剖学というもの

美術解剖学の書物が多くある。そこには、決まって筋肉人と骨格人の図が描かれているはずだ。気の利いた本ならば、同じポーズの裸体像が隣に描かれていたりして見比べられるようになっている。人体の作りを内面から知りたいを思った読者は、それを見て納得する。なるほど、裸体のこの起伏は、この筋肉が見えていたのかと。そして、やる気を出して、筋の名称を覚えようとする。
そうして彼の知識は以前とは変わった。腕を伸ばす時の筋の名前も言える。ところが、人体を描こうと紙に向かうと、以前と同じように形が分からない。モデルが違うポーズを取っているともう、起伏を追えなくなる。
どうしてそうなるのだろう。解剖学を知れば、人体の形が見えるようになると思って、皮を一枚剥いで見てみた・・・それは、皮を剥いでいないのと同じではないか?それは、裸体に筋肉をボディペイントしているのと同じことだ。それなら、何も筋肉にしなくても、別の分かりやすい名前を付けて理解するようにすればいいのではないか。
実際、解剖学的なアプローチでの観察が行われなかった時代は、体の部位を外からの観察で特徴で分けていたろうと想像できる。その場合、初期ほど写実で、後期になると概念的で形式的になるはずだ。

しかし、今、表現の為に解剖学を欲している人は、その「外見だけで内側を推測する」ことの限界を感じている人のはずで、そこで、皮一枚剥いだ状態の図を見せて「はい、どうぞ」では、色合いを変えただけで同じ場所の堂々巡りなのだ。
人間の形が、どんなものの組み合わせで出来上がってきているのか。そのことが、本当は知りたいはずで、美術解剖学は、それを説明できなければならない。

人間のからだを外見から見て表現することが出来るのが芸術家だが、だからといって、その人が、解剖学的に正確な組み立てを知っている訳ではない。一方、その組み立てを正確に知っているのが解剖学者ということになるが、彼らはそれを表現する術を持たない。ならば、両者が組めば良いではないかという発想は昔からあって、実際歴史的に有名な解剖学書の多くはそうして作られている。この場合は、解剖学者が芸術家を採用したかたちだ。それに比べると、その逆はあまり聞かないように思う。

芸術家にとって解剖学の知識は、大抵の場合作品の品質に良い影響を与える。最たる例が、ミケランジェロやレオナルドだが、彼らと現代の私たちでは、大きくて本質的な違いが横たわっている。それは、「自分の目で観察した」ということだ。彼らは、自ら解剖をしたと伝えられる。大変だったろうし、そこまでするのだからよほどの知識欲があったのだろう。それに対して、私たちは、「解剖図を見て」学ぶ。それは、誰かの知識を介在させたものであって、多くの情報がすでに整理され、何らかの方向付けがされているのだ。その意味で、解剖図を見て、人体の内部を”レオナルドのように”知ったと思うのは間違っている。

とはいえ、人類は、解剖学において人体内部の意味合いを多く発見し記述しており、それらは形を読み解くヒントになるものも多いのは事実だ。ただ解剖図を見るのではなく、それに伴う情報も利用して、形の組み立てを記述できるようになるのが、美術解剖学の正しい道のように思う。

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