2013年6月23日日曜日

芸術家と感情


 象が起こるには、原因がある。理由がある。だからといって、そればかりを探ると、本質を見失うこともある。そもそも、探したところで理由が見つけられないこともあるのだ。
 その最たるもののひとつに感情がある。私たちは日々、瞬間瞬間に様々な感情が湧き起こっている。時に印象的な出来事と対峙すると感情が大きく湧き起こり、時には制御不能にさえ陥るのだ。芸術という領域が取り扱うのも、本質的にはこの感情である。芸術を表す理由は時代や場所によって変化するが、それでも芸術と呼ばれるものが扱うのは須く感情であると言って差し支えないだろう。

 代以降、芸術表現は作家個人レベルでの感情表現へと細分化された。個々の作家たちが自らの感情を頼りに造形し、それを鑑賞者たちは見ることで何らかの感情を自らの内に湧き起こらせる。だから、芸術家はまず自らの感情に目を向けなければならない
 ここでまず、はっきりさせておかなければならないことは、感情は個人の意識の管理下にない、ということだ。映画の俳優たちが演技で泣き笑いすることと、日常生活での”リアルな”泣き笑いとは似て非なる物である。リアルのそれは、意識とは関係なく外部や内部の状況刺激によって湧き起こる。それは意識でコントロールできる類ではない。誰も、笑いたくて笑うのではなく、泣きたくて涙を流すのではない。むしろ、それらの感情が引き起こされた後に気付くのである。しかし、現代において、これら感情をそのままに引き出すことは憚られる。それはきっと、感情のままに生きてきた”野性的過去”への反省が、文化的動物としての人類の脳に刻み込まれているのだ。私たち人類は個人レベルでの感情を意識によってコントロールすることで、集団の和を作り出せることを知ったのである。場をわきまえない感情の吐露は、忌み嫌われるばかりか、時には犯罪のレッテルも貼られかねない。このような、意識的世界に生まれ育った我々は、「冷静沈着で感情に流されない人間」こそが是であると信じる。感情的な人間にはその反対の価値が置かれる。確かに、ここまで高度(に見える)な”意識社会”においては、その理に従わない分子は調和を乱すやっかいな存在である。それは、高度にくみ上げられた腕時計のゼンマイ群の中に目計りで作ったギアを組み込むようなものだ。スムーズに時計を動かし続けるために、私たちは整然と磨かれた設計図通りのギアとならなければならない。ただ、残念ながら(否、幸いにも)我々は意識無き機械ではない。二本足で立ち上がり、体毛を無くした姿は異様ではあるものの、その造りはあくまでも”けもの”である。外見がそうであれば、内面もまたしかり。私たちは感情無き意識というもので動いているのではない。私たちの意識の原動力は、その根底にある感情に他ならない。冷たく冷えた大地としての意識は、煮えたぎり流動する感情のマグマの上に薄皮一枚で引っ付いているのに過ぎないのだ。

 情を押し殺して生きる彼らはその反動として、常に感情を解放する場を欲している。それを満たすものが、映画やドラマなど芸能であり、別の形としてあるのが宗教であり、またその派生としてあるのが芸術であろう。その意味からも、芸術を生み出す人々、すなわち芸術家は自らの内の感情に目を凝らし耳を澄まさなければならない。芸術家は、彼ら以外の社会人と同様に感情を押し殺して冷静を振る舞って生きてはいけない。そうやっているうちに、感情を無視する生き方が染みつき(それは社会人としては成功と言えるかもしれないが)、何でも冷静を是とすることで多くの感動を忘れてしまうことになる。やがては、一般の人と同じように、用意された感動物語でしか感動できないようになってしまうのだ。彼らの作るものは”意識的であること”を是とするために、往々にして理性的かつ分析的である。自らの内に湧き起こる”意味不明の”感情の根源を分析し、その根源と理由を探り、そこに感情の”種”を見つけたとでも言わんばかりに標本的構造物を提示する。確かにそこには見る者に何らかの感情を引き起こす物体があるかもしれないが、その精神と構造を断片化された物体に、初発的感動と同質の感情を引き起こすことが果たして可能だろうか。

 たちが取り扱う感動という感情は、ひとつひとつが取り出すことが出来るような外形を持って存在しているのではない。喩えるならば、感情は無数の情動的要素の複合したもので、それがある実感を持って意識上に投影されるのだろう。命を探そうと生体を解剖してもそれを見つけることができないのとそれは同じ事だ。

 術は、私たちの感情に直接的にアプローチしようとするメディアである。だからこそ、そこには標本化された無感情的構造物よりも人間的で(時には動物的で)情動的な感情に訴えかけてくる要素が要る。それは時には激しい色彩であるかもしれないし、大きく崩れた人体造形かもしれない。いずれにしても、それらは非論理的な顔をしている。対象の構造的再現だけでは、それも時に賞賛に値するが、そこに情動的文脈が乗らない限り、単なる「美しい構造体」ということになる。言わば、展示されたF1カーを眺めることとF1レースを観戦することの違いがそこにある。私たちはレースを提供しなければならない。車体はレースの感動を最大限にするために最重要であるが、あくまで要素である。

 ちなみに美術解剖学は、このレースにおけるF1カーに相当する人体構造の見方を提供する。美術解剖学そのものは芸術ではない。あくまでも、効率的認識と描写造形を助けるリファレンスである。芸術において、人体のかたちが作れることは前条件であって目的ではない。それが当たり前に出来たうえで情動的文脈がそこに加えられ、芸術が作り上げられるのである。

2013年6月9日日曜日

藤原彩人個展「空の景色と空な心/Scenery of The Sky and Vacant Mind」を観て



 ャラリー入り口は、住宅街にある個人宅の小さな玄関で、知らなければ開けることを躊躇する。開けると真っ白い一つの空間。
 ひとに対する出会いと同じで、作品が鑑賞者にとって好みかどうかは、第一印象で決まってしまう。藤原氏の作品は、人物がモチーフであるが、その表情が特徴的だ。しかし不思議なことに、レリーフ作品と立体作品とで表情の系列が違う。私にとって、より妖しく魅力的であるのはレリーフの人物の表情である。

 くて白い一枚壁の上方に裸の人物が二人ななめに向かい合ってしゃがみ込み、口に手を当ててささやき合っている。目では周囲に注意を向けている。聞かれたくないここだけの話しを交わしているのだ。彼ら(彼女ら?)の足下からは長い影が伸びている。それは地面に近い足から頭部へかけて広がっていき、影の頭頂部は壁の下方に位置することになる。
 この作品を正面から見上げると、レリーフと影表現の視覚的効果によって、奇妙な視覚の不安定感を味わうことが出来る。要するに、壁にもう一つの視覚的空間が作り上げられ、見ている私の脳が迷うのだ。実際空間の視覚でいくか、それとも、仮想空間の視覚で行くかと。この幻覚をより強く作り上げるのに人物の足下から長く伸びる影が大きな影響を与えているのは、手でそれを視界が外してみればよく分かるだろう。

 リーフというのは、絵画と彫刻の中間に位置していると言えるだろう。ほぼ平面であるため、立体的に見せるには絵画的なテクニック、すなわち遠近法が用いられる。しかしながら、色彩ではなく陰影でそれらを見せるためには、彫刻的な立体処理が必要になる。さらには、規定された視点から見て遠方へ向けて圧縮が掛かった立体物を視覚的に違和感なく変形処理するという、レリーフ特有の技法も必要となる。つまり、レリーフを成り立たせるには、絵画的視点の固定と彫刻的立体感覚、そしてレリーフ特有の変形技法が必要ということで、3者のなかではもっとも造形上の縛りが多いと言える。在廊していた藤原氏の話しを聞いていると、レリーフが課してくるこの難題を楽しみながら克服しているようだった。
 それにしても、人物だけではなくその影までもレリーフとして表現するという感覚に驚かされる。しかもそれは単なる一枚板(氏の作品は全て陶)ではなく数枚の複合体で、その合わせ目も人物像とリンクするように、もしくは影に内包される人体像に合うように作られている。言わずもがな、影は量がゼロである。それを、量を取り扱う彫刻において表している。それがレリーフという半絵画において採用されたというのは、重要な点である。そしてさらに、その影に仕込まれた稜線や顔の表情なども、実体と虚像との関連性を示唆するものとして見える。目のある影にとっての実体とは何か? 

 原氏は、影を彫刻するという行為によって、彫刻とそれを取り囲む空間性に対して挑戦を繰り出しているように見える。彫刻は実空間に存在することから、その構造や素材に注意の多くが払われる。絵画と違って鑑賞の視点には自由さがあるために、どこから見ても良いとも言われる。しかし実のところ、彫刻に対する視点が宙をさまようようになったのは近代以降に過ぎない。さらには、どこから見てもよいと言いながらも作家たちは仮想的な理想的視点を定義してきたはずだ。藤原氏はレリーフ制作によって、厳密な視点の決定に意識的になったと話す。
 そして、作中に目立つ大きな影。影は作中の人物がいる空間を定義している。さらに、影に彼らの顔姿が映り込んでいることから、それは噂話が持つ陰湿さのメタファーを果たしているが、私にはこの大きな影がレリーフを含む壁面に広大な仮想空間を作り出すことに成功し、また、それは実体と切り離せない存在の証明でもあることを強く示しているように思えた。

 レリーフ作品がその物理的大きさに加えて、視覚的イリュージョンとしてさらに巨大に見えるため、床に置かれた、成人の股下までほどの大きさの、4体の人物像になかなか目が行かなかった。これらは皆、口を力なく開けその内に歯を覗かせている。氏の作る立像はいつも足が短く腕が長い。実際の人物とはかけ離れた比率だが、粘土として立つにはこのような下方重心にならざるを得ない部分もあるだろうし、そこに氏が込めた意味合いもあるだろう。印象として仏像を思わせもする。興味深いのは、手の位置は膝との位置関係を重要にしていると氏が話したことだ。そうであるため、膝の位置が下がれば必然的に手も下がりつられて腕が長くなる。彫刻は構造的視点が重要視され、実際それがおろそかになるほど作品として弱い印象となる。人体の構造を前提とした見方ではなく、“膝と手の位置関係”という局所的構造を考慮しているというのは興味深い。
 また、これらの人物像は皆、顔と手足以外は白い釉が掛けられている。それは髪と衣服を表すわけだが、藤原氏曰く「できあがりを見たら、猿を思い起こさせた」。つまり、同色でまとめたことで、髪と衣服が一体化し、あたかも白い体毛から顔と手足だけ皮膚をさらしている猿のようだという。これは、私たち人類が頭髪と衣服の扱いについての示唆を与えるものだ。人類も遠い昔は体毛に覆われ、衣服など着ていなかった。やがて衣服は体毛と入れ替わり、体毛が果たしていた役割(それも着脱可能、変形可能)を担うようになった。その意味において、衣服は身体の一部である。頭髪は着脱は出来ないものの、それ以外の意味合いは似通っている。現代人にとって、頭髪も衣服も単なる身体保護ではなく、その形態や色彩によって自分の社会に対する立ち位置を示す重要なデバイスでもある。しかし、その流動性の高さは同時に、偽りの可能性をはらみ、結果として虚無感をそこに加えるのだ。着飾ってなんになる、あの世には着ていけぬと。氏の4体の白さには、人類にとっての頭髪と衣服の体社会的ツールとしてあり方と身体の一部としてのあり方の境界を尋ねられているように見えた。

 者の藤原氏は、制作に至る過程や思考過程を細かく語ってくれる。それらを伺っていると、氏が常に手を動かすことで思考しているというのが分かる。正に彫刻家である。形によって思考し、それを表し、そこから次の思考へ”造形を通して”進んでいく。また、とても彫刻芸術に対して真摯な姿勢で臨まれ、後進への教育も常に考えている。

 私もかつては同じ学舎で造形を学んでいたわけで、今でも造りたいものを多く心中に抱えてもいる。理由を付けて実現させない自分の情けなさを、同世代の展示を拝見するたびに味わう。今まで宇宙に存在しなかった作品を次々と生み出す彼らをいつも尊敬している。

藤原彩人個展「空の景色と空な心/Scenery of The Sky and Vacant Mind」
gallery21yo-j 6月23日迄

アントニオ・ロペス展を観て(立体作品を中心に)


 日(2013年6月8日)、アントニオ・ロペス・ガルシア展を観に渋谷東急Bunkamuraへ。

 ルシアの作品は風呂場を描いたものがかつて美術教科書に載っていたように記憶しているが、そのころはいわゆる超写実画と納得しそれ以上の興味は抱かなかった。数年前に何かでレリーフ作品の写真を見た。ブロンズの薄肉で母親とおぼしき女性とその周辺風景が写実的に造形されている。それはごく平凡な風景を上手に再現されて、空間性も感じ取れる。それは普通の風景だが、その空間内にひとりの乳幼児が宙に浮いているのだ。母親は跪き乳幼児を仰ぎ見ている。この作品を見たときは、何か総毛立つような、この母親が目にした「いるはずのない乳幼児」を私も計らずして目撃してしまったような、アクシデンタルな感覚を覚えた。その作家もガルシアだったのだが、このレリーフ作家とかつての風呂場の画家が同一人物であることをその時は知らなかった。
 実的な風景に、非現実性を織り交ぜることは芸術に限らず”表現”の得意とすることだが、ガルシアのレリーフから感じられるものは、「ほら、ここが”異常点”ですよ」と主張してくる類のシュール・レアリズムやフィクション・ムービーとは違って、日常的現実性のなかに突如として紛れ込んでくる異常性なのだ。なので、かの母親が目撃した乳幼児は、単なる幻影や見間違えに過ぎないのかもしれないという不確定さをはらんでいる。そうであるのに、第三者である私(鑑賞者)も確かにそれを目撃してしまったことで作中の母親と経験の共有することになってしまった。
「誰も信じてくれないかもしれないけど、私は信じますよ。私にも確かに見えたんです。」

 ルシアの個展は日本では(そして東洋でも)今回が初だと言うから、これだけまとめて長期的な仕事を幅広く見た日本人もいままであまりいなかったのだろう。私も上で書いた以外に幾つかレリーフ作品をネットで見た程度だった。油画やデッサンなど平面が多いが、従来の絵画のように描ききったものばかりではなく、制作途中のように見えるものも多くある。作家がそこで良しとしたので完成なのだろう。芸術には”未完の効果”というものがあり、彼もそれを応用している。
 同展のポスターなどでは有名な景観図(グラン・ビア)やモノクロ写真のような肖像画(マリアの肖像)が選ばれていたが、私はレリーフや彫刻作品を楽しみにしていた。入場すると間もなく小さな丸彫り彫刻『見上げるマリア』があって、その愛らしさは勿論、造形手技にすっかり満足して、しばらく色んな角度から楽しんだ。一歳ほどの乳幼児が立ち上がり見上げている。視線の先は親に違いない。両手は少し前方へ向けられている。やっと立ち上がれた喜びと、どうしようも出来ない不安から親に抱きかかえられるための用意に入っているのが、力んだ四肢から感じ取れる。丸い頭部と線要素の四肢と胴体、そして立方体の土台が組み合うことで生まれる構成も心地よい。眺めているうちにこの子を抱え上げたい衝動に何度も駆られた。丸い頭もなでたかった。私からすると、空間中に確かに存在して立ち上がっているこの作品の存在感は強いものがあるのだが、多くの鑑賞者は壁の平面作品に多くの注意を裂いているように見えた。大人の注目を得られない幼児は寂しげであった。

 ぐ近くには、この子の母親である女性の金彩色の胸像(マリの胸像)があった。控えめだが憂えた表情に信仰性を見る。側面から見ると顔面部に対して後頭部の量が控えめだった。右耳のうしろの胸鎖乳突筋の緊張が下顎の量とつながって、耳から首への輪郭線を直線的にしていた。こういうラインは実物観察の証だろう。顔も決して無機質な左右対称ではなく、むしろ大胆に動勢が表現されていた。

 ローイングを盛んに褒め称える男性たちのささやきを耳にしながら、平面作品を見通していくと、ブロンズレリーフ(食品貯蔵庫)が掲げられていた。静物画を薄肉彫りにしたもの。シャープさ、空間性はあまり高くない。60年作なので初期のものか。
 その少し先に、レリーフ作品のハイライトとなるものが掲げられていた。『眠る女(夢)』は上記作の3年後のものだが薄肉木彫レリーフで彩色されている。会場のライティングも調節されているので、一見では平面絵画にも見える。しかし、それにしては陰がリアルで近づくと凹凸に気付くというわけだ。この視覚的幻惑感にすっかり感心した鑑賞者たちが足を止め、いったいこの立体的空間感は何かと視線をさまよわせていた。
 私は最近になって、レリーフという表現形態に再注目している。これは絵画と彫刻の狭間にあると言えるが、求められる技法はどちらとも微妙に違う。正確に言うなら絵画と彫刻の技法に加えて、レリーフ独自の技法も求められる。レリーフは決して新しい表現ではなく、むしろ丸彫りの彫刻より古いことは古代エジプトやオリエントを思い起こせば分かる。そして、これら古典も往時は彩色を施されていた。

 の展示室へ続くと、実物より大きめに見える全身裸体像の男女が立っていた。肌色のむらのある彩色。目には義眼。脇の壁に制作中の作家と作品の写真が掲げられていたが、その白黒写真では作品が塑像もしくは蝋に見えた。どちらも太いアングル(支え棒)が脇から差し込まれていた。塑像原型を木彫に写したのかもしれない。長い年月をかけ、複数のモデルを参考にした”普遍的人体像”であるという。しかしそれは古代ギリシアが求めたものとは違い、俗的な今を生きる中年男女だ。男性は片足重心で立ち、古代よりのフォーマットであるコントラポスト姿勢を思わせるが、その揺らぎが作る重心の波は骨盤部で立ち消える。そこには論理的に言える動勢の繋がりが消え、古代彫刻に理想を見出す者(つまり私)に不安を与えるのだが、実際の人体を観察するとそれらが曖昧であることも事実であり、こうすることで古典的理想化から現代的現実感への移行に成功しているとも言えるのだろう。

ころで、これら2体の彫像は壁に背を向けるかたちで設置されていたが、私はこれを残念に思う。背中を見ようにも脇からのぞき込むほか無く、そこにはライトも当てられないため形を追うことは出来なかった。しかし、そういった鑑賞上の不満は個人的な小さなものだ。本質的なのは”立像を壁際に置く”ことで、これらの作品は明確に「物」として扱われていたことだ。それらはもはやショー・ウィンドゥのマネキンであった。勿論、空間の制限等さまざまな理由からそこが選ばれたには違いないだろうが、作品は”非作品”ではない。彫刻はどこに置かれても同様の意味合いを放つほど”鈍い”表現媒体ではないのだ。絵画のように額縁の中で擬似的に作られた空間に守られていない彫刻作品は、それを取り巻く空間がどうであるかに非常にセンシティヴである。もし、これらの作品が空間の中央に立っていたなら、その存在感により多く鑑賞者が足を止め回りを巡って楽しんだことだろう。
 の壁に、この彫刻のためと思われる大きな全身デッサンが掛けられていた。それらは胴体を中心に描き込まれ四肢は曖昧である。同彫刻も脚の作り込みが胴体に比べて弱く見える。実際、脚の股関節から膝関節までの大腿部と、膝関節から足首までの下腿部は形態の視覚的は引っ掛かりが少なく、他の部位の比べて”退屈”である。そのため、古典では実際よりも筋の起伏を強調して陰影を出しているが、ガルシアは現代的現実感のためにそれがないのだろう。

じ展示室内に、ブロンズの等身男性が仰向けに寝た作品『横たわる男』がある。超写実だが、これは型からの起こしを感じさせる。つまり、実際の人体モデルに石膏などを振り掛けてその印象を取ったのではないだろうか。それをもとに多少手を加えたのだと思う。脇から下行する胸腹壁静脈や下腿の大伏在静脈など細かく再現されていた。

展示順で見ると最後に女性半身像(女の像《イヴ》)がある。肌色彩色木彫で原型は石膏とのこと。頭部には髪を多うキャップを被っている。それは競泳用キャップを思わせる。

 後の展示室の彫刻たちを見て、違和感を覚えた部位がある。それは目だ。男と女の立像には義眼がはめ込まれていたので視覚的な生命感があった。それは良い。仰向けの男性と女性半身像はどちらも目を開けている。ところが”生気”がない。正しく言うなら、生きた人間が目を開けている顔をしていない。仰向けの男性像は型起こしではないかと上に書いたが、そう強く思わせた理由の一つがこの目であった。それは女性半身像も同様である。生体から顔面部の型を起こすときは、当然ながら目を瞑った状態になるので、型から起こした閉眼状態の顔面に手を加えて”開眼させる”のである。この際、単純に上まぶたの中心に削り落としてアイラインを整形することで目を開けると、必ず違和感ある顔になる。まぶたを閉じるには、目の周りの皮膚内に埋もれている、目を同心円状の取り囲む眼輪筋を収縮させている。この筋の影響範囲は上まぶたを超えて広がっているので、目を閉じると周囲の皮膚を目頭(めがしら)よりに”思いの外”引き寄せる。これらの作品は、目を瞑った状態の周囲構造に開眼した目を付け加えたので、違和感を生じている可能性がある。思えば、半身女性像の競泳用キャップも頭部型取りにはよく用いられる。

 気の薄い目の表現はしかし、ガルシアの肖像画のいくつかでも感じた。それらは写真から起こされた絵であった。ガルシアの作品の多くを覆う、対象に対する遠い距離感は、観察と作品の間に写真や型取りといった客観的で無感情な媒体を挟み込むことで生まれているのではないだろうか。会場内やカタログには、ガルシアがモチーフの前で実際にカンバスを広げている写真がいくつも展示されており、それだけを見るなら作品たちは彼の肉眼観察のみから生み出されたように思わされる。しかし、実際の作品を見ると、そういったものと写真をもとに再構成したものとの2種類があるように感じられる。
 90年代に描かれた植物画は、白いカンバスの四隅などにメモリや数値、画面分割線などが描き込まれている。それは多少作為も感じさせるが、彼の作画に対するスタンスを表してもいる。ガルシアに共通するのは写実であり、写実は技法において主観の除去を含む。彫刻の制作過程において、生体からの型取りが行われていたとしても、それは彼の信念に沿ったもので、なんら違和感を生じさせるものではない。

 体作品ばかりを見てきたが、平面作品では『室内の人物』に”やられた”。これは心理的不安や恐怖を与える作品だ。室内の左隅は光が当たらず暗い。右のドアは開いており3人が立っている。女性は明らかに不安や悲しみのような感情を表している。彼らは外からやってきてドアを開け廊下から室内を見ているのだ。ドアの隣に鏡が掛けられ、画面手前、つまり私たち鑑賞者側の空間が写し込まれている。それを見ると手前の壁には女性物の衣服が掛けられている。廊下から不安げに見る女性の視線の先はこの衣装に向けられている。この鏡のすぐ手前の暗がりに若い女性がいる。胸までしか無く、視線は鑑賞者へ向けられている。
この女性の顔は、ガルシアの妻マリアであることは同展を見ていれば分かるのだが、明らかにこれは”いるはずのない人物”としてここにいる。廊下にいる3人にはこの女性は見えていない。そして、”いないはずの女性”は私たちへ目を向けている。彼女は私たちを認識しているのだ。しかし、見られている私たちはこの空間に存在していないことは鏡に誰も映っていないことが証明している。
 いないはずの女性は、その視線によって絵画空間と私たちとを結びつけている。しかも、絵画空間においては私たちは”いないはずの女性”側に位置している!。こんな、鑑賞者を不安にさせる罠が仕掛けられた絵画はあまりないだろう。この女性が霊だと言うなら、あなたもまたそうだということになるのだから。
 ガルシアのこの絵に感じられる、変容した現実感(つまりシュール・レアリズム)は、私がかつて見た幼児が浮かぶレリーフと同質のものだ。彼は決定的に全てを変容させない。勘違いや気の迷いや少し疲れている事による見間違えといったさりげなさに”異質”を溶け込ませる。しかし、私たちにはそれこそが異質のリアリティだろう。


ころで、会場内の鑑賞者を見ていると、彫刻作品の鑑賞時間は明らかに絵画作品のそれより短い。彫刻作品の”見方”が分からないのではないかと想像する。だからこそ、展示側がマネキンのように男女像を置くのはより良くないと思ったのだ。
 彫刻の見方は、絵画のそれとは違う部分が多い。そして、深く、楽しい。商業的に見ても、彫刻はいつも苦戦を強いられる。彫刻界にいるひとは、鑑賞者を育てるという役割も担っていかなければならないのかもしれない。古代ギリシアやローマの彫刻たちの多くは鋳つぶされたり焼いて石灰にされて消えていったという。”良い物を作っていれば気付いてもらえるよ”ということはないと思う。
 ントニオ・ロペス追記