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2014年4月7日月曜日

見る業、作る業

目を開けた瞬間から、対象が視界に「飛び込んでくる」。その視覚的な見え方は、透視図法という技法を通して再現が可能だ。透視図法に繋がる技法に、レンズを用いて光線を屈折させて紙に投影させるものがある(カメラと同原理)。より単純には、単に小さな孔を開ける方法もあるが、いずれにせよ、普段自分の目で見ているのと同じ光景が、壁なり紙なりの上にあるというのは、純粋な驚きをもたらす。いわゆる「映像」に慣れきっている現代の私たちでも、映画や立体映像など視覚的な刺激には心を躍らせるものだ。自分の目で見える世界がレンズや孔を通した投影像と同じだという事実は、視覚は受動的であるという感覚を補強する。
 しかし、視覚が受動的ではないことが現在では知られている。外光がレンズで屈折して投影されるという光学的現象は、目の水晶体(レンズ)で屈折し眼球の後ろの内壁の網膜に結像するまでの話だ。その壁には無数の視細胞があり、各自が光線のスペクトルと光量に応じて興奮反応を示す。そして、光線を細胞が受け取ったこの時点から、網膜に映った映像は分解され必要とされる情報へと変質される。その後は脳へ運ばれ更に要素へ分けられていく。私たちが意識としてイメージする主観的映像は、それら分解された情報を必要に応じて再合成したものと言える。つまり、視覚は受動ではなく能動的行為なのだ。だからこそ、同じ光景を前にしても、最終的な心象風景として何が見えているのかはそれぞれが違うのだ。
 
 心に思い浮かぶ心象風景を描出した景観画には作家の個性に基づく表現がなされる。それらは時に共感を呼ぶが、時に拒絶もされる。より多くの鑑賞者に受け入れられるには、どうすればよいだろうか。その手段として有効な物のひとつが様式化だ。様式化は言わば世界の記号化であり、全ての表し方を統一してしまう。数千年に渡った古代エジプト文明の人物表現様式や、中世のビザンティン様式などを見ても様式化がどれだけ強力であるかが分かる。そこに光学的な事実を取り込んだのが透視図法だ。透視図法は計測に基づくという点で、それまでの様式化とは違う。そこに表される世界は、私たちの視覚認識系を通る前に規定された世界だ。目で言うなら、網膜に光線が当たるところまでの世界、視覚の能動性の前段階である。そこに個人的心象や文化的規定が入り込む隙はない。これは、表現の拡散におけるブレークスルーだった。時代や文化が異なっても、光学的現象に変化はないからだ。透視図法に基づく景観画はその意味で時代と国を超える力を持つことになる。また、透視図法は観測と描画とが同時に結びついているという特徴がある。つまり、その方法に従って線を引くと、そこに自ずから景観が描かれる。洗練された透視図法は自動的であり、没個性的な技法とも言える。

平面芸術の空間表現において透視図法は大きな力を発揮するが、芸術のもうひとつの主題である人体表現には透視図法は適さない。人体は遠近の効果をもたらすほど大きくもなく、直行する直線的要素も持たないからだ。年齢や性別などでも形態が大きく変わる。それでも、多くの人が持つ人体の恒久的印象があるはずとの信念から、理想的比率を持つ人体像が模索されてきた。言葉として知られているのは古代ギリシアのポリュクレイトスの「キャノン」であり、図像として知られているのはレオナルド・ダ・ヴィンチの「ウィトルウィウス的人体」がある。これらは共に、外見から体部の計測に基づいている。しかしこれらは、強い説得力の半面、不信にも晒されてもいたはずだ。なぜなら、人体は動きによって姿勢が変わるごとに体表の各部位は変形して比率は変化してしまうので、不動の建築物や彫刻でもなければ固まった計測事実は恒久的有効性を持たないからだ。事実イタリア・ルネサンスにおいても、ミケランジェロら芸術家が何らかの外部計測に基づくキャノンに従うことはなかった。では、一挙動ごとに変形する人体を捉えるにあたって、拠り所となるものはあるだろうか。そこで選ばれたのが、硬く変形せず運動を捉えやすいもの、すなわち骨格である。それは変形しがちな人体をその内側から支え、曲がる箇所は関節に限定されている。
アルベルティ
絵画論を著した
「人体においてまず意識すべきは骨格である。骨格の位置と姿勢を決めれば、後は然るべき部位に筋肉を割り振り、最後に皮膚で全てを覆えば良い。」(アルベルティ)
 そのために、芸術家は裸体をただ外から観察するのではいけなくなった。今や骨格と筋肉の立体的位置関係と形状とを知らなければならない。そうして解剖学的構造という内なる事実から組み立てられる人物像は、透視図法ほどでないにせよ、一定の恒久性を持ち得た。なにより、捕らえどころのない人体という自然物の形状の成り立ちを明確に示してくれることは、芸術家の人体描写の下支えとして大いに役だった。ただ、解剖学的な事実を知ることが直接的に描写に反映はしないという点が透視図法と大きく異なる。解剖学に基づく人体構造の認識(つまり美術解剖学)は、「人体の見方論」に過ぎない。人体の形や皮膚に現れる起伏の理由を知ることが視覚の能動性に影響を与え、見えなかったものが見えるようになる。見えるようになった対象を再現するには手業の訓練が別途必要なのだが、その事実は忘れられがちに思う。

2011年9月24日土曜日

一般のための解剖学

 私たちは皆、一人につき一体の体を持っている。心身二元論的な言い方だが、そのように感じられるのも事実だ。体は超自然的な力によって生きているのではなく、眼前に広がる自然界と同様の物理原則に則って物質や情報が移動することで成り立っている。緩やかに流れている小川でもひとたび石などで流れが遮られれば氾濫を起こすように、体内でも何らかの原因で不具合が起こればたちまち体調不良という形でそれが現れる。小川と違う点は、不具合を積極的に取り除こうとする働きが起こる点だ。しかし、それとて「超自然」ではない。そこに何らかの意志を置こうと考えるのは私たちの脳の働きによるものに過ぎず、より大きな視点で見るなら、身体を一定に保とうとする機構もまた、そのような自然の系の現れのひとつに過ぎないと言える。
 人間を心と体に分けるというのは、私たちにとって非常に馴染みやすく、そこに違和感を感じることが少ない。だからこそ、世界中の宗教でも”物質的な体のない体=霊体”という、冷静に考えると矛盾した存在概念を受け入れている。しかし、脳の機能や体の機構が明らかになるにつれ、心と体が全く分けることの出来ない同列の存在であることも理解されてきた。個人は細胞の集まりという点では集合体であるし、「私」という自己同一性は、右脳と左脳とですでに違う。同様に、「私らしさ」も決して不動のものではなく、脳の特定領域が侵されれば、いとも簡単に別人格になってしまうことも分かっている。これらは、私たちの心というソフト的概念が、体というハード的存在に依っているという事実を示している。これらのような例を挙げるまでもなく、例えば、口内炎の一つも出来ればそれだけで、一日が憂鬱になってしまうことを思えば、どれだけ身体が心に影響を及ぼすのかが分かる。
 それでも、普段、体の調子が良いときは、私たちは身体について忘れがちである。「今日は体の調子が良いぞ」と毎朝考える子供はいないだろう。体の各所にがたが出始める大人になってこそ、そう思うようになるものだ。つまり、どこかに不具合を感じて初めて自己の身体を意識するのである。これはしかし、外傷や内臓疾患など明確に身体に関わるときであって、「気分が優れない」など、感覚的なものは最近まで身体と別の領域で捉えられていたように思われる。それが心理学という一領域を作ったのではないか。今では、それらも脳内物質との関連性から捉えられるようになっているが、家庭レベルでは今でも「それは怠けだ」で片付けられていることも多いだろう。

 書店などでは、いわゆる「こころの問題」に関する書籍が実に多い。こころというソフトに区分けすることで、それを身体というハードと別にし、論理的解釈で解決していこうとするわけである。それらは「こころと体」に分けることに慣れた私たちに非常に親和性が高く、実際、効果もある。これが身体性が更に希薄になり独自理論が組み合わさると「霊感」や「占い」など超自然的な解釈となってゆく。
 肉体の構造という「おもいっきりハード」として身体を見つめてきた解剖学の歴史は、この目に見える物質に、私たちが心と呼ぶものがどこに宿るのかを探る行為でもあった。現在、自然科学の領域である西洋医学において、身体が超自然的な働きで動いているという考える者はいないだろう。しかし、一般の人々にとってそれが全て飲み込める事実でもない。いや、多くの人にとって、医学的事実は理解できる。しかし、「こころ」がそれを受け入れない。脳死臓器移植問題などはそのギャップの表れである。
 書店では、身体についての書棚にあるのは、こころの扱いの書籍と、「家庭の医学」といった不具合に対処する書籍が大半で、シンプルな体の正常構造を記述した解剖書は目立たない。需要と供給のバランスがそこには現れている。多くの人にとって「正常な状態」の自分の体には興味が持てないのだ。「うまく行っているなら、それでいい」。これは、自動車などの所有物の構造にいちいち興味を持たないのと似ている。壊れて初めて「ラジエター」が何なのかを調べる。
 しかし、車と自分の体は違う。身体というハードは、そのまま「私自身」を構成しているのだ。解剖学を知ることは、正に「セルフ・コンシャス」な行為であり、自身の物質性というものに意識的になれる刺激的な学問である。わたしたちは自然状態(かつ健康)だと、どうしても「こころ」というソフトに傾きがちだ。巷では、骨盤矯正や頭蓋骨矯正など身体を改善させる行為やグッズがあふれているが、どうも情報のいいとこ取りで済ませている印象を受けることがある。自分の身体がどのように出来ているのかを基本知識として知っているなら、乱れがちなこれらの情報に流されずに済むかもしれない。このようなメディア・リテラシー的な目的でなくとも、せっかく生きている間お世話になる身体だと思えば、知っているのも損ではないと思う。
 解剖学に詳しい知人が以前、「全身骨格を一体分持っているよ。体の中にね」と言った。そのような身体感覚は面白いと思う。私自身の感想だが、解剖学を知ることで、身体性の扉が一つ開く。それは、自分自身そして自分以外の生きている存在に対する見え方を大きく変えるほどの刺激に満ちている。これほど身近で(何せ自分自身の問題なのだから)、全てに関わってくる学問が、「医学のもの」のように思われていることが残念に感じる。自身の身体は、誰のものでもない。知識の扉に鍵は掛けられていない。多くの人にその扉を開けてもらえればと思う。

2011年2月23日水曜日

Locking Piece 彫刻の強度


 「噛み合った形」という作品.彫刻に必要な要素のほとんどが理想的な形状によって表現されている.1963年にヘンリー・ムアによって作られたこの彫刻は,3つのピースの組み合わせで成り立っている.大きな形状が上下に重なり,その間に小さな板状の形状が挟まれている.これらのピースが実際に3つであるのか,実際には単体で作られているのかは知らない.
 ムアが,作品のヒントとして,彼が拾い上げた様々な自然物の形状を用いていたことは知られている.この作品が,骨をヒントとしていることはこの形状から明らかだ.上下の大きなピースは,主に2カ所で合わさっており,その片方は上の部位を下側が包み込むように噛み合って(ロッキング)いる.もう1つは,間に小さな板を介して合わさっている.骨で言えば,噛み合っている部分が関節部位である.板を介している方は,さながら椎骨と椎間板である.実際,椎骨の関節部位は,この作品と似た組み合わせを見せる.更に言えば,人体での腰椎の関節に近い.それは多分,他のほ乳類でも似ているだろう.椎骨は,ダルマ落としのように似た形状の骨が上下に重なっている.そして,上と下が重なることで,その間に神経が通るトンネルが作り出される.単体ではなく,複合体となることで形状に意味が現れるのは,この作品と同じである.
 骨の美しさに気がつく芸術家は少なくないが,その美的要素を抽出し,彫刻として自立させることに成功した作家はムアしかいない.これは,ムアが,美に流されず,それをコントロールする術を身につけていたことを意味している.自然物の美しさの要素は「きりがない」ので,受け取る側に明確な意志がないと,まとまりが付かないものである.ムアの作品から読み取れる要素を集約すると,大きな面と大きな量,になると思われる.実はこれは,彫刻に強度を与える重要な要素である.

 かつて,彫刻家の佐藤忠良が,ムアの凄さとして,小さなマケットを拡大しても作品の強さが変わらないことをあげていた.ムアは,掌に収まるような小さな試作から始めて,それを1メートルほどの「ワーキングモデル」に拡大し,最終的には数メートルに及ぶ作品に拡大するという行程を取っていた.大作の構成は全て掌の上で生まれたものである.作品の密度が,サイズによって変化することを知っていた佐藤忠良は,マケットと巨大な完成作が同様の緊張感を保っているムアの作品に驚いたのである.
 この「マジック」のタネこそが,「大きな面と大きな量」にあると私は考えている.この作品に近づいて見ると,表面にはヘラやヤスリによるおおざっぱなテクスチュアが付けられているに過ぎない(これも重要な要素だが).ムアはとにかく,「大きな面と大きな量」を動かすという,”軸”から外れることなく作品を作っていたことで,作品の強さを変化させなかった.また,掌でマケットを作っているときから,頭の中ではそれが数メートルに拡大された時の事を考えていたはずだ.彼は,作品を小さな物から拡大するのではなく,自身が小さくなったり大きくなったりして,自分の作品を見ていたのだろう.

 大きな量と量がぶつかり合って,1つの形を成す.その間にはトンネルが作られ,「実」の量の挟まれた「虚」の量が表される.それは,何かが通る予感である.それらは,全体をまとめる大きな面を乱すことはない.いや,それらの要素によって大きな面が作られている.
 彫刻的な強さ,美しさには,細部など重要ではない.作品がそれを証明している.

 画像はネット上から無断で転載

2010年11月21日日曜日

体の基本は骨?

 骨は体の中にあり生前はそれを見ることはできない。体を強打して、内側にある骨を折ってしまえばたちまち動きを奪われる。また、死して最後まで残るのは骨であり、それは内側に一本のスジを通しているかのように見える。それらの経験的な理由から、私たちは、体を柔らかい部分と硬い部分に大まかにわけ、硬い部分は骨格が担うことになった。そして、内側にあって、硬く、体を支えるという性質から、そこに「芯棒」と同様の性質を結びつける。すなわち、体の基礎は骨格にあり、というものだ。これは、芸術の実技においても同様であり、まず内なる骨を理解すべき、という考え方は古くルネサンス期からある。

 骨、骨格。その印象は、白いもしくは象牙色で、硬く、乾いている。それは、紛れもなく「死んだ骨」から来ている。「生きた骨」と聞くと、ガイコツがカタカタと動いている様を想像もするが、そうではなく、生きている私たちの体内にある骨のことだ。生きている骨と死んだ骨は、その性状がだいぶ違う。生きた骨は血が通い、外部刺激に対応して刻一刻とその形状を変えている。そしてそれは、死んだそれと違い、柔軟性を持っている。細かく、細部へと眼をやれば、骨から骨膜、そして軟部組織へと性状は徐々に変化してゆく様が観察される。料理屋で出される「骨に肉を巻き付けて焼いた」ものとは違って、本質的には両者は分けられるものではない。
 それでも、「骨は体の芯」という概念は一般に理解しやすいので、広く浸透している。体は骨とそれ以外から出来ていて、全体の運命を握っているのは芯である骨という考えだ。「骨の歪みを直す」といううたい文句は良く目にする。

 粘土で造形する彫刻を塑造と言うが、そこでは、まず始めに心棒を組み立てる。そうして、そこに粘土を付けて造形してゆく。このときは、まさに、芯棒こそが重要であって、いくら顔のしわが上手に作れようとも、心棒のバランスが崩れていれば、全体の比率の狂いは直しようもない。それを修正するには、それこそ芯棒という「骨」の歪みを直さなければならない。芯棒は、その像のサイズによって素材は様々だが、平均的な人体像ならば、木の角材に針金や縄などが用いられる。
 さて、人間の骨格は角材のようにシンプルだろうか。骨格を構成する骨の一つ一つにはその周りを囲っている組織(ほぼ筋や腱)のありようが、表面に刻まれている。つまり、骨の形状は、骨以外のものに依っているのである。こういうところからも、体は”まず骨があって、そこにそれ以外がつく”のではないことがわかる。
 発生学的に見ても、まず骨ありきではないことがわかる。体で一番始めに作られるのは腸であって、硬い骨を手に入れるのはむしろずっと後のことである。しかしながら、私たちの遠い祖先が、太古の海を離れ、川を遡り、陸へ上がるという大業を成し遂げられたのは、この体内にある硬い骨を手に入れたからこそであり、さらに言えば、生物の生存競争において優位に立てたのも、硬い骨による運動エネルギーの効率的伝搬があったからである。私たちが、死後残された骨になにがしかを感じ取るのは、そんな、ここに至る成功への道程を本能的に思い至っているのかとさえ思う。

 人体という、とりとめのない相手を理解しようとするときに、硬くて扱いやすい骨がランドマークとして適していることは明らかである。しかし、生体においては、それが塑像の芯棒のように存在しているわけではないことも同時に理解しておきたい。

2010年7月1日木曜日

解剖学への興味

解剖学に興味を持ったのは、遠く大学生の頃。美術解剖学の講義の名前、その「解剖学」というフレーズに何か惹かれるものがあった。そう言う人は少なくないと思う。
決定的なのは、2年生の頃の解剖見学だった。その日の朝と夕方では世界が変わってしまった。もう、知る前に戻れないという事実を眼前にして、興味本位で見学した行為を後悔さえした。しかし、その時にそっと心に結わい付けられた解剖学と繋がる興味の糸は外れることがなかった。

解剖学の面白さは、じわじわとくる。しかも、面白さに段階があって、それぞれの興味範囲でも楽しめるようになっている!
自分の経験を元に考えると、初期段階は、骨だ。やはり、カラリと乾いているし、そのまま置いておける身近さも手伝って、その形状にまず惹かれるのはもっともである。
骨は、まもなく連結した「骨格」への興味へと移るだろう。一緒じゃないかと思われるかもしれないが、単独の骨と連結した骨格は、全くと言っていいほど興味所が違う。骨格では、関節の可動や、連結した骨同士によって意味をなす構造などが見所になる。
骨格に満足すると、そこに付着していた筋肉が気になる。それが次段階だ。なにせ、今まで見ていた骨の形状を規定しているのは、それにまとわりついていた筋によるのだから。すると、筋の付き方の精緻さとそれが生み出す運動の複合構造が見えてくる。骨格と筋で、体表を成す凹凸のほとんどが構成されている。こうなると、体表の凹凸を知るのに、体表筋だけを見ていたのでは物足りない事に気付く。
人体の形状を成す構造をメインとして見るなら、ここまでで一段落付く。ところが、本当の面白みはこの次から現れるのだ。

この先にあるのは、血管。体表のすぐ下を走行する静脈もある程度の規則性があるから、知っておくと造形にも役立つが、そこから脈管系に入り込み、また、筋の運動を制御している神経系に入り込む。そうしてなだれ込むように、内臓系へと入ってゆくと、全てが切り離すことが出来ない機能と構造の環を成していることが分かり、もはや、筋だ骨だと言っていられなくなる。言わば、系統的な見方に局所的な見方が加わる。
そして、それらがどうしてその形になったのかを知るヒントとして、発生学にも首を突っ込んでしまう。これが、これで凄まじく深くかつ面白いのだ。
こうしている内に、ふと自分の存在の見え方の基底が変化してゆくのに気がつく。個と全体、命の流れの一瞬としての今・・。
そんな生の哲学めいたことも、誰かに用意された言葉や思考機序によって発見されるものではなく、生命存在の事実から導き出されるから素直に染みこんでゆく。
そうしてここからは、形状(構造)とそれが織りなす生命(機能)が生み出す留まることを知らない好奇心の波にのまれてしまう・・。

解剖学は、生命を「生命」という看板が付いたつかみ所のない概念に落ち着かせない。それを、「生物」という確固として存在している物体から見いだされる現象であることに引き返させてくれる。
私は、ここに解剖学が持つダイナミクスを感じるし、情報という概念が一人歩きしがちな今にあっては、ひとの存在のあり方を見返す為のツールにさえなり得ると思っている。じゃあ、具体的にどうするの?かと言われると、まず中高基礎教育に解剖学を取り入れたらどうだろうか(もちろん人体解剖は無理だけど)。ただ、解剖学は進める順序が重要で(何でもそうだろうが)、いきなり内臓だ骨だと言っても伝わらないから、そこは考えなければならないだろう。
まあ、単なる思いつきにすぎないが。

とにかく、そんなことを柄にもなく考えてしまうくらい、解剖学は自分を含めた命ある物の存在について多くの示唆を与えてくれるのである。

2010年5月19日水曜日

体に残る「節(ふし)」

節のある動物と聞くと、何を思い出すだろう。ある人は昆虫かもしれない。芋虫かもしれない。ミミズかもしれない。それは、体の頭からおしりへ向かって体を区切っている横線として描かれる。
それら節のある動物を気味悪く感じる人は多い。

しかし、私たち自身の体も「節」がある。そう言われてもピンとは来ない。自分の裸を鏡で見ても、どこも区切られておらず、一枚の皮膚で全身が覆われている。実はそれは、体の中にある。背骨をイメージして頂けるとピンと来るだろうか。背骨は椎骨と呼ばれる骨が縦に連なり、個々の椎骨の間に軟らかい組織が挟み込んでいる。ここだけを見たら、まるで節足動物だ。節足動物はこの節の内側に筋肉を詰め込んでいる。私たちはこの節の外側に筋肉をまとった。彼らと私たちは表裏を分けた関係だ。

そう言っても、体に横線のある芋虫やミミズのようではないと思われるだろうが、運動の為に特殊化した腕と脚を想像で取り除いてみると、残された胴体には横線があるではないか。それは、脂肪が少なくてほどよく鍛えた腹部に見られる。腹筋の横割れ線こそ、芋虫の横線と同じだと言うと悪趣味だろうか。とは言え、背骨を初め、胴体の背中の深い筋肉や肋骨の連なり、腹筋の割れなどは体節と言って、ボディプランの古いデザインがそのまま継承されているのは事実だ。

では、頭はどうだろう。頭に横線がはいってグネグネ蠢かれたらさぞホラーだろう。実際、外見で頭部に分節性を見いだすことは不可能だろう。しかしながら、中に収まる大事な器官「脳」には、分節性をにおわす構造が見て取れる。進化的に見ても、体が出来て頭が出来るのだから、体が持っている分節性を改変させて頭を作ったと考えることもできる。
頭を構成する様々な器官は、かつて魚のエラであったものを作り替えている。エラは数対あったわけだが、それも分節性を物語っていると言える。

お尻の先には、3つか4つの尾っぽの骨が残っている。骨と骨の間に横線を描いて。
頭の先からお尻の先まで、私たちは体の中にフシを隠し持っている。

2009年12月21日月曜日

骨と彫刻


骨と聞くと、普通は死や不気味な印象を持つだろう。動物が死なない限りは骨は見られないのだからその連想に間違いはないが、そこで引き返してしまわずに、一歩近づいてそれを見て、手に取ると、誰でもそこに形の美しさを見いだせると思う。とは言え、現代社会では、道ばたに骨が転がっているわけでもないし、裏庭で羊をさばくこともないから普通に生活しているとその美しさにふれる機会もないのが実情だ。博物館で骨格標本を見ることは出来るが、ガラスケース越しに学術的な趣で鎮座しているそれでは、形の美しさまで見出すのもなかなか難しいかもしれない。それでも、今はインターネットがある。ネットオークションでは、動物の骨が多く出品されている。アメリカなら売れば逮捕されるような希少動物の骨もなぜか日本では”今のところ”おとがめがないようだ。また、海外では動物の骨格専門の業者などもネットショップを出しているので、それらから購入することも出来る。金にまかせるのではなく、自然な出会いが欲しければ、海岸に行くと良い。台風後などは色々な動物が打ち上げられているそうだ。潮がぶつかる浜が良い。五島列島は鯨が上がると聞く。山も、浜のように豊富とはいかないだろうが、運が良ければ動物の骨を拾うことが出来る。そういう気構えで行くと宝探しのようで楽しいものだ。

美しい形態を探している彫刻家には、骨の形態に興味を持つひとが多いように思う。ヘンリー・ムーアは、骨の形をそのまま素直に作品に活かしていることが知られている。ムーアのようにモチーフとしないまでも、直感の源泉として骨を所持している作家は多いのではないだろうか。
実際、骨のかたちは実に彫刻的である。彫刻的な美を所有する形状を学ぶのにこれほど適した教材はないと思う。立体美を考えるときに思い浮かぶような要素の殆どを骨から見出すことが出来るからだ。

地面に転がる一つの骨も、理科室の人骨も、どちらも骨と言うが、英語では、一つなら「a bone」、複数なら「bones」で、理科室の物のようなのは「skeleton」となる。スケルトンは、日本だと内部機構が見える腕時計をスケルトン仕様というので、「透けるトン」だと漠然と思っている人が意外と多いが、「骨格」という意味だ。

人体の骨格は、200以上の骨から成っている。そんなに多いかと思うが、左右対称なのと、手足部分の細かい骨達のおかげもあってカウント数を稼いでいる。また、一個だと思いがちな頭の骨も実は23個の骨の集合体なのである。耳の中の小さな骨も入れれば29個にもなる。

骨ひとつひとつが彫刻的な示唆を含んでいるが、その最たるものが頭蓋骨と言っていい。ただ、頭蓋骨は動物によって形が全く違う。マッスを感じるには、大きな脳頭蓋(脳を納める部分)を持つ人間のものが最高だが、これは模型で我慢しなければならないだろう。だが、模型はあくまで模型で、骨の持つ良さが実はもう100分の1程度しか感じられない。いずれにせよ、ほ乳類は全般的に大きな脳頭蓋をもち、そこに内から張り出すマッスを感じ取ることが出来る。それだけでなく、内側が空洞であるということも要素として大きい。彫刻は外側しか鑑賞しないものだが、物性はソリッドなのかホロウなのかも実は大きく関係してくるものだ。もし、中まで土でつまった有田焼の壺があったら、どう思うだろうか?ギリシア彫刻の内部がスチロールだったら?
そして、複数の骨が巧みに組み上がって一つの形を成す様は、部分と全体の関係性を考えさせる。その合わせ目が凹凸を縦横に横切って走る様も彫刻における表面の見え方にヒントを与えるものだ。筋が収まるための窪みも、陰と陽の重要性を語るだろう。

頭の骨以外も、背骨など要素に富むが、中でもとりわけ際だって魅力的な骨がある。それは、足首の骨、距骨(きょこつ)だ。頭蓋骨のように組まれた構造ではなく、単一の骨で彫刻的な要素を持っているのは距骨だけだと思う。背骨を構成する椎骨も良いが、これは体の真ん中にあるからシンメトリーで、そこが形態に過剰な単調さを与えてしまっている。距骨は左右に一つずつだから、単一だとアシンメトリーになり一見では捉えきれないような形状になっている。構造体としても、上から降りてくる体重を足に伝えつつ、足首の運動の軸となる部位であり、その複雑な働きが形状として現れているのだろう。回転運動の為のなめらかな滑車や靱帯が付着するための溝などが交差して非常に魅力的な形状を成している。
人の距骨も美しいが、他の動物もやはり魅力的だ。その形は昔から愛されていた。古代ギリシアでは、動物(おそらく山羊の仲間)の距骨がサイコロとして使われていた。そして、その形を模した壺なども多く作られた(画像)。それは単なるサイコロ以上の愛着を感じていた証ではないか。現在でも、モンゴルでは伝統的な遊びの駒やサイコロとして羊の距骨が使われている。彼らは遊牧民族で山羊は身近な存在である。彼らもサイコロとしてだけでなく、お守りとしての意味もそれに与えている(オオカミの距骨など)。

骨は、人類が遠い昔から見つめてきた形だ。先史時代の骨を削った彫刻も発見されている。私たちは、ずっと昔から骨の形より直感を得てきたのだ。そう考えると、骨に彫刻的要素の根源を見るのもおかしいことではないように思う。

画像は共にネット上からの無断借用。