2009年8月19日水曜日

言葉という道具 言語優位性

私たちの社会では、言葉がきちんと使える事が、その立場において非常に重要な要素となっている。立場と状況に応じて、適した言葉を選んで使い、意思を明確に伝えられるかどうかで、その人の知性と社会的地位が計られる。
海外に旅行に行くと、言葉が使えないが為だけに、ひどく自分が劣った人間のように思えるものだし、逆に、拙い日本語を使っている外国人を見ると、何だか自分より劣っているように感じてしまう。
もちろん、人間の知性などは、言語だけで計れるものではないのに、なぜ、そう感じてしまうのか。そこには、人類にとっての言語優位性という性質が見て取れる。

言語を扱う動物は人間しかいない。人類がいつ言語を使うようになったのかは正確には知る由もないが、その取得過程には、道具の使用と関連性があるように思う。
言葉を持たない動物も、鳴き声などで相手に意思を疎通するが、それは、発声した時のみの単純な伝達に過ぎず、「ここ」、「向こう」、「逃げろ」、などのように、掛け声のようなものだ。
やがて、言語取得初期の人類は、「お前、あそこ、私、ここ、追う、お前、出る、私、お前、捉える」という感じで、増えた語彙をいくつも重ね始め、間を埋めるように、文法が出来ていったのだろう。これは、例えば、綿密に狩りの計画などを立てることを可能にした。協力し合って狩りをする動物は、オオカミなど人類以外にもいるが、彼らのそれは進化によって身につけた固定されたものであるのに対して、言語が可能にした共同作業はどのようにでも変更をすることが出来る点で、本質的に全く違うものだと言う事が出来る。
この、進化的に身につけたものではなく様々に変更が可能であるというのは、人類が身につけた「道具」と同じなのだ。その意味で、言語は道具であり、その取得時期は道具の使用時期と近い可能性が考えられるのではないか。

実際の道具と言語では、物質と概念という大きな違いがある。言語は形を持たないため、行動や思想など形のないものも表す事が出来る。
しかし、それを的確に操るためには、意識(脳)が明晰である必要が有る。言葉が物事に呼び名を付ける事で明確化し、それによって、思考が明晰になっていった。私たちは、物事を考える時に言語を必要とする。
こういった理由から、言語を高度に操れる人は意識が明晰であると判断する事が出来る。また、どんな動物も固有の身体的能力を持っているが、人類にとってのそれは、高度な意識(脳)の表出である道具とその一種である言語であり、それが優れている者が集団の長に付く事が出来るのは各動物種におけるヒエラルキー構造と何ら違いが無い。
つまり、私たちが、相手を言葉遣いで判断するのは、言語を持つ人類としての本能のようなものなのだ。的確な言語は、作戦を正確に伝達させることで狩り(または、農耕など)を成功に導き、集団を保護する。そうやってきた記憶が私たちに刻み込まれているのではないだろうか。

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