2009年10月27日火曜日

統合が必要

大学受験の頃などになると誰でも一冊は持つ「参考書」。その情報は基本的には教科書と同じである。では、なぜ同じ内容を求めるのか。それは、参考書が、教科書の内容を整理していて分かりやすいからだ。ならば、初めから教科書など使わずに参考書だけで良いのではないかと思い、それだけを読み進めると内容が分からない。要するに、参考書は要所だけを取り出すので、情報の切り貼りになり、結果それだけでは全体としての深い理解に至らないのである。
この、欲しい部分だけを抜き出すという行為は、情報入手の効率化だけを考えるなら効果を上げるだろう。けれども、情報の整理は、それ以外の情報を捨てているという事実にも気付いていなければならない。参考書だけでは理解が進まないのはそのためである。

現代は、科学の時代である。科学によって人類は自然の理解を進めた。科学という手続きは、自然という生の情報から必要な情報を取り出してゆくというものだ。それによって問題点が明快になり、単一の事象として研究してゆくことが出来る。細分化が進んでゆくと各領域の独自性も進み、互いの関連性が希薄になることもある。
これは、知識形態の「参考書」化だと言える。自然という偉大なる文脈は複雑でとらえどころがない。そこから必要な情報だけを取り出し理解しようとしているのである。
たしかに、それは一見魅力的だ。受験生にとって参考書がそうなのと同じである。けれども、それだけを見ても決して本質的な理解には繋がらない。物事を知るには体系的な理解が必要だが、切り取られた情報にはそれがない。それは、映画のあらすじだけを人から聞いて、それを見た気になっているようなものだ。問題は、そういう風潮が強くなっているように感じることだ。

皆が、分かりやすい、間を端折った回答だけを求めている。それでいい領域もあるだろう。だが、それでは本質を見誤る領域もある。自然科学、芸術などは、それらと折り合いが付かない領域である。自然科学は、「科学」であるから、その理解には科学的手続きを踏むが、その知識は再び自然の文脈へと還元出来なければ生きた知識にはならないだろう。芸術は、科学のような知識体系としてまとめられる必要はないが、作家個人の理解の過程においては、自然科学のそれと似た過程を踏むはずである。
文脈から外された科学知識に意味がないように、文脈から外された美は空虚である。
理解の為に、私たちはさまざまなものを分断した。しかし、そのものとしての存在は、分断してゆくほどに本質から離れてゆくものだということを忘れてしまっては、結局、本来の目的(本質的理解)にはたどり着けない。

統合が必要だ。命が、自然がそうであるように。

2009年10月21日水曜日

彫刻 根源的芸術

彫刻は、さまざまな芸術表現のなかでも最も根源的なものだと言える。芸術の表現対象は元来は基本的に具象だった。つまり、それは実世界に存在する物である。それを、素材を変えて同じように物として実世界に再現するのが彫刻だと言える。それを、反射光線による色彩のみで捉えて平面的に再現しようとしたのが絵画である。

現代の彫刻は、基本的にそれに彩色を施さない。それは、彫刻が色彩ではなく、実世界に存在する物質としての芸術であることを強調している。色彩は、素材そのものが持っているそれで十分なのだ。実際の自然物がペイントされているのではないことと同列である。

彫刻はあらゆる芸術を包括しているように思える。空間性、バランス、色彩、量感、構造。それは、あらゆる感覚を動員しているとも言い換えられる。彫刻家のように対象を見る目を養うことは、その他の芸術表現にとっても有益だろう。

2009年10月14日水曜日

ヘンリー・ムーア 空気の彫刻

ヘンリー・ムーアは、言わずとしれた近代英国を代表する世界的な彫刻家だ。幸い日本では、箱根の彫刻の森に比較的まとまったコレクションが展示されている。マッチ・ハダムとはいかないが、それなりの空間を空けた屋外で、近くに寄れないのが残念だが、恵まれた展示と言える。

ムーアの作品の特徴のひとつとして、穴がある。作品の多くに貫通した穴や大きな窪みがあけられている。それらはリズムを持って流れ、全体として大きな溝となっていることもある。
これらは、無意識のうちに作ってしまったというような曖昧な造形ではなく、明確な美的意識において研究された結果のものだ。
彼は、作品に生かすことが出来るアイデアの多くを、自然物(裸の人間だけでなく)から得ていた。木、石、草、骨など、普通のひとなら目もくれないような”なじみの”物たちから、彫刻的要素の源泉をくみ取ろうとした。穴が彫刻に与える影響力というものも、それらから得たのかもしれない。
「石片を貫いて開かれた最初の穴は、ひとつの啓示である。
穴は一方の面と他方と交通させ、オブジェの三次元的な正確をただちに増大させる。」

彫刻は、実と虚のせめぎ合いから生まれる芸術だが、視覚が捉えるのは実だけであることから、言語化され明示された彫刻の指針では、「実」についてだけが語られることが多い。そして実際にも、今でさえ、マッス(量)ばかりを盛り込んで肥大したような彫刻が多く作られる。
光を知るには夜が、白を知るには黒が、そして生を知るには死が必要なのと同じように、実を知るには虚が必要である。

そのことを、ムーアは石ころに見た。または、洞窟に。
「穴はそれ自体として、フォルムに対して、充実した塊と同じくらいの意味をもつことができる。空気を彫刻することは可能である。そのとき石は、目標とされ、眼に差し出されるフォルムとしては、穴しか含まなくなる。」

さて、彼の作品には、明らかに骨をモチーフとした作品が幾つかある。
彫刻の実体がまとう、空気の塊という双子の片割れのような存在はそこでも見る(感じる)ことが出来る。骨は、その形態そのものが、以前は筋肉をまとっていたものであるという意味で、虚の実在化のようなものだ。実と同等に虚を見つめていたムーアならば、そこに美を見出したのは自然なことだったろう。

画像はThe Hyde Park Historical Societyから無断借用。

2009年10月11日日曜日

知識だけで作品はできない

美術解剖学を十分に自分のものとしたとしても、それだけで芸術作品が作れるようになるわけではない。

ある人間(モデル)が空間上に存在するということは、それを観察する者(作家)によって客観的に明らかにされる。観察者にとっての、その人間の存在は、取り囲む空間、環境から切り離されることは出来ない。なぜなら、観察者がその人間を見るには光が必要であり、その光はその人間を取り巻いている空間が提供しているのだから。
目は光を捉える器官だという事実は、統合された視覚という感覚の精度の高さ故か、忘れてしまいがちだ。私たちが見ているのは、物体に跳ね返った光線である。光線は目に入るまでに何度も反射を繰り返して複雑に入り交じった色になる。空気中のチリや湿気さえ影響を与える。
視覚において、物理的な作用だけでも無数の要素が絡んでいるうえに、知覚として認識するときには、観察者の主観的要素も関係してくるのだから、10人が見れば10通りの見え方があるということになるだろう。

美術解剖学では、骨と筋の位置は知ることが出来るが、実際に人体が様々な姿勢をとったときに柔らかい筋が緊張したり圧迫されて変形する様までは、全て網羅できるものではない。そして、実際の人間は常に姿勢を変えているのだから、必ずどこかにそういった変形が見られる。

このような、幾つかの具体的な理由から、説得力があり実在感のある作品が生み出されるには、実際のモデルの観察が必要であると言える。美術解剖学の知識は、その補助には絶大的な効力を発揮するが、そのもの自身が造形の主軸にはなり得ない。
リアリティー(現実感)を持つものは、リアル(現実)のものだけで、自分の造形力をも越えるそれを求めるならば、実際の観察をあくまでも主軸として、そこに知的補助として解剖学を置くことが、効率的で正しい方法だろう。

2009年10月10日土曜日

いのちの所在

社会的には、人間一人一人を「個人」と分類する。動物や植物なども「個体」と呼んで一つ一つを分ける。
「わたし」は明らかに単独の、一人の人間生命体だと認識している。それは、人間社会においては当然の共通認識であり、それを疑うことは精神を病んでいるのかとさえ言われかねない。
しかし、一方で生物学的に見れば「わたし」は無数の細胞の集合体であり、その個々の細胞ひとつひとつが生命活動を営んでいるのである。そう思うと、「わたし」は人間として数えるなら一人だが、単一の生命体ではないということも言える。「わたし」は、数兆の命の集合体なのだ。
そう考えるなら、個人の死も1つではない。ある人の呼吸が今止まり、医学的に死が定義されたとしても、その瞬間に、体中の細胞が一斉に死ぬわけではない。それを恒常的に維持するための仕組みが不可逆的に失われた状態を個人の死と定義しているのだ。個人の死と共に細胞全てが死なないからこそ、角膜や臓器移植が可能なのだ。

死後、髭が伸びるかというネット上の質問に対して、ほとんどの回答が「皮膚が収縮するため相対的に伸びて見えるだけ」とある。個人の死後に細胞が活動することはないというこのスタンスは、「命は個人にひとつ」であるという暗黙的な認識が導くものだろう。

いのちの所在。これはまた様々な見方ができるのだろうが、もし「わたし」個人に命がひとつと限られていたら、種の継続はどのように説明するのだろう。
私たちは、父と母から離れた細胞から出来てきたことを思い返す。そして、やがて「わたし」個人が死んでも、そこから分かれた細胞から出来た子供は生きており、種をつないでゆく。

「わたし」の命は、生命が地球上に誕生した約40億年前から一度も途切れたことがない。

2009年10月9日金曜日

彫刻と解剖学は伝えている

目の前の形は、なんでその形なんだろう。当たり前のような存在に対して疑問を持つと、そこにとんでもなく面白く奥深いものが潜んでいることに気付く。私たちの目はかたちをつかむ。私たち自身もまたかたちを持っている。
かたちについて考える最高の素材が人体だ。なぜなら、それは自分自身なのだから。
私たちは、精神の存在ではない。物質の存在だ。私たちは「考える」。思考は概念だからかたちがない。だから、自分を考えるときも概念的になり、物質としての自分を忘れてしまう。だから、「魂」が出来たのだろう。「心霊」が出来たのだろう。

でも、物質で考えてきた彫刻家は知っているはず。私たちは「かたち」だと。まず物質である肉体ありきだと。

解剖学の発展は、人間が人体を発見した歴史だとも言われる。客観的物質としての自分自身。それに気付くのには永い時間がかかった。つまり、それは容易ではないことだから、意識しなければまた忘れてしまうようなことなのだろう。

彫刻家と解剖学者は、歴史を通して語ってきた。私たちは物質なのだと。そこから始まる。

粘土と折り紙のような、人間

彫刻家は、粘土や石などを使って人体を作り出してゆく。
粘土ならば、初めの一握りの土塊が集まって、集まって、こねられて、ちぎられて、人のかたちになってゆく。
一方で、本当の人間は1つの細胞が増えて、増えて、こねられて、ちぎられて、出来てゆく。
なんだか似ているようで、面白い。
けれど、人の胚発生における、「こねられる」過程は、実は粘土よりも折り紙に近い。折り紙は、初めに折られた部分の上に次々と折り重なって最終的な形になってゆく。複雑な折り紙は、単純な折り紙からの派生であることなども、まるで系統発生を表しているようにも見えてくる。
粘土と折り紙を足したような、そんな出来方をする人間。

2009年10月5日月曜日

自分という驚異

解剖学は、人体の構造を視覚的に明らかにしてきた。それは、「生きている」という現象の緻密さが故にもたらす神秘という謎のベールを次々と取り払うような歴史である。私たちは、超自然的な力や神霊という外部的なものによって動かされているのではなく、それぞれの個体がそれ自身で運動し行動を決定していることが明らかとなった。

生きている現象は、一つ一つ細かく分解して見るなら私たちが普段目にする当たり前の自然現象と何ら変わりがない。コップからこぼれた水がしたたり落ちるのが神秘でないように、それらも神秘ではないのだ。
しかし、それらが驚くに値しないと分かるほどに、その組み合わせによって生命現象が生み出されていることが驚異と感じるようになる。私たちは、経験上、複雑な構造物ほど安定を図ることが難しいということを知っている。それなのに、この複雑極まりない人体という生命体は、よほどの事がない限り当たり前に動き、それどころか常に自己の修復を計り、恒常性を保っている。

私たちは、自由に動き回れ、飛びはね、転んだくらいでは何ともないように起き上がるが、解剖学によって指し示される一つ一つの構造が自分の中にあり、その組み合わせで動いているのだと思い返すとき、何でもなく日々を過ごしているその事にすら驚異を感じざるを得ない。つまり、もはや自分自身が驚異の主体となるのだ。

人体の内部構造が明らかになっても、「生きる」という驚異は相も変わらずそこに鎮座し続けている。