2016年7月17日日曜日

美術解剖学カンファレンス の感想

 去る7月15日(金)と16日(土)に、武蔵野美術大学にて美術解剖学カンファレンスが開催された。主な内容は、19世紀のイギリスの美術教育における美術解剖学の在り方についてと、近代日本彫刻と美術解剖学の関連、そして現在とこれからの美術解剖学という大きく3本の柱によって構成されている。

 15日は、「19世紀イギリスの美術教育における解剖学と古代 Anatomy and Antiquity in Nineteenth-Century British Art Education」という題目で、レベッカ・ウェイド先生による講演。レベッカ先生はヘンリー・ムーア研究所学芸員。
 私が遅刻したため、最後しか聞けず、よく分からなかった。関係者に内容をお聞きできたので、後でしっかり理解したら感想を載せるかもしれない。

 16日は、「近代日本の彫刻家における”芸用解剖学”」(田中修二先生)、続いて「サー・チャールズ・ベル:美術的ヴィジョンによる解剖図の超越 Sir Charles Bell: Transcending Anatomical Description through Artistic Vision」(アズビー・ブラウン先生)。
 第2部のメインは、イギリスを拠点として全世界で美術解剖学アドバイザー、講師、作家として活躍しているスコット・イートン氏の講演と、スコット氏、レベッカ氏、そしてモデレーターとしてアズビー氏の3名による対談が行われた。

 なお、本カンファはすべてバイリンガルで行われ、その多くがアズビー先生が担当された。日本語が流暢でとても分かりやすく、カンファの流れをスムーズなものにしていた。

 内容はどれを取ってもピントが合って深さもある、つまりは「濃い」もので、上面だけの趣味人の集まりになりがちな”カンファレンス”の罠に陥っていない。そのおかげで、カンファレンス発表者の少なさ故の情報の限局さの問題が明らかとなり、また美術解剖学と呼ばれるものに対する理解の限界が明確に浮き彫りとなった。特に後者は、私の個人的興味から、大きな収穫である。

 「近代日本の彫刻家における”芸用解剖学”」は、題目の通り、明治開国後から戦後まで約80年間ほどの期間における、彫刻家と彼らの美術解剖学との関連を列挙したもので、資料的な内容であった。ただ、全体をまとめて、近代日本彫刻はロダンだけではなく解剖学もまた重要だったと言い切ってしまうのはあまりに大づかみであり、質疑応答の際にここに関して疑問を呈するような意見があったのは理解できる。とは言え、浮き彫りとなった問題点すなわち、果たして近代彫刻史に解剖学が実質的に役立っていたのか否かという疑問に客観的解答をもたらす研究は未だ行われていないことは明確となった。そして、そのことは、現在も美術解剖学と銘打った講義が数多く行われている現実からも再検証する事に大きな意味があるであろう。

 「サー・チャールズ・ベル:美術的ヴィジョンによる解剖図の超越」。まず、ベルと聞けば、医療関係者ならその名の響きだけであれば誰でも知っているだろう。そう、あのベル・マジャンディの法則のベルだ。脊髄神経と脊髄の間は腹側と背側に分かれる。その腹側は運動神経が通り、背側には感覚神経が通る。その明確な区分けを実験を通して示したのが、ベルとマジャンディである。また、ベルは多くの解剖図を描いた。そしてそれらの”異様さ”ゆえに時折話題に上る。解剖学は、特にルネサンス以降の近世において図版と共に歩んできたと言って良い。そこには、ヴェサリウスの『ファブリカ』の西欧世界的成功が口火となったわけだが、忘れてはならないのが、解剖学者が図版を描いてきたのではないという事実である。ファブリカ然りビドローもアルビヌスも、そしてグレイも、これら著名な響きと共にあるあの図版たちは解剖学者とは別の画家によって描かれたものである。そういった流れにあって、ベルは解剖学者、医者でありながら画家でもあった(あろうとした)のは特筆すべき点だ。ただし、彼は芸術の訓練は受けていなかっただろう。それがあの“異様な”図を生んだのだと想像できる。つまり、同時代の”正当な”絵画の見方や表現法に乗っ取っておらず、良くも悪くも「生の目で見た」対象が描出されているのである。それは、一見すると、江戸時代後期に描かれた腑分け図を彷彿とさせるものだ。同時代の”正統的”解剖図たちがファブリカの流れを汲んだ明確な再構成図であるなかで、アズビー先生も指摘されていたように、彼の描いた解剖体は明らかに一個の死体なのである。描かれた内部は必ずしも明確に線で区分されず、染み出て乾いた血液によって汚されている。解剖初心者がこれらの図を見ても個々の部位を同定することは簡単ではないだろう。そう、実際の人体内部を覗いたときと同様に。ベルは実際、アルビヌスのように、整理されて描かれた解剖図を批判していたという。現実はそんなものではない、と。写真さえない同時代において、整理された再構成図ばかりを見せられることに対する危惧があったのかもしれない。解剖図と体内の実際との解離は現代においても解消はしていない。この現実と理想化の狭間は我々が「見る」とは何かという恒久的問題へと続いている。
 ともあれ、自分の目に映る体内を大事にして描いた図に、自身も芸術家であるアズビー氏は感銘を受けたに違いない。現代の我々が見るに、ベルの解剖図は図版というより絵画に映るのである。そして、その点にアズビー氏は注目し、解剖図と区分けされる領域にも芸術が入り込める余地があることをベルは示していると言った。その点すなわち、解剖学的視点から解き放たれた体内の美しさについては、私や私の周りにいる”美術解剖学の仲間たち”が常々話し合う議題のひとつだ。
 ただ、ベルの描いた絵が全く理想化されていないかと言えば、そうではない。まず、極端に言って見るという能動的行為を通している以上写真のように無目的な描写は不可能であろう。ある芸術の形式に縛られていないかと言う点でも、やはり同時代の表現の影響は見て取れる。まず、有名な裸体男性が破傷風の硬直性発作を引き起こしている図は、明らかにその体は解剖学的に説明的な描写である。おそらくこれは観察と記憶を元に描かれたものであろう。そのほかにも体幹部の末梢神経系を詳細に描いた水彩画が紹介されたが、あれも現実に見えるだけで、実際は再構成図であると言える。この「現実的/非現実的」問題は、解剖図においてしばしば顔をもたげるもので、実際の体内の見え方を知る者が圧倒的に少ないことから、しばしば非現実が現実と挿げ変わるのである。
 それにしても、アズビー先生がベルを通して示した芸術と医学との関連性については、美術解剖学という枠を越えてでも深化させて行きたい、いや行くべきものだろう。ベルの図は芸術の大道に乗ることはなかった。芸術とは何かという枠が明確であったこともその理由の1つになるだろう。現代はしかし、当時とは違う。ベルと全く同じ視点は持ち得ないが、まだ芸術家が、いや我々全てが見落としている美しい自然的モチーフがそこにはある。我々の皮膚の内側に。

 2部のスコット・イートン氏とレベッカ・ウェイド氏の対談もまた興味深い。そこには、芸術と技術のコントラストがあった。
 対談の中で、21世紀になって今明らかに表現の場において人体が再び注目され始めている、そう強調された。人体の形状にいつも興味を抱き続けてきた我々には嬉しい響きを持つ言葉だが、同時に、同様の言説は断続的に言われ続けている事でもあることも知っている。そしてさらに、人体を必要としている表現の場がどこなのかと目を凝らせばそれがいわゆるファイン・アートではなく、映像領域であることに気付くだろう。すなわち映画やゲームである。なぜそこで人体なのか。3DCGである。3DCGは映像表現の手段を大きく変えた。それまでの二次元表現つまりセル画によるアニメは言わば絵画の連続体であって、その制作現場で必要とされるスキルは実世界を線で描けるというものだった。ところが、それらのほとんどが3DCG化した現在では、線画のスキルは必要ではない。欲しいのは仮想空間でポリゴンで組まれた立体物から望む形態を作り出す技能である。これは詰まるところ、彫刻家のそれと同じだ。人体を輪郭線と陰影描写で描かずに表現しようとするなら、対象の構造を立体的に知るしかないのである。今や、組まれた積木の城の輪郭線を描く能力ではなく、どう積木を組めば城になるのかを知っていることが重要なのだ。この現場の要求にはある種の切実さがある。知っていれば良いかもね、という趣味的なものではない。短時間で対効果がより高いものを生み出すために必須の技能として見られているのである。スコット氏は正にその現場で、必要とする人々に知識を与える仕事をしている。質疑応答のなかで、芸術における人体表現で常に現れるキヤノン(人体比例の基準)についてどう思うか聞かれたスコット氏が、キャノンは考えていないと言った。そういった1つの情報に収束するのではなく、多くの個別の情報リソースを集めることがより重要だと言う。この意見はとても興味深いものだ。スコット氏のように、ファイン・アートという狭い世界ではなく、商業のダイナミズムの中にある映像業界での需要に対応するにはキャノンは意味をなさないということになる。
 また、美術教育に解剖実習を取り組むことへの意義についての質問に対しては、自らが若い頃に解剖見学の経験があるスコット氏は、知識が豊富になり自らそれを欲求するようになった者には意味があるだろうが、初心者には無意味だと言い切った。「自動車工学に教養のある者だけがフェラーリのエンジンの素晴らしさを真に理解するだろう。」(スコット・イートン)
 この対談ではスコット氏が現場で生きる技術者的な側面をしばしば垣間見せたことが実に面白かった。先の、解剖実習が上級者にだけ意味があるという発言もここに掛かる。また更に、Artistic anatomyとAnatomy for artistsの違いを尋ねられたスコット氏はそんなこと考えたこともなかったと言った。つまり、どう呼ぼうがどうでもいいのである。しばし考えて、「私の仕事は、Anatomy for Artistsだね」。「チャールズ・ベルの仕事のような、人体(内部)を美しく見せようとするのがArtistic Anatomyかな」とも。
 
 私も質問をした。筋骨格系以外の器官系についてどう思うか、と。スコット氏は、ハーゲンスのプラスティネーションを見て、その血管系や神経系の美しさに心打たれたと言った。私の質問の仕方が悪かったのだろう。本当は、形と直接関係なくとも私たちを生かすために存在しているそれら器官系の、つまりは生理学的な側面について必要性を感じることがあるかが聞きたかったのだ。なぜなら、スコット氏が対応する業界は、それまでの絵画や彫刻とは違って、動くのである。つまり、ルネサンス以降現在までの美術解剖学が相手にしてきた動かない表現物とはひとつ次元が違うわけで、そこでは新たな人体表現上の必要性が必ず生じているのである。例えば、人が歩くときの筋の収縮のパターンはどうか。腕に力を入れたときの筋の膨張と皮静脈の浮き上がり方の相関はどうか。怒りや悲しみの時、交感神経が活発化したときの顔面部の紅潮や目の瞳孔の関連性に注意を払っているのか否か、等々。これらの発現を説明するのは、従来の解剖学でなく生理学の領域である。そこへの視点はどうなのかが知りたかった。通訳されたことによる齟齬もあろう。そうとはいえ、スコット氏の解答は形態に関することから外れない事は間接的に解答になっているとも言える。

 今回のカンファレンスはタイトルが「美術解剖学」であるから、皆の意識もそこから出ようとはしなかった。けれども、スコット氏の活動のように、”これからの美術解剖学”にも続いていく意識においては、形態だけに留まっていなければならない理由はない。事実、人体の解剖学的形態については「現代ではほとんど分かりきっている」(スコット氏)と言い切るのなら(解剖学者は決してこの発言に首を縦には振らないけれども)、次の問題はなぜそれが動くのか、だからである。大げさなことを言うなら、美術解剖学はその発展的役割の大半を終えたのかも知れない、ならば次に用意されるべきは美術生理学であろう。だが、何でも分ければよいものではないし、芸術はUniteが重要視されるから「美術解剖生理学」がよかろう。

 このカンファレンスは、イギリスのアカデミーでの美術解剖学の需要と、日本での拡がり、そして衰退(伝統的な美術解剖学の講義はイギリスではもはや行われていない:レベッカ氏)を通して、現代の再復興の兆し(象徴としてのスコット氏)という流れが通底していた。そして、今回改めて明確となったことが、美術解剖学はいつの時代も実践的な情報源として用いられていたという点である。この事実は、こと我が国では戦後、東京芸術大学にしか存在しない講座の流れが、そのまま美術解剖学史として語られがちな事実への警鐘としても響く。田中先生の講演においても触れられた、西田正秋が提唱した人体美学から芸大の美術解剖学は独自に方向性を持ち始めたと言える。そこから続く系譜は、このカンファレンスで語られた、リファレンスとしての美術解剖学と同等に語れるものであろうか。現在進行形の我が国の美術解剖学について、未だ客観的な分析は成されていないだろう。

 
 今回のカンファレンスのような質を維持しながらより幅が拡がっていったなら、私たちは4万年前から続く人体表現について新しい知見を得ることが可能になるだろう。そしてまた、現在医学的に得られている膨大な情報からより積極的に表現に応用可能なものを選べ使えるようになるとき、人体表現は未だ見ぬ新たな局面を迎えるかもしれない。そういうポジティヴな感情が湧き起こった。


2016年7月4日月曜日

楽しい解剖学アプリComplete Anatomy

 アップル社から時々ダイレクトメールが届く。いつもはタイトルだけ見てそのまま消去しているが、たまたま内容に目を通したメールが、Apple Design Award受賞のアプリを紹介するものだった。さっとスクロールするとそこに解剖学のアプリが。試しにダウンロードしたのが、Complete Anatomyというもので、無料だと骨格などが見えるだけだ。ただ、無効になっているメニューを見ると全身のほぼ全ての器官が網羅されている。そして、紹介ムービーを見るとなかなか幅広い操作性をウリにしている。また、グラフィックも現在販売中の解剖学アプリでは最も美しいだろう。全ての機能を使うには6000円支払わなければならない。数日間は無料のままにしていたが、結局他も試したくなって購入した。

 なるほど、「デザイン賞」を受賞した、というのがよく分かる気がする。何と言ってもユーザーインターフェースがよく考えられている。またネットワーク機能も重視していて、自分で組み上げたインストラクションを他者と共有することができる。それ以外にもとにかく機能が豊富で、よくここまで作り込んだと感心する。受賞ももっともだ。

 ただ、解剖学で最も重要な、構造描写に少々ほころびがある。もちろん全てにおいて完璧なものなどないだろうが、こと解剖学は形態の曖昧さを嫌う学問である。その形態描写に曖昧であったり明らかな間違いが散見されて、そこは残念に思う。それを許してしまうのならば、インターフェースが良くできた趣味の解剖学ソフトということになってしまうからだ。一通り解剖学を学んだ者で間違いが分かるのならばこれだけ使い勝手が良ければ目を瞑ることができるが、初学者がこのアプリをメインに学んでしまうと間違いを知るという事になってしまうので、そう思うと問題ではある。
 そういう私もこのアプリで描写されている全てが頭に入っているわけもないので、「構造はすこし疑いながら」使うことにしている。

 アプリが従来の書籍と違う点は購入後もアップデートされていくことだ。今問題があるところも、ユーザーからの指摘などを受けて今後修正されていくかも知れない。

2016年7月3日日曜日

ボッティチェリのヴィーナスのポーズの実際

 朝日カルチャーの講座で、今回は名画のポーズをヌード・モデルさんに取ってもらい、それを観察して描くということをしている。先日は立ちポーズの代表として、ボッティチェリの「ヴィーナス誕生」のヴィーナスの姿勢を行った。

あのよく知られた姿勢は、ボッティチェリのアイデアではなく古代ギリシア彫刻のポーズから来ており、ボッティチェリは立体で知られたポーズを平面に写し取って成功した最初期の作家ということになる。つまり、元ネタは現実界に存在する物体なのだから、きちんと立っているのである。しかし、ボッティチェリのヴィーナスは立っていない。いや、ポーズこそ立ちポーズだが、重心が大きく画面右に偏位していて、実際にはあの角度で立つことはできないのである。なぜ、ヴィーナスは傾いたのか。それは、画面左を見れば分かる。風の神が息、つまり風を吹きかけている。ヴィーナスの全身は船の帆のように風を受けて傾き、岸辺へと運ばれているのである。

 足を見ると、右足つま先は左足かかとより後方にある。このような姿勢を実際にモデルさんが取ることは相当厳しいだろう。実際にとってもらうと、1ポーズ時間(20分)は持続することができた。ただ、やはり辛いということで、それ以後は右足はもっと前に出した自然なものに変更した。この姿勢をとってもらって、最も興味深かったことはその重心の偏位であって、想像以上に右側にあった。だから、ボッティチェリのヴィーナスは相当に思い切って逆方向へ全身を傾けてあるのだ。他の気付きとしては、側面から見た時の脊柱の弯曲である。もちろんそれは、どんな人にもある自然なものだが、ボッティチェリのヴィーナスでは、脊柱の生理的弯曲はやはり直接的に伝わってくるものではない。つまり、体幹だけを見ると、ストンと真っ直ぐに見えるのである。モデルで見ると、やはり、正面から見た一瞬の印象では体幹は真っ直ぐに見える。しかし、横へ回れば脊柱の弯曲が明らかとなり、そのカーブが正面からみた体幹の印象をも作っていることに気付かされる。同時に、横から見ることで脊柱の回旋にも気付く。左脚重心で立つことで、骨盤右側が下に下がると同時にわずかに右側へ回旋する。左大腿骨が外旋する、と言っても良い。それだけでなく、もっと目立つのは腰椎を越えて胸郭の右回旋である。モデルを左側面から見ると、胸郭部では側面から背面までが見えるほどに回旋する。このような三次元的な変化は「左右に順繰りに高さが変わる・・」と一言で片付けている内は決して見えてこない要素であろう。ところで、ボッティチェリのヴィーナスを見ると、体幹部でのねじれはあまり見いだせない。しかし、頸部から頭部を見るとそれが描かれている。つまり、胸部以下の体は正面の他にわずかに右側面を見せているが、頭部は逆で左側面を覗かせている。それを可能にしているのは頸部であって、事実ヴィーナスの頸部には左側の胸鎖乳突筋の緊張が描かれている。ところで、「左右に順繰りに高さが変わる・・」すなわちコントラポストを強調したヴィーナスの傾きのリズムは、もしかしたら、脊柱弯曲のリズムを正面から見えるようにしたものではなかろうか。そんなことを、モデルさんを横から見た曲線を見ながら思った。もしそうであるなら、線の画家と呼ばれ、後に続くレオナルドやミケランジェロと比較してその立体再現性の低さを言われる作家が、リアリティとは違った味付けで立体性に挑んでいた可能性を示唆するものである。それは言わば、近代におけるキュビズムに近い。

 まあ、そんな風に色々と面白いことを考えることができて、指導側の私にとっても興味深いセッションであった。次回はアングルの『浴女』である。