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2018年7月29日日曜日

ミケランジェロと解剖学

   28日(土)は関東地方へ大型台風が近づく中、新宿の朝日カルチャセンターで「解剖学的に観るミケランジェロの人体表現」と題した講義を行った。天候が荒れる可能性があるにも関わらず、多くの方が聴講に来て下さった。同じ興味を抱く者として、芸術に対するその情熱を嬉しく感じる。
   この講座は、上野の西洋美術館で開催中のミケランジェロ展を意識している。ミケランジェロの人体造形には、人体解剖の知識が存分に活かされている。神の如きの半分は解剖学が担っている。それほどに大きな要素であるにも関わらず、この展覧会ではそこに触れていない。サブタイトルに「理想の身体」とあるように、彼が生きたルネサンス期の最たる、そして理解しやすい特徴である、古代との表現の連続性(およそ1000年の隔絶があるにせよ)に焦点を当てている。それゆえ講義では、彼の芸術がある側面において古代を凌駕することを可能にした、この当時最新の科学(的手法)である解剖学との関係性に焦点を当てた。


 ルネサンスの解剖学は、現代よりも自由だった。皮膚を剥ぎ取った内側に現れる構造は隠されていたもう1つの大自然の組み立てである。それをどのように見て、捉えて、認識するのか。芸術家が執刀するとき、それは芸術家に委ねられた。結局はそこなのだ。ミケランジェロもレオナルドも、そしてヴェサリウスも解剖をした。それぞれが見た内部構造は、それぞれ異なっていたのである。医学は体系化することで知識の均一化を志す。しかし芸術は違う。均一化した芸術は現代ではあり得ない。つまり、本質的な意味での、美術解剖学というのは成り立ち得ないのだ。解剖学も結局は、人体という自然の見方であり、その見方の革新性こそを重んじる芸術では、それぞれが開拓することが求められる内容なのだ。ミケランジェロが解剖から何を得たのかはレオナルドのような手縞がないので具体的ではないが、彼の作品を見れば重要な点はほぼ伝わる。ミケランジェロ的解剖学は彼によって、彼だけのために構築されたのである。もし、ミケランジェロ的解剖学たるものが、彼の後にまとめ上げられたならどうなるだろうか。それは彼以降おとずれた人体の捉え方の潮流であるマニエリスムを見れば大体は想像できる。つまりは、そう上手くいくとは思えない。体系としての「美術解剖学」が存在しないのは、そういう根本的性質に起因しているのだ。

 解剖学と芸術家との関係性において、重要な事実はこういうことだ。すなわち、解剖学がミケランジェロの芸術を引き上げたのではなく、彼の芸術性が解剖学を最大限に活かしたのである。

   

2018年7月9日月曜日

美術における人体構造学


   最近では、人体の内部のつくりについての学問を「解剖学」の呼称にまとめることをせず、「人体構造学」と呼ぶことも多くなった。とは言え、一般的な認知度では相変わらず「解剖学」呼称の独り勝ちであることは、書店に並ぶ本のタイトルを見ればわかる。ではなぜ、大学の講座名や講義名では「解剖学」と呼ばなくなってきているのか。それはこの単語が持つ本来の意味と、行われている実質的内容との距離が開いてきたからであろう。解剖学は読んで字の如し、人体を切ってばらしながら探求するという意味合いがある。解剖学を行うには解剖実習室と解剖道具そして何より死体が要る。しかしながら、現代では人体についての探求は、必ずしもメスとピンセットで切り開かなければ分からないものばかりではない。放射線や磁力、超音波を用いることで切り開くことなく体内を見ることが可能であり、しかもそれらを立体的に見たり、触れる素材として出力することももはや特別ではない。これらのように、人体を刃物で解剖せずに、人体のつくりについて学び研究するのであれば、血なまぐさい印象を纏う「解剖学」の文字は使わずに「構造学」を用いる方が内容に即していると言える。ただ、構造学という響きには、人間という生物が持つ柔らかな分からなさをも払拭して、どこか機械的で冷たい趣きがある。命ある人間も、その構成へと分解されるとそこには生命現象のまとまりは見えなくなり、物理化学的な現象の連なりがひたすらに連続しているばかりであるような。もちろんそれが間違っているわけではない。我々人間にとって対象の意識的理解とは理解の解像度を上げること、言い換えればピントが合っていることであり、そのためには対象に近づかなければならない。そして狭窄した視野の両隣りとの関係性を明確に捉えなければならない。「近づき、解像度を上げる」事に情熱を向けるのは、私たちが情報の多くを視覚から得ている事と関係しているだろう。
   しかし、細分化されたものはその階層での関係性で成り立っていて、それがそのままより大きな階層との関係性に連続していくとは限らない、いわゆる創発的性質がある。これが、理解を助けると同時に全体性を分断させる。それは仕方ないことではある。自分の日常と宇宙の進行の連続性を統合的に感じながら生活するのはなかなか難しい。さっきこぼしたコーヒーと白鳥座のブラックホールが関連していると考えるようなものだ。そうは言っても、自分の存在以上に目を向けるよりは、ずっと意識しやすいはずだ。自分という限定された物質内での出来事だと考えるなら。
   個人の階層から始めるなら、器官系、器官、組織、細胞、細胞内小器官、分子と階層を降りていく。私たちがものを食べて、それが吸収され、やがて自分の一部として役立つ過程は、この階層性の一往復に相当することが分かるだろう。階層性は層を跨ぐのだから、高さの概念である。もう一つ、同じ層にあっても横の概念がある。例えば器官系のひとつ循環器系ならば、その名称の元である循環現象を生み出す心臓を「親」に見立てることができよう。その拍動がなければこの器官系の存在意義がないのだから。そうして一方通行の血流が起こることで順序が作られる。心臓から出るのは動脈で帰るのは静脈という大原則の元、肺循環(機能血管系)と体循環(栄養血管系)という2つの循環が生み出される。これら同じ階層内にある機能的な横の連なりの概念を分かりやすく「親子関係」と呼びたい。親子関係の世代の異なりが階層の概念と結びつきやすいかもしれないがそうではない。これは影響力の主従関係のことで、子は常に親に従う関係性を持っている。循環器系の例で見れば、動静脈の区分けなどは親である心臓の配下にある子だと言える。これは別の器官系例えば運動器系でももちろん言えることで、この系の仕事が主に機械的であることから、より分かりやすい。腕で例えれば、指の動きは掌の動きに従い、掌は前腕に従い、前腕は上腕に従う。つまりここでの最上位の親は上腕となる。これは、3DCGのモーション付け(リギング)では以前からある概念で、これを適用したIK(インバース・キネマティックス:逆運動学)はアニメーターの作業を感覚的かつ迅速なものにしている。
   ここまで示してきた階層性や親子関係は、理解の仕方つまり情報の分類整列だと言える。人体で行われている生命現象は全てが関連した壮大なエコロジーとも言い得るものなので、他と関連しない局所的視点の知識だけでは、トリビアとして楽しいが、あまり意味をなさない。これを知る過程とそのための組み立てを体系と言う。つまり、知り方の順序である。現代では、知識だけならばインターネット上に十分転がっているだろう。しかし、そこには体系がない。その様は、情報の広大な草原のようだ。どこへ向かっても何か見つけられる。しかし、それが最善の道かは分からない。ネットによる情報の獲得が用意になってもなお、教育機関が存在し、そこへ人が移動して教え学ぶのには訳がある。そこには道があるはずだからだ。

   美術系学校で人体構造を教えているが、その全てにおいて、絶対的な時間不足が生じている。時間が短いと何が起こるかと言うと、体系が失われるのだ。それは3時間の映画を3分で語るのに似ている。それは重要箇所を点として提示するだけになる。確かに、「上腕二頭筋は上腕筋の上に乗っている」と聞けば一つ知識が増えた気になる。しかし、これが造形の現場でどれだけ役立つだろう。短ければ短いなりの伝え方があるかもしれない。確かに体系的理解には膨大な構造知識も密接である。ただ、医学体系で組み上げられた現代の体系に縛られなければ道はあるかもしれない。


   解剖学を芸術に応用した最初期の例として挙げられるレオナルド・ダ・ヴィンチの解剖図とメモを見ると、その斬新さに驚かされる。実際、それらのいくつかはずっと後世にならなければ認められなかった。その先見性の理由のひとつとして、レオナルドが既存の知識体系を知らなかったからではないかとも言われる。それに加えて、レオナルドが経験を師とし、自分を信じたこともある。彼の手稿には、医学体系に縛られない人体構造の捉え方が示されているのだとも言えるだろう。16世紀以降、人体構造は紛れもなく医学によって推し進められ、知の敷石が順序立てて並べられてきた。それと同じくして平行的に進んできた芸術における人体表現とその参考的知識体系としての美術解剖学は、いつしか、発展した医学と関連してその敷石の上を歩むようになったように見える。
   500年を経たいま、改めてその序章を見直すことで、芸術に立脚した人体構造の見方への根源的な指針が見つけられるかもしれない。そこから、従来とは異なる、もう一つの隣り合った人体構造学が始まらないとも限らない。そうなれば、やがてそれはとなるだろう。

2018年2月5日月曜日

名作のポーズを男性モデルに取らせて

 カルチャーセンターで先週末、男性モデルに名作と同じポーズを取ってもらう試み。
 今回は、ミケランジェロ『反抗する奴隷』と『システィーナ礼拝堂天井画のアダム』、ロダン『アダム』、ダ・ヴィンチ『聖ヒエロニムス』、古代ローマ『ラオコーン』、パルテノン神殿ペディメント彫像『河の神』。バリエーションとして、立ち、座り、寝ポーズをそれぞれ2つずつという設定。

 『反抗する奴隷』は、体幹部つまり骨盤と胸郭の間での捻れがとても強いことが改めて分かる。彫像と同じ姿勢を生きたモデルで継続的に静止していることはできない。また、深く曲げた右脚の膝頭は左脚側へと向けられているが、このようにするとバランスが崩れて静止できない。安定させるには右膝頭は右側へと振り出さざるを得ない。それにしても、強い捻れに支配されているこの像は、骨盤正面から見ると身体の右側が上下に直線的に裁ち落とされていることが分かる。恐らく原石がそこまでしか無かったのだろう。つまり、この像は右膝頭を生きたモデルのように右側へと振り出すような姿勢には物理的にも不可能だったと考えられる。しかしもちろん、それが可能だったとしてもこの芸術家はそのポーズは選ばなかっただろう。像の身体を貫く捻れの動勢が乱れるからである。ところで、この像の肩から頭部までの動勢と造形は、ブルータス胸像とそっくりな事に今まで気付かなかった。

Adam ロダン『アダム』は、システィーナ礼拝堂天井画のアダムへのオマージュであることはその姿勢からも明らかだ。身体の全てが強い緊張と捻れで支配されており、生きたモデルでは厳しいだろうと思っていたが、ポーズ後にモデルに聞くと「私も厳しいと思ったが、意外と辛くなかった」との事。今回は拘れなかったが、像では足の指まで力がみなぎっている。左足の指などは全て強く曲げられ、『考える人』のそれを思い出させる。アダムの曲げられた右膝が左へと向けられているのは『反抗する奴隷』を彷彿とさせる。





 『聖ヒエロニムス』は、状態の良くない未完成画で、ヒエロニムスの体幹は影であることも重なって形態が明確では無い。左肩から地面へと続く布の襞が、光が当たったように白く、それが右脚と連動することで一見するとしゃがむように腰掛けているように見える。だが、目を凝らすと、尻の下に左足があることが分かる。つまり、彼は腰掛けているのでは無く、左膝を地面についているのだ。ヒエロニムスの頭部から、伸ばされた右腕の付け根辺りの描写は細部まで見える。そこで目立つのは、頚部から上腕の中部までの描写である。頚部には縦に走る広頚筋の襞が浮かび、口角を横に広げた表情と破綻無く連動している。また、鎖骨から上腕へピンと張った筋の束が浮き立っていて、これは大胸筋の鎖骨部である。モデルにポーズを取ってもらうと、静止した状態ではこの絵のように大胸筋鎖骨部は浮き立たなかった。そこで、この姿勢のまま、私が出した手を前へと押してもらうと、これが浮き立った。この筋束は、腕を前方へ振り出すような運動の際に強く働く。つまり、この絵の人物は右腕を強く振り出す運動をしている最中、もしくはその直前である。彼の手は何かを握っているので、それと関係しているのだろうか。そう思うと、ヒエロニムスの体は全体的に絵の右側へ傾いている。身体がその方向への運動を示唆しているのかもしれない。このポーズは一見楽に見えるが、横に伸ばした右肩の負担は相当なもので、モデルは頻繁に右腕を下に降ろして休ませなければならなかった。

 『ラオコーン』は、座って上体を反らしているだけではなく、胸郭は強く右へ旋回している。それでも、像ほどに胸部がせり出したようにはならなかった。像の胸郭左側面には小さな起伏が幾つも見える。それは縦に3列で、最も後列が前鋸筋で、残り2列は外腹斜筋とその深層の肋骨の起伏が重なったものである。とはいえ、その位置描写は誇張があって人体構造的に正確ではない。例えば、前鋸筋の肋骨付着位置は後ろ側に過ぎる。同様の違和感は膝にもあり、手足の描写も若干観点的である。一方で、肩に浮き立つ橈側皮静脈や脚に見える大伏在静脈などは確かにそのように見える位置にある。この像は、観念と写実表現が入り交じっている。像と同じように胸郭を右回旋しつつ反らせたまま固定し続けることは難しかった。像は左下から右上へと強い動勢が表されているがこれは静止ポーズではできない。像の男性は激しい動きの只中にある。

 システィーナ礼拝堂天井画の『アダム』は、寝ポーズのひとつとして取り上げたが、斜面に横たわっているので、モデルポーズの際にはビーチチェアーを用いた。折り曲げた左脚の膝と、そのすぐ上に来る左腕の位置関係は実際には不可能である。このフレスコ画の腹部は二次元的な歪みを持って曲げられており、構造的に見ようとすると不安を覚える描写である。ここが実際のモデルの姿勢とどれほど異なるのかが興味深いところであったが、実際には、全く異なるというものではなかった。ただ、自然にこの姿勢を取ってもらうと、画中の男性ほど胴体が横に曲がらない。意識して胸郭を左へ曲げてもらうと絵のような強い側方弯曲になった。伸ばした左腕は、膝との位置関係を合わせようとすると、画中のようなわずかな上向きにはならず、ほぼ水平位になる。その腕は膝に休ませるような姿勢を取ったが、画中のアダムはそうではないので、左腕と左膝との間には奥行き方向のずれがあると考えられる。なお男性器が右大腿部に乗っかっているが、実際にもこのようになった。

 パルテノン神殿彫像の『河の神』は素晴らしい像だが損壊しているので、復元像の姿勢をモデルには取ってもらった。左腕を地面について、頭部も左を向いている。この像はかつては神殿の屋根の下の横に伸びた三角形(ペディメント)の端の角に位置していたので、上下に窮屈な姿勢である。不思議なもので、復元姿勢よりトルソと化している現状の方がより彫刻的な魅力を増している。システィーナ礼拝堂天井画のアダムと同様に、モデルの自然なポーズではこの像のように胴体が横に曲がらない。あえて曲げてもらうと、右の肋骨弓の外側部が側腹部に食い込むようになり、そこの肉は溜まって深い溝が2条現れた。大理石像では、そのような溝は表されていない。正面性の強いポーズに見えるが、足側から見ても、十分空間的な豊かさを保持していた。ギリシア彫刻には、この胸郭に見られるように、「曲がるところ」と「歪むところ」が明確に区分されている。この時代は人体の解剖の記録が無いというが、その身体の捉え方は、現在とほとんど同様である。それはこの時代が先進的だったとも言えるし、芸術から分かる身体の捉え方は既にこの時代の見方で十分に満たされているのだとも言えるだろう。


 筋肉質の男性モデルでは、皮下の運動器の起伏を直接的に外見から追うことができる。それにしても、皮膚に覆われた内側で躍動する構造を、冷静に捉え、正確に破綻を来さないようにするだけでなく、芸術的な調和に中に再構築するところまで高めた古代ギリシアの表現には感嘆を新たにする。まったく、現代においては、そこに至る道筋を想像することも難しいほどだ。ただ1つ言えることは、知識と技術だけでは決してそこへたどり着かないと言うことである。それらが素晴らしい二頭の馬とするなら、それらを操る巧みな御者こそが必要なのだ。

2014年4月7日月曜日

見る業、作る業

目を開けた瞬間から、対象が視界に「飛び込んでくる」。その視覚的な見え方は、透視図法という技法を通して再現が可能だ。透視図法に繋がる技法に、レンズを用いて光線を屈折させて紙に投影させるものがある(カメラと同原理)。より単純には、単に小さな孔を開ける方法もあるが、いずれにせよ、普段自分の目で見ているのと同じ光景が、壁なり紙なりの上にあるというのは、純粋な驚きをもたらす。いわゆる「映像」に慣れきっている現代の私たちでも、映画や立体映像など視覚的な刺激には心を躍らせるものだ。自分の目で見える世界がレンズや孔を通した投影像と同じだという事実は、視覚は受動的であるという感覚を補強する。
 しかし、視覚が受動的ではないことが現在では知られている。外光がレンズで屈折して投影されるという光学的現象は、目の水晶体(レンズ)で屈折し眼球の後ろの内壁の網膜に結像するまでの話だ。その壁には無数の視細胞があり、各自が光線のスペクトルと光量に応じて興奮反応を示す。そして、光線を細胞が受け取ったこの時点から、網膜に映った映像は分解され必要とされる情報へと変質される。その後は脳へ運ばれ更に要素へ分けられていく。私たちが意識としてイメージする主観的映像は、それら分解された情報を必要に応じて再合成したものと言える。つまり、視覚は受動ではなく能動的行為なのだ。だからこそ、同じ光景を前にしても、最終的な心象風景として何が見えているのかはそれぞれが違うのだ。
 
 心に思い浮かぶ心象風景を描出した景観画には作家の個性に基づく表現がなされる。それらは時に共感を呼ぶが、時に拒絶もされる。より多くの鑑賞者に受け入れられるには、どうすればよいだろうか。その手段として有効な物のひとつが様式化だ。様式化は言わば世界の記号化であり、全ての表し方を統一してしまう。数千年に渡った古代エジプト文明の人物表現様式や、中世のビザンティン様式などを見ても様式化がどれだけ強力であるかが分かる。そこに光学的な事実を取り込んだのが透視図法だ。透視図法は計測に基づくという点で、それまでの様式化とは違う。そこに表される世界は、私たちの視覚認識系を通る前に規定された世界だ。目で言うなら、網膜に光線が当たるところまでの世界、視覚の能動性の前段階である。そこに個人的心象や文化的規定が入り込む隙はない。これは、表現の拡散におけるブレークスルーだった。時代や文化が異なっても、光学的現象に変化はないからだ。透視図法に基づく景観画はその意味で時代と国を超える力を持つことになる。また、透視図法は観測と描画とが同時に結びついているという特徴がある。つまり、その方法に従って線を引くと、そこに自ずから景観が描かれる。洗練された透視図法は自動的であり、没個性的な技法とも言える。

平面芸術の空間表現において透視図法は大きな力を発揮するが、芸術のもうひとつの主題である人体表現には透視図法は適さない。人体は遠近の効果をもたらすほど大きくもなく、直行する直線的要素も持たないからだ。年齢や性別などでも形態が大きく変わる。それでも、多くの人が持つ人体の恒久的印象があるはずとの信念から、理想的比率を持つ人体像が模索されてきた。言葉として知られているのは古代ギリシアのポリュクレイトスの「キャノン」であり、図像として知られているのはレオナルド・ダ・ヴィンチの「ウィトルウィウス的人体」がある。これらは共に、外見から体部の計測に基づいている。しかしこれらは、強い説得力の半面、不信にも晒されてもいたはずだ。なぜなら、人体は動きによって姿勢が変わるごとに体表の各部位は変形して比率は変化してしまうので、不動の建築物や彫刻でもなければ固まった計測事実は恒久的有効性を持たないからだ。事実イタリア・ルネサンスにおいても、ミケランジェロら芸術家が何らかの外部計測に基づくキャノンに従うことはなかった。では、一挙動ごとに変形する人体を捉えるにあたって、拠り所となるものはあるだろうか。そこで選ばれたのが、硬く変形せず運動を捉えやすいもの、すなわち骨格である。それは変形しがちな人体をその内側から支え、曲がる箇所は関節に限定されている。
アルベルティ
絵画論を著した
「人体においてまず意識すべきは骨格である。骨格の位置と姿勢を決めれば、後は然るべき部位に筋肉を割り振り、最後に皮膚で全てを覆えば良い。」(アルベルティ)
 そのために、芸術家は裸体をただ外から観察するのではいけなくなった。今や骨格と筋肉の立体的位置関係と形状とを知らなければならない。そうして解剖学的構造という内なる事実から組み立てられる人物像は、透視図法ほどでないにせよ、一定の恒久性を持ち得た。なにより、捕らえどころのない人体という自然物の形状の成り立ちを明確に示してくれることは、芸術家の人体描写の下支えとして大いに役だった。ただ、解剖学的な事実を知ることが直接的に描写に反映はしないという点が透視図法と大きく異なる。解剖学に基づく人体構造の認識(つまり美術解剖学)は、「人体の見方論」に過ぎない。人体の形や皮膚に現れる起伏の理由を知ることが視覚の能動性に影響を与え、見えなかったものが見えるようになる。見えるようになった対象を再現するには手業の訓練が別途必要なのだが、その事実は忘れられがちに思う。

2014年4月6日日曜日

「知」と「業」

 先日の講座の終了後に、受講された方のひとりが人物デッサンを見て欲しいと来られたので、幾つかのアドバイスをした。ある段階までの完成度があるからこそ、「ここをこうすればより良くなるのに」というポイントが浮かび上がって見える。他人の作品から、修正すべき点を見つけるのは容易である。これだけ容易に形の狂いを見いだせるのなら、自分で制作したらさぞ良い作品が作れるのではないかと私自身ふと思うこともある。
 ところが、実際は全くそうはいかない。自分でデッサンをしたり、粘土で造形すると、思い通りの形状が現れてくれないのだ。理解していることと、それを表現することとの間には思う以上の断絶が存在している。その断絶を狭める、もしくは埋めていく作業こそが日々のデッサンの繰り返しなどの「手業」の鍛錬なのだろう。言語による知識は、芸術家にとっては、あまりに集約抽出され過ぎている。例えば、「サイコロの形」と聞けばだれでもそれを頭に思い浮かべられる。では、それを描いて下さいと言われて、どれだけの人が破綻なく描写できるだろうか。

 造形家は知識をかたちへ還元しなければならず、そこには、言語を遙かに超える情報が必要とされている。そういえば、レオナルド・ダ・ヴィンチも、その事実に言及していた。造形家は、「業」と「知」が要求され、その両者を表現において結びつけられなければならない。「知」なき「業」は手癖に陥りやすい。「業」なき「知」ならば理論家に任せておけばよい。

 私は、人体の構造的な「知」は自らの内にある程度ため込んでいるが、「業」の鍛錬を長くないがしろにしてきた。形が見えれば見えるほど、芸術を見ることは楽しくなり、身の回りからも美しいものを見いだせるようになっている。それと共に、それらを形にしたいという欲求が自らの内で大きくなっているのも感じる。「業」をもういちど鍛えなければいけない。

2010年3月25日木曜日

対象の見方 芸術の方法論

彫刻は形状を扱う芸術であり、それに関わる彫刻家は必然的に形状に敏感になる。しかし、その敏感の矛先がどちらを向くのかで、同じ対象であっても捉え方は変わってくる。だから、同じリンゴをモチーフとして見ても、作家によって出来てくる作品は違う物になる。その一方で、ある程度の「見方の方法論」というものもある。リンゴなら球に還元してみるとか、そういう類のもので、技術論である。短期間で効率的に技能を習得させたい美術予備校やカルチャースクールなどで好まれる。と言うより”教える”となると、そういうことを言うしかない。
自身の経験から見て、それらは時に表面的である。と言うのは、リンゴを球に見立てたり、人間を面で大まかに分割した紙人形のように見立てて捉え直すという手法は、純粋にその対象の表面しか考えておらず、その形状がなぜ(つまり必然的に)その形状を成しているのかというところまでは決して降りて行こうとしていないからだ。
興味深いことに、これらの対象の捉え方は、3次元CGの世界でも有効的に用いられている。3DCGの世界の住人は、言わば点の集まりで出来ていて(私たちが細胞という点の集まりであるように)、彼らを包括しているコンピューターは、彼らがどこにいるのかをその点全ての位置情報から割り出している。言ってみれば、私たちの細胞全てがGPSを持って常に人工衛星と通信しているようなものだ。点一つづつに計算処理時間が掛かるわけだから、点が多い(つまり、絵が細かい)と、その処理量は膨大なものになる。そういった技術的な理由もあって、3DCGの世界の住人は基本的に”皮しかない”。 もっと言えば、彼らの正面を見ている時は、実はその背中さえないのである。 目に見えない皮膚の内側や背中などあっても無駄なのだから。更に、遠方にいて点のようにしか見えない時、彼らは実際に”点になっている”。遠ざかるにつれ、体を構成する点の数を減らして行く(面が粗くなる)のである。
CGの世界では、計算処理を軽くするという、効率化のために対象の表面しか考えないのである。ここでは、見えないものは実際に無くなるのだ。
美術予備校で教わる、対象の単純化という技法も同じことだ。実際、それらのやり方は効果的で、闇雲に眺めていたのでは見つけられない構造の規則性などを見つけることも出来る。
リンゴでも、球に還元したり、面で分けたり、立方体に押し込んだり、色や光沢で分けたりと、様々に単純化して見直すことが出来る。しかしながら、ふと疑問に思うのは、それらが全て表面性しか追っていないということだ。まるでCGのように。

芸術の目的は技術の向上ではない。しかしながら、技術がなければ表現の質も下がる。そういう理由から、初歩段階である予備校などではまず技術を習得させることになる。事実、美大の受験で見るのも技術力である。だから、そこに合格するのは単に技術力があるに過ぎず、芸術家に必須の感性云々は実は全く問われていない。”芸術”大学の矛盾をここに見る。それでも、日本では「写真のように描く=絵が上手=芸術的才能がある」というセオリーが根強いので、全体が無難に回っている。
上記したような、対象を表面でしか見ないで満足してしまう癖も、そういう背景があるからなのかもしれない。

想像して欲しいのだが、もし、リンゴを生まれて初めて見てそれを描くのと、味も重さも切った感じも、木になるということも知っているリンゴを描くのとで、同じリンゴが描かれるだろうか?
私たちは、コンピューターのようにメモリーを節約しなければリンゴや人体を描けないほど貧弱な脳を持っているのではない。入力から出力までの経路もPCのように単純ではないのだ。そして、芸術の旨味とは、正にこの単純ではない部分から生み出されるのだろう。
美術を習おうとすると用意される「表面的に捉える技法」の数々。それらは、一見甘い蜜である。それに従えば技術は速やかに向上するのだから。それを否定は出来ない。疑問なのは、”それしかない”ことだ。そうやって形が捉えられればそれで終わりでは、CGと同じであり、その正確さで競うならCGに敵うはずもない。勿論、それが目的であるはずもない。

人を対象とする時、人の形について問う。そのような姿勢もまた必要なのではないだろうか。目の前に見えている物だけを機械的に移すのでなく、その存在理由や、隠されている構造まで思いを巡らすことで、確実に見え方も変化し、出来てくる作品にも影響を与えるだろう。また、それこそが、機械には出来ない、人間的行為なのだから。
そう考えるとき、解剖学や発生学など、一見、芸術と関係の無いように見える領域が、にわかに芸術を向上させうる強力な知的支えとして見えてくる。

日本では、美術解剖学という独立した概念があるが、多くの人にとってそれは、単に骨や筋の位置や名称を指し示してくれる地図のようにしか思われていない。故にアカデミックの象徴のように揶揄され、自由な表現の妨げにさえなるとして敬遠される節もあった。
しかし、解剖学の醍醐味は名称や構造を暗記するというような安易なものでは決して無く、それらの情報が指し示す私たち自身の存在に対する様々な投げかけこそにあるのだ。
そういった、知識による咀嚼は、あたかもリンゴを囓ってみることに似ている。眺めていただけでは決して分からない味わいが、次からそれを眺めるときには思い出されるのである。

かつて、レオナルドが一枚の絵を描くために、なぜ解剖をし、物理の研究をしたのか。単に、分離した興味が並列的にあったというはずがない。そもそも、彼にとって絵は答えではなかったろう。それは、確認に過ぎなかったのではないか。自分と、それを包括している世界の存在という問題に対しての。
だとするなら、それは芸術に対峙する正しい方法論であって、現代の私たちもそれを参考にすることができるはずだ。

2010年2月11日木曜日

ヌード 芸術的人体観の根源

いま、芸術における人体表現の基本は裸と決まっている。それは、現在の芸術の主流である西洋美術の根源がギリシアであることと関係があるのだろう。ギリシア時代は、競技場では全裸で競技や練習をしていたそうで、芸術家は自由にそれを観察していたという。それが、自然な感覚からそうなったのか、何らかの先行する思想や哲学があってのものなのかは知らないのだが、今の感覚ではにわかに信じられないようなエピソードだ。しかし、あれだけの裸体芸術を生み出したのだから、相当綿密に観察と計測が行われていたのは事実だろうし、芸術家たちにとってはうらやましい理想ではある。

人体を正確に描写しようという強い欲求があれば、外見だけの観察ではやがて満足できなくなり、可能ならばその外見が出来る理由をその皮膚の内側に探りたくなるものだ。そして、それが実際に行われたのが16世紀のイタリアであり、美術解剖学の始まりとされる。
一方、人体解剖の古い記録は、パピルスに記されていたエジプトまでさかのぼることが出来る。エジプトと言えばピラミッドとミイラだが、そのミイラもただ死体を乾かすというものではなく、幾つもの手順があったそうで、内蔵や脳も事前に取り除かれていた。そういう技術を持っていたのだから、解剖の知識があったというのも納得がいく。ただ、その知識が造形に反映されていたのかは定かではない。
裸体の芸術が華開いたギリシアのクラッシック期は、フィディアスやポリクレイトスら歴史的彫刻家が活躍し、医学ではヒポクラテスが活躍していた。ヒポクラテスは解剖をしなかったという。しかし、それが当時解剖が全く行われなかったと言う根拠にはならない。16世紀のイタリアで、近代的解剖学の先陣を切ったのは医学者ではなく芸術家のミケランジェロであり、レオナルド・ダ・ヴィンチだったように、ギリシアでも芸術のためにそれが行われていたかもしれない。カノンやコントラポストなど現代まで続く美の基準は、体表の観察のみで生み出されたのだろうか。それから150年ほど後のヘロヒロスは既に綿密な人体解剖をしていたのである。解剖は、単に皮膚を切り裂いて中をのぞくだけでは何も見えては来ず、混沌と混乱が広がるのみだ。そこから意味を見いだすには相当の知識と経験が無ければならないことを考えると、ヘロヒロス以前からそれは行われていた可能性はあるだろう。

ギリシアから古代ローマの後、暗黒期と言われる中世を超えて、16世紀のイタリアでルネサンスが起こった。ここで古代の裸体芸術は再び息を吹き返し、名だたる芸術家によって新しい裸体美が生まれた。しかし、この時代は既にギリシアのように裸は身近ではなくなっていた。その意味では現代に近い。身近でないものを効率よく知るにはどうするのが良いか。知識と情報で補うのである。死体を解剖するという発想の裏には、芸術家のそんな切羽詰まった欲求があったのだろう。

現代の芸術家と裸を取り巻く環境は、大きく見ればこの頃から変わっていない。ただ、現代では裸はもっと遠い存在になっているかもしれない。
先日、友人の彫刻家(彼は日常的にヌードモデルと接していた)と話していて、「他人の裸を丹念に観察するという非日常性」に気付かされた。そう、ほとんどの人は、裸がどういうものか知らないのだ。正確には、裸の人の形を知らない。現代人にとって、他人は常に着衣である。他人にとっての自分もそうだ。裸をさらすという行為は、特殊で閉じられた行為で、もはや、「外世界に対しての体表とは皮膚ではなく、衣服である」とさえ言える。

近代彫刻の父ロダンは、何人もの裸のモデルをアトリエ内で自由にさせて、それをクロッキーしていたという。彼は古代ギリシアの芸術家と同じ環境を自ら作っていたのだ。
裸が遠くなった現代においては、芸術家は美術解剖学で筋肉や骨を知るだけでは足りないだろう。その前に、十分に裸を観察しなければならない。裸を知らぬ美術解剖学の知識は空疎なものだ。

こんな夢想をした。何人ものヌードモデルたちが自由にしている「ヌード・ルーム」もしくは「ヌード・ハウス」が美大内にあって学生や許可を得た作家は自由にそこでデッサンやクロッキーができるのである。ギリシアの芸術家やロダンのように。もしこれが実現したら、日本は世界からその文化レベルを賞賛されるだろう。

2009年5月25日月曜日

人体の比率、プロポーション

スタイルのいい人を見て、あの人はプロポーションが良い、なんて言ったりする。感覚的に使っている言葉だが、実際に見栄えのいい人は各部の比率が良い。それは、絶対的な長さのことではなく、ある部分とある部分を比べたときの長さのことだ。いわゆる「八頭身美人」は、身長がどれだけあるかではなく、身長がその人の頭の長さの何個分かが重要なのだ。
それならば、人体各部を比べて、万人が美しいと感じる比率にたどり着けばそれは揺るがしがたい美の基準値となるではないか、と誰もが考え、実際に歴史的に常に研究されてきたようだ。しかし、10人いれば10通りの好みがあり、時代の好みもありという訳で、プロポーションの絶対値は定義されていない。
それでも、古代ギリシアのクラシック期の大理石像は、人体の美の基準としていいのではないかと思わせる調和を持つ。ここで、注意したいのは、それは彫刻としてのバランスであって、もし、かの像と同等のバランスの生身の人間がいたなら一種異様に映るだろう。美の感覚は繊細だ。
さて、基準を求めて残された幾つかの歴史的な図がある。もっとも有名なのは、レオナルドのウィトルウィウス的人体図で、これは確かに美しい。他にも、デューラーも多くの時間を割いて研究をしたそうだ。近代まで、プロポーションの研究は不断に続けられてきているようだ。

人体を計測するには、基準測定部位を求めなければならない。もし、腕の長さを計ろうとしたとき、どこから計ればいいのか?脚の付け根はどこになるのだろう?人体は立体物で、しかも運動をする。体も柔らかく弾力があるので、計る時に押せば沈んでしまう。比率は主に長さを問題にするが、同じ長さでも細いが太いかでまた見え方は変わるだろう。それが立体の量の見え方となれば、ますます比較要素は増大していく。
そういうわけで、人体のプロポーションは、実質的には、制作に大きな補助となるものではないように思う。要素が多い立体を扱う彫刻家ほど、プロポーションのことを云々言わないのはそういう理由もあるのではないか。

結局、作家個人が自ら発見した比率がその作家のテイストとなった。ミケランジェロもロダンも厳密に計ればおかしな数値だろうが、見る者はそれが気にならない。
多くのモチーフを実際に見て、作って、自分の美の基準を発見するのが、芸術的アプローチというわけだ。

2009年5月23日土曜日

美術解剖学というもの

美術解剖学の書物が多くある。そこには、決まって筋肉人と骨格人の図が描かれているはずだ。気の利いた本ならば、同じポーズの裸体像が隣に描かれていたりして見比べられるようになっている。人体の作りを内面から知りたいを思った読者は、それを見て納得する。なるほど、裸体のこの起伏は、この筋肉が見えていたのかと。そして、やる気を出して、筋の名称を覚えようとする。
そうして彼の知識は以前とは変わった。腕を伸ばす時の筋の名前も言える。ところが、人体を描こうと紙に向かうと、以前と同じように形が分からない。モデルが違うポーズを取っているともう、起伏を追えなくなる。
どうしてそうなるのだろう。解剖学を知れば、人体の形が見えるようになると思って、皮を一枚剥いで見てみた・・・それは、皮を剥いでいないのと同じではないか?それは、裸体に筋肉をボディペイントしているのと同じことだ。それなら、何も筋肉にしなくても、別の分かりやすい名前を付けて理解するようにすればいいのではないか。
実際、解剖学的なアプローチでの観察が行われなかった時代は、体の部位を外からの観察で特徴で分けていたろうと想像できる。その場合、初期ほど写実で、後期になると概念的で形式的になるはずだ。

しかし、今、表現の為に解剖学を欲している人は、その「外見だけで内側を推測する」ことの限界を感じている人のはずで、そこで、皮一枚剥いだ状態の図を見せて「はい、どうぞ」では、色合いを変えただけで同じ場所の堂々巡りなのだ。
人間の形が、どんなものの組み合わせで出来上がってきているのか。そのことが、本当は知りたいはずで、美術解剖学は、それを説明できなければならない。

人間のからだを外見から見て表現することが出来るのが芸術家だが、だからといって、その人が、解剖学的に正確な組み立てを知っている訳ではない。一方、その組み立てを正確に知っているのが解剖学者ということになるが、彼らはそれを表現する術を持たない。ならば、両者が組めば良いではないかという発想は昔からあって、実際歴史的に有名な解剖学書の多くはそうして作られている。この場合は、解剖学者が芸術家を採用したかたちだ。それに比べると、その逆はあまり聞かないように思う。

芸術家にとって解剖学の知識は、大抵の場合作品の品質に良い影響を与える。最たる例が、ミケランジェロやレオナルドだが、彼らと現代の私たちでは、大きくて本質的な違いが横たわっている。それは、「自分の目で観察した」ということだ。彼らは、自ら解剖をしたと伝えられる。大変だったろうし、そこまでするのだからよほどの知識欲があったのだろう。それに対して、私たちは、「解剖図を見て」学ぶ。それは、誰かの知識を介在させたものであって、多くの情報がすでに整理され、何らかの方向付けがされているのだ。その意味で、解剖図を見て、人体の内部を”レオナルドのように”知ったと思うのは間違っている。

とはいえ、人類は、解剖学において人体内部の意味合いを多く発見し記述しており、それらは形を読み解くヒントになるものも多いのは事実だ。ただ解剖図を見るのではなく、それに伴う情報も利用して、形の組み立てを記述できるようになるのが、美術解剖学の正しい道のように思う。