2015年3月19日木曜日

境界が気になる

 境界が気になる。いつからか、境界が興味深く感じるようになった。世界は境界に溢れている。あまりにも多いから例は挙げないが、中でも私が興味深く感じるのは、道を歩いていて、緑地など自然状態の場所とアスファルトなど人工的な場所との境界。自然と人工がぶつかり合う場所。また、もっと自然な状態で劇的な境界を見せるのは、水辺だ。海の岩場などで水面を覗くと、そこには地上では生きられない動植物がいる。すぐそこに居るのに違う世界。その境界は水面。水中と陸上の境界は劇的だ。また違った趣きの境界を見せるのは、街にある神社。参拝者は社の奥に向かって祈るわけだが、建物の後側に回ってみると、その先には住宅やビルが建っている。建物の後の壁が信じる気持ちの結界として働いているわけだ。神社仏閣、教会などの建物の壁は、家やビルの壁とは存在の意味合いが違うのだ。

 同様の境界は、私たち自身の体にもある。そもそも外部との境界が無ければ生物は存在できない。複合的かつ複雑な構造物となった私たちの体では、その内部にも多くの境界があって、そこが気になってしょうがない。いくつもあって、具体的に挙げていきたいけれど今は時間がないので、また今度。

2015年3月5日木曜日

彫刻はデバイスではない

 彫刻作品が「デバイス」と呼ばれることに違和感を覚える。デバイス(device)と聞いて頭に浮かぶのは、何らかの目的のために作られた筐体、例えばパソコン本体であるとか携帯電話であるとかテレビであるとか、そう言うものではないだろうか。それらは確かに物質として置かれているが部屋に置かれることに価値があるのではなく、その物がもたらす”何らか”こそに価値があるものだ。彫刻がデバイスと呼ばれるのであれば、その彫刻はそこに置かれている作品形体そのものが重要なのではなく、それが見るものに何らかの感情変化をもたらす、そのこと”だけ”が彫刻の価値であると言っているように聞こえる。それは、絵画作品であれば納得できる。絵画は額縁という窓で区切られた内側に、仮想世界が広がっている。絵画作品はその仮想世界をこちらへ伝える装置(デバイス)であるとも言えなくもない。それでもひどく味気ないが。

 しかし、彫刻は違う。彫刻は仮想世界に立っているのでなければ、そこに私たちを案内することもない。あくまでも私たちと同じ時空に存在しているのだ。確かに、彫刻を観る私たちの心には何らかの感情変化がもたらされるが、それは仮想世界に浸ったそれではなく、今目の前にある形についての感情変化である。彫刻が群像劇に向かなかったり、一瞬の表情表現を拒むのは、このような理由によるものだ。彫刻はあくまでも、「今、ここ」から発するのである。もしくは、彫刻には「それしかできない」のである。

 そしてまた、彫刻は鑑賞者の感情変化をもたらす要素が、その存在そのものにある点も絵画と違う。その存在と要素とが完全に一致し離れることはない。この存在のありようは、私たち人間のありようと同じである。あなたを世間が認識するのは、まさしくあなたという存在を通してである。彫刻をデバイスと呼ばれるときに感じる違和感は、ここに繋がっている。「あなたという存在は、あなたを表現するためのデバイスである」と言われて違和感を覚えないひとはいないだろう。こう言われてわかることは、ここに心身二元論的な概念が根付いているということだ。デカルトが人間存在を機械的肉体と霊的精神とに分けたことと似通っている。更に、情報化と呼ばれる現在の状況も関係しているに違いない。何万円も出して手に入れるパソコンやケータイは、もはやその物質的存在にはさほど価値を見出されない。それらがどれだけ効率よく情報というかたち無きものを与えてくれるのか、それが重要で価値なのだ。このように、存在を「物質と情報」とに分けることに親しんでいる現在では、彫刻もまた、「形とコンセプト」のようにハードとソフトとに分けられると、”思い込む”。

 私たち自身が、変化無き一個の魂と衰え行く肉体とに分けられると考えるのはたやすい(この事実こそが驚異なのだが)。しかし、事実は違う。生まれてから死ぬまで、肉体も精神も共に変化し続けている。それらは全く切り離して考えることはできない。そして、あなたという存在が他者に認識されるのも、心身同体のあなたの全存在を通してなのだ。あなたが変われば、世に映るあなたの像も変わる。彫刻も全く同じである。彫刻はその形を通して、たったそれだけを通して、世界と繋がっている。彫刻は仮想世界から何かを引きつれてくるアンテナではない。そこに存在する、木や石や金属や土で出来た形態そのものが彫刻芸術の全てなのだ。

2015年3月4日水曜日

解放空間で試練を受ける彫刻たち

 先日、箱根彫刻の森美術館へ久しぶりに行ってきた。雨降りだったが、それほど寒くはなかった。屋外展示を全てみることはできなかったのだが、それでも解放空間に置かれた彫刻の存在感を感じることはできた。

 近代以降の彫刻は、従来の外に置かれる大きなモニュメント作品から美術館という建物内での展示へと、置かれる場所が変化していった。このことは、空間の影響と共にある彫刻作品にとって、非常に大きな要素の転換である。
 屋内に展示されている時、それが大きな展示室であったとしても、鑑賞者の目には作品と共に天井や壁が映り込む。それに、その空間内に自分が踏み入っているという認識も持っている。だから、屋内に展示される作品は、必ずそれが置かれている空間、部屋との相対関係が生まれているのだ。「屋内だと作品が大きく見える」というのもその影響の一例と言える。それに、屋内展示だと私たちはより作品に近づき、時間を掛けて鑑賞する傾向があると思う。静かで、その作品の為に用意された空間だと、鑑賞にも集中するのだろう。
 一方の屋外展示では、地面以外は空間を隔てる要素がない。外に置かれた作品は、室内という守りの壁を持たず、その意味において、真に自立した状態であると言えるだろう。だからだろうか、作品によってはどことなく心細く佇んでいるように感じられる。それはまさに巣立ったばかりの小鳥のようだ。そして、そんな弱々しさを図らずも露呈してしまった作品は、やはり屋内展示を暗黙の前提として作られたようにも見えるのである。近づくと細部まで意識を集中して造形した密度を感じる。しかし、風が吹き雨に濡れ、曇り空からの拡散光線に包まれてしまうと、そんな近視眼的造形密度が持つ意味は薄らいでしまい、こちらへ訴えかけては来ない。何か、風で飛ばされてきた木の枝一本を足元に見るような弱々しさがそこにはある。
 だが、風雨にさらされてもなお、強い存在感を放っている彫刻たちもある。そう言うものは大抵細部などこだわってはおらず、大きな面と大きな量を大胆に動かしている作品である。それらは、白い光に包まれても負けないだけの光と影の強さを持っている。数十メートル離れたところから見ても、存在の強さを放つ。それらは、はなから室内にいることを拒絶している形なのだ。それは、大木であり巨石であり、またはゾウのようだ。屋外にあっていきいきとしている。風雨にさらされることを受け入れている。

 彫刻と一言で言っても、どこに置かれ、どの距離で鑑賞されるべきかは作品毎に違う。当然ながら作家はそれを想定しつつ制作しただろう。しかし、作品が世に出て時が経てば、想定したのとは違う場所に落ち着くことも多い。彫刻の森美術館の屋外には、そうして、様々な想定のもとに作られた彫刻たちがまとめて屋外に置かれている。そのことがまるで、各彫刻が外世界の解放空間に耐えられるのかという試練を受けているようにも思える。もちろん、素材的な強さではなく、作品性の強さである。
 彫刻とそれが置かれる空間との関係を様々な条件下で体験できるという意味でも、この美術館は貴重であるし、実際、楽しい。