芸術家というのは、一般の人とは違う別の領域に生息する特別な存在。そんな風に子供の頃は漠然と思っていた記憶がある。学校を出たり、何かを学んだらなれるというものでは無い—つまり、職業ではないと感じていた。
だからこそ、高校生卒業後の進路が問題になる年の頃に、芸術大学があることを知って驚いた。芸術家とは学校にいってなれるものなのかと。
そして、芸術大学に入学が許されるとそれでもう自分は芸術家なのだと、言い換えれば、その資格と才能があると認められたのだと信じてしまった。十代後半は、何か自分に秀でたものが欲しいと思う年代だ。その頃に、「芸術家」という何か普通ではないレッテルが与えられることは、若い自尊心を多いに満足させるものだった。
しかし、そういった思い込みと現実の落差を、卒業後に知る事になる。つまり、芸術大学を出たら芸術家ということは全くない、ということを知らされるのだ。その意味では、小さい頃に抱いていた芸術家の概念が正しかった事になる。美大を出ても芸術家にはなれない。
芸術家とは、自分で決められるカテゴリーではないのだ。ある人の生き様を見て、他人が「あの人は芸術家だ」と思う。それが大衆となることで、周囲から芸術家と認められるようになるものである。
自ら、「私は芸術家です」と言うような人物がいたら、少し間を持って接するのが良い。
芸術家という呼び名の他に、画家、彫刻家などという呼び方があるが、これは、ずっと職業的な雰囲気を帯びていて、芸術家という呼称と対応するものではないので、「私は画家です」や、「私は彫刻家です」と自らを紹介しても何ら違和感を覚えない。
世の中に画家や彫刻家はあまた居る。しかし、そのなかに芸術家と呼べる人物がどれだけいるだろう。それは、計る事が出来ないのかもしれない。美術の歴史を見ても、生前は全く顧みられなかった巨匠は多い。
自分がしていること(制作)は、どこに行き着くのか。その答えは分からないまま、自分が信じる色彩、形体を追い続けるというのは、どこか宗教を感じさせもする。
芸術の発展には宗教は切り離せなかった。アートがそれらから自由になり、個人の感覚発表の場となっても、芸術を追い求めるために要求される資質—信心—は変わりがないのだ。
芸術家たる資質として求められる第一にして根源的なもの。
「あなたは芸術を信じ、それに生きますか」
0 件のコメント:
コメントを投稿