2026年4月13日月曜日

AIとハサミは使いよう

 AIは道具である。当然だ。つまり、車やカメラやペンなどと同じである。ただ、AI以外の道具は、それをどう使うのかは全て使う側の人間に委ねられている。AIはそうではない。いや、そうではないように“見える”。わざわざここで書かなくてもいいことだが、歴史上、このように書けるのは現在だけなので書いておく。すなわちそれは、人類は生成AIという道具を手にしたばかりの状態であって、世界中のどこにも、この道具の可能性もしくは影響を真に理解している者はいない。ただ、誰もが感じていることは、この道具は、人類がこれまで手にしてきた道具とは質が異なり、それが使いこなせる者は集団から秀でた者となり得るだろうという予感である。想像だが、人類にとってこれまで、そのような道具はいくつかあった。まず、石器である。そして火の取り扱いである。これらが人類をその他の動物と隔てることを促した道具であることは明らかである。だが、より現在のAIに近い発明は、言語であろう。ただこれは身体そのものを用いているので発明というより特徴というべきものか。ともあれ言語は、発話と記述に分けられるが、初め登場したのは発話であろう。言語によって、我々は世界を区切ることの表出に成功し、それを共有可能な対象物とすることに成功した。現在であっても言語の高度な使い手はすなわち高い知性を持つことと同意であり、言語能力は力の象徴でもある。言語と思考は密接であり、発生の順序は、同一であると私は言いたいけれど、因果論的には、思考がまずあると言われるのであろうか。これはまあ、卵が先か鶏が先かというのと変わらない。ともあれ、両者が歯車として周りだせば、あとは互いに影響しあい、どこまでも事象を細かく、深く、切り分け構築していける。生成AIは、どちらかと言えば、この2つの歯車のうちの思考を担う。このような道具は、つまり身体の外部化としての道具は、これまでなかった。現在の人類が生物史上初めて手にするものである。


さて、道具というのは、使い主の身体能力を超える能力を与える物である。そうでなければ、道具存在の意味がない。一言で言えば“効率が上がる”。人類が手にしている道具は全てそうである。生成AIもそれは同じである。すなわち、思考の効率が上がる。自分だけの思考より、はるかに上回った思考結果を出すことができる。果たしてそれは、自分の思考と言えるのであろうか。だが、このような疑問が出るときは、既存の道具でもそれを問い直してみる必要がある。つまり、定規を使って引いた直線は自分で引いた線だと言えるのか、というものや、ノミやチェーンソーを使って作った木彫作品は自分で作ったと言えるのだろうか、というものだ。人間は道具無しの姿、すなわち裸体ではほとんど機械的に無力である。四季を乗り越えることもできないだろう。つまり、“人間”という存在は、裸体の個体を言うのではない。様々な道具(それは衣服から社会インフラまで全て)と切り離せず、さらにそれらを言語的思考で認識しまとめ上げる意識も含めてのものだ。これをもっと過激に言うなら、人は存在するが人間は存在しないとさえ言えよう。今言ったように、人間は区切られず、人の間にある現象なのであるから。


話を戻すと、生成AIとて、このように見れば、決して真新しい道具ではないことがわかる。ただし、鉛筆の持ち方やカメラの使い方というものより、“意識”の構築反映の結果としての出力に近しいため、使い手側が、その結果を身体的自己能力由来なのか付加的自己能力由来なのか、分からなくなるのである。例えば、絵を描いたことのない人は自分がどれくらいの画力があるか見当も付かない。そこで砂場で指でなぞって描いてみれば、それが自分の画力ということになる。彼に紙と鉛筆を渡してみれば、シャープな線の新しい絵が描かれる。顔を描いていたとして、今度は線が細いから、細部まで描こうとする。そうして砂場の絵とは異なるものができる。これが今や彼の画力である。次に筆と絵の具を渡したらどうだろうか‥。このように、自己能力は道具によって付加的に変化する。絵の具で楽しく色まで付けていた彼から、道具を返してもらって、再び砂場に戻したらどうか。初めとは違う絵にはなるだろうが、鉛筆と絵の具と紙がある時と同じ能力は出しようがない。同じことは、料理でも言える。何もない平原で素手で料理せよとなったら、普段食べている物を作ろうとは思えないだろう。このように、自己能力は身体的なものと、道具ありきの付加的なものがあるのが我々人間である。なお、現代アスリートは身体だけだから身体的自己能力なのかというと、道具によって鍛えているので、やはりそうではない。


AIは、その出力結果が、自分の考えたものではない可能性があるにも関わらず、自分が命令したことで、あたかも自分が考えたのだと思い込めてしまうところに、危険性がある。例えば、紙を切ろうと思っているとして、いつもそれを指でちぎり切っていたとしよう。そこにハサミを手にすると、切ろうと思ったところをこれまでになく素早くかつ綺麗に切れる。これを一回でも体験してしまったら、2度と紙を手でちぎり切ろうとは思わなくなるだろう。こうして、もうハサミ無しでは紙は切れない、ということになる。ところが、これは切る効率化を、速さと綺麗さという価値観に集約させたということであって、切る行為のその他の可能性がハサミの登場によってかき消された(覆い隠された)ということにも気付かなければならない。ここでのハサミの例えは行為が単純だから実質的問題は大きくないが、これが言語意識というものになると、潜在的な可能性は膨大であろう。その膨大な可能性が、AIという切れるハサミによって、“早く綺麗に”成されるため、受け取る側つまりユーザーは、もうそれ以外の答えなど必要ないのではないかと信じてしまうのである。こうして、人類が紙を切るときハサミを欲するように、物事を考えるときAIを欲するようなることは、実は潜在的な膨大な可能性をみすみす捨てているということになる。ハサミで切った紙の切れ線が世界どこでも同じように、AIで出される思考の答えは、全世界的に同じものへと収束するだろう。それは、今ここで生きる固有の1人の思考と言えるだろうか。今再び考えるべき古いことわざに、「ナントカとハサミは使いよう」がある。次のようにバージョンアップしよう。

「AIとハサミは使いよう」。

2026/04/11(土)

2025年8月29日金曜日

見えない月を見る

 感覚器は細部と結びついている。感覚器は自らの周囲の細部、些細なこと、を見つけるためにある。いや、ためと言うより、それらと結びついていると言いたい。

微細な生き物、単細胞生物などでは、それだけで反応している。それでも絶滅しない。

なぜなら、感覚器が拾う、周囲の細部的事象は、実際はそれと地続きの全体の末端であるから。つまり、全体を捉えずとも、細部だけでも問題はない。

ただ、それは、全体に身を完全に委ねているようなものである。文字通り、完全に委ねるというのは生物ではなく、物であり、生物世界で言えばそれは死である。だから、単細胞であっても、生物である以上は、感覚器によって最小レベルで、全体から抗っているとも言えよう。


ともあれ、その発展形として我々はある。依然として、身体は細部だけを拾っていることに注意せよ。感覚器は身近のことしか知らぬ。遠隔受容器である目、鼻、耳などは少々異なる。だが、注意すべきはこれらであっても、本当に遠くを感受しているのではない、という事は気付くべきである。耳は、鼓膜の震えを拾っているだけで、震わせているのは鼓膜と接触している空気のみであり音源ではない。食べ物の匂いも、そこから出た化学物質が触れただけで、その食べ物そのものではない。目も同じである。月を見て、「月という遠方物を見た」と思っているがそうではない。目が捉えているのは、月に反射してやってきた光子のうち、網膜に当たったものだけを感受しているに過ぎない。これは初め理解しづらいだろう。月が見えているのだから。だがなぜ、私はそれを「月だ」とわかるのか?こう問い直せば分かるであろう。「月を見ている」というのは、すでに感覚の後の高度な判断の末の答えなのである。その意味において、他の感覚器と同じである。

つまり、世界を感受するという、環境との関係性において、我々は単細胞生物と基本的に変わらぬ。何が異なるのかは、すでに述べてあることだが、その感覚を素材として、何らかの高度な判断をするという点である。上の例を再度上げれば、網膜に当たった光子の刺激を元にして「月だ」と思えるということだ。単細胞生物にも月明かりは当たるが、彼らはそれを月明かりとは思わない。


我々は、感覚器からやってくる不断の細部情報を積み上げて、自らのうちに確固たる全体を編み出したのである。これを作り上げているのが、他ならぬ、脳である。

感覚器からやってくる細部だけであれば、脊髄だけで事足りることは、脊髄反射の言葉からも分かる。

それら、細部情報のうちで、常にある規則性を持ってやってくるものに対して、順応するように、そこにある不動の対象を生み出した。それがここで言う全体である。

ここでも月で例えよう。網膜に当たる光学情報には、常に激しく変化するものからほとんど変化しないものがある。この違いを感受するには、光線方向を明確に捉えるレンズが必要である。だから、目が要る。目の獲得は、雑に変わる光とそうではない光を分けた。動物が動くと、身体の近接受容器や筋受容器が拾う情報と、目が拾う情報が組み合わされる。そうして、動いても変わらない光と、激しく変わる光に、距離が与えらえる。こうして、月は(遠方の山々も)自分から遠くにあるものとして扱われるのである。

このような光の変化の感受には、だから、自らの動きが必須で、それが動物だけに目がある理由であろう。動かないのであれば、おおまかな光の有無と方向だけで事足りる。外世界という全体は要らないのである。


このような、感覚器からの不断の細部情報の獲得と、自らの運動とが重なり合って、脳内で全体が作り上げられた。全体は動物が生きる上で必須の要素である。この全体を我々人は世界とか宇宙とか空間と呼んでいる。これらは脳内で作られたものであるから、言い換えれば、実在の有無とは厳密に関係がない。いや、この言い方は危険だ。厳密に実在していると信じ切ることができなければ動物として生きていけないほどのものであるから、その意味においては実在しているのだが、ここで私が述べ立てている段においては、実在していないと言おう。ともかく、動物はこうして、自らの内に、世界を作り上げたのである。これがどれだけ重要か実感している者は少ないだろう。動物がなぜ空間内を自由に動けるのか。我々は世界があることを知っているからである。知っている、というのは、それを口に出して説明できるという意味ではない。自らが動けるだけの場が自らの周囲には存在していると“信じきれている”という意味である。

私はなぜ動けるのか。自らの周囲に空間がある、部屋がある、野原がある、と信じきれているからである。信じ切れる理由は、自らの感覚器が不断に与える情報が元となって作られている、空間感である。

見回してみれば良い。自分の周囲に空間があり、さまざまな物が自分からどれほどの距離にあり、それが置いてあるのか動いているのか、はたまた、自分が動いているのか、それこそ全身感覚として分かる。それは常に安定している。その安定が自らの運動の基礎となっている。

世界が安定していなければ、我々はそこに自らを定位できない。


さて、ここで考えを先に進める。ここまで述べた全体と細部は、主に物質感や空間感と、それに基づいた反射としての自己存在、それも物質的存在と関連づいていた。

この事について考えたい。自己存在、物質的存在である。

感覚器が細部を拾い、そこから全体が作られ、世界が作られた。そう、“作られた”のである。作り上げたものは、我々の内において作られたのである。それを今では“概念“とまとめて呼ぶ。空間や存在とはつまり、概念である。概念とは本来存在していないのであるから、さまざまに作り変えることができる。それこそ、何にでもして良い。本来なかったのであるから。

この事が、私たちの抽象観念の説明であり、ほとんどすべてに当てはめる事ができる説明でもある。

イデアであろうが、神であろうが、どのような宇宙論であろうが、何でもそうである。つまるところ、こちらが作っている物語なのだから、「うまく語れているか否か」の問題に過ぎない。

この感覚は、私たちの意識と不断に結びついているのは間違いのないことである。自らの思考を見渡してみよ。先ず、この言い回しがすでに、概念と空間性とを同一視していることを証明している。自らの内を「見渡せ」と、あたかも景色のように言っているのであるから。さあ、見渡してみよう。形のないはずの思考を、まるで存在し、掴み取ることができるように扱っていることに気付くであろう。思考は、目に見る事ができない。それは感覚器を刺激していないからである。それは我々の脳内においてのみ感じられるのに過ぎない。だが、この内なる感覚は、かつては感覚器の不断の情報から紡がれた脳内における外世界の”概念構造“をそのまま利用しているのである。それゆえに、我々の思考は形を持つのである。いや、そのように感じられるのである。この感覚を、逆向的に外部へ取り出す行為が、人間の工作行為である。もちろん、芸術行為もこの内に入る。

だから芸術作品は、脳内の概念に形が与えられたものである。よく言われている事である。だが、それを、我々は具象と抽象とに分けてきたがこれが本質的には無意味であることが今や分かっただろう。どちらも根本的には同質である。具象抽象の言い分けは、単にそれが、感覚器が拾ってくる情報に近いのかそうでないのか、とも言い換えられる。どちらにしても脳内で再合成されていることに違いはない。


今や、哲学や科学は、自らの感覚器に基づいて作っている世界に自分が生きていることを忘れ(厳密に言えば忘れていてよい、知らなくて当然、そのように進化したのだから)、世界が本当に外にあって、自らとは別物だと思い切ろうと努力している。その傾向が顕著なのはもちろん科学である。科学の主観・客観問題はしばしば議論される(主に哲学・科学哲学領域であろう)が、科学的な真実の探究には人間の不要性を追い求めているようにすら見える事がある。だが、ここまで述べてきたことからも分かるであろうが、我々が思うところの世界、宇宙は、あくまでも”我々が思うところの“が前提であって、それを外すことはできない。我々自身の存在、この肉体が、その宇宙を生み出した張本人なのであるから。これは、どこまで行っても抜け出ることはできない。我々である以上、我々の限界は越えられない。

別な言い方をしよう。どのような科学であれ、分析しているのは、実際のところは”自分自身“である。

例えば、量子力学のパウリが心理学のユングと親しかったことなどは、この流れで見てみれば全くもって意外な話でもないのだ。


8月23日(土)

2024年2月24日土曜日

告知:「皮膚と骨 -グラデーションに沈むモノコト-」

 皮膚と骨 -グラデーションに沈むモノコト-

Skin and Bone  -About things that sink into a gradation-
2024.2.28 (wed) - 3.2 (sat) 3.6 (wed) - 3.9 (sat)
13:00-18:00 open

リンク先はこちら

イベント|3.2 (sat) 13:00~  氣分喫茶   17:00~  バー BAR
井の頭BIANCARAの焼菓子とパン、彫刻家の家のフムス、ヨロッコビール、ワイン、紅茶、コーヒー、など


新井浩太 | Kota ARAI
シャーマン フライシャー|Sherman FLEISCHER
金 埻 | Jun KIM
保井智貴|Tomotaka YASUI
阿久津裕彦|Hirohiko AKUTSU

 町という「空間」に内包するモノコトは、自然や社会の影響とその場に住む人々の感性によって変化し、同時に暮らしや風景も変化していきます。しかし、その多くのモノコトは、わかりやすく目の前にあるモノコトだけとは限りません。 彫刻家の家では、「空間」から新た視点と感覚を発見する機会として、「まちにある家という彫刻」の3回目となる「皮膚と骨」を開催します。 
 身体の内と外の境界である「皮膚」、重力と均衡し身体を支える「骨」。家で例えるなら「皮膚」は屋根、壁、床。「骨」は柱や梁でしょうか。 身体の内側では、多くの器官が機能ごとに分類し境界が定められ、それらが身体全体を構成、相関することで生命を維持しています。そして、その身体は、体と心を整え、安定した日々を確保するため、家という機能と動線が設計された空間の中で、生きるための活動を行っています。 身体の外側はどうでしょう。時代を遡れば、遺伝子を受継ぐ生命は、外側の混沌とする世界(空間)の多くのモノコトの作用によって、永い時を経て、生と死を繰り返し、変化と順応の中で身体として残存してきました。つまり体を操る私たちの精神すらも、身体または家の外側(内という外も含め)で関わり続けた、自然、社会、文化、哲学、歴史、科学、宗教などから、生きることや生活することへの価値が問われてきたとも言えます。そして、その問いに答えようと、人類は内側と外側の多くのモノコトを客観的に捉え分析し、情報と経験を蓄積しようと試みてきました。 しかし、もし考えもしないモノコトが、身体と精神を創造し、支えていたとしたらどうでしょう。そもそも精神とは本当に身体の内側に存在するのでしょうか。ひょっとしたら私たちの知らない遠い何処かに存在しているかもしれません。
  新井浩太の体から型取った型に、 鹿の革を押し付けた欠片によって構成された彫刻は、 本人であると同時に別の生命が存在していた証でもあります。虚と実、生と死が交差する世界(空間)から実態とは何かを探ります。シャーマン フライシャー の写真は、現代社会にて置き去りにされたモノコトの痕跡を納めるように、文化や風土を越えた生命の記憶を辿っています。金 埻の線と点の集積は、別次元の空間と彼の精神がコミットした際に描かれます。ミクロとマクロが混在する画面から彼が体現した世界を覗きます。保井智貴 の彫刻のための服は、人と空間の媒介となる家に続いて、世界(空間)にあるモノコトの交わりと同時に乖離について検証しています。阿久津裕彦 の彫刻という概念と行為の延長線にある美術解剖学は、単なる物質的な美しさを探求するものではなく、ある空間の中で精神の行方を探っているかのようです。 身体の「皮膚と骨」を起点に、彼等の精神と身体を支え、境界を越えた世界(空間)に潜在するモノコトから新たな感覚を見つけます。 
*彫刻家の家にて実施している「まちにある家という彫刻」は、香川県高松市にある築50年ほどの家を改装し、彫刻に見立てることで、町の空気の移り変わりを展覧会や作品としてアーカイブしていくプロジェクトです。

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以上、フライヤー転載。

私はテキスト参加で、まるでゴーストのように実体なく概念だけで会場とその周囲に漂っている。











2024年1月9日火曜日

なぜ寝顔は美しいか

もちろん全ての寝顔がそうであるわけではないが、見慣れている人の寝顔には魅力を感じることはある。


大人にとっての他者の寝顔は、恋人であったり配偶者であったりと、最も身近な他者として存在する。

その他者が、最大限にその身を許し預けている証が寝顔である。それを見ているということはすなわち、私は孤独ではないということを示していると言える。その、一人ではないという喜びがポジティブな感情を生み出していることはあるだろう。


当たり前だが、寝顔は覚醒時にはできない。寝ている時だけの顔である。反対に、覚醒時の顔それも他者に向けられたそれは、何らかの感情を外へ向けて放っている。“表情”と言うように、顔は感情の表舞台である。動物界においてはヒトはその機能を最も発展させた種類である。つまり、覚醒時の顔は、そのほとんどを他者のために機能させているのだと言える。戸外へ出て目に入る”起きているひと“の顔はすなわち、その人自身ではなく他者のための顔だ。それが解放されたのが寝顔である。だから、寝顔は社会から関係を絶って、肉体存在としての自分自身に帰った表情である。


寝顔は顔が弛んでいるように見えるが、もちろん実際はそうではない。顔面の皮下に埋もれた表情筋を構成する骨格筋細胞たちは、顔面神経からの命令がほとんどやってこない就寝時は、言わば休憩時間であって、各々がゆったりと微細な収縮をランダムに繰り返している。ちょうど公の場所で大勢の人々が静かに独り言でもつぶやいているような様子だ。そのようにして、いつでも神経からの命令に瞬時に答えられる準備は整えているとも言えよう。

このように、表情は表さないけれども、完全弛緩したのでもないのが寝顔であって、死んだ顔とは全く異なる。死に顔は、まさしく「死に顔」とわざわざ言葉があるように、死人だけのものである。死体の表情筋は当然ながら完全弛緩している。筋細胞も死んでいるのだから。


ところで、表情は顔面の皮膚で表されるから、ここの筋肉を表情筋と言うのだけれども、実際の表情はこの表情筋だけで作られるのではない。表情には目線が重要だが、目の向きや上まぶたは別の筋であり支配する神経も異なる。また表情に顎を開けたりもするが、この顎の開閉も表情筋ではなく、むしろ表情筋よりずっと古い系統の筋肉と支配神経によって制御される。忘れがちなのは口の中にある舌だが、これも表情を作る役者の一人である。舌を見せる表情はもちろんだが、舌を見せずとも、口中における舌の位置は顎の輪郭に大きな影響を与えていることは、鏡の前で顎を閉じて舌を口中で色々と動かしてみれば、直ぐに分かるだろう。この舌の運動は、舌それ自体の形を変えることと、舌の位置を変えることの2つの運動に分けることができるが、脳神経から頚神経にいたるいくつもの神経によって制御されており、それがこの骨格筋のかたまりを自由自在に動かすことを可能にしている。

また、忘れてはいけないのは、皮膚の浅層である真皮層にある平滑筋であって、これらも普段は常に緊張状態にあり、顔面の毛髪の角度制御や皮脂および汗の分泌を助けている。

もっと言うなら、「上目づかい」や「見くだす」と言う表情を表す言葉から分かるように、頭部の空間的な位置と角度も、表情には重要である。同じような体格の者同士なら、顎を上げたり下げたりすることでこれらを実行している。頭部を動かすのは頚部つまり首だが、うなじにある最大の首の筋は、実際のところは、首と言うよりむしろ背中や肩の筋と言えるほど強大である。

このように、顔の表情と一言で言ってしまうが、実際にそれを可能にするには、頭部から肩そして胸部まで至る広い範囲であり、そこに関わる筋の種類や数も多い。


死に顔ではこれらの筋が死んで弛緩するため、生きている時は決してしない表情となる。死に顔は唯一無二である。映画やドラマの死に顔はあまりに生き生きして見えるがこれは仕方がないのだ。死ぬとこれら筋肉が作る緊張が全て解けるため、まもなく顔のしわも伸びる。血流もないので水分が供給されず、組織はただ浸透圧で保てる水分を保持するだけとなる。血球も落ちていくので皮膚の赤みが減り皮膚組織そのものの色になるため、アジア人は黄色味が強くなる。「頬を赤らめる」というように、皮膚の血色も表情には関与している。


寝顔は、弛緩した顔というより社会から解き放たれた顔である。社会性の動物とも言える人は、そこから解き放たれた自分、つまり寝ている自分は、自らの安全が保証されるごく限られた人にしか見せない。

寝顔に美しさを感じるならそれは、その形態そのものというよりむしろ、その親密な精神的関係性を喜んでいるのかもしれない。

2023年9月15日金曜日

構造しか言わないのなら

 構造しか言わないのなら

それを彫刻と言うのだろうか

彫刻は

構造によって

詩を紡ぐ

構造はいつも背後にある