私たちが普段何か対象を指せば、それはその物本体を意味している。そんなことは当たり前だが、彫刻はその事をもう一歩踏み込んで考えなければならない。
例えば人体の彫刻がある。それは、ある空間内において、その像がその空間を引き裂いて(もしくは押し退けて)存在しているのである。一方、同様のテーマの絵画があるとしても、その中の人体は絵画中での仮想的空間に存在しているのであって実空間を問題としない。このことが、彫刻と絵画を分ける絶対的な違いの一つだ。
人物画を描くには、それが収まるだけの画布が必要だ。それが無ければ絵画中に人物は存在出来ない。それと同じことが、彫刻でも言えるのである。彫刻が存在するには、それが収まるだけの空間を必要とするのだから。
しかし、私たちが普段あるものを指し示す時、その物体はそれが取り囲まれているものがあって初めて成り立っているのだとは意識しないために、彫刻の作品としての魅力はその作品そのものだけで成り立つと考えてしまっているのが実情ではないだろうか。
存在は、それを取り囲むもの(マトリクス)とは、切り離せない。この、一見当たり前の、禅問答のような真実を常に意識しなくては、空間に生きる彫刻は本来存在し得ない。
それを意識しないものは、彫刻とは呼ばず、人形やおもちゃと呼ばれる。彼らは、そもそもが動かされ、消費されるもので、それが取り囲まれる空間を意識して存在することが出来ない。
さて、この彫刻とマトリクスの関係性は、西洋に置いては古くから意識されて来ていた。現在の西洋彫刻の起源とも呼べるギリシアに置いて、そもそも彫刻は建築物の一部を担っていた。そこで見られる「カリアティード」などは、その人物が置かれる状態をポーズで示し、かつ実際にも加重に耐えうる形状をなしている。これなどは、空間ではなく物理的なマトリクスに覆われている彫刻とでも言えるだろう。やがて、建築物から離れて彫刻が存在するようになっても、やはり、そのものが置かれる空間は必ず意識されてきた。
近代では、ヘンリー・ムアが、作品を取り巻く空間を意識的に捉えたものをいくつも発表した。彼は、作品が置かれる場所(つまり空間)にこだわり、現在もその効果をマッチハダムの屋外展示で見る事が出来る。
芸術としての彫刻を考える歴史が浅い日本では、そもそも、その物を取り囲む空間という概念が薄かったのか、未だにこのことに無関心であるように見える。
美術館などでの彫刻の展示を見ればそれは一目瞭然だ。狭い角の壁際などにぴったりと置かれたもの。隣り同士、満員列車のように並べられたものなどが目につく。作品”だけ”を見てください、と言わんばかりだ。
全ての存在は、それだけでは存在できないという大前提は、美術においても同様に働いている。そのことに、作家も、展示者ももう少し気を配るべきではないだろうか。
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