2009年8月9日日曜日

画家と彫刻家 見え方の違い

朝、眠りから覚め、目を開けた瞬間から、見慣れた部屋の光景が目に飛び込んでくる。それは、あまりにも当たり前の事で、見えるという事実に驚く者はいない。
個人が、見るという努力をせずとも、目を開ければ半ば強制的に光景が見えることから、「見る」ということは、受動的な現象だと信じられて来た。つまり、「見えて当然」ということだ。実際に今でもそう信じている人が大半だろう。
しかし、脳の構造や機能から、見るという行為が分析されるに至って、「見える」とは、それほど単純なものではないことが明らかになった。見るという行為のなかで、従来通り、受動的と言っていいのは、まぶたを開けて、光線が瞳孔を通り網膜に到達するまでに過ぎない。しかし、この段階では、単に視細胞が興奮した状態であるだけで、「見える」という感覚からはほど遠い。ここから多くの行程を経て、情報が取捨され再構成されて初めて「見える」のである。つまり、「見る」とは、実に能動的行為と言えるのだ。
だからこそ、「見れども見えず」になったり、無いはずのものをそこに見る事もある。また驚く事に、「見えずとも見れる」ことさえある事が分かっている。

さて、このように、見るという行為は能動的なのであるから、見え方も状況次第で、様々に違うのである。芸術では、大きく二つに分けられると思う。すなわち、「画家的視覚」と「彫刻家的視覚」とに。
まず、「画家的視覚」だが、これは比較的、一般の人の見え方に近いだろう。ただ、一般よりも圧倒的に色覚分析が優れている。目に映る光景に含まれる色彩を強調して捉えようとし、また、色彩のみから形状を読み取ろうとする。この見方が優れている人は、より色彩の鮮やかなものに目がいくだろうし、実際にも、ガラスや水面の反射のような、形状に束縛されない光を捉えて表現する事に秀でている。一方で、物体の形状や構造を的確に捉える事を苦手とする向きがあるようだ。これは、対象を表面の光線からのみ認識しようとするからだろう。
「彫刻家的視覚」は、ちょうど上記の画家のものと逆である。彼らは、極端に言えば視覚から色彩を消去する。まず、対象の形状と構造の分析を行うのだ。だから、複雑に見える形状から隠された構造的一貫性を見いだすことに秀で、また、その美しさを発見し、再構成することが出来る。しかし、色彩に関しては、不得意とする向きがある。

これらの相反するような二つの視覚は、実は誰でも持っているもので、普段からどちらも駆使されている。だが、「画家的視覚」で重要となる色覚の認識は脳内での伝達順序から見て、より初原的であると言えるだろう。つまり、より理解しやすい。それに比べると、「彫刻家的視覚」で重要となる距離覚、つまり立体感覚は、より高度な情報処理を必要とするので、専門的な訓練をより必要とするだろう。
これはつまり、一部が隠れていたり、斜めからしか見えていない対象の全体の形状が見て分かるとか、複数置かれている物体のお互いの位置と距離を認識できるとか、一見複雑な構造物から形状的な秩序を見いだせるとか、そういうものだ。

さて、そう見てみると、人体という構造物の形をより理解しやすくするための美術解剖学とは、「画家的視覚」よりも「彫刻家的視覚」に訴えるものであることがわかる。同時に、人体の形状を理解する為には、美術解剖学的な知識よりも前に、彫刻家的視覚を訓練する必要性があるということも分かる。

書店にならぶ解剖図譜を見ても、多くの人がそれを形状的に理解する事が難しいのは、そのあたりに理由の一端もあるのだろう。

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