2009年7月24日金曜日

日本の街頭彫刻

街を歩くと、駅の近辺などで良く道ばたに彫刻が置かれているのを目にする。比較的新しく整備された街並みほど多いように思う。
街に芸術作品を置いて、文化的な雰囲気を盛り上げようという趣旨なのだろうか。
しかし、それらの多くが、なぜこれがここにあるのかと考えてしまうほど、置かれている環境と浮いている。
唐突に裸の子供が球の上などにいるようなのはまだいいほうで、なぜかバレリーナがポーズを決めていたり、肥満の女が交差点に立っていたりする。筋張った裸の男が俺を見ろと威勢を張っている。普通に考えて、これは異常だ。それは、ほとんど悪夢的でさえある。

けれども、誰も異を唱えない。これは、私たち日本人の能力の一つだと思う。異質な物を無視する能力だ。
街にあふれる電柱と無数の電線。これを外国人は驚くが、私たちは全く気にしない。
私たちの街並みは、日本家屋のとなりに安っぽい洋館が建ち、向かいにはオフィスビルが建つ。それでも私たちは全く問題がない。
街にあふれる異質な彫刻たちにも、同様の能力が発揮されているに違いない。彼らは無視されているのだ。電柱や電線と同じである。

私は、街で目にする異形の彫刻たちを目にすると、ふと壊したくなる衝動を覚える。心の中でこの作品を消すと、景観はもっと良くなって見える。打ち壊しの運動でも起きないものか・・など不穏な想像もしてみたりする。
しかし、考えてみれば、その作品たちそのものに罪はないのだ。問題の本質は、彼らが適所に置かれていないということにある。なぜベッドタウンの駅前にバレリーナなのか?なぜ小学校の角に肥満女なのか?なぜ図書館に筋張った裸体の男が立つのか?

いったい誰が、彼らをそこに配置したのだろう。それを指示する者が芸術作品をどう見ているのかが、その行為から見て取れる。それは、作品の価値はその物にあるのだから、どこに置いても同じだ、というものだろう。つまり、トイレの壁に貼られたルノアールの絵のコピーと同列である。マグカップのピカソと同じである。
物の価値は、その実体のみに宿っていると信じている人は少なからずいる。これは、現代の貨幣社会が生んだ弊害であるかもしれない。1,000円札の価値はその物にしかない。ゴールドの価値はどこに置いても同じである―その延長で、芸術を見ているのだろう。

芸術は、それが置かれる環境を要求するものである。特に彫刻はその要素がとても強い。彫刻は、空間を割って存在するものだから、それを取り巻く空間の要素が非常に重要になる。ましてや、題材がバレリーナという非日常性を帯びていれば、おいそれと住宅街に置いても空間になじまないのは分かりきったことではないか。裸体もしかり。ここはギリシアではない。

街に芸術を配置するという考えは、良いことだと思う。しかし、考えもなく置けばいいのではない。ギリシアのように、街と芸術が共に成り立っているのではなく、芸術を後付けするというのなら、芸術が街に合わせなければならない。つまり、調和である。
そう考えながら、一方で、日本の住宅街に調和する芸術があるかとも考えてしまう。上記したように、日本の街並みは「調和がないことが調和」とさえ言えるものだ。その文脈で考えると、調和のない彫刻も許されてしまう・・。
いや、住宅街の彫刻たちは、その街並みの中でさえ浮いているのだから、また別次元の不調和なのだ。彼らは、街から去るべきだ。しかるべき場所を見つけて。

今、日本の街並みに合う街頭芸術は思い浮かばない。やはり、道祖神や小さな地蔵が一番しっくりくる「街頭彫刻」ということになるのか。