2018年8月6日月曜日

骨の人

   生活の糧としてではなく、骨標本を作り続けている人がいる。博物館の職員や大学の研究者ではなく、個人で作り続けている。その人の手による骨標本は骨好きのコレクターにはもちろんのこと、さまざまな博物館にも納入されている。学術的な正確さを持つ高品質の骨標本を作る技術と知識を持ちながら、学術的な領域とは一定の距離を保ち続けている。

   先日は、その人の作業場に招いてもらった。もうその日は骨の話だけである。次から次へと博物館級の骨が出され、それについての様々な話しで盛り上がる。もちろん、それらの骨標本のほとんど全てがその人の手による物だ。“骨取り”と呼ばれたりもする骨標本の作製方法は頭で考えるよりはるかに複雑で時間がかかる。有機物を扱うのだから臭いや汚れなど不快な過程もある。そういった過程を経て完成した彼の標本はどれも非常にクリーンだ。さらに、ただ標本を作るだけではない。各個体を詳細に観察してその特徴を記述し、計測し、撮影もする。している事は研究者のそれと似ている。机上に置かれた大きな4Kモニターに映し出された動物の頭蓋写真は遠近全てにピントが合っている。中判デジカメでピントをずらしながら複数回撮影した画像を合成したそうだ。「人間の視覚により近い」と彼が言うこの手間の掛かる撮影法で、いくつもの動物の全身の骨を撮影していく予定だというのだから途方も無い。彼と出会った10年以上前、デジタル特有の“データ圧縮”を信頼せず頑なに銀塩フィルムを使用していたその人とは思えない先進の技術だ。また、鳥の頚椎の特徴を記号化して列挙したいわゆる“椎式”も、オリジナルの視点から組まれており非常に興味深いものだった。ただ骨格を眺めても気付かない事が見えてくるだろう。
   この人は、自らの活動を取り立てて表に出そうとしない。それはこの活動が、純粋な自らの興味によって突き動かされている事を示している。一方、世間には何らかの専門家やスペシャリストと呼ばれる人が数多くいるが、その全てが同様の興味の深さによるとは思えないし、実際違うだろう。むしろ、知識レベルが発展途上の”専門家もどき“のほうがよほど多い。しかし、肩書きはそこまで精細ではないから、ある程度を超えると誰もが専門家を名乗れるので、結果、専門家だらけとなる。また、先人の知の積み重ねを自らの知だと勘違いもする。彼らは大抵“知った顔”をするので分かるのだが、この人は違う。なぜなら、社会的なステータスを得るための時間なぞは、標本を作製してデータを取って記述する時間の無駄になるだけだからだ。
   また、これだけの実地に基づく知識と情報を持ちつつも学術界とは距離を保つことも、その根は上記と同じなのだろう。つまりは、骨を楽しむ事への主体性を強く、明確に保ち続けているのだ。
 標本は自らの命より長く残る。彼の仕事は明らかにそれも意識されているし、将来の自らの標本たちの行き先として、
「収蔵庫にしまい込まれるだけの博物館コレクションより、展示される市井の博物館」
という発言からも、“骨の魅力は学術の枠だけには収まらない”という彼の立ち位置が伝わる。

   彼のような人こそ、真のエンスージアストである。その人間性には興味の純粋さだけが持つ強さがある。

2018年8月2日木曜日

古代美術は古くない



   縄文時代の土器や土偶についてのテレビを見て。番組の最初から最後まで通底するのは、
「縄文時代なのにすごい」、「こんな昔なのに驚きだ」
という表現である。これらの発言が生まれる根底には、過去より現在が優れているはずだという暗黙の前提がある。きっとこれは本能のようなもので、いつの時代の人も、自分が生きている今がこれまでで最も優れている時代だと感じるのだろう。だから、1万年前に作られた物が現代よりも優れていると素直に認めたくないのである。「縄文時代なのに」という言い草は、ドラえもんでジャイアンが「のび太のくせに」と言うのと変わりない。しかし実際は、過去の蓄積によって発展するのは科学や技術くらいであって、それ以外は発展せずただ時代ごとに変化するだけだ。縄文人と現代人の身体はまったく違いがない。脳ももちろん同じだ。彼らが私たちより劣っているところは何もないのである。
   これは縄文文化に限らず、古代芸術についても同様で、例えば洞窟壁画や象牙の小像などヨーロッパで出土する石器時代の遺物に対しても、「原始人なのにすごい」、「古いのにすごい」という表現が付いて回る。彼らは私たちと同じサピエンスである。同じ身体、同じ脳なのだから同じ感性が働いていて当然なのだ。洞窟壁画に現代美術性をみる人もあるが、さもありなんである。同じ人類が作った美術を見る時に古いか新しいかで美術的価値を判断するのは意味がない。

   縄文美術を見ると、私はその異質さに不安を覚える。縄文時代と呼ばれる1万年前、確かにその場所は私たちが今「日本」と呼ぶ場所での出来事だが、彼ら縄文人は日本語は話していなかったし米も食べていない。神社の寺も仏像もない。学校も会社もない。何より日本人という概念がない。遺伝子は多少の連続性があれど、今の日本人に染み付いている文化的な自己同一性とは全く連続性がないと言えるだろう。私は縄文土器や土偶を見て、何か懐かしさを覚えるとか、日本人的であるとか、そういう感想は浮かんでこない。他国の古代文明遺跡を見るときよりは目に馴染んでいるが、それは幼い時から何かと目に入っていたからかもしれない。火焔型土器や遮光器土偶などは全く日本人的ではないと思う。だから、縄文土器の展覧会などで日本の美の原点と謳われると違和感を感じる。場所が同じというだけで現代日本人との連続性を声高に歌うことが正しいのだろうか。何というか、例えば英国人が「ストーンヘンジが英国の美の原点」と言うような違和感である。

   現代との連続性よりむしろ、時が経てば今当たり前のように大事にしている文化も、綺麗さっぱり消え失せてしまうものだという事実を古代芸術は教えてくれる。日本人に馴染んでいる仏教美術の歴史は2000年ほどで、それを遡るとヨーロッパ美術との関連性が見えてくるように、数千年程度ならば連続性が垣間見られる。ところが、縄文美術の様式や、石器時代の女神像などになると現代に伝わる宗教や美術との関連性などまったく見られない。この時代に広く、強く信じられていた何らかの宗教と呼べるような行為は完全に途絶えているのだ。それは言わば文化的絶滅であり、ならば古代美術は文化的化石とも言える。


   過去に実際に起こった事象が今後は起こらないとは誰も言えない。今当たり前にある文化も、数千年、数万年後には過去の遺物となっているのかも知れない。その時の人は、無数に出土する宗教美術品を見て、それらをどう価値付けるのだろう。