2009年5月25日月曜日

人体の比率、プロポーション

スタイルのいい人を見て、あの人はプロポーションが良い、なんて言ったりする。感覚的に使っている言葉だが、実際に見栄えのいい人は各部の比率が良い。それは、絶対的な長さのことではなく、ある部分とある部分を比べたときの長さのことだ。いわゆる「八頭身美人」は、身長がどれだけあるかではなく、身長がその人の頭の長さの何個分かが重要なのだ。
それならば、人体各部を比べて、万人が美しいと感じる比率にたどり着けばそれは揺るがしがたい美の基準値となるではないか、と誰もが考え、実際に歴史的に常に研究されてきたようだ。しかし、10人いれば10通りの好みがあり、時代の好みもありという訳で、プロポーションの絶対値は定義されていない。
それでも、古代ギリシアのクラシック期の大理石像は、人体の美の基準としていいのではないかと思わせる調和を持つ。ここで、注意したいのは、それは彫刻としてのバランスであって、もし、かの像と同等のバランスの生身の人間がいたなら一種異様に映るだろう。美の感覚は繊細だ。
さて、基準を求めて残された幾つかの歴史的な図がある。もっとも有名なのは、レオナルドのウィトルウィウス的人体図で、これは確かに美しい。他にも、デューラーも多くの時間を割いて研究をしたそうだ。近代まで、プロポーションの研究は不断に続けられてきているようだ。

人体を計測するには、基準測定部位を求めなければならない。もし、腕の長さを計ろうとしたとき、どこから計ればいいのか?脚の付け根はどこになるのだろう?人体は立体物で、しかも運動をする。体も柔らかく弾力があるので、計る時に押せば沈んでしまう。比率は主に長さを問題にするが、同じ長さでも細いが太いかでまた見え方は変わるだろう。それが立体の量の見え方となれば、ますます比較要素は増大していく。
そういうわけで、人体のプロポーションは、実質的には、制作に大きな補助となるものではないように思う。要素が多い立体を扱う彫刻家ほど、プロポーションのことを云々言わないのはそういう理由もあるのではないか。

結局、作家個人が自ら発見した比率がその作家のテイストとなった。ミケランジェロもロダンも厳密に計ればおかしな数値だろうが、見る者はそれが気にならない。
多くのモチーフを実際に見て、作って、自分の美の基準を発見するのが、芸術的アプローチというわけだ。

2009年5月23日土曜日

美術解剖学というもの

美術解剖学の書物が多くある。そこには、決まって筋肉人と骨格人の図が描かれているはずだ。気の利いた本ならば、同じポーズの裸体像が隣に描かれていたりして見比べられるようになっている。人体の作りを内面から知りたいを思った読者は、それを見て納得する。なるほど、裸体のこの起伏は、この筋肉が見えていたのかと。そして、やる気を出して、筋の名称を覚えようとする。
そうして彼の知識は以前とは変わった。腕を伸ばす時の筋の名前も言える。ところが、人体を描こうと紙に向かうと、以前と同じように形が分からない。モデルが違うポーズを取っているともう、起伏を追えなくなる。
どうしてそうなるのだろう。解剖学を知れば、人体の形が見えるようになると思って、皮を一枚剥いで見てみた・・・それは、皮を剥いでいないのと同じではないか?それは、裸体に筋肉をボディペイントしているのと同じことだ。それなら、何も筋肉にしなくても、別の分かりやすい名前を付けて理解するようにすればいいのではないか。
実際、解剖学的なアプローチでの観察が行われなかった時代は、体の部位を外からの観察で特徴で分けていたろうと想像できる。その場合、初期ほど写実で、後期になると概念的で形式的になるはずだ。

しかし、今、表現の為に解剖学を欲している人は、その「外見だけで内側を推測する」ことの限界を感じている人のはずで、そこで、皮一枚剥いだ状態の図を見せて「はい、どうぞ」では、色合いを変えただけで同じ場所の堂々巡りなのだ。
人間の形が、どんなものの組み合わせで出来上がってきているのか。そのことが、本当は知りたいはずで、美術解剖学は、それを説明できなければならない。

人間のからだを外見から見て表現することが出来るのが芸術家だが、だからといって、その人が、解剖学的に正確な組み立てを知っている訳ではない。一方、その組み立てを正確に知っているのが解剖学者ということになるが、彼らはそれを表現する術を持たない。ならば、両者が組めば良いではないかという発想は昔からあって、実際歴史的に有名な解剖学書の多くはそうして作られている。この場合は、解剖学者が芸術家を採用したかたちだ。それに比べると、その逆はあまり聞かないように思う。

芸術家にとって解剖学の知識は、大抵の場合作品の品質に良い影響を与える。最たる例が、ミケランジェロやレオナルドだが、彼らと現代の私たちでは、大きくて本質的な違いが横たわっている。それは、「自分の目で観察した」ということだ。彼らは、自ら解剖をしたと伝えられる。大変だったろうし、そこまでするのだからよほどの知識欲があったのだろう。それに対して、私たちは、「解剖図を見て」学ぶ。それは、誰かの知識を介在させたものであって、多くの情報がすでに整理され、何らかの方向付けがされているのだ。その意味で、解剖図を見て、人体の内部を”レオナルドのように”知ったと思うのは間違っている。

とはいえ、人類は、解剖学において人体内部の意味合いを多く発見し記述しており、それらは形を読み解くヒントになるものも多いのは事実だ。ただ解剖図を見るのではなく、それに伴う情報も利用して、形の組み立てを記述できるようになるのが、美術解剖学の正しい道のように思う。

2009年5月22日金曜日

溝と線


地面に溝があるとする。溝は大地という広大な量に刻まれたもので、あくまでもその量の一旦を担っている。だが、それを遠い空の上から眺めたなら、単なる一本の線に見えるだろう。このように、立体であるものも、視覚の分解能を超えると、平面的な線と見なされる。ナスカの地上絵は、線画に見えるし、そのように二次的に表現されるが、実際は地面の砂利を左右にどけてあるだけで、そこに線は存在しない。

私たちの身の回りには、線として見ているが実は溝であるものが多い。画家が描く時、周りの立体物は全て平面へ変換されてキャンバスへ表される。そこでは、溝も線も、「線」となる。
しかし、彫刻はそうではない。彫刻家は溝はあくまでも溝として捉える。そのとき、その溝はそれを取り囲む形状の何者に属しているのかを捉えようとする。そうしなければ、形状に調和した起伏とならないからだ。
残念だが、この溝をおろそかにしている彫刻も最近は数多い。いたずらにヘラで引っ掻いただけのものなど、そのせいで、量感が台無しになり、全体が破壊される。

身の回りにある溝が、どんな理由で出来ているのか。そこから探ることで、溝の意味を知る事が出来る。例えば、顔を作るとするなら、目の二重の溝はなぜその形なのかを考える。そうやって見ていけば、ヘラのひっかきで済ませられなくなる。
溝は、量と量のせめぎ合いで生まれる。つまり、溝の内側も量の断端なのだから、おろそかには出来ないはずだ。溝の処理を怠らずに追うことで、作品はつよい引き締まりの効果を得て強いものになる。写真の石彫を見ると分かるが、マヤ、アステカの彫刻は溝の処理がすばらしいものが多い。彼らは、溝を単純な線(ひっかき)でごまかそうとしなかった。線は、溝の結果として見えてくることを知っていた。同じ事はエジプト彫刻にも見られる。強い日差しの屋外に設置するという条件がそれらを生む後押しをしたのだろう。

骨格も、溝と線の関係を探求するいい素材なのだが、それはまた別の機会に。

2009年5月21日木曜日

構造にひそむ美

構造に美は隠されている。厳密に言えば、ひとは構造に美を見いだす。それは絵画も彫刻も同じだ。しかし、実空間に重さを持って存在させなければならない彫刻は、構造への制約が多く、またそれが作家に構造への注意を向けさせる事にもなるので、結果的に彫刻家は構造に敏感になる。

実空間に見られる構造美は、それこそ身の回り全てといってもいいくらいあふれているのだ。まず、有機的構造として植物がある。大きな樹木になれば、重力に耐えるために強靭な枝を張り根元の量感もすさまじい。散歩している犬や猫にも構造美がある。ただ、身近になると構造美に目が行く前に「かわいい」など別の感情に振られてしまうので気がつかないことがある。これは私たち人間を見るときもそうだ。
都心部では、有機的な構造よりも無機的構造のほうが目につく。つまり、建物や自動車などの人工物だ。最近は、巨大な廃墟やプラントを見て回る人がいるが、それらも構造の美しさをさらしている。自動車などは最終的な外見は見た目を意識したデザインで覆われているので、それはそれでかっこいいが、むしろ早さの為だけの形であるレーシングカーや、専門的な作業の為のクレーン車などのほうが構造美としては美しいように思う。そのように、構造美に機能美が加わるとより魅力的になる。新幹線や飛行機や船などがそうだろう。戦闘機などはその美しさに引かれる人も多い。

さて、先にも言ったが、人を見る時はあまりに身近ゆえに構造美を見いだす事が難しい。人格を見てしまうからだろう。そういう時は、全体を見てしまわずに、ある特定の部位の構造を考えるといい。例えば腕の付け根など。どのように付いているのか、起伏はどこからきているかと見ていると、客観的に観察できていることに気がつく。それを全身に広げていけば身近な人体に構造的な美の連続を見いだせる。さらに深みにはまりたくなったら、そこからは解剖学の領域になってくる。そして、本当はここからが本当の面白さ、美しさ、驚きの始まりなのだ。皮膚一枚の内側は、スゴいことになっている。まさに、構造美と機能美の連続体、複合体である。

私たちは常に、何か美しいものを探しているが、それが自分の体内にあり、その組み立ての最外層が自分の外見だとはあまり考えない。美を追い求めるなら、一度、解剖学に目を向けてみるのも面白いことだと思う。

2009年5月18日月曜日

太古の女性


3万5000年前の人物像。象牙で作られた小さな人形だ。この写真を見て、初めてじゃないと思った。それは、グラヴェット文化の有名な3等身くらいの豊満な女性像に似ているからだ。つまり、誇張された胸と腰、横幅の広い体幹表現などだ。しかし、時代はこちらが数千年古い。どちらも大昔なので、なんだかどうでもいいような気もしてくるが、グラヴェット文化を仮に現在とすると、この像が作られたのはエジプト時代くらい離れている。そう考えると、何千年も同じような表現を続けていて、のんびりした時の流れをふと思うが、現在の私たちを見返してみれば、西洋彫刻の流れは古代ギリシアまで遡るわけだから、同じようなものか。

さて、グラヴェットの像ともう一つ、大きな違いがあり、それは頭部の扱いだ。見て分かる通り、頭部が極度に小さい。横向きに穴があいており、頭部というより、ひもを通すための機能部に過ぎないかもしれない。
この一つの発見からは、断定的な回答が導き出されるはずもないが、この表現からは身体の重要性が見て取れる。現代の私たちは、顔以外の体は服で覆い隠し、その人の「生の」対外性はさらけ出している顔だけだ。私たちのコミュニケーションと身体性のアピールについて顔が負う重要度は増した結果、美女、美男子という概念が生まれた。漫画のキャラクター達はみな巨大な頭部と顔面を揺らしている。それと全く逆である。顔などどうでもいいと言わんばかりだ。この女性は、両手で胸を持ち上げているように見える。巨大な胸をさらに誇張しようとしている。骨盤も大きく左右に張り出して安産型だ。腹部の張りが肥満か妊娠か分からぬが、いずれにせよ安泰を感じさせる。外性器も表されているように見えるがよく分からない。細かい溝は服のしわか、入れ墨か、傷で作る模様(scarification)か。
これらの像と時代から、彼らは裸に近い格好で生活していたのだろう。そうであるなら、相手の健康状態を知る時、私たちのように小さな顔面だけから知らなければならない制約などない。相手の体全体を眺めて判断することになろう。そうなると、顔だけつくろっても意味が無く、体全体の健康性が大切になる。つまり、大きな胸、張った腰、安泰な大きなお腹だ(食が安定した現代では、お腹は細い方が好まれるが)。この感覚は、夏が近づくとトレーニングしたくなるのを思えばよく理解できる。

これを作っていた、太古の人物。とはいえ、すでに私たちと同じ、ホモ・サピエンスであり、脳容積も変わらない。だから、気が遠くなるほどの時が離れていようとも、小さな発見物から、とても身近な感覚を抱く事が出来る。壮大かつ愛らしい、すてきな彫刻だ。

作品の価値とは(ムア作品盗難事件)


ヘンリー・ムアの彫刻が、2005年に盗まれていたとは知らなかったが、それが、イギリスのマッチハダムの庭園の物と知ってまた驚いた。イギリスに限らず、欧米は芸術作品の展示が大らかだ。日本のようにガラスケースや囲いなどで覆ったりしていないことが多い。それが可能になるには、鑑賞者がそのものの価値を理解しているという前提があるからだ。それを逆手に取ったような事件は、残念ながら時々起こっている。結果、イタリアのミケランジェロのピエタもそれが原因で今では強化ガラス越しに見るしかないし、ダヴィデも柵がつくられ距離があいてしまった。

ムアの作品は屋外に展示されていたものだが、長さ3.6メートル、重さ2.1トンだそうで、普通は盗まれるとは思わない。犯人は3人で、クレーン付きトラックで犯行に及んだそうだ。その作品だが、溶解して地金にされ、中国に渡ったらしい。確かに日本でも、数年前は町の金属の盗難が増えて、それらは中国に売られると報道されていた。
作品としての価値が4億3000万円。それが、地金として22万円だそうだ。犯人は、初めから作品を芸術としては見ずに、銅として見ていたのだろう。これは、英国人の仕業だろうか?ムアは英国の誇る世界的芸術家だ。それを、同国人がはした金欲しさに、自国のプライドに泥を塗るような、こんな低俗な犯行を企てるのだろうか。

さて、このニュースで、幾つか興味深いことがある。約22万円というが、2トンのブロンズがその価格なのだろうか。銅地金は安いとは聞いた事が有るが、それほどなのか。
素材で見るか、題材で見るかでこれだけ価値の開きがあるとは、価値について再考させられる。

ともあれ、残念である。せめて、原型が保存されていることを願う。

2009年5月17日日曜日

彫刻における、陰と陽

ブラスとマイナス。物質と反物質。天使と悪魔。男と女。
世界は、対称で成り立っている。つまり、バランスのこと。
バランスが存在するためには、対称が必要だ、とも言い換えられる。
熱力学の第1法則も、ここに当てはめる事が出来る。
坂道を走って上れば、早く着くが疲れる。のんびり上れば時間がかかる。疲れず(エネルギーを消費せず)に早く上ることは出来ない。
エネルギーの総和は常に一定だ。そこに変化が起きるのは、バランスが崩れた時だ。
バランスが崩れ、それが安定を取り戻すまでに、さまざまなドラマが生まれる。
その最たるものが、私たちが取り込まれている宇宙そのものだ。
ビッグバンにより、大きく崩れたバランスが、安定へ向かって揺らいでいる。その一時が今に過ぎぬ。
宇宙という大きなブランコが揺れた時、そこに乗っかっている様々な物も揺さぶられる。そうして、私たちが生まれた。
喜と怒。哀と楽。生という揺らぎが止まるまで、私たちの心も揺れ続ける。

そんな、私たちが生み出す芸術にも、当然、対称があり、そのバランスこそが重要になる。
実空間にたたずむ彫刻には、よりシビアな問題としてそれが立ちはだかっている。
彫刻における対称とは、すなわち、実と虚だ。
私たちが彫刻を見る時、当然目に映るのはその作品そのもの、つまり実体だ。しかし、空間内において実体が存在するには、それを取り囲む虚が同時に存在しなくてはならない。これは、型取りのキャスト(雄型)とモールド(雌型)の対応関係に似ている。私たちが目に出来るのはキャストだが、その時、感覚ではモールドも捉えているはずだ。
彫刻家においても、この、虚の量とでも言うようなものを明確に意識したのはそう多くはなかっただろう。しかし、ヴェルヴェデーレのトルソなどを見れば、ギリシアの時代からそれを感覚的にでも知っていたのは確かだ。
近代において、それを意識的に取り入れたのが、ヘンリー・ムアだった。その意味で、革新だった。彼は、なぜ、そこに気がついたのか。
ムアは、制作のヒントとして様々な自然物を身近に置いていたが、そこには動物の骨の断片も含まれていた。骨は、体の芯だと例えられる。しかし、その形をよく観察すれば、まず骨ありきで私たちの体が出来ているわけではないことに気がつく。むしろ、その形状は「筋肉の隙間に骨が出来た」ようにさえ見えるのだ。その時、骨にとって筋肉はモールドである。
そして、動物が死んで骨だけになったとき、かつてあった筋肉は骨という実体をとりかこむ虚の量となっているのである。
ムアは、骨を眺めていてそのことに気がついたのかもしれぬ。

闇が無ければ光も見えぬように、全てが対称のバランスを持つように、彫刻という立体物にも、実と虚のバランスが存在する。その揺らぎに、私たちは形状の美と心地よさを感じ取る。命さえ、見る。

2009年5月14日木曜日

人形と人間のジレンマ


 現在では最古となる、3万5千年前のマンモス象牙製人形が発見されたそうだ。遠い昔から、私たちは自分たちの形を作ってきた。それは今でもまったく変わりがない。芸術としての人物像から、身近な人形まで。

 さて、人間とその形状をまねた人形。外見は似せる事ができるが、大きな違いがある。人間の体は柔らかいのに対して、人形のそれは硬い、ということだ。彫像や人形の素材となるものは、自然物由来である。恐らく始まりは、木や動物の骨や牙などを削ったのだろう。やがて、石を削るようになったが、これらは、硬い素材を削り出す、という技法で一致している。それとは別に、粘土をこねても作られただろう。しかし、それを焼いて強くするテラコッタ技法が発見される以前のものは普通は崩れてしまい、残らない(洞窟内で保存されていた例はある)。この、粘土で形を作るのは素材が柔らかいという点で、削り出す技法と大きな違いがあると言えるが、保存段階に入るとやはり固くせざるを得ない。

 このような素材の制限から、彫刻を含む人形の性質が形成された。すなわち、固くて動かない、というものだ。私たちと同じ形をしていながら動かないという欲求不満を満たすために、始めに取られるのは姿勢付け(ポージング)である。要するに、あたかも動いているかのような姿勢を取らせるのである。そうすることで、鑑賞者の想像のうちで動かそうとするのである。次に来るのが、関節を実際に作り可動性をもたせるということだ。よく見られるのが、肩と股関節を動くようにするというもの。首も回転するものも多い。そこから発展して、さらに自然な姿勢を取らせられるように改良されて生まれたのが、球体関節だ。関節部分が球体と、それをはめ込むソケット状の組み合わせで、外れないように内側からゴムひもなどで引っぱり止めてある。こうした関節の改良で、動けなかった人形は動く事が出来るようになった。その意味で人間に一つ近づいた。

 しかし、この関節を手に入れた事で、先にあげた人間と人形の間にある違いが、皮肉にも際立つ事になる。すなわち、彼らの体は已然として硬いということだ。球体関節を持ち、姿勢を変える事が出来るその姿は人間ではない、別の生き物を彷彿とさせる。それは、外骨格を持つ生き物。昆虫やカニなどの姿である。彼らは、硬い外皮の内側に柔らかい筋肉を持つ。ちょうど、芯としての骨に筋肉の覆いを持つ私たちと逆である。人間に近づけようと、関節を増やしていけば行くほど、その姿は、ひとがたの昆虫のようになってゆく・・。この大きなジレンマを抱えながら、それでも、そこに満たされない思いを投影させて人形というものの魅力が作り出されている。人形は、求めるものを手にする事が初めから既に断たれているという、業を背負っている存在となった。
 その反面、命を持たぬ彼らは、外的に破壊されない限り、その姿をとどめ続ける事が出来る。私たちは、その外見を老いという形で変化させ、やがては消えてゆく運命である。

 死をはらみつつ、真実の肉体を持つ私たちと、それを手に出来ず、永遠を手にする人形。
このジレンマは、永遠に収束することなく、それゆえに、共に存在し続けるだろう。

2009年5月10日日曜日

アマチュア・アートとプロフェッショナル・アートの違い

現代は、アート全盛時代だ。「アート」という言葉が至る所で踊っている。
当然ながら、Artは、芸術という意味だが、言葉に細かい感性を持つ日本では、もはや芸術とアートは別の意味を持っているように思う。芸術というと、クラッシックなものを指し、対してアートはより現代的でポップなものを指している傾向がある。ミュージシャンやシンガーも、アーティストと呼ばれる。むしろ、芸術に関心が薄い若い人はアーティスト=ミュージシャンの結びつきのほうが強いのではないだろうか。
さて、このアートという言葉の敷居の低さが手伝ってか、アートは何でもあり、という風潮が出来上がっている。それは、それでいいのだが、何でもありの拡大解釈からか、何の技術もいらない、果ては、感性さえもいらない、というものになりつつ有るように見える。

人の活動は、大抵始まりは、アマチュア(素人)から始まる。そして、そこから際立ったものを持ったものが、それを専門とするようになり、プロフェッショナル(専門家)となる。専門家とは本来、それだけで家計を支えているような人物であるわけだが、現代における芸術では、専門的な技術を持ち、際立った才能を持っていても、それがそのまま金銭に繋がらない現状があり、その時、彼は、技芸においてはプロでも、生活できないという点ではアマであるという、煮え切らない存在となる。そして、この”残念な”存在が、あまりにも当たり前となった時に、アマチュアとプロフェッショナルの壁が希薄なものになった。
そうして、才能をもつ芸術家は自身を失うことになり、アマチュアの芸術家が誰彼も自分をアーティストだと名乗れるようになった。際立った専門分野だった芸術は、アートという大衆文化に置き換えられつつある。マス(量)の力は大きい。

今、アマチュアとプロフェッショナルの違いを明確にしてもいいだろう。アートという、何でもあり(何も無いのも、あり!)の領域において、両者を圧倒的に区別するものがある。それは、作られるものが誰のためであるか、ということだろう。アマチュアのほとんどはその表現が「私から私へ」という自己円還運動をしている。鑑賞者はそれに同意するかしないかのどちらかでしかない。言い換えれば、作品がコミュニケーションをしていない。対して、プロフェッショナルは、「私から他者へ」作品が”開かれている”。
この、最終的な出力先が、内向きか外向きかは、両者を区別する大きなファクターであると思う。なぜなら、内向きであるなら、それは自分が許せばなんでもよい、の世界であり、そのことは往々にして品質の低下を招くが、外向きである以上は、認められるための努力が必要であり、結果として品質の向上を呼ぶからである。
近代以前の芸術は、ずっと宗教と共にあった。その時の作家は、作品を買い上げる王侯貴族や法王という具体的なクライアントのさらに後ろに、神という絶対的な審判者を想定していた。

質の高い、プロフェッショナルとしての品質を得るためには、そのくらいの厳しい要求をする他者が必要なのかもしれない。それを失った、孤独な現代の芸術家は、ある意味では過去よりも厳しい時代を生きていると言えるのだろう。

2009年5月9日土曜日

解剖的な美

解剖と彫刻は、共に物質の形状を追う。解剖も彫刻も現在は細分、多様化しているが、ここで言うそれは、解剖では肉眼解剖であり、彫刻では具象人体彫刻を指す。すなわち、それぞれの根源的な形、クラシックである。
私は、クラシックという部分にこだわりたいと思う。クラシックだから良い、のではなくて、良いものはクラシックに見つけられる、と信じるからだ。

彫刻表現が多様化し、それは現在では物質感から遠ざかりつつあり、作家個人の心象を形に託す、というものが主流となって久しい。物質感が希薄になるということは、形状が持つ構造が作り出す美に対しても関心が薄れていくということであって、実際に昨今の立体作品では、物質形状の美しさを持っているものが少ない。
作家の主張というものは、時と共に流れてゆくものである。それはやがて風化するだろう。その時、残された作品に形状の美しさが無ければ、それの価値はどこにあるというのか。私は、彫刻はまず一義的に、形状の美を持たなければならないと思う。心象は、それが出来て初めてそこに乗せる事が許されるものだ。

人体には、構造と形状の美が限りなく詰まっている。それは、全体にもあり、部分にもあり、解剖的内部にも見いだされる。
美とは、そこに転がっているものではない。つまり、絶対的な美など存在せず、感じる側がその準備が出来ていなければ、多くの美を見つけ損なうだろう。人体の外形、すなわちヌードは、人体が持つ美のもっとも基本的で、揺るぎのないものとして歴史的にその地位を保っている。裸は、我々が人類の歴史を通して常に見てきたものだから、そこの美を見つけ出すのは当然だろう。なぜ、そこに美があるのか、それには規則があるのか、そういう視点で古代ギリシアの芸術が作られた。その基準は現在でも息づいていると言ってもいいだろう。
人体の内部も古代ギリシアから見つめ続けられているが、その行為は、常に死と結びついており、また、それにより得られた知識は医学へと応用されるために、そこから美の情報はあまり積極的にくみ出される事は無かった。16世紀のイタリアでは、ルネサンスの追い風の下、芸術家が体内の構造に目を向けたが、それらはあくまで、造形のための資料としての観察であった。ただ、レオナルド・ダ・ヴィンチが残した解剖手稿からは、彼が解剖学的構造そのものに芸術的な意味を見いだしていた事が伝わってくる。
その後も、いわゆる芸術的な解剖図というものが歴史的に幾つか描かれているが、そこには死のアレゴリーとしての表現や、解剖という概念を描写したという印象を抱くものが多いように思う。19世紀に入ると、芸術と医学は完全にたもとを分つようになり、解剖図譜は医学的な情報伝達手段としての純粋性が高まっていった。それは、図譜の芸術性が薄れていったことと同義である。以来、芸術における解剖の位置づけは、人体表現のためのリソースということになった。高度に発達した肉眼解剖学から知識を応用したのは良いが、そのことで、実際に芸術家は解剖をすることはなくなり(社会倫理的背景もあろうが)、与えられた知識を信じるしかなくなった。これは、芸術家が人体内部に存在する構造の美を発見し得なくなったことを意味する。それは、解剖学者だけの特権となった。彼らは、そこに美を見いだすだろうがそれを芸術に昇華する術を持たない。
現在、芸術家が応用できる解剖学的な情報と言えば、解剖学者によって整理された人体内部の構造と、それらの機能というソフト的なものである。

私たちは、人体の内部を見る、知る、ということにある種のタブーを感じる。それは、そこに死の意味を招き入れてしまうからであろうが、芸術家までもがいつまでもその感情に縛られているのは不思議でもある。医学者、解剖学者は早々にそこから脱却し、人体内部を探索してきた。そして、多くの発見を積み重ねてきた。
芸術家も、解剖イコール死、というステレオタイプを外しても良いと思う。その準備ができて、人体の内部構造を見た時、そこには今まで見えなかった驚くべき構造の美に気がつくのだろう。それは、アレゴリーでもグロテスクでもない、純粋に形状が生み出す美しさのはずだ。そして、まずそれに気づくべきは、彫刻家であってほしい。

2009年5月1日金曜日

解剖学と彫刻の近似点

解剖学は、医学。彫刻は、芸術。この両者に共通点などあるようには一見思えないが、知っていくと以外や似ている。
まず、始めにして決定的なのが、どちらも形を取り扱う、という点だ。
彫刻といえば石彫や木彫、ブロンズなど必ずそこには物質がある。彫刻家は、表現対象を様々な物質に投影させて語らせようとする芸術家のことだ。
対して、解剖学は人体の形を取り扱う。一般的に、解剖学と聞くと、死体を切り刻むような印象を抱かれるものだが、その行為と解剖”学”には厳密に言えば違いがある。切り刻む行為を「解剖する」と言う。その行為によって得られた知識の体系を「解剖学」と言う。日本語だと、どちらも解剖という言葉が付くからごっちゃになってしまう。英語なら、行為の解剖はDissectionやAutopsyなどと呼び、学問体系としての解剖学はAnatomyと呼ぶのであまり混ざらない。とは言え、Anatomyを追求するにはDissectionは切り離せない行為でもある。
話を戻すが、解剖学は人体の形を探る学問である。人体の形には意味があるだろうということで、その形態が持つ機能を探ろうとする。目の前にある形状を重要視する。それを安易に数値化したり、概念化してしまおうとしない。非常に形状にシビアだ。その意味から、解剖学とは形態学Morphologyのひとつであるとも言われる。
このように、彫刻と解剖学の両者は、形態を扱う、それも人体と関係していると言う点でも共通しているのだ。

他にも、細かいことを言うと、解剖にはメスSculpelが必須道具だが、これは彫刻Sculptureと語源が同じだ。解剖は刃物で人体を切り刻み、彫刻は刃物で人体を削り出す。

また、解剖学と彫刻が抱える、現代における問題点も、どこかしら似た風である。
まず、どちらも一般社会から少し離れた所にある。解剖学を専門にしている人も、彫刻をしている人も、あまり身近にはいないだろう。それゆえに、一般の印象が一人歩きする傾向があり、現場の状況との乖離が起きる。まあ、これはどんな専門領域にもあるだろうが。
一般的には、解剖学は医学には当然必須であろうと思われている。しかし、医学教育の現場では時間数を減らす傾向にあると言う。各領域が高度に専門化している現代医学を広く学ばせるためには、解剖学の長時間の「拘束」が問題なのだ。しかし、医学の基礎であり、倫理教育的側面も持つ解剖学の教程をなくすことは考えられないという考えも当然で、互いのバランスの力点が模索されている。
彫刻の場合は、その言葉が指す意味合いの拡大化から来る問題がある。かつての彫刻といえば、素材は石、木、粘土が主だった。そして、表現の主題は人体などの具象だった。人体という複雑な形状を、加工が難しい素材に写し取るためには、立体感覚を養う訓練や人体の構造の知識など、高いスキルが要求され、しかもそれらは単に基礎能力だった。つまり、それらの能力を持った上で、芸術的な感性を持った表現が要求された。
それが、近代以降は、彫刻表現が多様化し、また化学素材の普及もあり材料も変化していった。今では、単純に立体的な表現を全て「彫刻」と漠然と呼んでいる現状がある。立体表現の敷居が下がったことで、従来の彫刻に必要とされたスキルも重要視されなくなり、結果的に、立体感覚に乏しい彫刻家や人体をまともに作れない彫刻家の存在が当たり前となった。

これらの問題は、各領域が自己の立ち位置を見失い掛けていることの現れである。医学における解剖学は、基礎医学としての側面を強調してもしすぎることはないだろう。それをアイデンティティーとして取り込んで良いのだと思う。
芸術における彫刻は、立体を扱うという行為そのものの重要性をもう一度見直さなければいけない。彼らこそが「彫刻家」であり、以外は「立体家」と分けても良い時期に来ている。そうでなければ、彫刻家は近く絶滅してしまうだろう。