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2021年7月27日火曜日

偶然という物語

    物言わぬひとつの石ころに目が行くことがある。それらがこちらへ話しかけてきたわけでもない。たまたまそこを歩いていて、ふと目を落とした先にその石があっただけの事だ。もし何か急いででもいたら、同じように目を向けたとしても、それが網膜に映ったことなど気付きもしない。人生の時間と移動する空間の広さに、その時の精神状態まで考慮に入れて、その石ころを拾い上げる可能性を割り出したら、それこそ“たまたま”や“偶然”と呼ぶにふさわしい数値が出るに違いない。

   

   もし、あなたが石ころだったらどうか。今まで一度も誰もあなたに目をくべた存在は、それこそ虫一匹でさえ、なかった。それがある日、突然に誰かがあなたに気付き手を伸ばし拾い上げられる。あなたはこう感じるだろう。やった!私は他とは違う。その事が認められたのだと。私という才能の抑えきれぬ光によって、物言わずともこうして選び取られるのだと。


   さて、拾い上げた方も、それを握って重さを確かめたり、土をはらって形や色をよく見て、なるほどこれは面白い石ころを見つけたものだと悦に入るかもしれない。その内に、こんな石はそうそう見つかるものでもない。これは単なる偶然でもなく、いつも何か珍奇な物を見つけてやろうとする心持ちがあったからこそ見出せたのだと、そう思えてくる。


   見つけた、見つけられた。そのどちらにせよ、起きたことを振り返る時、そこに理由という物語が付け加えられる。そうでなければならないのだ。私たちの“意識”にとっては。意識とは物語である。私たちの外世界は感受され意識によって反復可能な内世界として再構築される。私たちが思い出とか記憶と呼ぶものである。外世界の現象は二度と反復されないが、記憶はその再生を可能にしている。それは、撮影した動画の再生とは根本的に異なる。動画は、それが貴重な瞬間を反復していようと、実際には光線の明滅の集積であり、そこに物語は存在しない。それを“貴重な瞬間”という物語にしているのは、それを見た私たちの意識である。


   実際には意識のない(必要のない)石ころには拾われた理由などないが、それは私たちとて同様である。しかし自らの人生が偶然の積み重ねに過ぎないなど受け入れ難い。それは、意識ある人間の否定と等しいからだ。意識ある、もしくは記憶ある人間である以上、世界は物語である。物語である以上、真なる偶然はなく、何らかの事象が繋がりあった理由がそこにある。

   私たちにとっては偶然に見える事象でさえ、偶然という物語に彩られているのである。


2019年2月5日

2018年12月29日土曜日

形と音

 結局形なのか、概念なのか。大切なのは。本質は。そう分けてしまうことが、そもそもの間違いの始まりなのか。なぜ分けてしまうのか。分けずに本質に近づけるのか。言葉なき言葉があるのか。言葉なくして思考はあり得るのか。
 なぜ強いのは言葉より形なのか。それは刻まれるからだ。刻まれたものは物質であり、音声言語より長く保たれる。音声言語は音であって現象である。それは発された瞬間で終わる。だから音声はアラートとして用いられた。音声言語はその瞬間を表す生の伝達だ。色や形は違う。これらは光で伝達する。これは永続性を持つ。物と光があれば継続する。動物の体色を見よ。動物の擬態を見よ。彼らは常に大きな音など発さずともその身体でメッセージを発し続ける。それを継続するためにはただ生きれば良いのだ。
 音と形は違う。犬の唸り声と蜂の警戒色は異なる。犬の唸り声は形にはできぬ。彼らはそれを頭の中で反省することなどあるだろうか。我々の黙考とその結果として発せられる言葉は、犬の唸り声とは異なる。それはすでに書き言葉を読んでいるのである。ならばどうして、どうやって我々は言語を獲得したのか。話し声からか、手で音の意味を刻み込んだからか。我々は概念を確固とするためには、それを外部に刻まなければならない。言語は概念を刻んだ傷である。岩に刻んだ影だ。そうであったなら、私たちの意識や思考は頭だけでなく手が重要である。道具を使ったから意識ができたのではない。意識ができたから道具を使ったのでもない。
 我々が持っていた動物的な音、唸りはどこへ行ったのか。そこには未だ言語は割り当てられていない。怖れや怒りや喜びという言葉は感情の看板であり、そのものではない。笑いもそうだ。ワッハッハと書かれるがこれも犬の唸りをウーっと書くのと同じオノマトペに過ぎず感情を書き記しているのではない。
 未だに手段を持たず、しかしそれに形を与え観察し共有したいという人間という動物的な振舞いが芸術活動であろう。芸術はいたずらに逡巡しているのではない。そもそもどこへ向かえば良いのか今でも分からないのである。先が分からずとも進み続けるのは、生物としての本能、いやそれ以前の本質である。言語体系はあたかも完成しているように見えるがそれとて同じである。ただ、刻み、形を与えることで、分節化し、ちょうどパズルのようにまとめて組み上げることが可能になった。しかし、繰り返すが、私たちの内的世界は全てそのようにまとめ上げられない。言語は言語化できるものだけで成り立っているのである。しかし黙考はどうか。そこは言語と非言語が渦巻いている現場である。言語という型に流される前の坩堝(つるぼ)であり、次々と流し込まれ続けている。芸術家は流される前の溶けた鉄に目を向ける人だ。そして型にないものに流し込んで形を与え、視覚化する。その過程だけで言うなら思考と同じである。思考が言語で行われるように、芸術家は非言語で思考する。それは特別なことではないが、忘れがちな事でもある。芸術の種類にも関係する大事なことは、形が作られるには大きく2通りあるということだ。すなわち、何を作るか考えて作る事と、作りながら考えることである。単に人から物が作られるという過程と行為だけを見ると、両者は似ている。しかし、作られる現象としてみるなら両者は全く異なる。我々の身の回りにある人間の為に作られたほとんどの物は前者である。それが洗練され経済に組み込まれたものが商品である。純粋性の高い芸術作品は後者である。それはほとんど常に、人が初めて目にする物である。しかし同時に、いつか見たような気もするはずだ。もしくは、初めてなのにそれが見たかったと思うだろう。そうでなければ、強い嫌悪かも知れない。いずれにせよ、何らかの言葉にならない思いを喚起させるのである。しかしそれは、言語ではない。感情の看板でもない。もし、多く人に共通の思いを抱かせるのであればそれは言語的であり看板に近づいていると言える。そうなったなら、真の芸術家はそこに興味を失うだろう。革命的であろうとする芸術家は、いつも看板を言語化され固定したものを疑うからである。
 とは言え、芸術家が、特に視覚芸術は、現象を視覚化させて落ち着かせようとする点で文筆家に近い。音楽はどうか。音楽は音という現象を扱うが、しかしそこに音階がある。構造がある。音楽もまた言語から生まれている。音楽は現象を視覚化構造化してものを再び音化させているのだ。つまり最終的な表現様式に至る手前までは、画家も彫刻家も音楽家も同じである。鳥のさえずりと音楽はだから、本質的に異なるものである。
 芸術は、人類が未だ視覚化して固定できていないものをそうしようとする行為である。そういう人類の本能的行為のひとつである。それは人類の表現可能性を広げる事であり、意識、思考を拡大させようとする行為なのだ。つまり、芸術とは原始的どころか人類行為においてもっとも先端的行為なのである。その点において哲学とも近く、また、理論物理学などは同様のパッションに科学的根拠が付随したものであろう。
 音が発せられては消えていく性質である以上、構造なき瞬間的なアラートから脱せない。我々の内なる感情が形なく、唐突に、時に爆発的に沸き起こるのと同じである。犬の吠え、猿の叫び、人の悲鳴、爆笑、そう言う情動的に伴う発声は破裂音、爆発音、大きな軋み音と同じなのだ。それどころか、悲鳴の起源はそういった大きく遠くまで聞こえる自然音であっただろう。もちろん過去の動物たちが意識的にそれを真似たのではない。自然界のなかで進化してしてきた動物は音と物理現象との連関に包まれて来たのだからそれは至って普通のことである。
 そうした、発せられては消えていくものに、いつしか人類は形を与えた。それは純粋で大きな驚きと喜びに満ちた初めての経験だっただろう。形が与えられた概念とは、私たち自身とも、もちろん重なっていく。それは神と呼ばれる対象も、死んでいった祖先も、留まり続けるイメージとして生み出していった。何と言っても、視覚的対象は、それが維持される以上は永続的にメッセージを放つのである。土より木が、木より焼いた土が、焼いた土より石が選ばれていく。それは永続性によって選ばれる。むしろそういう選択を通して、永続性の概念がそこに転写されていったのだろう。そうして石は永遠性を手にしたと言っても良い。


 形なのか、概念なのか。両者は同じであった。私たちはどうしても形を信じる。言語という形を信じる。その永続性を信じる。しかしそこに、構造的永続性の起源たる構造なき瞬間性の再生を見なければならない。
 そして、むしろ考えるべきは、形と音であった。

2016年5月4日水曜日

痛み

 ここ数日、いや数週間体調不良が続いている。そのひとつは腰痛だが、常に疼痛があり姿勢によっては”神経に触れるような”強い痛みがある。腰痛とひとつの単語で済んでしまうが、その痛みは行動を著しく制限させるし精神的にもやる気を大きく削がれる。常に痛みがある日が続くと、それを感じずに生活できる日々のありがたみを実感する。
 しかし、それと同時にある疑問も頭に浮かぶ。「痛みがない」と「痛みがある」はどこで切り替わっているのか。健康なときは日常生活においてこれといった痛みを意識しない。しかし、その時の体は全く問題が起きていないと言えるだろうか。腕やすねに身に覚えのない小さな傷がいつの間にか付いていることがある。同様に、気がつかないけれども何らかの不具合が体内に起きている事は十分に考えられる。それどころか、身体という大きな物体が運動をしながら生命活動を行っているのに、なんらの小問題も起こっていないと考える方が無理があるようにも思う。そう考えると、「痛みがある」か「痛みがない」かは何らかの障害レベルに応じて身体側が切り替えているのだろう。そもそも、痛みは感覚で、それを解剖学的に探し求めても見つけることはできない。それは意識と似てシステム内に現れる形無き現象である。
 痛みは死そのものより恐ろしいとも言われる。尊厳死(自死の選択権)が認められている国では、末期症状で余命が宣言された人が、回復の見込みのない耐え難い痛みからの解放を願ってその権利をしばしば行使するのである。医療においては確かに急性の痛みは”シグナル”として有用であるが慢性的な疼痛はもはや不要で有害なものとされ積極的な除去を試みる。
 現代の私たちは、様々な鎮痛剤や麻酔薬を手にしており、数世代前の人々と比べれば痛みをコントロールできているだろう。しかし、それでも尊厳死という選択が認められるほど痛みから根本的に逃れることはできないのである。

 痛みは、本当に障害と共に作られるのだろうか。外傷などは皮膚内部に備え付けられた障害受容器が刺激されることで起こる、とされる。しかし、その段階ではあくまでも神経が興奮し、その情報が伝達されることである。私たちが痛みを知覚するのは刺激が大脳皮質にまで登ってからのことで、それまでの間に”あの痛み”が作り上げられている。つまり厳密に言うなら痛みは怪我した部位ではなく、対応した大脳皮質の特定領域に表現されているものなのだ(もちろんこれは主観的知覚の全てに言える)。60兆以上の細胞たちの共同体である1人の体が、痛みを感じないときは全く何の問題も起きていないなどと言えるだろうか。例えるなら、この日本(人口2億に満たない)で何一つ問題の起きない日など考えられるだろうか。きっと、何の痛みも感じないような元気な日々でも、実際に体内では無数の問題が生じているに違いない。しかし、それらは痛み知覚として取り上げられていないに過ぎない。何らかの閾値の制御機構があるのかもしれない。体内(脳内)には強力な鎮痛物質が生成されていることが知られている。それらはオピオイドと総称されるが、この存在こそが、実際には体内には痛みが常に渦巻いている可能性を示している。私たちが痛みを感じず、健康だと感じている日々は実は「痛みがない」ことにされているのだ、とも言える。何らかの障害によって「痛みがある」ときこそ、「私」という高度な複合体が外世界で動いて生きる困難さの真実が垣間見えているのかも知れない。

2016年1月2日土曜日

輪廻

 宗教や死生観について考えていたわけではないのだが、ふと思い至ったので記録しておく。

 ピカソの絵は、「幼子の落書きのよう」と「凄い絵」としての高価値とが共存している。そのまか不思議さを納得させるためか、「あんな絵を描いていたけど本当は凄い上手なんだよ」というセリフもよく聞く。10代の頃のアカデミックなデッサンと共に。このセリフは、デフォームしたピカソの絵を全く理解も認めもしないという告白であることを、話している本人が分かっているのかどうかは知らないけれど。
 ピカソが少年期にアカデミックなデッサンを習得していたのは事実だ。そして、デッサンを学んだ人なら分かるように、それは指導者の言うとおりに進めていけば大体誰でも習得できる類のものである。この手の見間違いは言わば、スキーなどテレビで見たことしかない人が、パラレルで滑れるというだけで「上級者だ」と思ってしまうことに近い。ピカソはアカデミックな技術を習得したが、その様式だけに乗っ取ることをやめようとした。それはとても意識的な行為であって、幼子の落書きと同じような意識的手順を踏んで出てきたものではない。実は、この事こそがピカソの”凄い”ところなのだろう。ピカソは幼子のような絵を目指したというより、幼子のように世界をもういちど見たいと欲したのだ。しかし、私たちは成長し様々なことを知ってしまうと、もう知らなかった頃には戻れない。だから、幼子のような「純真無垢」とは何であったか、あらたに探求せざるを得ないのである。無意識を意識で探求するという、この矛盾的な行為の表現的軌跡が、ピカソのモチベーションの1つにあったかも知れない。いずれにしても、そういった試みは成功し、鑑賞者にも受け入れられるものとなった。私たち鑑賞者という「意識的になってしまった大人達」は、そうであっても、再びあの「純真無垢」的な世界を見ることができる可能性をピカソの表現によって知らしめられたのだ。これは単に絵画表現の多様性の発見に留まらず、我々人類の意識の成長をさえ指し示すような、全人類的な発見とさえ言えるのである。つまり、ピカソによる絵画表現の革命は、ピカソ1人によって成し遂げられたのではなく、それを感受し認めることができる我々鑑賞者もあって、始めて成り立ったのだ。
 ひとつの例としてピカソを取り上げたけれども、上記のような事柄は、芸術に限らず、様々な領域で人類誌的に起こってきたのである。そういった「意識の改革」が、我々を現代の状況へと導いてきたとも言える。
 しかし、それが人類的な発見であったとしても、それによって人類の意識改革が一気に起こるはずもない。多くの人に伝わり認められたとしてもなお、私たちは容易にそれ以前の意識状態へと戻ってしまう。ピカソの例のように、それが芸術表現に関してであれば事は穏やかだが、より生活に密着した宗教観と結びつくと、時には考えの違いを乗り越えることができずに力に訴える事になりがちである。誰もが意識では分かっている。我々は「幸せのために、争う」という矛盾を。だから、それを意識的に改善し「幸せのために、争わない」という当然をかなえようとも努力しているのだ。
 理想を目指す意識的な行為と、しかしそれを拒むかのような様々な矛盾たち。しかし理想を目指す行為をやめなければ、何らかの変化は起こるだろう。それが本当に理想の答えに近づいているのかは分からないけれども。この一連の活動は、ぐるぐると輪を描くように始まりからまた同じ場所に立ち帰るように見えながらも、スタートとは違うところへ我々を導いていく。

 この様こそが、輪廻ではないか。ふと、そう感じた。

 輪廻とは、一般的な感覚として生まれ変わることのイメージがあるが、それだけでなくとも、様々な段階での輪廻があるのではないか。意識が理想を目指し修正を繰り返しながらそこへと向かうさまは、短いサイクルで見れば同じ場所を巡っているだけに映る。しかし、より長いスパンでそれを見るなら、上を目指す螺旋を描いているのかも知れない。その螺旋の頂点にあるのが、究極の理想としての解脱である。ただここでの解脱とはイデアのようなもので、決してたどり着く事はない。
 理想への道のりは、真っ直ぐの一本道ではなく、正しいと思っていても簡単に誤ってしまう。それでも、向きを修正し歩みを止めず、再び進む。それの繰り返し。1人の人生でもそれはあり、人類全体もそれをし、生物としても本能がそうしてきた。
 これを輪廻と呼べるなら、それは自己相似的に大小さまざまなスケールにおいて見られる、言わば生命現象のひとつの型なのかもしれない。

2015年12月5日土曜日

知の利用

 哲学書を開くと何らかの共感を得る。そこには、自分がふと思ったり、考え込んだりしたことが整理した形で現れていたりする。さらに、自分では降りることができなかった深みやより広い視点が同時に示されている。つまり、自発的に気付いたものの、ハッキリとはそれを認識できなかった事柄について、予め考えていてくれていたりするわけだ。そういうものに出会うと、人間誰でも考えることは大方同じなのだと再認識する。二千年以上前の異国の人物が現代人と同じような事に思考を巡らせていた事実から、どう考えるだろうか。主に先進国と呼ばれる国に住む人間のあり方は二千年で大きく違っている。その違いを生んでいる最たる理由は科学技術ではないだろうか。逆に言えば、科学技術とそれに立脚した技術的なものを除けば、実は文化的な面でも生活的な面でもそれほど変化はしていないようにも思える。それどころか、私たち自身の身体はたった二千年では、それこそ全く変化などしていない。よく、戦後で日本人の身長が高くなったとか、顎が小さくなったとか言われるけれども、それらは環境の変化に対応した振れ幅に過ぎなくて、言わば発現形の”あそび”の中での違いが見えているだけとも言えるだろう。私たちは、形在る存在である。意識や思考が生み出されるのもこの形からで、形が同じならばそこから出てくる意識思考も大方同じにならざるを得ない。そう考えると、二千年前の異国人と似た考えが浮かぶのもそう不思議なことではない。ただし、私たちの思考も、私たちを取り巻く環境から完全に自由ではあり得ないので、そこに歴史的哲学と現代の私たちの認識との間に違いが紛れ込む。各時代の読者たちは、その部分を自分の生きる「今」と照らし合わせて解釈してきた。その行為は今も、これからも続いていくのだろう。

 さて、上記までは、自分で気付いた人がその確認またはより昇華させるための手順として既存哲学を使用する場合だが、哲学との出会いが全てそうであるはずもない。むしろ、哲学の多くは、自分では未だ気付いていない、考えてもいない、そういう方向を指し示す。良くできた哲学はみな高度に論理的に組み上げられている。私たち読者は、それを辿っていけば著者の言わんとする頂上へとたどり着けるようになっている。そうすると、自分では気付いていなかったことが、あたかも、自分で気付いたかのように錯覚するのである。では、自分で気付いていないのに、他者から与えられた思考体系を得ることを否定できるだろうか。これを一概に否定することは勿論できない。他者の経験を共有することは私たち人類が成功している大きな要因のひとつであろう。もしそれができなかったなら、それは多くの人間以外の動物と変わりがない。この場合の問題は、哲学書にその著者の思考体系の「全てが記録されているのではない」という事実にある。文章や言語は確かに私たちの思考という形無きものを実体に刻みつけ、他者に伝導させるちからを持つが、それは未だに完全ではない。言語が伝えているのは、美術で言えば抽象に過ぎない。だから、私たちは哲学書の内容を、まずは理解しようと肯定的に取りかかる必要があるものの、それを鵜呑みにしているのではいけないのだろう。鵜呑みで満足しているということは、自分で思考していないことを意味する。自分で思考していないというのは、哲学書を利用していることにもならない。それは言わば、赤信号なら止まる、青信号なら進む、と機械的な反応をしているに過ぎないのである。蓄積された哲学を私たちはどう利用するべきか。それらが真に意味を成すのは、それらを利用し、その先へ進もうと指向するときではないだろうか。そこに求められるのは常に能動的な態度である。私たちは常に自ら思考し、そのあやふやな歩みを過去の哲学によって舗装することで、ここから先を目指さなければならない。その時こそ、哲学は人類に有用な「知の道具」となる。
 このことは、何も特別なことではない。過去を知り、それを批判し、再確認していくことで、停滞した蓄積ではなく発展を生み出しているのが科学技術である。これが知に応用できないはずがない。なぜその方法論が文化にはなじまないと決めつけてしまうのだろうか。勿論、構造の違う両者を同列には語れないだろうが、それでも、応用できる方法論は見つけられるのではないだろうか。

 私の関心事の最たるものである芸術の現在も、個人主義が浸透した結果、発展が滞っているように映る。私たち人類は、”人類レベルでの発展”の経験を僅かながらでも知っているはずなのだから、それを応用してみようと試みても良いのではないだろうか。
 ひとりひとりが、芸術の山を登るのに、それぞれの登山道を踏み固めて作ろうと試みている。それも悪くないが、道がないわけでもないのだ。既存の登山道を利用して、上がれるところまで上がってみても良いだろう。そういう道があることを知っている者は知らない者に示すこと、その有効性を示すことが、結果的に全体の底上げに繋がるのだと思う。

2015年2月24日火曜日

死にものぐるいの形

 「しっかり生きろ」や「何となく生きる」などのように、人としての生き方についての文言は多くある。要するに、社会に対してどれだけ関わっているかが、ここで問われている”生きる”の質だ。それとは別に、と言うか、生きるということの本質である”生物学的な生”で言うなら、人はすべからく「本気で生きている」ということになる。私たちの体は、細胞が受精したときから、一時たりとも、生きることに気を抜くと言うことをしない。

 私たちは、気付いたときには「生きていた」から、生きるという現象をことさら不思議に思わないものだ。それが脅かされるような状況、つまり大けがや病気などになって初めて、普通に生きるということの驚異に気付くありさまである。我々が、自分の意思など遠く及ばない領域において”生きよう”としているのを実感するのは簡単である。息を止めてみればいい。自分の意思で、道具など使わずに息を止めて、それで死ねる人間はいない。

 私たちは、35億年の長きに渡って、一度も途切れることなく継続できた、ほとんど奇跡的な現象の末裔である。それは、”生きよう”とするあまたの生命現象同士の篩いの掛け合いでもあった。地球上に登場してきた生物のほとんどがそこで通過できず、消えていった。だが、私たちは違った。残ったのだ。そこには、さまざまな過酷な状況を突破できた運と、何とかして乗り越えようとする生命現象的な意思とが見事に功を奏した幸運な成功者の姿がある。

 そもそも「生まれた」という事実が、「生きよう」という現象の事実を物語っている。生きようとしない誕生など成り立たない。私たちを構成する60兆の細胞の全てが全身全霊で生きようとしていて、それによって構成された「私」という個体もまた全身全霊で生きようとしているひとつの体系なのだ。
 だから現象としての生には、私たちの意識の入り込む隙間などない。私たちの存在は、何とか生き抜こうとするためにデザインされている。

 「死にたい」なんて言葉をつい言いたくなるときもあるかもしれぬが、そんな言葉は体には関係がない。体が物言えるならこう言うだろう。
 「そう思わなくたって、いずれそうなるさ」
 多細胞生物としての個体死は必要だから用意されたものだ。私たちが35億年にわたり途絶えなかった成功の秘訣の1つが個体死の適応である。変わりゆく世界において変化に柔軟に、かつ常に刷新された形であるためには、そこに個の交代が必須である。だから、私たちの生には元から死もセットで組まれている。むしろ意味なく死なないことは害悪でしかない。それは、あたかも増殖を続けることで個体死をもたらす癌細胞を思い出させる。私たちの体は死ぬときを知っている。生きる意味が無くなったと判断されれば、速やかに生の継続を止める。
 
 とにかく、私たちは皆、死にものぐるいで生きているのだ。自分の手を、鏡に映る顔を見て欲しい。無駄なお飾りでくっつけたような部分が1つでもあるだろうか。「死にものぐるいの生」に形を与えたら、人の形にたどり着いたのである。死にものぐるいの形である。

2015年2月21日土曜日

「私」と「いのち」はどこに? 電脳人格と機械犬

 現在、インターネット上のネットワークを利用した人工知能の開発が進行しているという。その現状のいくつかが先日テレビで紹介されていた。その技術はマーケティング予想などで既に用いられているそうだが、その他に、「ひとの意識」問題にせまる研究も行われている。そのひとつは、既に亡くなっている人を人工知能で「蘇らせる」というもの。生前の画像や動画や日記、手紙など故人と関係する情報を次々と与えていくことで、人工知能が自律的にキャラクターを作り上げていくそうだ。情報が増えることで、その人工知能が返してくる返事はより故人のそれに近づいていく。そうして作り上げられる人工知能としての故人と自分の間に、ふたりの間でしか成立しないような親密な会話が成り立ったとき、人工知能は亡くなる前のその人と同じなのか、別人なのか。しかし、そこにあるのは「声」だけである。
 別の例では、全くの仮想的な人格を生成させる。最終的にはその人工知能に感情が生まれるのかどうか、というところも含めて研究している。これは、出力媒体として、人間に似せた首から上のロボットが作られ、それが質問者に対して語りかける。シリコーンの皮膚を持ったリアルな首だけの肉体が、ぎくしゃくと動いて「機械声」で語りかける光景は80年代のSF映画の様だ。
 マーケティング予想でも有効な回答を出すように、人工知能は非常に的確(であるように思われる)回答をしてくる。仮想的な人格でも成り立つほどの“精度”を持っていると言える。そうでありつつ、我々が知り得るのはいつも回答だけで、それがどのようにして無数の情報ネットワークから引き出されたのかは、提示されないのだという。その意味においても、私たち自身の意識と似ているように思われる。私たちは意識や感情は”実感”しても、それがどのように自発的に生み出されているのかは分からない。
 今この瞬間にも、人工知能は膨大なネットワークを組み込んで、自らの知を膨らませ続けている。そこにやがて自発的な感情が生まれるのだろうか。それとも、それは既にあるのかも知れない。

 人工知能が「情報」というソフトウェアであるなら、人工的な「身体」つまりハードウェアの研究もまた日々伸び続けている印象を受ける。すなわち、ロボットだ。10年ほど前にホンダが発表した人型ロボットは世界中に驚きを与え、我々一般人も日本の隠された産業技術力に驚きまた期待したものだったが、どうもそれ以降は飛躍的進歩は控えているように感じられる。その一方で、ここ数年、主にインターネットでコンスタントに話題に上るのがアメリカのボストン・ダイナミクス社が開発する4つ脚のロボットだ。頭部を欠いた胴体と脚だけの構成で、けたたましい動作音と共に、力強く動き回る。どうやら軍事使用が念頭にあるらしく、悪路でも自律的にバランスをとって歩行できることが何よりの「売り」らしい。やはり、自分で立つということが、機械が我々動物の仲間入りが出来るかどうかの第一関門ということか。
同社が配信した最新動画が最近ニュースで取り上げられた。そこで登場する4つ脚ロボット「Spot」が姿勢を保持しながら歩く姿は素晴らしく、また動画の中では姿勢保持技術の紹介として”伝統の”足蹴りが行われる。立っているSpotの脇腹あたりを横から思い切り男性が蹴りつける。するとSpotは、横に振られるがすかさず脚を踏み込み素早くバランスを取り直すのである。さて、ニュースで話題となったのはこのシーンだが、そこで取り上げられたのはロボットの姿勢安定技術ではなく、「ロボットを蹴るのが残酷だ」という視聴者の感想のほうだった。ロボットとは言え、足蹴にされる姿を見るのは心が痛む、他に表現方法はなかったのか、といった感想が多く挙げられたそうだ。同社がこれまで発表した4つ脚ロボットはこれまで、「LS3」、「Bigdog」、「Wildcat」と言った呼称が付けられていたが、今回は「Spot」である。これはペットの犬を想起させる。Spotの体もいままでのロボットより細く小さく、動きもスムーズで、より動物らしく見える。動画を見るひとには、犬のSpot(日本人ならポチやハチ)が思い切り足蹴にされているように感じてしまったのだ。動画をみたひとはこれが命なき機械だと当然分かっているはずである。Spotは蹴られたところで痛みも感じないし、”飼い主に裏切られた”と思う心もない。内蔵された高度なセンサーが駆動系と連動して見事なバランス保持を成し遂げたに過ぎない。そんなことは分かっている。しかし、脇に立つ男性に渾身の力で蹴られ、ふらつきながらも姿勢を正し、静かに佇もうとするSpotを見ると、多くの人が(いや潜在的にはほとんど皆が)心のざわつきを感じてしまうのである。この時、私たちの心には、ロボット犬Spotが自分たちと同じ生き物として映っている。心なく命なき機械に生命を見ているのである。

 はじめに挙げた人工知能と、”ロボットを蹴らないで”というニュースは、『私たちにとって「生ある対象」という存在が、いったいどこに存在しているのか』という疑問に、ある示唆を与えてくれる。つまり、「命はどこにあるのか」という疑問だ。命は生物が持っているに決まっていると言われる。学校でもそう習った。では、学校で習った生物と非生物の違いで分けるならば、ここで出てきた人工知能の故人もロボット犬Spotも非生物ということで片付いて、取り立てて問題にも上がらないのではないだろうか。これらが私たちの興味関心を引くのは、まさにそのジレンマに感覚がくすぐられるのである。”物質なき人工知能”に生命が宿っているはずがない。そう断言できるはずなのに、そこには確かに”あの人”を感じ取ることも出来る。Spotも然り。そこには確かに生命を感じる。その感覚、感情をごまかすことはできない。では、機械たちの生命はどこにあるのだろうか。それは、私たちの内にあるとしか言いようがない。私たちの脳は、機械にせよコンピューターにせよ、その「振る舞い」のなかに生命を見るのである。そのように進化してきた。この「振る舞い」はとても広い範囲に及ぶ。それは突然の嵐に”怒り”を見たり、転がっている石ころに神という存在を見ることも含んでいる。人類が神の姿に人間や生き物の姿を見て、それを表現してきたように、「振る舞い」に見る生命感覚は、私たち自身に近づくほど強くなるようだ。だから、自然物そのままのカタチからやがて人の姿となり、それはポーズを付けるように変化していく。
 だから、本来は生命感覚と生命現象とは分ける必要がある。生来的に私たちが持っているのは生命感覚である。これは物質である私たち自身が長い進化の間に動くようになり、そこから生命と非生命とを選別するために必須の感覚として獲得したものであろう。実際、敵を岩と勘違いするより、岩を敵と勘違いする方が、同じ間違いでも我が身を助ける。この生命感覚に対して、生命現象はあくまで科学の視点において見出されたひとつの概念に過ぎないと言える。私たちが生物の授業などで聞く、生物の定義うんぬんの話もここに属する。ちなみに現在の生物学においては生物の最小単位を細胞に置く。その見方ではだから、人間個人はおよそ60兆の命の集合体とも見なせる。そのように「個人」は「集合体」へ明確に分けられる存在となり、その概念は身体部位の取り替えも当然と言わせるのである。しかし、生命現象の定義のあいまいさを見れば、意識による後付けの強引さを感じもする。例えば身近なウィルスは生物か非生物か明確に言えない。
 
 人工知能やロボット犬の例を待たなくとも、同様の感覚は日常的に味わっている。愛着のある物が捨てられなかったり、人形を壊すことに対する不快感などもそうだ。それらは私たちにとって、単なる命無き物質ではなく、確かに私たち同様に感覚ある存在として感じられるのである。この共感を持つがゆえに芸術という行為がうまれたといって良いだろう。
 このことはまた、私やあなたといった個人の存在の所在にもスポットを当てる。誰でも確固たる自分の存在を感じることができる。この自意識があなたを規定し、それが他者や社会においても同様であると信じる。私たちは自意識をそのまま外部に対しても適応する癖があるから、自分の思う自分がそのまま他人にとってもそうであろうと思い込むのだ。しかし、これも実は違うという事実の断片を、例えば写真に映った自分や録音された自分の声への違和感からも知ることができるだろう。それに、他者に依る自分の印象を聞いて、「私の事を分かってないな」と感じたこともあるだろう。しかしそれは、こちら(つまり主観的な私)から見た一方的な視点に過ぎない。結局の所、自分の信じる自分とは、自意識の中にしかおらず、他者の中には他者が見たあなたがいることになる。他者が認識するあなたとは、あなたが人工知能に見る人格と、存在の重さにおいて差違がないのである。私たちはいつも表象をながめ、そこに自らの意識が自らに向ける生命感や自意識を投影することで理解しようとする。だからあなたが思うあなた自身と、世界が見るあなたの間にはかならず違いがある。「私」とは、各々が自意識で感じる隔絶的な存在なのかもしれない。あなたの信じるあなた自身とはあなたの中にしか存在していないかもしれない。つまり隣人が知っているあなたと、あなた自身の知っているあなたは別人であるとも言えるのだ。

 人工知能やロボットに命ある存在や人格を投影するのは、私たちの本能だと言える。その指向は日常的に他者に向けられている。私たちは皆、他者の存在やその振る舞いから自己の中にその人を作り上げ、それと向き合っているのだ。同様に、私たち自身も、自意識が示す自分とは異なる自分が外世界に作り出され生きているのである。

 私が小学生の頃に、仲良くしていた同級生がある日こんなことを言った。「知ってる。人形には命があって、生きているんだ。」私はそのことの意味を感覚において十分に同意できたにもかかわらず、”知識として間違っている”として、彼の意見を否定した。普通は感じていても言葉にしない曖昧な感覚を、彼は家族との会話か何かで聞いて始めて意識化し、その不思議さを仲間に開帳して見せたのだろう。当時の私は、言葉として「人形が生きている」と認めることはできなかったし、友人が違う価値観を示してきたことに対して否定的な感情を抱いたのだ。しかし、今ならこれが生命感覚と生命現象という、「いのち」を基点としつつも向いている方向が全く違うものをごちゃまぜに捉えてしまった私に非があることが分かる。「人形には命があって、生きている」ことを私たちは昔から知っていたし、それは人体をモチーフとした芸術を人類が作り続けていることが証明している。何より、それを否定すれば、この世界で生きているのは自意識で感じることができる私ひとりということになり、更に、その私は他者から見れば生きていないというおかしな矛盾に陥るのだから。

 「いのち」の在る場所と「私」の居る場所を巡るさまざまな見方は、結局はいつも同じ場所にありながら、その見え方だけが時代ごとに変わっていく。人工知能は意識を持つのか? ロボットの犬ならば蹴り飛ばしても構わないのか? これらは現代的な形で、生命や意識の、そしてあなた自身の所在を私たちに問いかけている。