2015年7月27日月曜日

相談は誰にすべきか

 若者とその指導者らしい男性の会話が耳に入る。どうやらその若者の同級生もしくはチーム・パートナーのひとりが彼の事を嫌っているらしく、その相談をしている。指導者の男性もその事実を把握している様子で、アドバイスをしているようだが、その内容が少々気になった。要約すれば、パートナーは若者を一方的に嫌っていて実質的な被害も被っていると訴えているらしい。いっぽうで若者はそのような事実は一切なく、むしろ事ある毎に、そう言われることが迷惑だと言う。ここまでは、まあ相談としてはあるだろう。気になるのはそれに対する指導者男性の対応で、まず彼は明らかに相談に来ている若者の側に立って話を進めていた。例えば「分かるよ。俺も彼はおかしいと思う。」といった感じで、延々と若者の肩を持つような論調。その上で、「もう少し、うまく立ち回ってみてくれ」と話を閉めていた。若者は、話を聞いてもらえただけでも気が多少は晴れたのだろう、そうして2人はどこかへ立ち去った。
 これは、若者の相談に対しての解答、アドバイスになっていたのだろうか。私には、この指導者が話をうまくはぐらかしただけに聞こえた。自分は問題に関わりたくないという意思が明確に見えた。

 自分より年上や目上の人間が、必ずしも人間的に優れているわけではない。ある領域において才能を発揮していたとしてもそれが人間性の高さとは結びついているわけでもない。しかし、結局のところ、ある現場で人間関係などの問題が生じれば、ごく身近な人間にアドバイスを求めようとするのが普通なのだ。しかし、近しい人間ほど公正なアドバイスはもらえないと思った方が良い。もちろん、自分に味方して欲しい場合は別だが。
 会社や学校など判断の公正さが求められる現場には、アドバイスの専門家を置くべきだろう。きっとそういう事例は増えてきているとは思うが、まだまだ足りていないと思う。昨今の学校におけるいじめ問題では、それが事件にまで発展すれば必ず担任や校長が責任を問われる。確かに今までは、担任が生徒のアドバイザーとしての役割も担っていたわけだが、現代ではその機能は果たされていないのではないだろうか。いじめ事件の原因を一概に担任教師の怠慢だとは言えないだろう。学生と学校をめぐる事象の時代的な変化もあって、現場もかつてのように悠長ではないのではないだろうか。学校には今や、中立的立場のアドバイザー、カウンセラーを一層充実させる必要があるだろう。しかし、ただ話を聞いてくれるだけではやがて誰も来なくなる。そうならないために、彼らの権限をある程度大きくする必要もあるだろう。勿論それに伴う責任も大きくはなるが、専門性とはそういうものだ。
 特に「いじめ」や「万引き」など行為に名称が付けられているようなものは、その個別の事象をしらみつぶしに対応していても決して無くなりはしない。これらは、システムの問題として捉える必要がある。現状のシステムを維持する限り「いじめ」や「万引き」をなくすことは出来ないのだから、システム全体を見直すべきなのだ。むしろ、いじめは異常な行為ではなく条件が整えさえすれば必ず発生する現象として考えるべきだ。そう見るならば、いじめっ子さえ、システムによって”そうなってしまった”のかもしれない。

 内容が流れたが、まとめると、目上の人間が人としても優れているとは限らないこと。だから、組織には相談できる専門家を充実させるべきであろうということ。いじめ問題で騒がしい学校という組織こそ相談できる専門員を拡充すべきであること。そして、いじめの発生しないシステムが求められているのではないか。ということだ。

2015年7月25日土曜日

「舟越保武−まなざしの向こうに−」を観て

練馬区立美術館で舟越保武展が開催されている。作家人生全体を見通せるような構成で、数多くの彫刻作品と素描が展覧されている大規模なものだ。

 久しぶりに舟越保武の彫刻をまとめて観た。作品を観て感じる印象は以前から変わりがない。どこか不安な感覚になる。完全な安心感がそこにない。ここでの安心感とは、作品の文脈的なものではなく、造形的な側面のことだ。つまり、絶対的な技術力に裏打ちされた完全なる造形作品といったようなものではなく、どこかに造形的な破綻がいつもあって、それが鑑賞していて不安な気持ちにさせるのだと思う。

 以前の展覧会で、舟越の首像をためつすがめつ眺めて気付いた造形傾向がある。それは、右の頬が左より奥まっているというものだ。気付いている人がどれだけいるのかは知らないが、仰ぎ見たり見下げて見れば分かると思う。多くの作品に同様の傾向がある。意図したものか単なる手癖かはよく分からない。ただ、この造形傾向が舟越作品の表情に影響を与えているだろうとは想像できる。

 今回の展覧会でも、この安心できない感じはどこから生まれるのかと考えつつ作品を見回していた。そして改めて気付いたことが2点ある。ひとつは、頭部の形状と表情との解離。もうひとつは、希薄な統一感だ。
 まず初めの、頭部の形状と表情との解離は、舟越作品に特徴付けられる「美人顔」が大きく影響している。顔というのは、私たちにとっては、立体的構築物というよりむしろ平面的に捉えられる対象である。その意味で、立体的な造形を作る彫刻にとっては挑戦的な対象だと言えるだろう。そのなかにあって、舟越の作る美人顔は、立体と言うよりむしろ平面的に捉えられた「線描写によって生まれる表情」を持っているように思われる。実際、舟越は美人顔を生み出すための多くの素描を残している。それらを見ると、線の曲線の連なりによって、まずは平面的な紙の世界において美しく見える女性の顔の「線」を探っている様が分かる。実際の顔が立体物だとは勿論知っているが、美しいと感じる女性の顔を認知するときは、それが光線による平面的な図像として捉えられているのである。だから、舟越にとって、立体的な彫刻で美人顔を再現する作業は、平面図で捉えた2次元像を3次元的に再現する作業としてあったのではないかと想像できる。
 しかし、この捉え方は実は彫刻的な対象の捉え方とは違っていて、むしろ、難しい手順であるとさえ言えるのである。例えば、ロダンやミケランジェロなど古典の巨匠は、そのような対象の見方はしていない。立体である彫刻を作るに当たっては、あくまでもまず対象を立体的構築物として認識するところから始まっている。立体は立体として見ることで、それを立体として破綻せずに再現できるという考え方である。舟越も学生時代は、彼ら巨匠に憧れたはずで、芸大においても彫刻的視覚を体験的にでも知ったとは考えられるが、その見方を誰もが身につけて実践するわけではない。舟越も、自身なりの美人像を見つけるに当たっては立体的な構築から探るよりむしろ、線という平面的な要素から見つけ出す方法を採ったのだろう。ところが、若い頃に身につけた彫刻的な対象の捉え方を完全に捨てたわけでもない。むしろ、その頃に培った彫刻的な物を捉える「背骨」がしっかりと残っているからこそ、平面的な表情だけの希薄さに流れることがなかったとさえ言える。それは、舟越彫刻の特に頭部を見ると分かる。私たちは、舟越彫刻の美しい女性の表情に目を奪われがちだが、その表情は頭部の量に乗っかっていることを忘れてはいけない。だから、表情とそれが乗る頭部との両方が見えるように少し遠ざかって作品を見るのだ。そうすると両者の関係性が見えてくる。そうして気付くことがある。舟越彫刻の美人像のほとんどにおいて、頭部の構造と表情とが完璧に調和していない。そう、「していない」のだ。頭部の形状の前面に美人顔のお面を付けたような、そういう不調和を見る。しかし、それが完全に遊離してしまってはいない。そういう”傾向”が見て取れるという程度である。なぜそうなるのか。ここに、立体的な造形として対象を見る彫刻家的視点と、美人顔を平面的描写から探った絵画的視点とがぶつかり合っているのである。舟越作品の頭部の量付けには彫刻的な捉え方がしっかりと存在している。それは、ごく初期の石彫頭部作品においても既に見て取れる。初期の頭部作品を観ると、顔の造形も、立体的な構造要素から構築しようと試みているのが分かる。だが、いわゆる美しい「舟越美人」顔が現れると、表情が平面的に変化していく。舟越は、立体的な構築で生まれる表情にどこか硬い印象を感じ違和感を感じていたのではないだろうか。というのも、初期の作品の、立体構築で作られた頭部の表情などにはどこか機械的な堅さが現れているからだ。実は、「立体構築に現れる堅さ」は舟越彫刻の特徴のひとつで、特に全身像においては初期から後年までずっと現れている。もうこれは、形の見方の個性とでも言わなければ片付かない問題なのかもしれないが、結果的には舟越作品の特徴となっている。舟越は、構築的に造形した頭部に、平面的な表情(を立体的に再現したもの)を載せて作品を完成させていた。

 もうひとつ、舟越作品全体から感じるのが、希薄な統一感だ。それは、先にあげた「立体構築に現れる堅さ」と同じようなものを指している。これが特に感じられるのは、裸体全身像である。これらの像を頭部から下へと見て、全体として1人の体としての調和が完璧ではない。どこかぎくしゃくしている。これに気付いているひとは多いのではないだろうか。まるで、頭、胴体、腕、脚、と部位別に分かれた部品を関節から曲げてポーズを取らせた「デッサン人形」のような堅さを持っている。同様の”現象”は古代ギリシアの彫刻に見られる。当時の彫刻は関節毎に長さが決められて理想化されたものが彫像として作られたために、そのセグメントごとに区切られたような堅さがどうしても表現に表れてしまう。そうではなく、実際の人体の内部構造を参考にしたルネサンスの彫刻では、関節と関節を繋ぐ筋や腱構造が意識されることで、各セグメントが有機的に繋がった。舟越の人体彫刻は、人体を部位毎に区分けして見ているように思われる。
 このような見方は、着衣像ではより顕著で、舟越の着衣像ではもはや内側の裸体は意識されていないようにさえ感じられる。衣服の皺は直線的で、身体を覆う物というよりむしろそれ自体が重々しい構築物のように見える。だからその端から出ている手などは、見えている部分だけのパーツが取り付けられているようにさえ見える。『聖マリア・マグダレナ』は、そのような表現の最たるもので、もはや最下部は円となりギリシア柱の基部と化し、胸の部分に出てくる手は取って付けた”部品”のようだ。

 整っている美人顔に見えて、実は左右で大きく歪んでいる。頭部と顔との表現技法に違いがある。全身が全体としてまとまっていない。こう言った要素を言語化すると、まるでネガティヴな要素に聞こえる。実際、ここで挙げた要素は彫刻を学ぶ際にも陥りやすいところで、多くの彫刻がそのせいで失敗に終わる。重要なのは、舟越作品はこれらの要素を失敗ではなく、強み(うま味)に変えている、その領域にまで達しているという事実ではないだろうか。完璧に構築された、非の打ち所のないような作品達ではなく、どこか危うさを放ちつつ、儚いなかで揺らいでいる。揺らいでいるけれども、しっかりとした根を張った生命感を宿してもいる。そういった、強さと儚さの両立が、舟越彫刻に流れている。

2015年7月18日土曜日

髙畑一彰展を観て


 ギャラリーの前で立ち止まって見ているサラリーマンがいた。ギャラリー前に着くとなるほど理由が分かった。全面ガラス張りのギャラリー内部に3つの彩色された大きな首像がこちらを向いて置かれているのだ。白壁の無機質な空間に、リアルに色付けされた顔がこちらを見ているのだから、つい足を止めてしまうのも分かる。
 より厳密に言うなら、これらは首像というより胸像に近い。つまり、切断位置は頸ではなくもっと下の乳頭の高さほどである。しかし、頸から下はもはや造形されていない。肩幅もなく、単なる”地山”と化している。頸までしか造形していないという意味で、首像と言おう。
 ギャラリー内へ入って近くで見ると、良い。何が良いって、この大きさが良い。全ての像が実物より遙かに大きく、その顔は50センチほどはあったように思う。大きいのだが、見ていてその大きさをうるさく感じるようなことがない。むしろ、この大きさがあることで、細部が自然に目に入り、それが実際の大きさの人物の顔を見ているときのようなリアリティを感じさせる。「実物より少し大きく作る」というシンプルな手順かもしれないが、その効果は大きい。大きさと現実感との関係性は彫刻の大きなテーマでもある。

 3体の首像達は白人である。2体が男性で1体が女性。女性の像だけは、胸部に乳房が丸い2つの玉のように作られているが、それは何かぶっきらぼうな印象の造形で、ちょっとした遊び心で付けられたもののようにも見えた。これらの首像を見ていると不思議な感覚を覚える。彫刻という立体物を見ているのだが、とても絵画的だからだ。そう感じさせる大きな理由は、彩色に依るのだろう。彩色されることで彫刻はその命である”量感”が隠される。私たちの目は色彩を追ってしまい、彫刻で楽しむべき量感は薄らいでしまうのだ。その造形がある一定の(そしてこの作品達のように)リアリティを持っているとき、色彩によって彫刻というより実在の人物を見ているような錯覚を引き起こす。現代において彫刻というと、ブロンズなどで作られて彩色されていないものを想像するが、実際は、歴史的にも多くの彩色彫刻は作られてきた。今回の作品達も、そのたたずまいや色調などは、ルネサンス期に作られた多色彩色のテラコッタ胸像などを思い起こさせる。
 近くによって顔の造形を見ていると、かつて私自身も首像を造っていた頃の感覚がフラッシュバックして、ちょっとそわそわした感覚に陥った。そうだ、頭部の造形で難しいのは頬の形を掴むことだった。むしろ、目や鼻や口は細かい起伏が多いので形が決まりやすい。面積が広い上にこれと言った明確な起伏のない頬は、捕らえどころが無く難しい部位だった。頬の面は、正面から見ても側面から見ても広く見える。だから、彫刻の初学者は、「顔は正面」という強いイメージに引っ張られて頬を正面に向けすぎて、結果扁平な顔の造形に陥るのである。もし、頭部を作ろうとするなら、「頬は側面」と思った方が良い。そんなことを思い出していた。頬の造形は思い出深い。
 ところで、先にこれらの首像に絵画的な印象を受けたと書いたが、その理由のもう一つには、顔面部の造形処理そのものにある。主観的な表現になるが、この大きな顔面を作っている目や鼻や口、そしてその周囲にひろがる凹凸やシワなどの構成要素が、”線的な造形”をしているのだ。線的な造形とはどういうことかと言うと、例えばある溝を造形するとして、それを二つの盛り上がった量の谷間として造形するのが”量的な造形”であって、溝を”溝”としてえぐって作るのが”線的な造形”といったところだ。つまり、これらの首像の表情を構成している諸要素、例えば目は、予め目としてそこに造形された。鼻は鼻であって、口は口なのだ。当たり前のことを言っているように聞こえるだろう。しかし、この見方はとても絵画的なものであって、むしろ彫刻的な見方では、口周囲の量のひしめき合いの結果が口となるようにする。
 他にも、造形を見ると、幾つかの特徴が見て取れる。たとえば、横から見たときに、耳から後頭部までの長さに対して耳から顔面部までの長さが大きい。頭部を支える頚が比較的垂直に立って伸び出ている。頚が胸部と出会う部分の特徴的な胸骨・鎖骨周囲の造形がない、などなど。これら、全体に見られる造形の特徴が指し示すものは何か。それは、作家の顔への執着、それも正面から見た顔である。3つの大きな顔は、そろって顔面をギャラリー外を行き交う人々へ向けていた。真っ直ぐ正面を向いて。
 更に他の作品が2階にもあると貼り紙に書かれている。2階の広くはない展示室には、別の首像が2体と、大きな顔面だけが描かれた素描が壁に掛けられている。首像の一体は長髪の女性像で、長い髪が頚の横を下へ降りて、一番下ではもはや髪の毛だけが地山となったような造形である。もう一体の男性像は、開けられた目には眼球がなく穴がぽっかりと開いている。口も開けていてそこも穴。耳にも外耳孔が開けられている。それらの穴から覗く黒い色はこの首像が空洞であることを見る者に伝えている。まぶたにはまつげが植え込まれていた。生き生きとした顔色に塗られていながら、眼球の収まっていない顔は、異質さが際立っている。壁に掛けられている大きな顔面の素描も異質さを放っている。成人男性の頭部だけが描かれ、まるで空中に顔だけが浮かんでいるようだ。その顔は、「顔」として描かれていた。顔面の構成要素のあり方の特徴は彫刻作品で感じられたものと同様である。

 2階の会場には、作家の高畑氏がいて、作品について少し話しを聞くことができた。
「顔が作りたかった。本当は顔しか興味がない。でも、顔だけという訳には、お面作るわけにはいかないからね。」
 高畑氏のこの言葉は真実だろうし、それは作品からも感じ取ることができる。今までには、全身像も作ったが、それも顔を作る延長で作ったに過ぎないと言う。言うならば、顔を納めるための土台としての体だろうか。

 顔は、人体の中でも一際特殊な領域である。それは、言うまでもなく、私たち人類が、顔を使って互いの意思疎通を図っていることに依る。ヒトという動物へ進化することで、両目は前を向き、顎は短くなって後退し、結果的に私たちの顔は平坦になった。顔に面ができたのである。だから我々は、コミュニケーション時には互いに”向き合い”、正面の顔を見せ合う。しかし、顔”面”と言っても実際にはそれなりの奥行きのある立体物なのだが、それを私たちはとりあえず”面”として捉えるようになったのだ。この面の中でコントラストの強い目や眉や白い歯を見せたりして表情を作り、そこに言語を加えて多くの情報をやりとりしている。脳では、私たちの顔面は特徴だけを捉えた抽象的顔面表情、つまり表情の記号として認知される。分かりやすく言えば顔文字である。そのような仕組みが頭の中に出来上がっていることは、例えば「(^o^)」という記号の羅列が”嫌が応にも”顔に見えてしまうことからも実感出来る。
 私たちにとって顔とは正面から見るもので、そこに2次元的な視覚情報が現れていれば満足なのである。その意味において、顔とは彫刻よりも絵画的な存在である。その顔に興味を持ち、立体である彫刻でアプローチすることは、それだけで挑戦的な意味合いを既に持っていると言えるだろう。高畑氏はまた、横顔に興味があるとも言った。顔に興味があって、それが横顔だと言うので、以外な印象を一瞬受けたが、それは顔の造形を見るという行為でもあることから、彫刻家的な視点が最初にあることを意味しているのかも知れない。それにこれらの首像がことごとく白人であるのもこの言葉と絡んでくる。白人の頭部は、我々東洋人の頭部と比べて、前後方向に長い。つまり”彫りが深い”ので、側面からの描写に現れる要素が多く、面白みがある。よく人物紹介のことをプロフィールと言うが、これは本来「横顔」の意味だ。西洋では古くから横顔の影に線を引いて影絵とし、それを簡易肖像画として用いていた。ルネサンス期に多く登場した肖像画も多くが横顔である。顔が扁平な我々東洋人ではこの発想には至らないだろうと思う。

 顔という平面的要素を、頭部という立体的要素で捉え、彫刻というこれまた立体物で再現する行為。この作業過程で、作家は平面と立体の認識を常に往来し続ける。その過程において、特に悩ましいのは、顔と顔以外の頭部との接点ではないだろうか。頭部において、いったいどこまでが顔なのか。このことに解剖学的な事実から答えることは比較的簡単かもしれない。なぜなら、複雑な表情を作り出す顔は、その筋の着き方から命令を送る神経まで、あたかも独立した一系統を保持しているように見えるからだ。しかし、その事実と、私たちの抱く顔の領域とが完全に一致するわけではない。立体的な頭部における顔の輪郭はどこなのか。彫刻としてそれを造形するには、その境界を意識せざるを得ない。そして、実際にその境界は会場の作品達に表されていた。それは一彫刻家による、形態と認識の波打ち際である。

高畑一彰展

2015年7月13日月曜日

特殊感覚器 多角的に世界を知る


 人間の頭部には、そこだけに備わった特別な感覚器官がある。即ち、物を見る目、嗅ぐ鼻、聞く耳、そして味わう舌のことだ。ちなみに、それ以外の感覚は頭部以外の全身に広がっている。つまり、皮膚感覚の事だ。これらの感覚を通すことで、私たちは自分が世界のどこにいるのかを察知している。高度に連携が取れたこれらの感覚は、物心つく前から正確に情報を伝えていたから、普段生きていてこれらの感覚によって外界を知っているなどとわざわざ気付いて感じ入ることなど、普通はない。

 ところで、なぜ私たちの体にあるこれらの感覚器官、特に頭部の特殊感覚器官はそれぞれが特殊化したものが備わっているのだろうか。それを考えると、互いに長所を活かしてチームを組むことで最善の結果をもたらしていることに気付く。例えば、目が担う視覚。目が捉えているのは太陽から降り注ぐ光である。私たちが「ひかり」と呼ぶものは、太陽から降り注ぐ電磁波のほんの一領域に過ぎない。そのほどよい強さのエネルギー波だけを、目のレンズで1点に集め、それを目の奥の細胞の集まったシート”網膜”に投影する。こうして脳内に再現される目の前の光景は、指先の近さから遙か彼方の山々や水平線まで一瞬で見ることが出来る。獲物を捕らえる準備やハンターから逃げるに十分な距離を離して、周囲を確認することを可能にしている。しかし、目の奥のほとんど点といえるような狭い範囲に集光させるために、目が見ることの出来る範囲は限られている。ピントのあった世界の範囲は意外なほど狭い。だから、私たちはいつも”目の前”の光景しか知らない。自分の背部は視覚的に酷く無防備である。そうであるにも関わらず、普段の生活でそれほど背部に不安感を持たずに済んでいるのは、目以外の感覚器がサポートしているからである。たとえば、耳だ。耳が担っているのは言うまでもなく音で、その実体は空気の振幅に他ならない。つまり、物体の振動が、空気の振幅に伝導し、それが水面に広がる水紋のように周囲に伝わっていく。その波の一部が耳の孔の中へ侵入していき、行き止まりにある鼓膜に当たって共鳴させる。音は光より早く減衰し、伝導速度もずっと遅い。それはつまり、私たちが不穏な音を聞くとき、その事象は我が身の近くで起こっているということを意味している。だから私たちは、音に対してとても敏感にデザインされている。大きな音が起これば、見るより先に体を逃避させる反射も起こる。大きな音で思わず身を縮込ませたことがないだろうか。耳は、目のように情報にピントを合わせることをしないが(かといって、生の外音を聞いているのでもないが)、その分、広範囲の音をいつも拾い上げているので、目で見えない背中側は音に頼っている部分が大きい。自分の周囲から比較的離れた世界の認知には、この2種類、目と耳の働きに多くを依っている。

 残りの2つ、鼻と舌は、摂食と密接である。鼻の穴はかならず口の近くに開口している。そうすることで、本当に口中に入れて良いものかを匂いで判断している。匂いは物質から空気中に放散した化学物質である。ここで、まず良しとされた物だけが口中へ入り、次は舌で更に精査される。外は良くても内は分からないから、歯と顎で砕いていく。ここで判断の元になるのが味だが、それもまた物質から液中へ放出される化学物質などである。口中に入れられた物質から唾液に溶かされたものが判断対象となる。
 鼻が感じる”匂い”はしかし、食べるためだけに使われるのではなく、空気中を漂う臭気からも様々な周辺情報を得ることが出来る。実際、多くの動物は同種同士の連絡に独自の臭気(フェロモン)を利用していることが知られているし、外敵や獲物の匂いをいち早く嗅ぎ分けることも生き残りには重要だろう。
 更に詳細に対象物を確認するには、一般感覚である触覚なども動員される。つまり、”突っついて、触ってみる”のだ。我々は、未知の物に対して、まず遠方から見て、耳を澄まし、安全そうであるなら徐々に近づいていく。手が届く範囲まで来たら、目を見開いてますます細部を見ようとするだろう。この時、嗅覚も駆使しているはずだ。次の段階で、腕を伸ばし指先で軽く突く。そうしながら、対象物と自己の距離を詰めていく。それが、食べられる物であるという判断が下されるまでには、実に多くのそして多角的な判断が事前に下されていたのである。

 自分の周りの物事は、単数の事象から判断はできない。確認事項が少ないほど、確認間違いが起こりやすくなり、それが時に致命的ともなる。だから、何重にも判断過程を設けて、そうして、やっと安全だと判断を下すのである。その幾重にも張られたセーフ・システムが私たちの頭部のかたちの原型でもある。
 
 話は飛ぶが、ネット上にはさまざまなニュースに対する人々の反応が溢れている。それを目にすると、目の前の「ニュース」という少ない情報だけに対して強烈に反応しているものも少なくない。世界の物事は、見えていることだけで成り立っているだろうか。そこには、単一の情報だけでは取り誤るような複雑な構造があるのではないか。事象に対して単純反応を繰り返すのも間違いでもないだろう。しかし、感覚が目と耳を使うことで真実に近づくように、事象の別の側面の可能性を探ることで見えてくる事実も多いはずだろうと、そんなことを考えたりもする。

2015年7月10日金曜日

ものごとの見えない区分け

 ものごとには、一見では見えないような、様々な方向性もしくは階層性が隠されている。始めに見えるのは最もコントラストの強い外郭だけなので、その内側の細かい区分けには気がつかないものだ。しかし、外郭の内側にはいるときには既に、その中の細分化された領域のどこかに自分の本当の興味どころがあるのである。ただ始めは自分もそのことに気付いていない。だから、似ているが違う領域に足を踏み入れてしまうことが往々にしてある。そうすると、やがて自分の周囲にいる人間の興味どころや研究の方向性が自分の求めていることと違うことに気がつき始める。しかし、我々は当初の自己判断を訂正することが難しい生き物なので、それを自分ではなく、周囲の人間が本来の方向性を見誤っているのだと解釈するのである。そうして、自己肯定に基づいた他者否定が始まる。しかし、否定したところで環境に変化は起こりはしないだろう。それは、全く文化の違う国にひとり入って、その文化を自分好みに変えてしまおうと試みるようなものだ。

 よくよく見極める必要がある。似ているコミュニティほど、そうだ。隣人は同じ方向を向いているようで実は違う遠方を見ていることがままある。他者の判断は本当に間違っているのか。それは実際には隣のコミュニティの住人ではないだろうか。彼らを熱心に否定することは生産的ではないし、自分の方向へ向けさせようという努力も徒労に終わるだろう。むしろ文化の多様性のひとつだと捉えればよい。私たちは自分こそが最も正しいと思うものだから、きっと彼らを見下してしまうだろうが、それを表現しなければそれで良いのである。

 結局のところ、私たちが出来ることは、自分の信じる活動を継続することだ。信念は活動を通して外部に表現される。そうして、入る部屋と時々間違えながら、自分の居るべき場所に近づく以外に方法はないだろう。そうするうちに、同様に迷いながら同じ部屋へやってくる者と出会うかも知れない。