2016年4月3日日曜日

トークイベント後に思ったこと

 昨日の「歌会」トークイベントでは、自分で予想していた内容の2割ほど話した。いくらでも話せるような気がするが、イベントや講演の前は話が時間的にもたないのではないかと思っていろいろ話す内容を考えたりする。結局は不安から多くをため込んでしまうから時間内に収まらなくなるのである。話した後はだいたい、余計なことを話したんじゃないか、役に立たなかったのではないかと後悔の念にさいなまれる。また、作品を作っていない自分に負い目を感じる。それだけに、今回のように”作る人間”たちの輪に入れてもらえることは実に有り難いと思う。

 イベント終了後に、恵比寿駅近くの中華料理店で軽い打ち上げがあった。その場にはトークイベント中にも刺激的なコメントで場を沸かしてくれた作家の藤堂氏もいて、ここでの率直な言葉のいくつかは考えさせられるものだった。ドイツに長く制作発表をしていた氏ならではの比較文化論的な視点は興味深い。「日本の芸術家は、技術は凄いが試合には出ない運動選手のようだ」、「日本人は何でも小綺麗に作れてしまう(ので主題がぼやける)」、「芸術家に自作を語らせるな(語るな)」、「作品は、聞いたり読んだりしないで、自分の目で観ろ」などなど。

 彫刻家、芸術家、という肩書きは本来は職種名ではなく、そういった生き様をする人の呼称だったろう。ただし、その立場で生活していくためには、生産物が流通しなければならないので市場も気にはなる。そういう現実と繋がる視点で見ると、日本の彫刻市場は非常に小さい。今回のトークイベントも、蓋を開けてみれば多くの彫刻関係者で占められていた。言わば同業者、いや同窓生か。こういう現状は、仲間意識の確認行為として嬉しさがある一方で、関係者以外への広がりの小ささが露呈して寂しくもある。もちろんこういったイベントだけで全てが分かるわけではないけれども、彫刻市場をより拡げるための行動が十分であるようには感じない。確かに、彫刻含め芸術は日常に溢れる物品のように扱える類ではなく、むしろ一般から距離があるからこそその価値を保てるという側面も事実上あるだろう。それでも、その距離感を意識しつつ一般への間口がもっと開かれる方法は無いものだろうか。

 芸術界というのはそれだけでひとつの生態系のようでもある。そのなかで生き残り、継続していくための答えは1つではない。ただ、その一員としてあり続けるためには、動き続けなければならない。そして消えないためには、周囲に対して柔軟でなければならない。作家の生きる時代から遊離した芸術というのは存在し得ない。自戒としてそんなことを思った。

2016年4月1日金曜日

樋口明宏展「歌会」を観て

 キッチュ。そんな単語がふと思い浮かんだ。樋口明宏氏の作品群を思い返していたときのことだ。これまでいくつもこの作家の作品を観てきたけれど、それがキッチュであると思ったことはなかった。それだけに私の頭の中で、樋口作品全体を包むイメージとしてこの単語が浮かび出たことは私自身の驚きでもある。そして今では、確かに彼の作品の多くがキッチュな物として映ることを認める。それが樋口作品に共通するある種の軽妙さの理由でもある。しかし同時に、それらは実際にはまったくキッチュではないということも事実である。
 ところでこのキッチュという言葉だが、あまり日常的に出てくる単語ではないけれども、何となくその意味するところは分かるという程度の認識だったので、ネットの検索窓にこの単語を入れて確かめた。すると直ぐに『芸術気取りのまがいもの。俗悪なもの』と出た。ちょっと私が思っていたよりも強いニュアンスのようだ。私自身の意味合いとしては、『本来の目的とは違う意味合いを与えられたり、これといった実用性を欠いた見た目重視の置物。グッズ。雑貨』である。
 いずれにせよ大事な点は、樋口作品がファインアート然としていないところだ。お高く止まっていない。それどころか、鑑賞者が時に”にやついて”しまうような分かりやすい味付けが確信犯的に加えられている。しかしこれは、作家としては危険な賭でもある。難解な作品はそもそも観てもらえないことが多いが、分かり易すぎても直ぐに鑑賞者に立ち去られてしまうからだ。出品作の「蒔絵が施されたゴキブリ標本」などはその代表だろう。人々が嫌う対象に、高級で美しい装飾が施されている。対比として非常に分かりやすい。あ、なるほど、と分かった気分になってスッと立ち去ってしまう人も多いだろう。だが実は、樋口氏の作品はその分かりやすい入り口の先に深みへ続く回廊が続いているのである。さらにそこには幾つもの別の扉がある!装飾されたゴキブリは、嫌われるべき存在なのか鑑賞対象なのか。私たちはゴキブリという天然を嫌い、装飾という人工だけを認めるのか。気持ち悪い!と湧き起こる情動は理性的な美で覆い隠せるものなのか。そういった幾つもの隠し扉の先に、仕掛け人である作家の姿が浮かんで見える。彼は作品を通して私たちに問題を提示しているようでありつつ、それらは彼自身が感じた答え無き疑問の素直な開示なのだ。自分自身を見返してみれば、確かに、様々な疑問が浮かんでは消えていくけれども、それらは皆、ごく日常的で身近な事象をきっかけとしている。そんな日常的な心の引っ掛かりが、具体的な形を成して、そこに置かれているのである。
 樋口氏の作品たちがキッチュであるようで、そうではないのは、こういう理由による。それらは時にナンセンスな滑稽さを身に纏っているけれども、作家の複雑な感情の機微がそこには宿っているのだ。そして、それらは鑑賞する私たちによって解凍され再生されることで、私たち自身の心的事象へと転化されるのである。
 
 樋口氏は自らを彫刻家だと言う。一般的に言われるそれは、石や粘土など実材を加工して何らかの形を作る美術家を差す。それに対して樋口氏はこれと言った実材に拘ることはなく、それどころか、今回の展示作品を観れば分かるように、天然の実材というよりも古道具や昆虫や古仏像などが組み合わされたり加工されているので、古典的な彫刻家という呼称が当てはまるのか、ふと疑問に思う。しかし、加工することで本来の有り様とは違う新しい意味合いが与えられるという行為として見れば、それは確かに古典的彫刻家たちの仕事と同一である。いや、切り倒された木材や切り出された石材から彫ることと既に仏像の形をしている物を彫るのでは違うだろうと思われるかもしれない。だが、切り倒された木材から何かを彫り出すにも、彫刻家は常にその実材と対話するように彫るものである。古仏像を彫る時はだから、樋口氏はその仏の形から受ける印象を無視するどころか繊細に感じ取りつつ鑿を当てているに違いない。それはまた、形が持つ力を信じている証しでもある。その意味において、氏は確かに彫刻家であり、それも日本古来的な感性をそこに見る。さらにまた、氏の作品は必ず何らかの加工が施されている。素材に手を加えることで自らの作品とするという手順、行為を守っている点でも古典的な彫刻家であると言えるだろう。

 さて、『歌会』という題目が付けられた本展の作品群は作品制作の方向性が大きく2つに分けられる。すなわち、作家が手を加えることで「既存の意味合いを変化させる」ものと「既存の印象を強調させる」ものだ。
 ただし、古道具に埋もれた腕を掘り出した作品は、それ自体では「本来の意味合いを表出させる」というもうひとつの方向性を指し示すが、これらは腕のない小像と組み合わされてユニットとなる事で「意味合いを変化させる」群にとりこまれる。
 
 意味合いを変化させる行為の作品:
 「石に漆絵」 和歌に触発。
 「明王に桜」
 「なまけものの爪」 ことばの面白さから。
 「石を接着」 偶然性の利用(見立て)
 「月の石」 偶然性の利用(見立て)。和歌に触発。
 「手の道具と小像」 ユニット作品

 印象を強調させる行為の作品:
 「金継ぎの雷神」 偶然性の利用(見立て)
 「昆虫に蒔絵」
 「手の道具」


 繰り返しになるが、樋口作品に特徴的なことは、そこにある作品の素材として用いられた物品もまた本来別の意味役割を持っているという点だ。分かりやすいのは「昆虫に蒔絵」だろう。本展ではゴキブリの標本に金蒔絵が施されている。多くの鑑賞者に取ってその意味合いは明解だろう。忌み嫌われる象徴としてのゴキブリと美しく高貴な金蒔絵の対照。そこからゴキブリに抱く嫌悪感について改めて意識が及ぶのである。しかし、この作品を”正しく”鑑賞するためには鑑賞者はゴキブリが嫌いでなければならず、金蒔絵に価値を見出していなければならない。この意味において同作品は鑑賞者を限定するものだ。同様の質は「なまけものの爪」や「明王に桜」にも言える。このような特性がしかし、今展覧会のタイトルである「歌会」からうかがい知れる。作家の紹介文にもある「本歌取り」とは今風に言えばオマージュのことで、もともと知られた歌の一部を使って新しい歌を作る。その新しい歌を楽しむにはオリジナルの歌も知っていることが前提となる。

 明王像や古道具のように既に意味が与えられている物を材料として別の意味を作り出す行為そのものは、実は新しいことではない。粘土や木材などの原材料から彫像を作り出す古典的な彫刻家もそれら材料に何らかの性質や意味合いを見出すことはしばしばある。「素材と対話する」といった言い方がされる。日本では特に木材を刻んで神仏像を造ってきたことから、木材には単なる材料以上に親近感を抱くものである。

 「接着した石」について、作家は「ひとつでは面白みに欠ける石が複数くっつけることで面白くなる」と言う。世界を構成する原子はそれひとつでは物性を持たないが、複数集まって分子となることで物性を表す。Hと2つのOが水となるように。また、音楽も同様で、音階1つでは音に過ぎないが複数集まることで音楽が生まれる。本展示では、接着した石が数多く床に置かれ、それらが全体として、別の意味を持つ。それは雲海にも似る。水の分子があつまり水滴となり、それが集まって雲となる。雲は水とは違う働きを私たちにもたらすように、この作品も1つの石と観るか、全体として観るかによってその意味合いが変化する。それらは流動的に繋がり一体化している。
 MA2ギャラリーの2階の展示は、床にたくさん置かれた「接着した石」と、窓を背に置かれた「金継ぎの雷神」である。これらの作品は全体として「雲海とその上にいる雷神」として観ることができる。そのように観るとき、雲を支えるギャラリー2階の床はあたかも地上界と天空界の境界面の様だ。こういったインスタレーション展示には、作家の作品だけではなく、それが置かれるギャラリーの部屋もまた作品の重要な要素として際立ってくる。2階の展示空間で鑑賞者は作品の中へと入り込み、作品と自身が混然となる体験をするだろう。その時私たちは雲海の上を浮遊し雷神と出会うのだ。これは言わば仮想空間への没入であり、それは今風に言えばVR空間である。

 樋口氏は彼自身とその作品との距離感がとても近いと言う。それは彼の作品の多くが大きくなく、かつ繊細な作風であることからも分かる。氏の近作の多くが、近くに寄ってじっくり観察することを鑑賞者に求める。作品の大きさ、鑑賞されるべき距離、作品が置かれる場など、作品を取り巻く環境への配慮は、彫刻作品にとっては実は作品そのものと同等に重要な要素である。そうであるにも関わらず、そのことにあまり関心を寄せていない作品は一般的に多い。しかし、それは展示する場所が定まらないという現代の作品の置かれる立場からのフィードバックでもあり、一概に否定できない。なぜなら作品たちは、時には小さな画廊で、時には公共の広いフロアーでと安住の地を得るまで流浪の旅を続けなければならないのだから。とはいえ、彫刻作品とそれを取り囲む空間への関心は未だ十分ではないことも確かではある。
 
 樋口作品は、表現されるバリエーションが広いことが特徴の1つで、毎回、今度は何が出てくるのだろうとワクワクさせる。様々なモチーフで表現が繰り出されるけれども、それら全体を俯瞰すると、そこにはいつもの樋口ワールドがある。樋口氏その人を直接知らない鑑賞者も、彼の作品群を観ていく内に、氏がどういう人間なのかが見えてくるのではないだろうか。つまり、樋口作品は作家自身の感性の断片が形を与えられたものなのだ。樋口氏は作品を通して鑑賞者と対話を試みる別の形での自分自身を作り続けている。


注)文中の作品名は作家による正式名ではなく、私が印象で呼んでいる仮称。