2017年4月10日月曜日

AGAIN-ST「平和の彫刻」展を観て

 恵比寿のナディッフ・ギャラリーで開催中のAGAIN-ST「平和の彫刻」展を観る。これは、考え、立場、年代が近い彫刻家、美術家による同人「AGAIN-ST」のグループ展である。ここでの”立場”とは、彼らが美術大学などで教員として美術教育の現場にいるという事を指す。きっと、それが関係しているのだと思うが、とても”真面目”な同人である。
 活動の始めに宣言文を掲げている。重要なので以下に転載する。

「AGAIN-STは彫刻を問う集団である。我々は危機感を共有している。声高に死が叫ばれる絵画よりもなお、黙殺される彫刻は深刻である。我々は責任感を共有している。教育の現場において、制作者は表現の可能性を提示せねばならない。我々は問いを共有している。彫刻は今なお有効性を持っているのかと」

 彼らが問うている主題の中心が「彫刻は今なお有効性を持っているのか」だが、非常に荒削りな定義である。この宣言文は「危機感」、「責任感」、そして「問い」の順でキーワードが続くのだが、その発端の順序で言うなら「責任感」から起こっているだろうと想像する。この責任感とは、教育現場に立つ教員としてのそれである。教えるという立場になると、表現行為が自分だけの問題ではなくなる。その責任を受け止めたとき、彫刻科というレッテルによって、突然自らが所属のインサイダーとして押し込められるのだ。それは、かつて学生として一時その科に属していた軽さとは比べものにならない重さがある。「立場がひとをつくる」の言葉のままに、その時彼らは「彫刻を教える者」になった。そうして美術界における彫刻領域の活動状況はどうなのかと改めて見渡してみれば、およそそれが見えてこない現実がある。それはまた、美大では毎年の受験者数としても具体的に現れる。これらが与える「危機感」から「問い」が生まれる。「彫刻は今なお有効性を持っているのか」と。
 ところで、「有効性」は対象が規定される言葉であるから、これを文脈に合わせるなら「彫刻は今でも必要とされているか」と言い換えられるかも知れない。さらに、この一連から分かるように、彼らの問いは、あらゆる彫刻表現の現状を憂うというより、その視座は「日本の彫刻教育現場」にある。それも考慮に加えるなら最後の一文は「彫刻科は今でも必要とされているか」と言うことにもなろう。

 またさらに、「我々は問いを”共有”している」と言っているが、これは自問のことだろう。ならば「彫刻を問う集団」は、「彫刻について問い合う集団」の意味である。実際にも、毎回お題(問い掛け)が出され、作家たちはそれに答える作品を作っている。その図式はさながら「笑点」の大喜利のようでもある。
 この、与えられたテーマや課題に応じて制作し展示する形式は、内向きの印象を与えもする。完結したコンテンツパッケージを見ているような隔絶した距離感は、大学の課題授業のようでもある。なるほど、このような形式を取るのは、彼らが教員であることと関係がないはずがない。

 この同人は、これまでの日本の大学における彫刻教育への批判的精神を行動に移したものである。その建設的な行為が形を成したとなれば、今後はそれさえもまた批判的に見られなければならない。
 彫刻も教育も、領域の内側にはそれ自体の固有の主題や問題を抱えている。そのことと、領域外との関係性の問題は必ずしも同一ではなく、ここで彼らが問題視する”有効性”の問題は後者に属する。しかし、彫刻を芸術とするからには、その発端は必ず領域の内側になければならない。もし、活動が有効性を発端とすれば、それはもはや商業である。芸術において有効性はあくまで結果であろう。その芸術がどのような有効性を持つのかは、その有効性があると判断されるまで、本質的に誰にも分からないものなのである。おかしな響きだが、彫刻を含む芸術においては、有効性を考慮してつくるほど本質的有効性を失っていくのだとも言える。その上であえて、有効性を考えるならば、それは結局、作家の強烈な個性に委ねられると言わざるを得ない。

 今回のテーマは、「平和がテーマの公共彫刻を作るとしたら」というものだ。紹介文にあるように、駅前ロータリーにある”平和彫刻”が負のオーラを発すると言うのなら、原因は”作家がそれに従ったから”ではないだろうか。従うことは、有効性からの始まりであって、もはや作家性からではない。その時点で彼らのコアである個性的感性はもはや機能せず、要求に応じる単なる造形業者に過ぎない。
 この活動は「問う」ことから始まっているのだから、テーマそのものが参加作家達に仕掛けられた、AGAIN-STの本質的命題に掛けたチャレンジなのではないかと勘ぐりたくなる。ところが展示内容を見ると、多くの作家が真正面から応じているのである。
 その中で、会場で配られていた各作家による自作へのコメントを見て、思わずニヤッとしてしまったのは、保井智貴氏のものである。いわく、平和とはトイレで用を足した後の爽快感であると。なるほど、人類は長らく生きることに直結する「食べられること」が平和だったはずだ。今や、食が満たされた現代は平和なはずだが、現代の管理社会では、生理現象である排泄さえ自由ではない。それは果たして望んだ平和だろうか・・。私は、身体感覚に根ざした平和観に深く同意する。そして、その作品企画は彼の女性像のシルエットがそのまま女子トイレのサイン(等身大の!)になっているという、冗談と本気のはざまで我々を煙に巻くようなものであった。 

 AGAIN-STの活動そのものが、21世紀の日本の彫刻(と、それを生み出す人々)の有り様を反映している。彼らの活動とその記録は、今後、現代日本の彫刻美術の足跡のひとつとして刻まれ、参照されるものになるのだろう。
 今回この同人は、これまでの活動をまとめた小冊子を発売した。ここで1つの区切りという意味合いもあるようだが、今後その活動は、どの方向を向いていくのだろうか。

会場
NADiff Gallery
(東京都渋谷区恵比寿1-18-4 NADiff A/P/A/R/T 1F)
会期
2017年04月01日(土)〜04月23日(日)
入場料
無料
休館日
月曜日(月曜が祝日の場合は翌日)