2010年11月22日月曜日

原始的感覚と彫刻

 私は、彫刻という芸術のジャンルこそ、全ての純粋芸術において、もっとも原始的な感覚を保持しているものだと信じている。そして、芸術というものが人に与える快楽が、感覚の原始的な部分から沸き上がってくるものであるなら、彫刻こそが、人々をそこへ「直接的に」導くことが出来るものであろう。その純粋性の高さゆえに、もはやその感覚は動物的でさえあり、その原始性によって理性やら論理やらに惑わされることから守られている。

 新生児は、まだほとんど視力が働いていない時から、その小さな掌に大人が指を置けば、力一杯に握ってくる。私たちがこの世に生まれて初めてたよりにする感覚は触覚である。そして、やがて追いついてくる視覚と触覚が結びつくことで私たちの「触覚的経験」は奥行きを増してゆく。尖ったものを「見て」、それに「触れる」ことで、次からは尖ったものを見るだけでもあのチクリとした感覚をありありと蘇らせることが可能になる。

 物をつかむ、物に触れるという感覚は、私たちに安心感をもたらす。それは、幼い頃に親に抱かれた肌の感覚もあるだろう。
 しかし、幼少時の記憶といった個人的追憶に依らなくとも、私たちは物をつかむことに安心感を得る理由を見つけることが出来る。それには、手を見ればいい。手の平を開けば、5本の指の腹が見えている。親指の腹だけは、斜めに内側を向いている。そこで物をつかむように指を徐々に曲げ始めると、人差し指から小指の4本はそろって曲がってゆくが、親指だけはその根本から他の指とは違うダイナミックな動きを始めるのが分かる。伸ばしていたときは皆一列に並んでいたのが、曲げ始めると同時に、親指だけはそこから急速に離れ、その腹は弧を描くように回転し、たちまち他の4本の指の腹と対向する向きを取るのである。
 物を握って離さないための手。私たちの体には、物をつかむための機構が生まれつき備わっている。この手は、私たち人類がここまでやってきた道程を示している。この手は、かつて木の枝をしっかりと握り全体重を支えるものだった。長い腕、可動域の広い肩、そして4指と対向する母指。そして、立体視の出来る眼。この組み合わせが、私たち人類を他の動物より優位に立たせる強力なツールとなった。やがて、木から下りると、この手は道具を作るようになる。身を守る武器を握った。大きな獲物を運んだ。火をおこした。
 私たち人類の進化は、物をにぎるという動作と切り離すことが出来ない。極端に言うなら、”握るために変形した手”を持つほどに、物を握ることを宿命づけられている動物なのだ。脳における体性感覚の分布を視覚的に表した有名な図(もしくは像)があり、「感覚のホムンクルス(人造人間)」と呼ばれる。これを見ると、人間にとって掌から得る触覚がどれだけ重要なのかが一目で分かるだろう。
 これほどに、握ることに頼り、生きてきた人類。触れる感覚からもたらされる安心感は、触覚に対する信頼感に繋がっているに違いない。

 この人類の存在に関わる、深い部分に根ざした感覚を揺さぶる芸術が彫刻である。歴史に残る傑作といわれる彫刻の多くは、かならずこの触覚をくすぐる要素を持っている。芸術のクライアントは、鑑賞者の感性つまり原始的感覚であり、ならば、そこが共鳴する作品が多くの共感を得るのも納得がいくのではないか。

2010年11月21日日曜日

体の基本は骨?

 骨は体の中にあり生前はそれを見ることはできない。体を強打して、内側にある骨を折ってしまえばたちまち動きを奪われる。また、死して最後まで残るのは骨であり、それは内側に一本のスジを通しているかのように見える。それらの経験的な理由から、私たちは、体を柔らかい部分と硬い部分に大まかにわけ、硬い部分は骨格が担うことになった。そして、内側にあって、硬く、体を支えるという性質から、そこに「芯棒」と同様の性質を結びつける。すなわち、体の基礎は骨格にあり、というものだ。これは、芸術の実技においても同様であり、まず内なる骨を理解すべき、という考え方は古くルネサンス期からある。

 骨、骨格。その印象は、白いもしくは象牙色で、硬く、乾いている。それは、紛れもなく「死んだ骨」から来ている。「生きた骨」と聞くと、ガイコツがカタカタと動いている様を想像もするが、そうではなく、生きている私たちの体内にある骨のことだ。生きている骨と死んだ骨は、その性状がだいぶ違う。生きた骨は血が通い、外部刺激に対応して刻一刻とその形状を変えている。そしてそれは、死んだそれと違い、柔軟性を持っている。細かく、細部へと眼をやれば、骨から骨膜、そして軟部組織へと性状は徐々に変化してゆく様が観察される。料理屋で出される「骨に肉を巻き付けて焼いた」ものとは違って、本質的には両者は分けられるものではない。
 それでも、「骨は体の芯」という概念は一般に理解しやすいので、広く浸透している。体は骨とそれ以外から出来ていて、全体の運命を握っているのは芯である骨という考えだ。「骨の歪みを直す」といううたい文句は良く目にする。

 粘土で造形する彫刻を塑造と言うが、そこでは、まず始めに心棒を組み立てる。そうして、そこに粘土を付けて造形してゆく。このときは、まさに、芯棒こそが重要であって、いくら顔のしわが上手に作れようとも、心棒のバランスが崩れていれば、全体の比率の狂いは直しようもない。それを修正するには、それこそ芯棒という「骨」の歪みを直さなければならない。芯棒は、その像のサイズによって素材は様々だが、平均的な人体像ならば、木の角材に針金や縄などが用いられる。
 さて、人間の骨格は角材のようにシンプルだろうか。骨格を構成する骨の一つ一つにはその周りを囲っている組織(ほぼ筋や腱)のありようが、表面に刻まれている。つまり、骨の形状は、骨以外のものに依っているのである。こういうところからも、体は”まず骨があって、そこにそれ以外がつく”のではないことがわかる。
 発生学的に見ても、まず骨ありきではないことがわかる。体で一番始めに作られるのは腸であって、硬い骨を手に入れるのはむしろずっと後のことである。しかしながら、私たちの遠い祖先が、太古の海を離れ、川を遡り、陸へ上がるという大業を成し遂げられたのは、この体内にある硬い骨を手に入れたからこそであり、さらに言えば、生物の生存競争において優位に立てたのも、硬い骨による運動エネルギーの効率的伝搬があったからである。私たちが、死後残された骨になにがしかを感じ取るのは、そんな、ここに至る成功への道程を本能的に思い至っているのかとさえ思う。

 人体という、とりとめのない相手を理解しようとするときに、硬くて扱いやすい骨がランドマークとして適していることは明らかである。しかし、生体においては、それが塑像の芯棒のように存在しているわけではないことも同時に理解しておきたい。

2010年7月21日水曜日

頭と頚

芸術における人体表現で、肖像というジャンルがある。肖像において一義的に重要なのはそれが誰かということだ。どこの誰でもない肖像というのは元来存在しえない。しかし、芸術家はそこに自身が持つ芸術的信念や技術を反映させることで、それが誰であるかは一義的には重要ではない、芸術作品として独立しうる物にしようとする。そのように、芸術的な側面を強く押し出されたものは、肖像と呼ぶよりも頭像や首像(しゅぞう)などと呼ぶ方がしっくりくる。
首と頭部という体の一部を切り取って表現しても成り立つというところに、我々にとって顔がいかに重要なのかが分かる。

首像において、頚は重要な部位である。頭と体をつなぐこの部位は、明確なランドマークがないから簡単なようで難しい。ここをないがしろにして作られた作品は頭の所在がうわついていて見るに堪えない。
生体としても、頚は重要な部位だ。頚が固定されてしまえば日常の動作が著しく阻害されるし、かといって、可動性の為に細くなっている故に弱く、様々な外傷を負いやすい。この細い幹の中には脳と体を繋ぐ重要な神経も通っているし、脳へ血液を運ぶ重要な血管も浅い部分を通らざるを得ない、言わば急所である。
頚は、私たちが水中から陸へ上がってから獲得した部位だ。だから頚がある魚はいない。頚を獲得したことで、いちいち体全てを動かさなくとも、特殊感覚器がまとまっている頭だけを動かせるようになった。
この頚が、魚で見るとどこにあたるのか。腕は胸びれと対応するから、頚は魚のエラと胸びれの間が細く伸びた感じである。この時エラは上下に分けられてしまったから、今でもエラの名残が、頚の位置と心臓の上あたりの両方にある。魚を基準にして頚と体を区分けするなら、心臓の乗っている横隔膜あたりまでが頭だから、心臓はアゴ下にあって腕は頭から生えているような感じになる。

芸術では、胸像という区分けもある。字の如く、頭から胸あたりまでを表現するのだが、上記の区分けで見れば、これはまだ頭の範囲であるから、魚から見ればこれも頭像となるのだろう。

2010年7月6日火曜日

野生の美 内蔵

存在の調和が取れているものは、概して美しさを持っている。 そして、生き物のそれは「野生」ほど強く、飼い慣らされたものは(人為的な美しさはあれども)、それが弱い。
実際、家畜化された動物は、保護によって不要になった機能が退化して、そこに醜さが見られる。分かりやすい部分では、歯並び。野生動物の歯並びは非常に美しく、また、虫歯などもない。これが、家畜やペットのものになると、ガタガタで歯石だらけとなり、虫歯や歯槽膿漏にもなる。この症状は人間と同じだ。人間は、社会化という形で自己家畜化を進めたと言われるが、骨格の変成からもそれが伺えるのである。
他に、頭蓋底の形状なども人類のそれは野生動物と比べると、落ち着きがない。ガタガタしている。
目立たないけれど、腕や脚などの運動器にも同じような変化はあるのだろう。要するに、これら変化する部分は、体が外世界と関連しある部位なのである。体は本来、厳しい外世界に対応するように長い進化の時間をかけて作られた。それとバランスが取れるようになっている。しかし、家畜化により本来の性能が必要とされなくなりバランスが崩れ、それが様々な障害や「醜さ」として見えてくるわけである。言わば、300キロで走り続けるように作られたレーシング・カーを街乗り車として使うような強引さがそこにはある。

これが、内蔵になると見え方が変わる。内蔵、それも消化器は、食物の変化という形で外世界の影響を受けるが、それは運動器と比べるならわずかなものと言える。それに、食物が消化され栄養が吸収される過程そのものはなんら変更はない。その意味で、内蔵は家畜化されるか否かでの変化が少ない部分であろう。また、腸など一定の形態を持たないせいもあるだろうが、”内臓は家畜よりも野生のほうが美しい ”とは言えない。内臓はまだ野生を保っていると言えるのかも知れない。

内臓には調和による美を見いだすことが出来る。生きている状態での腹腔内が仮に透視できたとしたら、色鮮やかで張りがあって綺麗にまとまり、一定の調和をもって活動しているさまが見えるだろう。 そこには、外見からだけでは決して知り得ない、もう一つの色彩と量感の美があるのだ。私たち皆が持っている、野生の美である。

2010年7月1日木曜日

解剖学への興味

解剖学に興味を持ったのは、遠く大学生の頃。美術解剖学の講義の名前、その「解剖学」というフレーズに何か惹かれるものがあった。そう言う人は少なくないと思う。
決定的なのは、2年生の頃の解剖見学だった。その日の朝と夕方では世界が変わってしまった。もう、知る前に戻れないという事実を眼前にして、興味本位で見学した行為を後悔さえした。しかし、その時にそっと心に結わい付けられた解剖学と繋がる興味の糸は外れることがなかった。

解剖学の面白さは、じわじわとくる。しかも、面白さに段階があって、それぞれの興味範囲でも楽しめるようになっている!
自分の経験を元に考えると、初期段階は、骨だ。やはり、カラリと乾いているし、そのまま置いておける身近さも手伝って、その形状にまず惹かれるのはもっともである。
骨は、まもなく連結した「骨格」への興味へと移るだろう。一緒じゃないかと思われるかもしれないが、単独の骨と連結した骨格は、全くと言っていいほど興味所が違う。骨格では、関節の可動や、連結した骨同士によって意味をなす構造などが見所になる。
骨格に満足すると、そこに付着していた筋肉が気になる。それが次段階だ。なにせ、今まで見ていた骨の形状を規定しているのは、それにまとわりついていた筋によるのだから。すると、筋の付き方の精緻さとそれが生み出す運動の複合構造が見えてくる。骨格と筋で、体表を成す凹凸のほとんどが構成されている。こうなると、体表の凹凸を知るのに、体表筋だけを見ていたのでは物足りない事に気付く。
人体の形状を成す構造をメインとして見るなら、ここまでで一段落付く。ところが、本当の面白みはこの次から現れるのだ。

この先にあるのは、血管。体表のすぐ下を走行する静脈もある程度の規則性があるから、知っておくと造形にも役立つが、そこから脈管系に入り込み、また、筋の運動を制御している神経系に入り込む。そうしてなだれ込むように、内臓系へと入ってゆくと、全てが切り離すことが出来ない機能と構造の環を成していることが分かり、もはや、筋だ骨だと言っていられなくなる。言わば、系統的な見方に局所的な見方が加わる。
そして、それらがどうしてその形になったのかを知るヒントとして、発生学にも首を突っ込んでしまう。これが、これで凄まじく深くかつ面白いのだ。
こうしている内に、ふと自分の存在の見え方の基底が変化してゆくのに気がつく。個と全体、命の流れの一瞬としての今・・。
そんな生の哲学めいたことも、誰かに用意された言葉や思考機序によって発見されるものではなく、生命存在の事実から導き出されるから素直に染みこんでゆく。
そうしてここからは、形状(構造)とそれが織りなす生命(機能)が生み出す留まることを知らない好奇心の波にのまれてしまう・・。

解剖学は、生命を「生命」という看板が付いたつかみ所のない概念に落ち着かせない。それを、「生物」という確固として存在している物体から見いだされる現象であることに引き返させてくれる。
私は、ここに解剖学が持つダイナミクスを感じるし、情報という概念が一人歩きしがちな今にあっては、ひとの存在のあり方を見返す為のツールにさえなり得ると思っている。じゃあ、具体的にどうするの?かと言われると、まず中高基礎教育に解剖学を取り入れたらどうだろうか(もちろん人体解剖は無理だけど)。ただ、解剖学は進める順序が重要で(何でもそうだろうが)、いきなり内臓だ骨だと言っても伝わらないから、そこは考えなければならないだろう。
まあ、単なる思いつきにすぎないが。

とにかく、そんなことを柄にもなく考えてしまうくらい、解剖学は自分を含めた命ある物の存在について多くの示唆を与えてくれるのである。

2010年6月29日火曜日

美の調和

優れた芸術は、押し並べて調和を保持している。それは色彩であったり、音階であったり、陰影であったりと表現領域によって様々であるが、必ず調和をもって成り立っているものだ。これを、私たち鑑賞者は言葉に出来ない心地よさとして認知し、それを「すばらしい」と表現する。つまり、作家でなくとも調和の心地よさを知っている。それを良しとする能力をそもそも持っているのである。
それは、生命体として今まで生きながらえてこられた経験がそのような感情としてわき上がらせるのかも知れない。ある生命体はそれを取り囲んでいる環境との調和が保たれていなければ淘汰されてしまうからだ。生命誕生から35億年の長きにわたり続いてきた生命の流れ。これまで、無数の生命が調和を保てずに絶滅してきた。いま生存している生命体は、その意味で調和のバランスを保てている成功者であり、長く存在を許された「命のヒット作」とも言えるだろう。
調和を美とする私たちは、そうしながら、今まで生きながらえてこられた自分たちの潜在能力を讃えているのかもしれない。

2010年6月24日木曜日

物を見て触る

私たちは、感覚を持っている。生まれたときから当たり前のものとして機能している感覚。この感覚が無ければ私たちは自分の周りの事象を一切知ることができない。そのことを思うと、感覚の意味合いが変わる。
さて、解剖学では、感覚を幾つかに分けて考える。皮膚で感じる感覚は一般感覚。頭にある目、鼻、耳、舌で感じるものを特殊感覚と大きく分ける。また、それが意識下に上るのかどうかで、体性と臓性と区別もする。

頭部に集中する特殊感覚、目鼻耳を獲得したという進化上の事実は全く驚愕に値する。このうちどれか1つが欠けると、日常生活はとたんに困難さが増す。これらは、受容器として分かれているが、脳においてはそれらの情報は相互に補完し合い、統合された外部情報として扱われる。だから、音で見え方が変わったり、その逆もしかり。料理では、盛り合わせと香り付けは重要である。

目鼻耳のそれぞれの依存度は動物によって違う。人間は目の依存度が大きい。左右の目が仲良く並んで正面を向き、立体視を可能にしている。色盲が多いほ乳類において例外的に色覚を持っている。
この強力なツールと、自由に物をつかめる器用な手。この名コンビが人類を地球上で秀でた種に押し上げてくれた立役者だ。見て、触れる。見るだけでは足りない。触れるだけでも足りない。両者の情報の結合が要る。その蓄積が、物作りの経験となり、道具を作り操るという人類の特徴たる性質を構築した。

情報化が急速かつ高度に進んだ今、私たちは情報の利便性を日々”体感”している。情報を阻害するのは物質である。情報をより円滑に統合するには物質性を排除していかざるを得ない。iPhoneは物質的形状としてはもはやモノリスとなった。
情報至上主義的な流れは、芸術にも当然押し寄せている。もともとアート寄りの人間は新しい事象に敏感だから、そうなるのも分かる。とは言え、表現媒体としては以前からある素材(画布に油絵、木彫などなど)を用いていたりするから、どっちつかずの感があふれている。要するに、作家も物質と情報の間を揺れているのだろう。

情報を重視すると、物質を見なくなる。人を表現したいとき、情報としての人で十分ならば、モデルを立たせて観察し造形する必要などない。壁に「人」と書けばよい。
今の芸術、それもより物質と関連する彫刻でこの問題は静かにかつ深く問題になっていると感じる。人を作る作家が、人の形状や構造に興味を示さない。「雰囲気・気配」さえ出ればそれで良いということだろう。

美術解剖学というものがある。間口はとても広い。それは、人の見方を示している。人を見るには、人は物だという事にまず気付く必要があるだろう。そうして、目新しい物を観察するように見ていくと、広い間口の一歩奥に、別の扉があることに気付く。そうして奥へ奥へと進むにつれ人体と芸術のただならぬ面白さの連関に飲まれる。ここからが、人体、芸術、彫刻を追うことの快楽の真の入り口なのだと思っている。そしてそこが美術解剖学の本当の入り口でもあるのだろう。
そして、奥へ進む手段として外せないのが、見ることと触ることなのである。人間を「人体」として片付けない。構造を「解剖学」で終わらせない。彫刻を「象徴」にしない。そっちへ安易に流れないために、自らの目で見て手で触れる。

芸術家の仕事は、情報の整理ではなくて情報の翻訳ではないだろうか。

2010年6月17日木曜日

体腔という空間

体を考えるとき、通常はその皮膚の内側は肉やら骨やらで完全に満たされたものとして捉えている。だが、その構造を見直してみると、体内は以外と空間が多い。もっともそれらは普段は圧迫されてはいるが。
分かりやすい例としては、口から肛門までの間の腸だ。物が通るのだから空間があるのは当然である。他にも肺もそうだし、血管も流動性の血液を考えなければ管状の空間があると言える。
これら想像しやすいものの他に、大きな空間がある。体腔と言う。肺、心臓、内臓全体を包括している空間である。つまり、肺や心臓や内臓の多くは肉の中に直に埋もれているのではなく、それらを包む空間のなかに収まっている。厳密に言えば、腹膜の外にあるそれらの臓器が体腔の膜と共に押し入っているのである。

この体内にある空間は、かつては体の外の空間だった。胚子期にそれが体内に取り込まれる。この外の空間は、母体内で私たちの体が浸っていた羊水ではなく、それをさらに取り巻いていたもので、言うなれば羊水という海(地球)を取り巻く宇宙空間である。

生命体の構造の複雑さから、それを「小さな宇宙」、「内なる宇宙」などと形容するが、私たちの腹の中にはまさに、全体を包括した空間が取り込まれていた。
この空間は生体では完全に閉鎖されているが、女性の腹腔は卵管を通して体外と通じている。女性の卵は毎月、腹腔内という「外空間」に生み出されただちに卵管に吸い込まれる。この、一度出してまた取り入れるという2段方式には何か秘密が隠されている気配がある。

ともあれ、私たちの体内には空間がある。この事実は、概念として彫刻との関連性を考える意味がある。ソリッドであるか、ホロウであるか。存在することの意味を問うならば無視することは出来ないし、事実作品性に大きな影響を与える要素である。
穴とそこから続く空間。その感覚。芸術における空洞の重要性を自らの構造とも照らして考えたい。

2010年6月5日土曜日

構造美人

「美人」という単語がある。通常は、女性に対して用いられるが、最近は、「イケメン」という対男性の単語も市民権を得た感がある。
美人とは何かは誰でも分かるだろうが、それを一般化しようとすると定まらない、おおざっぱで概念的な言葉でもある。
とは言え、それは顔を指しているのは確かで、それも正面から見た顔を思い浮かべるだろう。それは、私たち人間の顔面が著しく平坦化し、正面性を強めたことと、コミュニケーションの多くを発声と顔面筋の運動だけでまかなうようになったことと関係している。
黒目の両側に白目が常時見えている動物は人間くらいだろう。これがなかったら「目配せ」は出来ない。目が口ほどに物を言えるのも白目が見えるからこそだ。「芸能人の命」たる白い歯。私たちは親しい間柄の対話において、互いに幾度となく歯を見せ合う。両頬を上に持ち上げて(白目や白い歯という全反射し目立つ色の体構造を効果的に用いているのも興味深い)。顔面を赤くするのは緊張状態を表し、それが女性の唇に見られれば性的アピールにさえなる。
このような、顔面(まさに面planeだ)の重要性ゆえに美人も正面性のみが強調される。これは、短頭で平坦な顔面を持つアジア人の私たちにはありがたいことかもしれない。
しかしながら、そうはいっても、私たちの顔面は紙に描かれた面ではなく、頭蓋の構造から出来た凹凸があるわけで、それは、彫りの深い西洋人と同じである。私たちは、彫りが浅いのに過ぎない。
テレビなどを見ていると、そこに登場する女性は当然美しい人が多いが、構造的には正面性が強いひとがやはり多い。アイドルポスターがたるむと変顔に見えてしまうように、平面性の強い美しさは側面からの視点に少々弱さがある。
それでも、側面からでも美しさを保つひともいる。そういう人は頭部の構造そのものが美しいのだ。顔面のみならず、それが乗っかる頭部そのものが整っている。そういう人は構造美人とでも言いたくなる。
構造美人は、あらゆる視点に耐える美しさがあるから、平面性の強い私たちには憧れとなる。彫りの深い欧米人はこの点でアドバンテージがある。

この「問題」は、具象肖像彫刻でも見られる。のっぺり顔の日本人を、単なる立体似顔絵を超えて彫刻作品として成り立たせるのは、欧米人のそれを作るよりもハードルが高いことだと思う。それでもそのハードルを越えてきた優れた日本人の肖像彫刻はあるわけで、そこには作家の彫刻足らせるための努力が刻み込まれているのだと思う。

2010年5月19日水曜日

体に残る「節(ふし)」

節のある動物と聞くと、何を思い出すだろう。ある人は昆虫かもしれない。芋虫かもしれない。ミミズかもしれない。それは、体の頭からおしりへ向かって体を区切っている横線として描かれる。
それら節のある動物を気味悪く感じる人は多い。

しかし、私たち自身の体も「節」がある。そう言われてもピンとは来ない。自分の裸を鏡で見ても、どこも区切られておらず、一枚の皮膚で全身が覆われている。実はそれは、体の中にある。背骨をイメージして頂けるとピンと来るだろうか。背骨は椎骨と呼ばれる骨が縦に連なり、個々の椎骨の間に軟らかい組織が挟み込んでいる。ここだけを見たら、まるで節足動物だ。節足動物はこの節の内側に筋肉を詰め込んでいる。私たちはこの節の外側に筋肉をまとった。彼らと私たちは表裏を分けた関係だ。

そう言っても、体に横線のある芋虫やミミズのようではないと思われるだろうが、運動の為に特殊化した腕と脚を想像で取り除いてみると、残された胴体には横線があるではないか。それは、脂肪が少なくてほどよく鍛えた腹部に見られる。腹筋の横割れ線こそ、芋虫の横線と同じだと言うと悪趣味だろうか。とは言え、背骨を初め、胴体の背中の深い筋肉や肋骨の連なり、腹筋の割れなどは体節と言って、ボディプランの古いデザインがそのまま継承されているのは事実だ。

では、頭はどうだろう。頭に横線がはいってグネグネ蠢かれたらさぞホラーだろう。実際、外見で頭部に分節性を見いだすことは不可能だろう。しかしながら、中に収まる大事な器官「脳」には、分節性をにおわす構造が見て取れる。進化的に見ても、体が出来て頭が出来るのだから、体が持っている分節性を改変させて頭を作ったと考えることもできる。
頭を構成する様々な器官は、かつて魚のエラであったものを作り替えている。エラは数対あったわけだが、それも分節性を物語っていると言える。

お尻の先には、3つか4つの尾っぽの骨が残っている。骨と骨の間に横線を描いて。
頭の先からお尻の先まで、私たちは体の中にフシを隠し持っている。

2010年4月16日金曜日

物としての私

人を物の様に扱う、というのは失礼に値する。また、「心」や「たましい」は物質を指してはいないだろうし、心の問題を取り扱う「心理学」や「哲学」など、人間を非物質的な側面から考えることは、古くから行われてきた。思考したり、コミュニケーションでやりとりされる意思伝達は物ではないから、必然的にそこが強調されて見えてくるのは理解できる。また、人間社会では、私(あなた)が誰であるかという事よりも、何が出来るのか、もしくは何をしたのかで判断されるから、肉体的な個人はさして問題では無いかのようになっていく。肉体的な個人が売りのモデルや芸能人は別だが。
それに輪を掛けて、インターネット上では、ほとんど純粋に情報でのやりとりのみで個々の存在が成り立つようになった。それは、概念だけで成り立っている脳内ネットワークに似ている。
現実の私たちが見たり聞いたりする情報も、結局は脳内で概念化されて理解されるのだから、それを模したような現代のネット上での情報交換がすんなりと受け入れられるのは当然のことなのだ。むしろ、現実社会から情報への転換作業が無いだけ労力も掛からず、楽なのかもしれない。
情報化偏向の時代性もあってか、私たちも自己の肉体性を忘れつつあるように感じる。社会性動物としての人類という進化の方向性として、それが間違っているのかどうかは何とも言えないが、私たち個人が肉体性をもはや不必要と感じているのかと言えば決してそうではないのは事実だ。

死体を見ると、誰もがぞっとするだろう。なぜ、ぞっとするのか。勿論、身近な人の死体であれば、その理由は明らかだが、そうではない、どこかの誰かのものであっても、ぞっとする。生きていても死んでいても、死んで間もなければ人の形には大して変わりはない。それでも、何かが決定的に違っている。
私たちには、人(の形)であれば、自分と同じように意思の伝達が可能であるという前提がある。そして、それによって得られる情報にこそ、相手や自分にとって重要なものが含まれている。自分らしさ、その人らしさ、といった人格さえ、やりとりされる情報の中に宿っている。同時にそれは、自分や相手という「肉体」から発せられているのだから、両者はそこで強力に結びつけられている訳である。
ところが、死体では、その情報の部分がすっぽり抜け落ちている。もはや永遠に発せられることはない。そして、情報を発しなくなった肉体は、自らが持っている肉体の物質性を強烈に強調させる。これこそが、死体を前にして感じる強烈なる違和感の根源であろう。

次の瞬間、はっとさせられるのである。生きている私は、逆説的に言えば、情報交換が出来る死体ではないか。勿論、科学的に見て生体と死体には大きな差異がある。しかし、生体も死体も、肉体という物質において同じなのである。そこに横たわる死体は、動かない故にその物質性を強調するが、実は、その物質性をそのまま私も所有しているという事実に気付く。

心、魂、精神、霊魂・・。人間の非物質的側面は常に強調されてきた。物質的側面としての肉体に目が向くのは、怪我や病気の時などに、思い出したかのように見つめる感じだ。
普段は、全く意識しない。それでもいいように出来ているのもあるだろう。でも、そう出来ているからそのままで良し、ではおかしな事になりかねないとも思う。自己の肉体という物質性が希薄になれば、他者に対してもそのように見るだろう。結果、安易に自分も他者も傷付けてしまうかもしれない。社会としても、情報として見えてくる結果だけが尊重されるようになる。

精神面からの自分や他者は、強く意識せずとも考えられるものだ。人は皆、気付けば思考しているのだから。しかし、物としての自己、つまり自分の肉体については努力しなければ知ることが出来ない。実際、それを客観的に見つめるのに人類は長い時間を掛けた。それが解剖学だ。それでもまだ完全ではないが、自己の肉体性を感じ取るのには十分の情報を人類は既に得ていると思う。

自分という今の存在は、書物に書かれた情報ではない。肉体がなければ、思考も精神もない。ブログで自己の永遠性を刻んでも、肉体は刻々と変化し終焉へ向かっている。実は全て、肉体という物から発しているのである。
私たちは物だ。そう改めて思いつつ街行く人を見ると、一人一人の質量がずしりと感じられるようで。

2010年4月15日木曜日

解剖実習

私がお世話になっている学校では、学部生の解剖実習が始まっている。医学を志す生徒たちが初めて人体の内部に直接触れる貴重な授業である。その主要な意義としては、人体の内部構造の立体的、系統的な認識を深めるということがあるが、それと同等かそれ以上の本質的な意義として、人が人を切って勉強するという特殊な経験を通した、倫理的教育の側面がある。
我が国での、解剖実習で用いられるご遺体は、ほぼ全てが献体でまかなわれている。その字(”献血”のように)が表すように、それらは献体者(生前では篤志家と言う)の遺志に寄っているのである。つまり、生前に「私が死んだら、体を医学教育のために使って下さい」と意思表明をされていた方々の亡骸である。そのことだけでも尊いが、彼らにも親族や知人などがおられる訳だから、当人が亡くなった後では、その周囲の身近な方々の理解をも巻き込んでいるのである。また、この一連の行為が滞りなくおこなわれるようになった歴史的背景も、誰かお偉いさんが突然作り上げたものなどではなくて、篤志家主体として興ったものであり、まさに献体制度そのものが、医学と民間との間の絆として生まれた尊いものと言える。
解剖実習に先立っては、上記のような経緯も説明され、どこかから拾ってきた類のものとは全く違うということが強調される。或物事の価値とは文脈から理解されるものであるから、このような導入は非常に重要である。

そして、上記の倫理的側面の他に、学問としての解剖学の歴史も、先立つ講義で説明される。医学部の講義や実習としての解剖学は教育的側面が大きいが、それは解剖学という学問に根ざしている。そして、授業とはいえ体表から深部まで解剖し、見るという行為の方法論はその歴史の上に乗っているとも言えるのである。実際、そこまで意識は出来ない(特に学生の時分は)かもしれないが、解剖学の存在を語るならば外すことの出来ない事柄であることは間違いない。

体の構造を見るときに、その部位がどのようにして出来てきたのかという見方をすることがある。個体発生(つまり成長過程)や系統発生(進化過程)を部分的に取り込むことで完成している体では理解しにくい構造が理解しやすくなるのだ。

体のつくりも、解剖学という学問も、解剖実習という授業も、ポンとただそれを置いただけでは真意は見えにくいが、それがそこに在るまでの流れを意識することで、大切なものが明快になる。


解剖学を担当する講師陣は、普段はそれぞれに研究領域を持っているのが、この実習期間になると、一堂に会して同じ方向を向く。それは、紛れもなく「より良い解剖学実習」という方向であって、その熱意と労力に多大なものを感じる。実習期間は3ヶ月に及び、ほぼ毎日午後から夕方、遅い時は夜まで続く。その間、教授以下講師陣は生徒に付きっきりである。それでも以前はもっと時間を掛けていたものが、全体の教育内容が増えるに従って、実習期間は短くなる傾向にあるそうだ。そういった問題は、どこの大学にもあるのだという。

ご遺体に初めて触れる直前の学生たちの顔は、緊張と好奇心とで高揚して見えた。

2010年4月5日月曜日

彫刻"理想"論

彫刻家は、形の意味を探ろうとする本能が無ければ嘘だ。
ただ惰性で土を捏ね、木や石を削るくらいならやらない方がまだ良い。
映画において、映し出されるシーンの全てに意味があるように、彫刻における量や面も全て意味がなければならない。
そして、それは彫刻的に正しくなければ意味がない。
記号として表すくらいならば、記号を書けば良い。
彫刻家は、彫刻を作らなければならない。

彫刻家は、形、形、形が全てだ。
形がおろそかで済ませられる彫刻家など、信じることが出来ない。

岩の形、雲の形、水流の形、そして己自身の形・・全ての形に意味がある。
石ころを見て、その生い立ちを想像することだ。
川の波の形を捉えてみることだ。
人の形が複雑なのは当然だ。35億年の形態変化の末なのだから。

2010年3月25日木曜日

対象の見方 芸術の方法論

彫刻は形状を扱う芸術であり、それに関わる彫刻家は必然的に形状に敏感になる。しかし、その敏感の矛先がどちらを向くのかで、同じ対象であっても捉え方は変わってくる。だから、同じリンゴをモチーフとして見ても、作家によって出来てくる作品は違う物になる。その一方で、ある程度の「見方の方法論」というものもある。リンゴなら球に還元してみるとか、そういう類のもので、技術論である。短期間で効率的に技能を習得させたい美術予備校やカルチャースクールなどで好まれる。と言うより”教える”となると、そういうことを言うしかない。
自身の経験から見て、それらは時に表面的である。と言うのは、リンゴを球に見立てたり、人間を面で大まかに分割した紙人形のように見立てて捉え直すという手法は、純粋にその対象の表面しか考えておらず、その形状がなぜ(つまり必然的に)その形状を成しているのかというところまでは決して降りて行こうとしていないからだ。
興味深いことに、これらの対象の捉え方は、3次元CGの世界でも有効的に用いられている。3DCGの世界の住人は、言わば点の集まりで出来ていて(私たちが細胞という点の集まりであるように)、彼らを包括しているコンピューターは、彼らがどこにいるのかをその点全ての位置情報から割り出している。言ってみれば、私たちの細胞全てがGPSを持って常に人工衛星と通信しているようなものだ。点一つづつに計算処理時間が掛かるわけだから、点が多い(つまり、絵が細かい)と、その処理量は膨大なものになる。そういった技術的な理由もあって、3DCGの世界の住人は基本的に”皮しかない”。 もっと言えば、彼らの正面を見ている時は、実はその背中さえないのである。 目に見えない皮膚の内側や背中などあっても無駄なのだから。更に、遠方にいて点のようにしか見えない時、彼らは実際に”点になっている”。遠ざかるにつれ、体を構成する点の数を減らして行く(面が粗くなる)のである。
CGの世界では、計算処理を軽くするという、効率化のために対象の表面しか考えないのである。ここでは、見えないものは実際に無くなるのだ。
美術予備校で教わる、対象の単純化という技法も同じことだ。実際、それらのやり方は効果的で、闇雲に眺めていたのでは見つけられない構造の規則性などを見つけることも出来る。
リンゴでも、球に還元したり、面で分けたり、立方体に押し込んだり、色や光沢で分けたりと、様々に単純化して見直すことが出来る。しかしながら、ふと疑問に思うのは、それらが全て表面性しか追っていないということだ。まるでCGのように。

芸術の目的は技術の向上ではない。しかしながら、技術がなければ表現の質も下がる。そういう理由から、初歩段階である予備校などではまず技術を習得させることになる。事実、美大の受験で見るのも技術力である。だから、そこに合格するのは単に技術力があるに過ぎず、芸術家に必須の感性云々は実は全く問われていない。”芸術”大学の矛盾をここに見る。それでも、日本では「写真のように描く=絵が上手=芸術的才能がある」というセオリーが根強いので、全体が無難に回っている。
上記したような、対象を表面でしか見ないで満足してしまう癖も、そういう背景があるからなのかもしれない。

想像して欲しいのだが、もし、リンゴを生まれて初めて見てそれを描くのと、味も重さも切った感じも、木になるということも知っているリンゴを描くのとで、同じリンゴが描かれるだろうか?
私たちは、コンピューターのようにメモリーを節約しなければリンゴや人体を描けないほど貧弱な脳を持っているのではない。入力から出力までの経路もPCのように単純ではないのだ。そして、芸術の旨味とは、正にこの単純ではない部分から生み出されるのだろう。
美術を習おうとすると用意される「表面的に捉える技法」の数々。それらは、一見甘い蜜である。それに従えば技術は速やかに向上するのだから。それを否定は出来ない。疑問なのは、”それしかない”ことだ。そうやって形が捉えられればそれで終わりでは、CGと同じであり、その正確さで競うならCGに敵うはずもない。勿論、それが目的であるはずもない。

人を対象とする時、人の形について問う。そのような姿勢もまた必要なのではないだろうか。目の前に見えている物だけを機械的に移すのでなく、その存在理由や、隠されている構造まで思いを巡らすことで、確実に見え方も変化し、出来てくる作品にも影響を与えるだろう。また、それこそが、機械には出来ない、人間的行為なのだから。
そう考えるとき、解剖学や発生学など、一見、芸術と関係の無いように見える領域が、にわかに芸術を向上させうる強力な知的支えとして見えてくる。

日本では、美術解剖学という独立した概念があるが、多くの人にとってそれは、単に骨や筋の位置や名称を指し示してくれる地図のようにしか思われていない。故にアカデミックの象徴のように揶揄され、自由な表現の妨げにさえなるとして敬遠される節もあった。
しかし、解剖学の醍醐味は名称や構造を暗記するというような安易なものでは決して無く、それらの情報が指し示す私たち自身の存在に対する様々な投げかけこそにあるのだ。
そういった、知識による咀嚼は、あたかもリンゴを囓ってみることに似ている。眺めていただけでは決して分からない味わいが、次からそれを眺めるときには思い出されるのである。

かつて、レオナルドが一枚の絵を描くために、なぜ解剖をし、物理の研究をしたのか。単に、分離した興味が並列的にあったというはずがない。そもそも、彼にとって絵は答えではなかったろう。それは、確認に過ぎなかったのではないか。自分と、それを包括している世界の存在という問題に対しての。
だとするなら、それは芸術に対峙する正しい方法論であって、現代の私たちもそれを参考にすることができるはずだ。

2010年3月4日木曜日

肉付きの面

お面。私たちにとても身近な物。古今東西、面のない文化など存在した試しがないだろう。私たちが、面と聞いて思い出すのは、縁日の子供用のお面や、能面、天狗や鬼など各地の祭りで用いられる面だ。子供から大人まで、人は面を付けたがる。
面の働きとは、何か。それは、変身に他ならない。ゴレンジャー系列の正義の味方は、変身後は必ず面被りである。能や祭りの鬼などは、”演じる”という意味での変身をしている。演じるための変身として自己の顔を覆うのを面と定義できるならば、歌舞伎の隈取りなども広義での面である。これには、女性の化粧も含まれてくるだろうか。外出時は、化粧顔という面を被らなければならないのだとすると、それは、イスラムの女性が顔をベールで覆っているのと実は本質的に同じではなかろうか・・。

人は常に、自分とは違う何かへの変身願望がある。しかし、もしその何かに変身できたとしたら、そこにはその何かとしての自己があるのだから、結局、堂々巡りになる。自分を変えたくて旅に出ても、結局自分からは逃げられないのと似ている。話がそれるが、美容整形はクセになるというのも、こんな心理から来ているのかもしれない。
それに対して、面による変身は、自己は不動の存在として残されている。面を付けている間だけが違う何かであって、面を外しさえすれば、いつでも元の自己に戻れる。これならば、変身による変化を、変身前の自己と客観的に比較することが出来るので、その差異を十分に堪能することが出来るのだ。
昔話で、「肉付きの面」というのがある。姑が嫁を威そうと鬼の面を付けたところ顔に付いてしまう。姑は困って改心して読経すると面は取れる。これは、外見だけが変身したが、本人の人格は変わっていない。これに対して、「マスク」というコメディ映画では、拾ったマスクを付けると人格まで変わってしまう。変身した後は言わば「他人」であり、元の自己はそれを制御できない。

インターネットでのコミュニケーションが盛んになると、オンライン上の自己表現の要求から、仮想の自己(アバター)が作られるようになった。これは、完全にオリジナルの自己を自由に設定出来ることにより、男女や年齢などの実世界とのギャップも生まれて、一時はトピックともなった。アバターは、本人は変化せずに変身するという点で、面と同様の働きをしている。

つまり、肉付きの面やアバターは変身が自分の外に向いているのに対して、映画「マスク」の変身は自分自身に向いている。

ヒトもかつては、全身を長い毛で覆われた動物だったが、いつしか、それを衣服に代替させるようになった。そして、全身で行っていた感情表現は、表情だけで行えるようになり、首から下の体はそれから解放された。私たちは今や、座ったままで笑い、泣き、怒れる。
そうして、人にとって顔は、その人の人格を表す「看板」となった。何よりもまず「顔」である。裸の女性がいて、男性がまず体のどこを見るかと言うと、顔だそうである。
このような「顔至上主義」故に、変身もまた顔だけを変えれば良く、そうして面が出来た。

顔の皮の下には、表情を作るのに必要な細かな筋が縦横に走っているが、これは、その他の体の筋と違う所がある。体の筋(骨格筋)は、骨と骨の間にあり、縮むことでその運動を引き起こすが、顔の筋は、骨から始まり顔の皮膚に終わっているのである。この筋の収縮による皮膚の引っ張りの組み合わせが表情を作っている。顔面筋と呼ばれるこの一群は、そもそもは顔に開いている穴(眼、鼻、口)をふさぐ働きとして登場した。それを人はコミュニケーションの道具としても利用しているので、これを表情筋とも呼ぶ。
この筋は、進化上ほ乳類になって発達したもので、それを示すようにあごを動かす筋とは別の神経で制御されている。この筋がない顔があるならそれは、目を閉じることも出来ず、裂けた口には歯が覗き、無表情で、ちょうど魚の様であろう。
つまり、私たちは太古のおもかげが宿る原始的な頭部に、「人間の顔」という肉付きの面「顔面」を付けているのである。

これは、映画「マスク」の面と同様に付けるとその面の人格になってしまうようで、私たちは人間である前に動物であることを忘れがちである。それでも時折、この新しく手に入れた「顔面」の裏から、古き動物的表情が垣間見えることがある。

2010年2月28日日曜日

構造美の感動

素晴らしい彫刻を目の前にしたときの、心の震えをどう表現すればいいのだろうか。
芸術に言葉は最も似合わないものだから、その気持ちを言語化しようとすればするほど、指の隙間からこぼれ落ちてゆく。
私は、彫刻的美は、構造の美と文脈の美の二つに大きく分けられると思っている。構造の美とは、形そのものの美しさの事であり、文脈の美とは、その作品が持つ主題に宿る美しさの事だ。作品の評論文などを見ると、作品を語る際に、文脈の美について言及しているものが多く見受けられる。文脈の美は、その名の如く、言語化しやすい。ストーリーは言葉で語られるからだ。私たちは、その作品について語り合おうとするとき、言語化しやすいものを無意識に選別して当てはめる。そして言葉になると安心して、その言語化されたものが作品から得られる感動の主因だとさえ信じるようになってしまう。

素晴らしい作品を前にしたときの、心の震えを思い返すと、「感動は決して、言語で言い表すことは出来ない」と断言できるように思う。言語はオールマイティではない。人間の全てを言葉で語りつくすことなど出来ない。
言語をあやつる文学における感動でさえ、行間に宿っている。私たち日本人は、俳句や短歌の味わいを思い返せば、それがよく納得できる。

彫刻における感動の主因は、文脈ではなく、構造にあると信じている。ギリシア、ミケランジェロ、ロダン、ムーア・・。彼ら巨匠たちは、全て「構造美の達人」なのだ。
彼らの彫刻に通ずるものを、川の石や木の根元、死んでいる虫や骨、流れる雲にも見つけることが出来る。電子顕微鏡で映し出される体内の微視的構造にさえ、それを見つけることがある。駅の構内をせわしく往来する人々の挙動や”裸を晒している”顔にも、構造と動きの調和の美がある。世界は、彫刻的美にあふれているのだ。
それら彫刻的美から、作家は彫刻美を作り出す。それこそが、芸術のダイナミズムであって、地球上の生物で人類だけが行う、極特殊な行為だと言える。その意味において、芸術作品を作るという行為は何よりも人間くさいのだ。作家の人間性に憧れる人が多いのは、こういうところも関係しているのかもしれない。

目の前にして口ごもるしかないほどの作品を、同じ人間が作り出すということ。それは、奇跡を目の当たりにしているということなのではないだろうか。

2010年2月11日木曜日

ヌード 芸術的人体観の根源

いま、芸術における人体表現の基本は裸と決まっている。それは、現在の芸術の主流である西洋美術の根源がギリシアであることと関係があるのだろう。ギリシア時代は、競技場では全裸で競技や練習をしていたそうで、芸術家は自由にそれを観察していたという。それが、自然な感覚からそうなったのか、何らかの先行する思想や哲学があってのものなのかは知らないのだが、今の感覚ではにわかに信じられないようなエピソードだ。しかし、あれだけの裸体芸術を生み出したのだから、相当綿密に観察と計測が行われていたのは事実だろうし、芸術家たちにとってはうらやましい理想ではある。

人体を正確に描写しようという強い欲求があれば、外見だけの観察ではやがて満足できなくなり、可能ならばその外見が出来る理由をその皮膚の内側に探りたくなるものだ。そして、それが実際に行われたのが16世紀のイタリアであり、美術解剖学の始まりとされる。
一方、人体解剖の古い記録は、パピルスに記されていたエジプトまでさかのぼることが出来る。エジプトと言えばピラミッドとミイラだが、そのミイラもただ死体を乾かすというものではなく、幾つもの手順があったそうで、内蔵や脳も事前に取り除かれていた。そういう技術を持っていたのだから、解剖の知識があったというのも納得がいく。ただ、その知識が造形に反映されていたのかは定かではない。
裸体の芸術が華開いたギリシアのクラッシック期は、フィディアスやポリクレイトスら歴史的彫刻家が活躍し、医学ではヒポクラテスが活躍していた。ヒポクラテスは解剖をしなかったという。しかし、それが当時解剖が全く行われなかったと言う根拠にはならない。16世紀のイタリアで、近代的解剖学の先陣を切ったのは医学者ではなく芸術家のミケランジェロであり、レオナルド・ダ・ヴィンチだったように、ギリシアでも芸術のためにそれが行われていたかもしれない。カノンやコントラポストなど現代まで続く美の基準は、体表の観察のみで生み出されたのだろうか。それから150年ほど後のヘロヒロスは既に綿密な人体解剖をしていたのである。解剖は、単に皮膚を切り裂いて中をのぞくだけでは何も見えては来ず、混沌と混乱が広がるのみだ。そこから意味を見いだすには相当の知識と経験が無ければならないことを考えると、ヘロヒロス以前からそれは行われていた可能性はあるだろう。

ギリシアから古代ローマの後、暗黒期と言われる中世を超えて、16世紀のイタリアでルネサンスが起こった。ここで古代の裸体芸術は再び息を吹き返し、名だたる芸術家によって新しい裸体美が生まれた。しかし、この時代は既にギリシアのように裸は身近ではなくなっていた。その意味では現代に近い。身近でないものを効率よく知るにはどうするのが良いか。知識と情報で補うのである。死体を解剖するという発想の裏には、芸術家のそんな切羽詰まった欲求があったのだろう。

現代の芸術家と裸を取り巻く環境は、大きく見ればこの頃から変わっていない。ただ、現代では裸はもっと遠い存在になっているかもしれない。
先日、友人の彫刻家(彼は日常的にヌードモデルと接していた)と話していて、「他人の裸を丹念に観察するという非日常性」に気付かされた。そう、ほとんどの人は、裸がどういうものか知らないのだ。正確には、裸の人の形を知らない。現代人にとって、他人は常に着衣である。他人にとっての自分もそうだ。裸をさらすという行為は、特殊で閉じられた行為で、もはや、「外世界に対しての体表とは皮膚ではなく、衣服である」とさえ言える。

近代彫刻の父ロダンは、何人もの裸のモデルをアトリエ内で自由にさせて、それをクロッキーしていたという。彼は古代ギリシアの芸術家と同じ環境を自ら作っていたのだ。
裸が遠くなった現代においては、芸術家は美術解剖学で筋肉や骨を知るだけでは足りないだろう。その前に、十分に裸を観察しなければならない。裸を知らぬ美術解剖学の知識は空疎なものだ。

こんな夢想をした。何人ものヌードモデルたちが自由にしている「ヌード・ルーム」もしくは「ヌード・ハウス」が美大内にあって学生や許可を得た作家は自由にそこでデッサンやクロッキーができるのである。ギリシアの芸術家やロダンのように。もしこれが実現したら、日本は世界からその文化レベルを賞賛されるだろう。

2010年2月4日木曜日

元祖あひる口 オルメカ

若い女性の「あひる口」が流行ってしばらく経つ。と言っても、いつ、誰から、どういう経緯で流行りだしたのかは知らない。
あひる口とは、字の如くで、あひるのクチバシを正面から見たような「口角が上がって、上唇がわずかに突出して気持ち上を向いている」ものを指す。
これをかわいいと言うわけだが、それも当然である。なぜなら、この口の形は、乳幼児の唇の形と同じだからだ。私たちは赤ちゃんの事をかわいいと思う。それは、かわいいと思うように脳がなっているとも言い換えられる。本能的に保護したいと思ってしまう。その赤ちゃんは皆、あひる口をしている。これは、母親の乳首に吸い付くのに適した形なのだ。

そもそも、「くちびる」自体が乳を吸うために獲得された構造である。故に唇を持つ動物を「哺乳類」(乳を口にふくむ・乳で育てる類の意)と呼ぶ。乳を吸う必要のない動物たちは唇を持っておらず、皆、口裂けである。私たちは、乳に吸い付くための道具を二次利用して表情の足しにしたり、発声の役にも立てたりしている。ものを食べるにも唇で口を閉じなければ大変である。歯医者で麻酔をした後に水を含んだことがあれば分かるだろう。
このような進化上後付けの構造を証明するように、アゴを上下させる神経と唇を動かす神経は別系統である。

漫画が発展している日本で、大きな需要を抱えている領域が「美少女漫画」だ。そこに描かれる少女は、購買層による「かわいさ」の厳しい淘汰を経て生き残った者たちと言える。その顔を見ると、丸みがある大きな頭部に、巨大な眼、目立たない鼻(正確には鼻翼が張っていない)、小さな口。これらは紛れもなく、幼児のそれだ。
このように、男女を問わず「かわいい」要素を追い求めた結果に幼児性へとたどり着く事は興味深い。

幼児とあひる口。この要素を表現様式として採用していた文化が過去にもあった。日本の裏側メキシコにおいて、今から3000年前の古代文明オルメカである。オルメカは、古代アメリカ大陸における最初の巨大文明とされている。オルメカを初めとするメキシコ古代文明は石像文化であったため、さまざまな遺跡や発掘物が見つかっている。そのオルメカ文化を代表するような石彫表現にジャガー神というものがある。人間とジャガーのハーフであり信仰の対象だったが、それらの幾つかは幼児の姿で表されている。その口を見ると、典型的な乳幼児の口が表現されているのがわかる。あひる口である。開かれた口内にはまだ歯が生える前の歯茎が見えている。様式化しつつも写実的要素を残す印象深い造形のジャガー神は後に続くテオティワカンではより図式化されたトラロック神へと変貌し、後のアステカ文明の神々へも継承され、1521年にメキシコによって滅ぼされるまで生き続けた。

あひる口とそれを含む幼児性への欲求。本能的に引きつけられてしまうその容姿に、古代オルメカの人々は神を割り当てた。そして、現代の私たちはそのかわいらしさを自らの魅力を引き立てる手段として用いている。

ちなみに、南米の彼ら”インディオ”は氷河期の終わりにアジアから渡っていった人々である可能性があり、そうならば私たちと遠くない親戚とも言える。マヤの壁画に描かれる人物表現に時折日本と共通する何かを感じるのは私だけだろうか。

2010年2月3日水曜日

執念の造形 イフェ

イフェとは、かつてアフリカに栄えた王国とその文明の名称である。8世紀から15世紀頃までナイジェリア南西部に栄えたそうである。今ではヨルバと言う。
そのイフェ文化では、王の肖像がブロンズやテラコッタ、石などの素材で作られた。いわゆる「アフリカ美術」である。アフリカ美術と聞くと、プリミティブな表現を想像しがちであるが、イフェの美術を見ると、それは外部の者によって作られた偏見に過ぎないことが分かる。
イフェの特徴は、その写実的な表現にある。非常に冷静に頭部の構造を追って作られている。そして、それは現代のような一個人の作家によるものではなく、様式化されていた。恐らく、工房もしくは学校のようなものがあって、様式を伝承していたのだろう。

世界中のさまざまな文明の中で、多くの美術が生まれたが、様式的に高度な写実的表現が見られることはそれほど多くない。古くは、エジプトのアマルナ美術、ギリシアの古典美術がある。2000年から3000年も遡る話だ。古代ローマを挟んで、ヨーロッパで次ぎに写実表現が高度に実を結ぶのは16世紀のルネサンスまで待たなければならない。
このような、美術史でおなじみの系譜からイフェは外されている。しかし、ルネサンス以前において、彼らは高度な芸術的表現を得ていた。そのことが不思議でならない。イフェの頭部には表情がない。その点ではエジプト美術との遠い関連性があるかもしれないが、全く想像の域を出ない。ある日突然、形を捉える天才的彫刻家が現れてそれが様式として定着したとも思えない。きっと研究もされているのだろうが、私は知らない。

イフェの頭部は様式化されてはいても、生命感を失っていないものが多い。張りのある肌と、的確な構造のとらえ方、自制の効いた表現によってその彫刻的生命を維持している。このような高度な表現が、歴史の一点において西洋的文化もしくは造形観と隔絶していたような場所で生まれたという事実に驚かずにおれないのと同時に、人が持つ「造形感覚」の潜在的能力の可能性をそこに見るような思いがする。

エジプト、ギリシア、イフェ、ルネサンスと各時代を代表する芸術家達は、その時代の文化の後押しを受けながらも、ある種の「執念」を持って造形してきたように思う。文化という全体と個の執念が合わさることで、平時では到達できないような何かを人類は生み出してきたのではないだろうか。

2010年1月22日金曜日

橋本平八

前世紀の初期は、日本における近代彫刻が大きく花開いた時代だった。今でも名を知られる高村光太郎や荻原守衛(碌山)らを筆頭に、若い彫刻家たちが新しい彫刻表現を模索していたのである。当時、西洋からやってきた”ロダンという新しい表現”によって、伝統的な木彫を基本とする固有の彫刻表現が大きく攪拌されていた。

その揺籃期にあって、橋本平八は明らかに異彩を放っている。 代表作である、「裸形の少年像」や「或日の少女」、「幼児表情」(右の画像)などを検索して見ていただければ感じられると思うが、「妖しい」のだ。この、抽象的な感覚を客観的に言語化して伝えることはおそらく不可能だと思う。各人が見て感じるほかない。しかしながら、幾つかその手法に特徴を見ることが出来る。人物像の顔は明らかにアジア人(日本人)であるから、一見すると「和」な印象が強いが、実は「裸形の少年像」や「幼児表情」は明らかにエジプト彫刻を参考にしており、それによって、姿勢の安定感を作品に取り入れている。「花園に遊ぶ天女」の左に振った首の出方は、ミケランジェロの作品を思い出させるものだ。これらのように、形式を取り入れつつ表面的な技巧に陥っていないのは、形状に対する作家の深い洞察が働いていたことの証である。橋本は、形式の奥にある構造を見つめていた。

実際、「猫」を制作するに至って、事前に猫の死体を解剖したという。それが、自身の探求心からか、誰かから指示されてかは分からないが、彫刻は表面のみを撫でていてはいけないという理解と姿勢がそこにあったのは確かであろう。
その「猫」は、エジプトの影響を受けつつも、揺るぎない構造と、”ロダン的”量感をともなっており、その上に伝統的な「和」の雰囲気が融合して非常に完成度が高い。

橋本の「隠れ代表作」とでも言える作品がある。「石に就て(ついて)」だ。石の木彫である。モチーフとなった石ころも一緒に残されているがネットでは見つけられなかった。石ころその物は大して大きくなく、木彫はそれを拡大したものとなっている。
なぜ、石ころを彫ったか。こう述べている。

「彫刻の芸術的価値は、その天然の模倣でないことは勿論であるが、それと全く撰を異にし而も天然自然の実在性を確保する性質のもの即ち同じ石にも石であり乍ら、石を解脱して石を超越した生命を持つ石、そんな石が不可思議な魅力でもつて、芸術的観念に働きかけてくる。さうした石が石のうちに存在する。石の石らしさを超越した石。(略)左様な石が稀にあるのだから妙である。その石の不可思議と同じ感興を、他の人物なり動物なり、或は人物の部分例へば指なり、顔貌なりにも是が有るわけで、通例自分は彫刻的神秘的等の言葉でもつて感受するのであるが、仙とか神とかも左様な形式から導入することもある様だ。」

彼は文中の「仙」についてこう説明している。

「仙とは動なり。動とは静の終りなり。即ち静中動なり」

生き物に感じる、生命感。それは、躍動から生み出される。同様の感覚を動かないはずの樹木や、生きていないはずの石や枯木などにも感じ取れることがあり、それを「仙」としたようである。これは、彫刻で言われるムーヴマン(動勢)に近い。
動かない彫刻に躍動感を与える為に、彫刻家はそれがどこから生み出されるのかを常に探求してきた。それを感受するための感覚を常に鋭敏に保っていた。橋本が、石ころに「生命」を見いだし得たのは、その姿勢で生きていたことの証明である。

ところで、彼はその「生命」を石そのものにあるとしたが、現在なら、「生命」を感じ取る「私の脳」と言われるだろう。感覚は同じでも、意味合いは時代で変わる。

「石に就て」はまた、原石に対して拡大されているところと、台の部分が大きく取られているところも興味深い。
石が持つ重さや密度に加えて「生命」をも表そうとすると、木材では同じ大きさでは釣り合わないかもしれないし、主題に対して大きな台も、石ころが「生命」を宿すにはそれは、大地になければならないことを感じさせる。想像で、この作品から台を取り除いてみると何とも心許なく弱々しい物になってしまう。

石ころや岩を愛でる文化は日本には古くから在り、様々な物に命が宿るという考えも特別なものではない。そういった文化土壌の上に西洋的な合理主義が入り込んできた、そういう時代だから生まれた作品であるように思う。

なお、原石には「南無阿弥陀仏」の墨書がされている。

2010年1月7日木曜日

感覚の延長

面白い彫刻作品を見つけた。ピーター・ヤンセンの作品で、ご覧の通り、運動のある一時期を切り取って、ちょうど高速フラッシュ撮影で見たような状態を立体で表している。CGで作成したものをプロッタで出力しているらしい。同じ形状や動作を何度も繰り返すような仕事はCGの得意分野−正確に言えば、人間には苦痛−で、技術と価格が現実的になりつつあるのか、ここ数年でこの「技法」が目立ってきたように思う。日本では、小谷元彦さんがこの技法を用いている。

この作品は私たちの目では、時の流れに過ぎない一連の動作を、一定期間ごとに静止させることで、動きと量を混在させている。
彫刻は、物質として実空間に存在するために、モノ感が強く、その結果、時間性に乏しいものとなりがちである。だが、それが表現としてのデメリットとなるものではない。とは言え、各時代の彫刻家は、その作品に時間性を取り込む工夫をそれぞれにしていた。もっとも簡単なのは、特徴ある姿勢を取らせることだ。歩く、走る、弓を射る等々。

カメラは、視覚を延長させる大発明だった。それは、今まで見ることの出来なかった「静止した運動」を目の当たりにさせたからだ。きっと、それは人々を興奮させただろう。
その新しい視点を、作品制作に応用した作家もいただろうが、ロダンはむしろ、写真では運動そのものは捉えられないことを見抜いていた。彼は、アトリエでヌードモデルを自由にさせて、それを目で追ってデッサンを繰り返していた。ロダンは、運動における躍動感は、肉眼で捉えたものの中で生きるものであり、切り取られた一瞬に同様に宿るものではないと感じていたのだろう。
ロダンの「歩く人」とその前身の「聖ジョン」には、ロダンなりの時間表現がなされていることで有名である。それは、現在進行中の時間が一つの形の中に取り込まれている。つまり、歩行中の人物を写真で撮っても、決してこの姿勢は得られない。

もう一つ、時間を意識した有名な作品として、ボッチオーニの「Unique Form of Continuity in Space」がある。箱根彫刻の森で見ることが出来る。斬新な造形と論文表題のような作品タイトルから、非常に実験的な趣が感じられるが、その反面、ロダン作品が持つような有機的生命感が希薄であるように思われる。
ともあれ、この作品にはすでに連続フラッシュ撮影のようなカメラ的視点が反映されている。まぎれもなく、カメラという新しく延長された視覚を通しており、そこがロダンとの決定的な違いであろう。
20世紀のこの作家はそれを拒絶せずに取り入れたが、やはり、今見るとそこはかとない古くささを感じざるを得ない。連続フラッシュどころか、超高速度撮影や赤外線、さらにはMRIやCTからの立体画像などのいわゆる可視化技術の映像に慣れ親しんでいる私たちには、もさったさと言うか不必要な重さが反ってリアリティを無くさせているようにも感じはしないだろうか。
テクノロジーに依存せず、自らの肉眼感覚を重視した19世紀のロダンと、テクノロジー的視点を表現に取り入れた20世紀のボッチオーニ。そして、今世紀のヤンセンの表現がその流れに引っかかる。

ボッチオーニまでの写真は2次元情報だ。3次元の世界の光の反射をネガに投影することでそれは平面化される。
しかし、現在では、レーザーの反射を利用した非接触型立体スキャナが存在する。これは同時に写真のような色情報も取り込むことで、まるで立体カメラのように立体物を立体情報として扱うことが出来る。また、物の運動を映像から抽出することも出来るし、人間や動物の体に反射マーカーを取り付けてその位置情報を取り込むことで運動を情報として取り扱うことも出来る(モーション・キャプチャー)。
ヤンセンの作品は、もともとがCGであることや、運動が全方向性を持っていること(ロダン、ボッチオーニが共に「歩く」という一方向性であり、特にボッチオーニの作品は明らかに側面からの鑑賞を考えられているところに写真と同様の平面性を宿しているところが興味深い)などに、従来の写真という平面性を越えた「現代的視点」を宿している。
しかし、ヤンセンの作品には、「手業」が全くない。この形状が生み出される過程は、多分すべてパソコン上で行われた。体の各部分は機械的に繰り返されたに過ぎない。そこには、空間における形の見え方に対する作家の主観というものは排除され、単に運動のある一過程を立体的に追いかけたらこの形が見えてきたと報告しているに過ぎないものだ。
手業の排除も、現代美術の特徴のひとつなのかもしれない。

技術は、私たちの身体を延長させる。それが手に入るようになると、新しいおもちゃを買ってもらったばかりの子供のようにはしゃいでしまって、まるで世界が新しくなったかのような感じを覚える。だが、技術は必ず古くなる。古くなるものはやがて忘れられる。
だが、私たちの感覚は古くならない。100万年以上昔から変わらず、これからもそうだろう。生の視覚に映る感覚を大事にしたロダンの作品は、今でも古くささをまとっていない。今、真新しく映るヤンセンの作品は100年後に残るだろうか。

マッチョ 身体依存時代の思い出


ギリシア時代に作られた人物像は、皆みごとな肉体美を晒している。 理想的な肉体美についても研究されていたそうだから、あの彫刻たちはその解答という意味合いもあるのだろう。その美の基準は、ローマへ引き継がれて、ルネサンスで再発見され現代へと脈々と続いている。アジアでは、それとは違う価値観があったが、近代以降の日本では西洋の肉体美の基準が取り込まれ、今では1つの方向性として当然のように認知されている。

西洋のそれを一言で言えば、男はマッチョである。女もがっしりした骨格に厚い皮下脂肪をまとった表現が多い。筋骨隆々が良いという価値観は美術だけに限ったことではないのは、欧米のメディアに出てくる男性たちを見れば分かる。
なぜ、マッチョが良いのか。最も健康な状態で、強さを象徴しているから。きっとそうだろう。人が作り出す物には理想が具現化されている。

筋肉や骨格を含め、身体は基本的に必要以上の努力をしようとしない。エネルギーを消費したくない、とも言い換えられる。動かなくても生きていけるのなら、その方がいい。実際、そういう進化の道を選んだ生物もいる。
だが、私たちは自らが運動して生を繋げる道を選んだ者たちの末裔である。体も動き続ける事を前提にデザインされている。だから、私たち「動物」にとって、動けなくなることは即ち死を意味していた。人類は社会を生み出したことで、それを克服しているが、単体で放って置かれればやはり生きてはいけない。

筋骨格系は、外部からの負荷がかかると、それに応じて強度が上がる。何も運動しなくても、重力という負荷は常にかかっている。宇宙飛行士は無重力環境に居るために、重力負荷を受けず、その結果筋骨格系が短期間に著しく衰弱してしまう。反対に、肉体を酷使しなければならない環境で生活している民族の肉体は、どれも一様にたくましい。
肉体(筋骨格系)は、そもそも、動くための道具や装置に近いものとも言える。 「たくましさ」とは生活の過酷さから生まれ、後から発見された概念である。社会が安定した頃にそれは見つけ出され、やがて様式になった。もはや、生活の過酷さとは関係なく、「マッチョがいい」となったのだ。

人類は、道具の創造が大きな特徴とされる。実際、道具とは身体の延長であり、道具を充実させることで、生物的な身体は無性格で良くなった。人類の進化の特徴として幼形成熟(ネオテニー)が上げられることがあるが、道具の使用との関連性がそこには在るかもしれない。著しい身体的特性を持つ様々な他の動物(ブタやオオカミやクジラなど)も、その胎児期においては皆似通っている。もし、身体的特性が不必要ならば、それらが発現する以前の状態を維持する形で成長するほうが無駄がない。

道具の発明で、身体的特性がいらなくなった人体の「かたち」。文明の発達と共にさらにその強度も必要なくなり、それ(マッチョ)は鑑賞の対象へと変化した。
毎年、夏が近づくと男性陣は体を鍛えようとムズムズしだす。大人より自然状態に近い子供時代(小中学校)では、知識系男子よりも身体能力系男子が圧倒的に女子にもてる。

高度な身体能力が必要ではなくなった現代においてもマッチョが求められることの根底には、それによって守られてきた遠い過去(身体依存時代)へ記憶の回帰があるのかもしれない。