私たちの身の回りには数字が溢れている。数字が表す「数」の概念が発見されなければ、現在の文明は間違いなくなかっただろう。
数がもたらす最大の恩恵は、概念の共有性にある。つまり、その数値は誰にとっても同様であるということ。1は、世界中の誰にとっても1に他ならない。この、絶対的とも思える数の「拘束力」は、それを操る数学を生み、様々な法則を発見することになった。数は概念であるから、何にでも当てはめることができる。量、距離、重さ・・。
そして、どれだけ必要とされているかを計ることにも数が割り当てられた。値段である。価値という、目に見えないものを数字で表す事が可能になり、物々交換が主だった取引は突然に大きく変化した。今まで交換対象ではなかったものも交換が可能になった。
数値で取引をする「貨幣経済」は、今や、取引の基本である。全ての商品は、その価値を数値化される。このことに慣れ切った私たちは、ものごとの価値は全て数値化が可能で、その表された数こそが、そのものの真の価値であると信じ切ってしまう。日常生活の買い物などでは、それでも問題はないだろう。しかし、世の中には、数値で割り切れないものがあるのも事実である。その一つに、芸術がある。
芸術は、そもそも、「割り切る」といった概念と非常に馴染まない。芸術を言葉で表現することが難しく、また、時に馬鹿げているのもそのせいである。言語化とは、多くの情報を捨てるという行為の上にあるのだから。
同様に、芸術の価値(芸術的価値)を値段という数値に置き換える事も非常に無理のある行為だ。まず、その作品が生み出される行程を数値化できない。多くの作品にとって最も重要なのは、作家が何を表現したかという「作家の主観性」であって、そこに原価が幾らかかっているのかなど算出は不可能だ。そして、それを鑑賞する側がそこに見いだす価値も「鑑賞者の主観」に他ならず、それは、鑑賞者個々で大きく変化する。ある絵に1000万円を付ける人もあれば、1円で十分だと言う人もいる。
このように、芸術作品に付けられる値段は、正に、あってないようなもの、なのだ。
しかし、多くの人はそのことには考えが及ばずに、付けられた値段がその作品の芸術的価値を示しているのだと思い込んでいる。だからこそ、誰々の作品に幾らの高額が付いたというような「数値」主体の記事が新聞などには載るのだ。この値段という数値は、あくまでも取引の為のものに過ぎないことを、忘れてはいけない。殊に芸術家を名乗るならば。
この「数」に縛られて、高価な作品ほど良い芸術だと言い切ってしまうようならば、その人は芸術家には向いていない。むしろ、画商などが良いだろう。
趣が変わるが、数の弊害としてもう一つ思うのは、成績という数値だ。
子供の学力は、テストによって点数という数に還元される。私たちは、小学校から大学まで、この数値に縛られる。その子の出来、不出来は、この数値でのみ推し量られる。多くの親が、それが全てだと信じ切っている。この数値で、子供を分類するシステムが出来上がっているから、信じてしまった方が楽というのもあるだろう。だから、数値化できない音楽や美術の授業は削られている。体育は、スポーツに分類され、それは点数を競う競技だから、問題ではない。
それでも、私たちは感覚的に気付いているはずだ。だから、学校でも虫取りが上手だったり、動物に詳しかったりなど、数値化できない能力に対して憧れたりする。芸術家や歌手に大人が憧れるのも同様だろう。
話しを戻すが、芸術の本質は、隙間にある。いや、本来、芸術は全てを満たしていた。しかし、人間は言語を生み、数を生むことで、感覚を、心を、分節化したことで、芸術はあたかも、節と節の隙間にあるように見えるようになったまでである。
芸術家は、いつも、ゆるやかに行間を行き来し、概念の隙間をさらさらと自由に流れる心で世界を見つめているひとのことだ。
本当は、皆がそうであればいいのかもしれないが。
1 件のコメント:
しかし、数値化しないと努力の成果が見えないからやる気が出ないじゃないか
一番呆れたのが現代美術の画家が「訳が分からない世界なのだから、描いてる我々だけでも信じるしかない」と言っていた事
描いてる本人すら価値があるかどうかあやふやな状態で、何年頑張っても人によっては1円だったり1000万円の評価だったり
そのうち自分がやってきたことが正しかったのかどうか分からないまま死んで行く
これは悲惨だよ
芸術とは数値よりも感性を重んじる世界であると言う認識の上での必要悪としての数値化であるならば促進すべきではないか
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