2009年5月22日金曜日

溝と線


地面に溝があるとする。溝は大地という広大な量に刻まれたもので、あくまでもその量の一旦を担っている。だが、それを遠い空の上から眺めたなら、単なる一本の線に見えるだろう。このように、立体であるものも、視覚の分解能を超えると、平面的な線と見なされる。ナスカの地上絵は、線画に見えるし、そのように二次的に表現されるが、実際は地面の砂利を左右にどけてあるだけで、そこに線は存在しない。

私たちの身の回りには、線として見ているが実は溝であるものが多い。画家が描く時、周りの立体物は全て平面へ変換されてキャンバスへ表される。そこでは、溝も線も、「線」となる。
しかし、彫刻はそうではない。彫刻家は溝はあくまでも溝として捉える。そのとき、その溝はそれを取り囲む形状の何者に属しているのかを捉えようとする。そうしなければ、形状に調和した起伏とならないからだ。
残念だが、この溝をおろそかにしている彫刻も最近は数多い。いたずらにヘラで引っ掻いただけのものなど、そのせいで、量感が台無しになり、全体が破壊される。

身の回りにある溝が、どんな理由で出来ているのか。そこから探ることで、溝の意味を知る事が出来る。例えば、顔を作るとするなら、目の二重の溝はなぜその形なのかを考える。そうやって見ていけば、ヘラのひっかきで済ませられなくなる。
溝は、量と量のせめぎ合いで生まれる。つまり、溝の内側も量の断端なのだから、おろそかには出来ないはずだ。溝の処理を怠らずに追うことで、作品はつよい引き締まりの効果を得て強いものになる。写真の石彫を見ると分かるが、マヤ、アステカの彫刻は溝の処理がすばらしいものが多い。彼らは、溝を単純な線(ひっかき)でごまかそうとしなかった。線は、溝の結果として見えてくることを知っていた。同じ事はエジプト彫刻にも見られる。強い日差しの屋外に設置するという条件がそれらを生む後押しをしたのだろう。

骨格も、溝と線の関係を探求するいい素材なのだが、それはまた別の機会に。

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