2011年3月10日木曜日

顔と手は裸

 私たち人類は,遠い昔に体表を覆っていた厚い体毛を棄て,代わりに別の物で体表を覆った.それは他の動物の毛皮であったろうし,やがては植物から取り出した線維へと変わり,現代では石油から作り出した線維も用いられる.この「衣類」の発明によって,体表のほとんどの部分は他人には,おいそれと晒さない部位となり,プライバシーを象徴的に表す意味を持った.
 しかし,顔面と手の平は裸のままである.顔面は人類のコミュニケーションの最も重要な手段である表情を作る部位だ.芸術でも,顔とそれが乗っている頭部は,長らく興味の対象となってきた.首像や肖像,胸像などのジャンルとして呼ばれている.人類以外の動物は,感情表現に全身を用いる.人類はそれを顔面だけでも行えるようにした.私たちは相手のわずかな表情の変化にも気づくことが出来る.

 頭部は,彫刻的に見ても,興味深い部位である.頭部をごく単純化して捉えるならひとつの卵形の塊になるだろう.そのようなまとまりのある形状は量としての強さを表し,彫刻的に「絵になる」.このように理想的なベースのなかに,顎や鼻筋などの直線的要素が組み込まれることで形状に抑揚を与えている.眼窩や首と頭の付け根の凹みも頭部の膨らみとの関係性でボリュームのハーモニーを生み出す.人間の顔面は,その他の動物と比べれば平坦だが,実際のところはかなりの凹凸と複雑な面の組み合わせから出来ている.私たちは,コミュニケーションにおいては相手を正面から見て表情を読み取るという歴史を経たので,どうしても顔面を平坦に捉えてしまうが,それを造形する立場ならば,立体的な構造として捉え直さなければならない.頭部を作ると,どうしても前後に平たいものを作ってしまうのはそのためで,「かお」という概念を一度棄てるくらいの気持ちで,頭部の構造を見直さなければ,そこから先に進めないものだ.一流の彫刻家でも,家族や知人ほど,その首像を造ることが難しいという.単にパーツの形状を似せればいいというものでもない.モデルの特徴を強調すれば良いというものでもない.そこに注力しすぎると「似顔絵彫刻」に陥る.作家が感じている「その人らしさ」が,彫刻的な構造のなかに再現されるときに,理想的な肖像ができるのだろう.

 かつて,古代ギリシアでは,裸のアスリートを芸術家が観察し,それらが素晴らしい彫刻となった.やがて裸は隠されるべきものとなり,芸術家はそれを観察するのに苦心するようになり,手助けとして解剖学をも応用した.それでも,本当の裸を常に観察できる環境には敵わないだろう.現代の芸術家は,裸体をモチーフにするのに様々な努力をしているはずだ.人々にとっての裸の意味合いも時代によって変化し,「ヌード」に対する鑑賞者のとらえ方も時代で違うだろう.「何でヌードなの?」という疑問を聞くこともある.裸を見るということは,それほどまでに非日常的なものとなっている.
 裸という状態に,様々な意味合いが付加されている現代では,純粋に人体の構造美というものに興味を落ち着かせることは難しいかもしれない.どうしても我々はそこに「裸であることの特別な意味」を求めてしまう.
 一方で,顔と手は,相変わらず裸のままなのである.顔を作る難しさは先に述べたが,手も芸術家にとってチャレンジであり,その表現如何では,その作品が滑稽なものとなってしまうほどのものだ.手が持つ表情性については高村光太郎の彫刻「」が素晴らしい参考である.手が持つ,表現力と芸術性との関連性に言及した彫刻作品は,先だってロダンがある.「カテドラル」は有名だが,もはや手を超えた,より大きな構造体として見えてくる.

 全身のヌードが,特別なものとなっている現代においても,芸術家は私たち自身の探求の主題として「肉体の美」を忘れないだろう.だがそれは,今後はさらに,限られたジャンルとして切り離されていくかもしれない.そのような流れの中にあって,未だにごく身近な裸(=特殊な意味合いの込められていない裸)として寄り添っている頭部と手には,古代ギリシアの芸術家達が追った芸術性と似たものを追求する余地が,そこに残されているのかもしれない.