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2017年3月21日火曜日

冨井大裕 個展 「像を結ぶ」を観て

 新宿で、冨井大裕氏の個展を観た。個展会場のギャラリーは、マンションの一室を改築したもので、外からは全く分からず、案内などで開催を知っている人しか訪れることはないであろう場所である。その、決して新しくはないが大きなマンションの鉄扉を開けると、壁面が真っ白な空間に、作品の色彩が際立って見えた。入ってまず正面に四角く面取られた柱状の立体作品がある。それは店でもらえる紙袋を重ねて作られている。両側の壁には、ノートのページが切り取られたものがピンで留めてある。同様の作品が横並びに複数留められていて、さながら絵画やデッサンなどの平面作品のようである。入ったドアのすぐ左にも1点紙袋製の立体作品が置かれている。白い空間内に、このような既製品でそれも使い捨てられるような、一般的には”無価値”に分類する物が、作品という”価値あるもの”として展示されているので、鑑賞者としての私は、一気に自分の感受性のチャネルを切り替えなければならなかった。ただし、その切り替え作業は「無理に」でも「どうにかやっと」行えたというのではなく、むしろ自然に切り替えられたような感覚だ。何かとても自らの日常感覚を研ぎ澄まさせるような気分で、実際に、足元の床に飛び出ていた真鍮製の構造物でさえ、作品にように感じられたほどだ。そうして見ると、この空間はまるで寺院のようであることに気付く。両側の壁のノートページ作品は脇侍で、正面の紙袋作品が本尊といったところだ。この感覚は、その場に足を運ばなければ感覚することはできない。決して個々の作品を画像で見ても伝わらないリアルなものだ。

 ともかく、まず正面の”本尊”を見る。白い台の上に乗せられた大きな紙袋は目一杯広げて、本来の四角形の形を見せている。紙袋が本来の形で現れることが実生活で果たしてあるだろうか。それだけでも面白いけれど、ここではそれが縦に4段に積み重ねてある。下から2段目は横向きで、しかし袋の口はもう1つの袋が逆さに入れてあって、その底面によってふさがれている。最下段と3段目の袋は同じ種類だが互いの口側が向き合うようになっていて、その持ち手が2段目の横向き袋をちょうど挟み込んで支えている。最上段だけは黒い紙袋で、天地が逆に置かれている。この配置によって、紙袋ではあるが、開いている口は一切表面に現れていない。その閉塞性が、内面の虚の空間を隠し、まるで大きな角材であるかのような存在感さえ与えている。
 私の中で、本尊として分類してしまったからか、この作品が人体に見える。いや、そうでなくとも、人類であれば、これを人体として見るのではないだろうか。縦横の比率もちょうどそれっぽく、一番上が黒いのも頭部を彷彿とさせる。それが頭髪をイメージしているというより、体構造で頂点にある頭部は特別な部位として感じ取られるからだろう。縦に4段という構成も、上から頭部、胸腹部、腰部、脚部として分けているように見えもする。それに、紙袋という”同じ要素”を繰り返すことで、全体として成り立つというのも人体を含む脊椎動物の分節構造を思い出させるのである。
 私たちが存在している3次元空間をベクトルで示し、それに面を与えると立方体になる。だから四角形は概念で思い浮かぶ、最も単純かつ強力な3次元形状だと言える。互いの角度が直角であれば視覚的な立体感が最も明解で、それは空間認識の誤りの確立を少なくさせ、その経験は私たち人類に直線や直角を好ませる傾向を作り上げただろう。
 実際、この作品も矩形が持つ形状の力強さを放っている。しかも、紙袋であることから表面にはしわが寄り、辺の線も有機的に歪んでいる。これらが、真っ直ぐや真っ平らではない所に、生命的な乱雑さを感じ取る。また、素材の紙袋を通して、私たち、もしくは作家の日常性という生命活動とも繋がって行く。

 両側の壁にピン留めされている、切り取られたノートページのコラージュ作品に近寄って見る。ノートは、罫線もあれば格子もあるが、どれも垂直水平に付けられていて、立体作品同様に構築性が際立っている。これらの作品は、その四方に一片が1㎝もない小さな紙辺が取り付けてあって、その小片にピンが刺されている。ピンは虫ピンのような細長いもので、長さの遊びがあるので、物によっては壁から数㎜離れたようになっている。私は(この空間にいることで感覚が鋭敏にされているので!)、この壁から離れている事とピン留めの小さな紙辺にも意味を見出していた。「いた。」と過去形なのは、この後、冨井氏に伺ったところそのようには強く意味を込めていないようだったので。
 まず、ピン留めの小紙片だが、近くによると、これらの存在感がとても強い。つまり、明らかに作品のメインであるノートのコラージュが作品としてまとまりを持っているため、”それ以外”としての小紙片が反って際立つのである。それも、日常生活において、もしノートを壁に留めることがあるとするなら当然直接ピン留めするところを、そうしていないという行為の軌跡がそこにあるので、そこに作家の意志が宿るのだ。しかも、小さな紙を曲がらないようにきれいに貼り付けてある。細かい作業を背中を丸めてしている作家の姿が思い浮かんで、ちょっと親しみさえ沸く。後で、作家に聞いたところ、まずは単純に、作品と非作品部分を分けたいという事であった。確かにそれが正解というところだが、この「寺院」においては、もはやそれだけではなく、むしろ、作品と非作品の見えざる結界の現れが表現されていると読み取れる。実際、私はこれらの作品で最も興味深いのはここ、すなわち、「作品—小片—ピン—壁」で、これらによって、作品と非作品が段階的に移行しているのである。
 そして、もう1つ、壁から若干浮いていることについても、それは作家が意図しているのではなく、紙の吸湿や空気の動きで常に動いているということだ。私はここでも深読みして、壁から離れることで、紙イコール平面という既成概念から離れようとしているのだと思った。もし、これらを「壁に留められたノートの紙」と見るならば、ノート本来の”記述する媒体”の意味合いが勝ることで、この立体的存在は希薄になるだろう。しかし、これらは明らかに、「ノートとしての意味合いを持たされていた紙」として扱われ、今や空間内での存在を誇示しているのである。そのために、壁に密着してはならず(なぜならそれは、紙の立体性を弱める)、壁面との間に鋭い影を落とすことで、その裏側と隠されている壁面との狭間の存在を証明する。紙のように薄いことで、私たちの肉眼では側面の存在は捉えられず、そのため前面と影とが唐突に出会うようになり、強いコントラストを生む。そこに、フォンタナの空間概念を持ち出すまでもない。

 これら壁面の作品群のピン留めの小紙片といい、紙袋作品が置かれた白い台といい、全体の作品の置き方の構成といい、決して斬新さはない。むしろ、今時の現代美術作品の展示では見ないような、オーソドックスさである。先に見てきたように、個々の作品の置かれ方とそこに内在する作品に対する作家の態度も、とてもシンプルなものを感じる。むしろ、この”寺院”は現代におけるそれというより、ラスコー洞窟のように始原的な強さをそこに見る。ノートの紙が、人の心を反射する素材になるのである。それと、転がっている石ころが神の小像となることと、どう違うのだろう。現代人とラスコー洞窟の壁画を描いた人類とは、体構造に違いはない。彼らの感動は私たちの感動と変わりがないはずだ。かの時代の作品の素材は、どれも生活に比較的近いものが選ばれていた(もちろんいつもというわけではなく、大変な労力を払って特定の場所の素材が選ばれ、遠路はるばる運ばれることもあった)。一方、現代の芸術家は、「美術用品」を買い求め、「美術様式」にならい、「美術アトリエ」において、「美術品」を作る。現代の美術は、始まりから終わりまで「美術」というレールに乗っている。そして、鑑賞者は「美術館」や「美術書」に載っているものを美術作品として認めるのである。冨井氏の作品は、自分たちが気付かずにレールに乗っていたことに、ふと気付かせる。さらに、ただそれに気付かせるだけ(別に気付かなくともいいのだから)の押しつけではなく、日常生活とアートという非日常の壁などそもそも存在しないことを示し(と、同時にそれはいつでも作られるということも同時に示している)、何より、私たちに身の回りにアートの素材が転がっているという事実を教えてくれている。ただ、それに気付けるかどうかはまた別問題だが。

 冨井氏のバックボーンは彫刻である。だから、この展示に見られる作品の在り方は、彫刻的な要素が強い。それは、上でも述べたように紙袋の四角形であったり、浮いているノートであったりするところだ。しかし、典型的な彫刻が色彩に乏しいのとは対照的に、これらの作品は色彩が豊かである。また、作品を俯瞰してみると分かるが、選ばれている色は偏りがあって、パステルカラーもしくは蛍光色よりの鮮やかで軽い印象の色が多い。作家の好みと言ってしまえばそうなのだろうが、色彩による作家性の統一があり、また、この明るい色によって作品たちに軽やかさが付与されている。時にそれは、彫刻の特徴のひとつである量感を打ち消そうとさえしているかのようだ。軽やかで物質感さえ希薄になっていくこれらの作品は、物から情報へと重要性の重みが偏るばかりの現代によく合っている。
 また、多くの芸術作品との大きな違いは、作家の手による造形度合いの小ささである。ただこれが新しいというのではなく、いわゆる「もの派」的な作品との印象の違いを生み出しているのは、作品が訴えている事のオーソドックスさにある。それは、個々のサイズにも表れている。どれもハンディだ。作家がどのように作品の大きさを決めているのかは分からないが、どれも小さなアトリエや机の上で作れる大きさで、それが現代都会生活者の扱える空間やサイズを表象している。いや、むしろ、これからの作品は冨井氏に限らず、ますます小さくなるかも知れない。それは精神の萎縮を示しているのではなく、サイズ感からの脱却を意味する。かつて、物質優勢の時代にあっては、大きいことが優であり小さいことは劣であった。しかし、情報優勢の現代では、必ずしもそうとは言い切れない。これは情報には物質的サイズが存在しないことと関係しているだろう。情報は、それを映す媒体によって、つまり物質化する段において自由にそれを選ぶことができる。冨井氏の作品にも、それと似たサイズレスの感を受ける。

 良い本を読み終えた後を「読後感が良い」などと言うが、この展示は「観後感が良い」ものだった。その場でなければ感じることのできない一回性の強い展覧会であった。芸術は直接的に感情へ訴える強さが需要である。VR(仮想現実)やAR(拡張現実)が良く言われる現代でも、それは変わらない。現場でしか得られないものがある。芸術は常にその代表格であって、そのことを改めて実感した次第である。

冨井大裕「像を結ぶ」
Motohiro Tomii “Connecting Images”
会期:2017年2月1日(水)- 3月11日(土) 12:00 – 19:00(休:日、月、祝日)
会場:Yumiko Chiba Associates viewing room shinjuku


2016年4月1日金曜日

樋口明宏展「歌会」を観て

 キッチュ。そんな単語がふと思い浮かんだ。樋口明宏氏の作品群を思い返していたときのことだ。これまでいくつもこの作家の作品を観てきたけれど、それがキッチュであると思ったことはなかった。それだけに私の頭の中で、樋口作品全体を包むイメージとしてこの単語が浮かび出たことは私自身の驚きでもある。そして今では、確かに彼の作品の多くがキッチュな物として映ることを認める。それが樋口作品に共通するある種の軽妙さの理由でもある。しかし同時に、それらは実際にはまったくキッチュではないということも事実である。
 ところでこのキッチュという言葉だが、あまり日常的に出てくる単語ではないけれども、何となくその意味するところは分かるという程度の認識だったので、ネットの検索窓にこの単語を入れて確かめた。すると直ぐに『芸術気取りのまがいもの。俗悪なもの』と出た。ちょっと私が思っていたよりも強いニュアンスのようだ。私自身の意味合いとしては、『本来の目的とは違う意味合いを与えられたり、これといった実用性を欠いた見た目重視の置物。グッズ。雑貨』である。
 いずれにせよ大事な点は、樋口作品がファインアート然としていないところだ。お高く止まっていない。それどころか、鑑賞者が時に”にやついて”しまうような分かりやすい味付けが確信犯的に加えられている。しかしこれは、作家としては危険な賭でもある。難解な作品はそもそも観てもらえないことが多いが、分かり易すぎても直ぐに鑑賞者に立ち去られてしまうからだ。出品作の「蒔絵が施されたゴキブリ標本」などはその代表だろう。人々が嫌う対象に、高級で美しい装飾が施されている。対比として非常に分かりやすい。あ、なるほど、と分かった気分になってスッと立ち去ってしまう人も多いだろう。だが実は、樋口氏の作品はその分かりやすい入り口の先に深みへ続く回廊が続いているのである。さらにそこには幾つもの別の扉がある!装飾されたゴキブリは、嫌われるべき存在なのか鑑賞対象なのか。私たちはゴキブリという天然を嫌い、装飾という人工だけを認めるのか。気持ち悪い!と湧き起こる情動は理性的な美で覆い隠せるものなのか。そういった幾つもの隠し扉の先に、仕掛け人である作家の姿が浮かんで見える。彼は作品を通して私たちに問題を提示しているようでありつつ、それらは彼自身が感じた答え無き疑問の素直な開示なのだ。自分自身を見返してみれば、確かに、様々な疑問が浮かんでは消えていくけれども、それらは皆、ごく日常的で身近な事象をきっかけとしている。そんな日常的な心の引っ掛かりが、具体的な形を成して、そこに置かれているのである。
 樋口氏の作品たちがキッチュであるようで、そうではないのは、こういう理由による。それらは時にナンセンスな滑稽さを身に纏っているけれども、作家の複雑な感情の機微がそこには宿っているのだ。そして、それらは鑑賞する私たちによって解凍され再生されることで、私たち自身の心的事象へと転化されるのである。
 
 樋口氏は自らを彫刻家だと言う。一般的に言われるそれは、石や粘土など実材を加工して何らかの形を作る美術家を差す。それに対して樋口氏はこれと言った実材に拘ることはなく、それどころか、今回の展示作品を観れば分かるように、天然の実材というよりも古道具や昆虫や古仏像などが組み合わされたり加工されているので、古典的な彫刻家という呼称が当てはまるのか、ふと疑問に思う。しかし、加工することで本来の有り様とは違う新しい意味合いが与えられるという行為として見れば、それは確かに古典的彫刻家たちの仕事と同一である。いや、切り倒された木材や切り出された石材から彫ることと既に仏像の形をしている物を彫るのでは違うだろうと思われるかもしれない。だが、切り倒された木材から何かを彫り出すにも、彫刻家は常にその実材と対話するように彫るものである。古仏像を彫る時はだから、樋口氏はその仏の形から受ける印象を無視するどころか繊細に感じ取りつつ鑿を当てているに違いない。それはまた、形が持つ力を信じている証しでもある。その意味において、氏は確かに彫刻家であり、それも日本古来的な感性をそこに見る。さらにまた、氏の作品は必ず何らかの加工が施されている。素材に手を加えることで自らの作品とするという手順、行為を守っている点でも古典的な彫刻家であると言えるだろう。

 さて、『歌会』という題目が付けられた本展の作品群は作品制作の方向性が大きく2つに分けられる。すなわち、作家が手を加えることで「既存の意味合いを変化させる」ものと「既存の印象を強調させる」ものだ。
 ただし、古道具に埋もれた腕を掘り出した作品は、それ自体では「本来の意味合いを表出させる」というもうひとつの方向性を指し示すが、これらは腕のない小像と組み合わされてユニットとなる事で「意味合いを変化させる」群にとりこまれる。
 
 意味合いを変化させる行為の作品:
 「石に漆絵」 和歌に触発。
 「明王に桜」
 「なまけものの爪」 ことばの面白さから。
 「石を接着」 偶然性の利用(見立て)
 「月の石」 偶然性の利用(見立て)。和歌に触発。
 「手の道具と小像」 ユニット作品

 印象を強調させる行為の作品:
 「金継ぎの雷神」 偶然性の利用(見立て)
 「昆虫に蒔絵」
 「手の道具」


 繰り返しになるが、樋口作品に特徴的なことは、そこにある作品の素材として用いられた物品もまた本来別の意味役割を持っているという点だ。分かりやすいのは「昆虫に蒔絵」だろう。本展ではゴキブリの標本に金蒔絵が施されている。多くの鑑賞者に取ってその意味合いは明解だろう。忌み嫌われる象徴としてのゴキブリと美しく高貴な金蒔絵の対照。そこからゴキブリに抱く嫌悪感について改めて意識が及ぶのである。しかし、この作品を”正しく”鑑賞するためには鑑賞者はゴキブリが嫌いでなければならず、金蒔絵に価値を見出していなければならない。この意味において同作品は鑑賞者を限定するものだ。同様の質は「なまけものの爪」や「明王に桜」にも言える。このような特性がしかし、今展覧会のタイトルである「歌会」からうかがい知れる。作家の紹介文にもある「本歌取り」とは今風に言えばオマージュのことで、もともと知られた歌の一部を使って新しい歌を作る。その新しい歌を楽しむにはオリジナルの歌も知っていることが前提となる。

 明王像や古道具のように既に意味が与えられている物を材料として別の意味を作り出す行為そのものは、実は新しいことではない。粘土や木材などの原材料から彫像を作り出す古典的な彫刻家もそれら材料に何らかの性質や意味合いを見出すことはしばしばある。「素材と対話する」といった言い方がされる。日本では特に木材を刻んで神仏像を造ってきたことから、木材には単なる材料以上に親近感を抱くものである。

 「接着した石」について、作家は「ひとつでは面白みに欠ける石が複数くっつけることで面白くなる」と言う。世界を構成する原子はそれひとつでは物性を持たないが、複数集まって分子となることで物性を表す。Hと2つのOが水となるように。また、音楽も同様で、音階1つでは音に過ぎないが複数集まることで音楽が生まれる。本展示では、接着した石が数多く床に置かれ、それらが全体として、別の意味を持つ。それは雲海にも似る。水の分子があつまり水滴となり、それが集まって雲となる。雲は水とは違う働きを私たちにもたらすように、この作品も1つの石と観るか、全体として観るかによってその意味合いが変化する。それらは流動的に繋がり一体化している。
 MA2ギャラリーの2階の展示は、床にたくさん置かれた「接着した石」と、窓を背に置かれた「金継ぎの雷神」である。これらの作品は全体として「雲海とその上にいる雷神」として観ることができる。そのように観るとき、雲を支えるギャラリー2階の床はあたかも地上界と天空界の境界面の様だ。こういったインスタレーション展示には、作家の作品だけではなく、それが置かれるギャラリーの部屋もまた作品の重要な要素として際立ってくる。2階の展示空間で鑑賞者は作品の中へと入り込み、作品と自身が混然となる体験をするだろう。その時私たちは雲海の上を浮遊し雷神と出会うのだ。これは言わば仮想空間への没入であり、それは今風に言えばVR空間である。

 樋口氏は彼自身とその作品との距離感がとても近いと言う。それは彼の作品の多くが大きくなく、かつ繊細な作風であることからも分かる。氏の近作の多くが、近くに寄ってじっくり観察することを鑑賞者に求める。作品の大きさ、鑑賞されるべき距離、作品が置かれる場など、作品を取り巻く環境への配慮は、彫刻作品にとっては実は作品そのものと同等に重要な要素である。そうであるにも関わらず、そのことにあまり関心を寄せていない作品は一般的に多い。しかし、それは展示する場所が定まらないという現代の作品の置かれる立場からのフィードバックでもあり、一概に否定できない。なぜなら作品たちは、時には小さな画廊で、時には公共の広いフロアーでと安住の地を得るまで流浪の旅を続けなければならないのだから。とはいえ、彫刻作品とそれを取り囲む空間への関心は未だ十分ではないことも確かではある。
 
 樋口作品は、表現されるバリエーションが広いことが特徴の1つで、毎回、今度は何が出てくるのだろうとワクワクさせる。様々なモチーフで表現が繰り出されるけれども、それら全体を俯瞰すると、そこにはいつもの樋口ワールドがある。樋口氏その人を直接知らない鑑賞者も、彼の作品群を観ていく内に、氏がどういう人間なのかが見えてくるのではないだろうか。つまり、樋口作品は作家自身の感性の断片が形を与えられたものなのだ。樋口氏は作品を通して鑑賞者と対話を試みる別の形での自分自身を作り続けている。


注)文中の作品名は作家による正式名ではなく、私が印象で呼んでいる仮称。

2015年7月18日土曜日

髙畑一彰展を観て


 ギャラリーの前で立ち止まって見ているサラリーマンがいた。ギャラリー前に着くとなるほど理由が分かった。全面ガラス張りのギャラリー内部に3つの彩色された大きな首像がこちらを向いて置かれているのだ。白壁の無機質な空間に、リアルに色付けされた顔がこちらを見ているのだから、つい足を止めてしまうのも分かる。
 より厳密に言うなら、これらは首像というより胸像に近い。つまり、切断位置は頸ではなくもっと下の乳頭の高さほどである。しかし、頸から下はもはや造形されていない。肩幅もなく、単なる”地山”と化している。頸までしか造形していないという意味で、首像と言おう。
 ギャラリー内へ入って近くで見ると、良い。何が良いって、この大きさが良い。全ての像が実物より遙かに大きく、その顔は50センチほどはあったように思う。大きいのだが、見ていてその大きさをうるさく感じるようなことがない。むしろ、この大きさがあることで、細部が自然に目に入り、それが実際の大きさの人物の顔を見ているときのようなリアリティを感じさせる。「実物より少し大きく作る」というシンプルな手順かもしれないが、その効果は大きい。大きさと現実感との関係性は彫刻の大きなテーマでもある。

 3体の首像達は白人である。2体が男性で1体が女性。女性の像だけは、胸部に乳房が丸い2つの玉のように作られているが、それは何かぶっきらぼうな印象の造形で、ちょっとした遊び心で付けられたもののようにも見えた。これらの首像を見ていると不思議な感覚を覚える。彫刻という立体物を見ているのだが、とても絵画的だからだ。そう感じさせる大きな理由は、彩色に依るのだろう。彩色されることで彫刻はその命である”量感”が隠される。私たちの目は色彩を追ってしまい、彫刻で楽しむべき量感は薄らいでしまうのだ。その造形がある一定の(そしてこの作品達のように)リアリティを持っているとき、色彩によって彫刻というより実在の人物を見ているような錯覚を引き起こす。現代において彫刻というと、ブロンズなどで作られて彩色されていないものを想像するが、実際は、歴史的にも多くの彩色彫刻は作られてきた。今回の作品達も、そのたたずまいや色調などは、ルネサンス期に作られた多色彩色のテラコッタ胸像などを思い起こさせる。
 近くによって顔の造形を見ていると、かつて私自身も首像を造っていた頃の感覚がフラッシュバックして、ちょっとそわそわした感覚に陥った。そうだ、頭部の造形で難しいのは頬の形を掴むことだった。むしろ、目や鼻や口は細かい起伏が多いので形が決まりやすい。面積が広い上にこれと言った明確な起伏のない頬は、捕らえどころが無く難しい部位だった。頬の面は、正面から見ても側面から見ても広く見える。だから、彫刻の初学者は、「顔は正面」という強いイメージに引っ張られて頬を正面に向けすぎて、結果扁平な顔の造形に陥るのである。もし、頭部を作ろうとするなら、「頬は側面」と思った方が良い。そんなことを思い出していた。頬の造形は思い出深い。
 ところで、先にこれらの首像に絵画的な印象を受けたと書いたが、その理由のもう一つには、顔面部の造形処理そのものにある。主観的な表現になるが、この大きな顔面を作っている目や鼻や口、そしてその周囲にひろがる凹凸やシワなどの構成要素が、”線的な造形”をしているのだ。線的な造形とはどういうことかと言うと、例えばある溝を造形するとして、それを二つの盛り上がった量の谷間として造形するのが”量的な造形”であって、溝を”溝”としてえぐって作るのが”線的な造形”といったところだ。つまり、これらの首像の表情を構成している諸要素、例えば目は、予め目としてそこに造形された。鼻は鼻であって、口は口なのだ。当たり前のことを言っているように聞こえるだろう。しかし、この見方はとても絵画的なものであって、むしろ彫刻的な見方では、口周囲の量のひしめき合いの結果が口となるようにする。
 他にも、造形を見ると、幾つかの特徴が見て取れる。たとえば、横から見たときに、耳から後頭部までの長さに対して耳から顔面部までの長さが大きい。頭部を支える頚が比較的垂直に立って伸び出ている。頚が胸部と出会う部分の特徴的な胸骨・鎖骨周囲の造形がない、などなど。これら、全体に見られる造形の特徴が指し示すものは何か。それは、作家の顔への執着、それも正面から見た顔である。3つの大きな顔は、そろって顔面をギャラリー外を行き交う人々へ向けていた。真っ直ぐ正面を向いて。
 更に他の作品が2階にもあると貼り紙に書かれている。2階の広くはない展示室には、別の首像が2体と、大きな顔面だけが描かれた素描が壁に掛けられている。首像の一体は長髪の女性像で、長い髪が頚の横を下へ降りて、一番下ではもはや髪の毛だけが地山となったような造形である。もう一体の男性像は、開けられた目には眼球がなく穴がぽっかりと開いている。口も開けていてそこも穴。耳にも外耳孔が開けられている。それらの穴から覗く黒い色はこの首像が空洞であることを見る者に伝えている。まぶたにはまつげが植え込まれていた。生き生きとした顔色に塗られていながら、眼球の収まっていない顔は、異質さが際立っている。壁に掛けられている大きな顔面の素描も異質さを放っている。成人男性の頭部だけが描かれ、まるで空中に顔だけが浮かんでいるようだ。その顔は、「顔」として描かれていた。顔面の構成要素のあり方の特徴は彫刻作品で感じられたものと同様である。

 2階の会場には、作家の高畑氏がいて、作品について少し話しを聞くことができた。
「顔が作りたかった。本当は顔しか興味がない。でも、顔だけという訳には、お面作るわけにはいかないからね。」
 高畑氏のこの言葉は真実だろうし、それは作品からも感じ取ることができる。今までには、全身像も作ったが、それも顔を作る延長で作ったに過ぎないと言う。言うならば、顔を納めるための土台としての体だろうか。

 顔は、人体の中でも一際特殊な領域である。それは、言うまでもなく、私たち人類が、顔を使って互いの意思疎通を図っていることに依る。ヒトという動物へ進化することで、両目は前を向き、顎は短くなって後退し、結果的に私たちの顔は平坦になった。顔に面ができたのである。だから我々は、コミュニケーション時には互いに”向き合い”、正面の顔を見せ合う。しかし、顔”面”と言っても実際にはそれなりの奥行きのある立体物なのだが、それを私たちはとりあえず”面”として捉えるようになったのだ。この面の中でコントラストの強い目や眉や白い歯を見せたりして表情を作り、そこに言語を加えて多くの情報をやりとりしている。脳では、私たちの顔面は特徴だけを捉えた抽象的顔面表情、つまり表情の記号として認知される。分かりやすく言えば顔文字である。そのような仕組みが頭の中に出来上がっていることは、例えば「(^o^)」という記号の羅列が”嫌が応にも”顔に見えてしまうことからも実感出来る。
 私たちにとって顔とは正面から見るもので、そこに2次元的な視覚情報が現れていれば満足なのである。その意味において、顔とは彫刻よりも絵画的な存在である。その顔に興味を持ち、立体である彫刻でアプローチすることは、それだけで挑戦的な意味合いを既に持っていると言えるだろう。高畑氏はまた、横顔に興味があるとも言った。顔に興味があって、それが横顔だと言うので、以外な印象を一瞬受けたが、それは顔の造形を見るという行為でもあることから、彫刻家的な視点が最初にあることを意味しているのかも知れない。それにこれらの首像がことごとく白人であるのもこの言葉と絡んでくる。白人の頭部は、我々東洋人の頭部と比べて、前後方向に長い。つまり”彫りが深い”ので、側面からの描写に現れる要素が多く、面白みがある。よく人物紹介のことをプロフィールと言うが、これは本来「横顔」の意味だ。西洋では古くから横顔の影に線を引いて影絵とし、それを簡易肖像画として用いていた。ルネサンス期に多く登場した肖像画も多くが横顔である。顔が扁平な我々東洋人ではこの発想には至らないだろうと思う。

 顔という平面的要素を、頭部という立体的要素で捉え、彫刻というこれまた立体物で再現する行為。この作業過程で、作家は平面と立体の認識を常に往来し続ける。その過程において、特に悩ましいのは、顔と顔以外の頭部との接点ではないだろうか。頭部において、いったいどこまでが顔なのか。このことに解剖学的な事実から答えることは比較的簡単かもしれない。なぜなら、複雑な表情を作り出す顔は、その筋の着き方から命令を送る神経まで、あたかも独立した一系統を保持しているように見えるからだ。しかし、その事実と、私たちの抱く顔の領域とが完全に一致するわけではない。立体的な頭部における顔の輪郭はどこなのか。彫刻としてそれを造形するには、その境界を意識せざるを得ない。そして、実際にその境界は会場の作品達に表されていた。それは一彫刻家による、形態と認識の波打ち際である。

高畑一彰展