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2026年4月13日月曜日

AIとハサミは使いよう

 AIは道具である。当然だ。つまり、車やカメラやペンなどと同じである。ただ、AI以外の道具は、それをどう使うのかは全て使う側の人間に委ねられている。AIはそうではない。いや、そうではないように“見える”。わざわざここで書かなくてもいいことだが、歴史上、このように書けるのは現在だけなので書いておく。すなわちそれは、人類は生成AIという道具を手にしたばかりの状態であって、世界中のどこにも、この道具の可能性もしくは影響を真に理解している者はいない。ただ、誰もが感じていることは、この道具は、人類がこれまで手にしてきた道具とは質が異なり、それが使いこなせる者は集団から秀でた者となり得るだろうという予感である。想像だが、人類にとってこれまで、そのような道具はいくつかあった。まず、石器である。そして火の取り扱いである。これらが人類をその他の動物と隔てることを促した道具であることは明らかである。だが、より現在のAIに近い発明は、言語であろう。ただこれは身体そのものを用いているので発明というより特徴というべきものか。ともあれ言語は、発話と記述に分けられるが、初め登場したのは発話であろう。言語によって、我々は世界を区切ることの表出に成功し、それを共有可能な対象物とすることに成功した。現在であっても言語の高度な使い手はすなわち高い知性を持つことと同意であり、言語能力は力の象徴でもある。言語と思考は密接であり、発生の順序は、同一であると私は言いたいけれど、因果論的には、思考がまずあると言われるのであろうか。これはまあ、卵が先か鶏が先かというのと変わらない。ともあれ、両者が歯車として周りだせば、あとは互いに影響しあい、どこまでも事象を細かく、深く、切り分け構築していける。生成AIは、どちらかと言えば、この2つの歯車のうちの思考を担う。このような道具は、つまり身体の外部化としての道具は、これまでなかった。現在の人類が生物史上初めて手にするものである。


さて、道具というのは、使い主の身体能力を超える能力を与える物である。そうでなければ、道具存在の意味がない。一言で言えば“効率が上がる”。人類が手にしている道具は全てそうである。生成AIもそれは同じである。すなわち、思考の効率が上がる。自分だけの思考より、はるかに上回った思考結果を出すことができる。果たしてそれは、自分の思考と言えるのであろうか。だが、このような疑問が出るときは、既存の道具でもそれを問い直してみる必要がある。つまり、定規を使って引いた直線は自分で引いた線だと言えるのか、というものや、ノミやチェーンソーを使って作った木彫作品は自分で作ったと言えるのだろうか、というものだ。人間は道具無しの姿、すなわち裸体ではほとんど機械的に無力である。四季を乗り越えることもできないだろう。つまり、“人間”という存在は、裸体の個体を言うのではない。様々な道具(それは衣服から社会インフラまで全て)と切り離せず、さらにそれらを言語的思考で認識しまとめ上げる意識も含めてのものだ。これをもっと過激に言うなら、人は存在するが人間は存在しないとさえ言えよう。今言ったように、人間は区切られず、人の間にある現象なのであるから。


話を戻すと、生成AIとて、このように見れば、決して真新しい道具ではないことがわかる。ただし、鉛筆の持ち方やカメラの使い方というものより、“意識”の構築反映の結果としての出力に近しいため、使い手側が、その結果を身体的自己能力由来なのか付加的自己能力由来なのか、分からなくなるのである。例えば、絵を描いたことのない人は自分がどれくらいの画力があるか見当も付かない。そこで砂場で指でなぞって描いてみれば、それが自分の画力ということになる。彼に紙と鉛筆を渡してみれば、シャープな線の新しい絵が描かれる。顔を描いていたとして、今度は線が細いから、細部まで描こうとする。そうして砂場の絵とは異なるものができる。これが今や彼の画力である。次に筆と絵の具を渡したらどうだろうか‥。このように、自己能力は道具によって付加的に変化する。絵の具で楽しく色まで付けていた彼から、道具を返してもらって、再び砂場に戻したらどうか。初めとは違う絵にはなるだろうが、鉛筆と絵の具と紙がある時と同じ能力は出しようがない。同じことは、料理でも言える。何もない平原で素手で料理せよとなったら、普段食べている物を作ろうとは思えないだろう。このように、自己能力は身体的なものと、道具ありきの付加的なものがあるのが我々人間である。なお、現代アスリートは身体だけだから身体的自己能力なのかというと、道具によって鍛えているので、やはりそうではない。


AIは、その出力結果が、自分の考えたものではない可能性があるにも関わらず、自分が命令したことで、あたかも自分が考えたのだと思い込めてしまうところに、危険性がある。例えば、紙を切ろうと思っているとして、いつもそれを指でちぎり切っていたとしよう。そこにハサミを手にすると、切ろうと思ったところをこれまでになく素早くかつ綺麗に切れる。これを一回でも体験してしまったら、2度と紙を手でちぎり切ろうとは思わなくなるだろう。こうして、もうハサミ無しでは紙は切れない、ということになる。ところが、これは切る効率化を、速さと綺麗さという価値観に集約させたということであって、切る行為のその他の可能性がハサミの登場によってかき消された(覆い隠された)ということにも気付かなければならない。ここでのハサミの例えは行為が単純だから実質的問題は大きくないが、これが言語意識というものになると、潜在的な可能性は膨大であろう。その膨大な可能性が、AIという切れるハサミによって、“早く綺麗に”成されるため、受け取る側つまりユーザーは、もうそれ以外の答えなど必要ないのではないかと信じてしまうのである。こうして、人類が紙を切るときハサミを欲するように、物事を考えるときAIを欲するようなることは、実は潜在的な膨大な可能性をみすみす捨てているということになる。ハサミで切った紙の切れ線が世界どこでも同じように、AIで出される思考の答えは、全世界的に同じものへと収束するだろう。それは、今ここで生きる固有の1人の思考と言えるだろうか。今再び考えるべき古いことわざに、「ナントカとハサミは使いよう」がある。次のようにバージョンアップしよう。

「AIとハサミは使いよう」。

2026/04/11(土)

2024年1月9日火曜日

なぜ寝顔は美しいか

もちろん全ての寝顔がそうであるわけではないが、見慣れている人の寝顔には魅力を感じることはある。


大人にとっての他者の寝顔は、恋人であったり配偶者であったりと、最も身近な他者として存在する。

その他者が、最大限にその身を許し預けている証が寝顔である。それを見ているということはすなわち、私は孤独ではないということを示していると言える。その、一人ではないという喜びがポジティブな感情を生み出していることはあるだろう。


当たり前だが、寝顔は覚醒時にはできない。寝ている時だけの顔である。反対に、覚醒時の顔それも他者に向けられたそれは、何らかの感情を外へ向けて放っている。“表情”と言うように、顔は感情の表舞台である。動物界においてはヒトはその機能を最も発展させた種類である。つまり、覚醒時の顔は、そのほとんどを他者のために機能させているのだと言える。戸外へ出て目に入る”起きているひと“の顔はすなわち、その人自身ではなく他者のための顔だ。それが解放されたのが寝顔である。だから、寝顔は社会から関係を絶って、肉体存在としての自分自身に帰った表情である。


寝顔は顔が弛んでいるように見えるが、もちろん実際はそうではない。顔面の皮下に埋もれた表情筋を構成する骨格筋細胞たちは、顔面神経からの命令がほとんどやってこない就寝時は、言わば休憩時間であって、各々がゆったりと微細な収縮をランダムに繰り返している。ちょうど公の場所で大勢の人々が静かに独り言でもつぶやいているような様子だ。そのようにして、いつでも神経からの命令に瞬時に答えられる準備は整えているとも言えよう。

このように、表情は表さないけれども、完全弛緩したのでもないのが寝顔であって、死んだ顔とは全く異なる。死に顔は、まさしく「死に顔」とわざわざ言葉があるように、死人だけのものである。死体の表情筋は当然ながら完全弛緩している。筋細胞も死んでいるのだから。


ところで、表情は顔面の皮膚で表されるから、ここの筋肉を表情筋と言うのだけれども、実際の表情はこの表情筋だけで作られるのではない。表情には目線が重要だが、目の向きや上まぶたは別の筋であり支配する神経も異なる。また表情に顎を開けたりもするが、この顎の開閉も表情筋ではなく、むしろ表情筋よりずっと古い系統の筋肉と支配神経によって制御される。忘れがちなのは口の中にある舌だが、これも表情を作る役者の一人である。舌を見せる表情はもちろんだが、舌を見せずとも、口中における舌の位置は顎の輪郭に大きな影響を与えていることは、鏡の前で顎を閉じて舌を口中で色々と動かしてみれば、直ぐに分かるだろう。この舌の運動は、舌それ自体の形を変えることと、舌の位置を変えることの2つの運動に分けることができるが、脳神経から頚神経にいたるいくつもの神経によって制御されており、それがこの骨格筋のかたまりを自由自在に動かすことを可能にしている。

また、忘れてはいけないのは、皮膚の浅層である真皮層にある平滑筋であって、これらも普段は常に緊張状態にあり、顔面の毛髪の角度制御や皮脂および汗の分泌を助けている。

もっと言うなら、「上目づかい」や「見くだす」と言う表情を表す言葉から分かるように、頭部の空間的な位置と角度も、表情には重要である。同じような体格の者同士なら、顎を上げたり下げたりすることでこれらを実行している。頭部を動かすのは頚部つまり首だが、うなじにある最大の首の筋は、実際のところは、首と言うよりむしろ背中や肩の筋と言えるほど強大である。

このように、顔の表情と一言で言ってしまうが、実際にそれを可能にするには、頭部から肩そして胸部まで至る広い範囲であり、そこに関わる筋の種類や数も多い。


死に顔ではこれらの筋が死んで弛緩するため、生きている時は決してしない表情となる。死に顔は唯一無二である。映画やドラマの死に顔はあまりに生き生きして見えるがこれは仕方がないのだ。死ぬとこれら筋肉が作る緊張が全て解けるため、まもなく顔のしわも伸びる。血流もないので水分が供給されず、組織はただ浸透圧で保てる水分を保持するだけとなる。血球も落ちていくので皮膚の赤みが減り皮膚組織そのものの色になるため、アジア人は黄色味が強くなる。「頬を赤らめる」というように、皮膚の血色も表情には関与している。


寝顔は、弛緩した顔というより社会から解き放たれた顔である。社会性の動物とも言える人は、そこから解き放たれた自分、つまり寝ている自分は、自らの安全が保証されるごく限られた人にしか見せない。

寝顔に美しさを感じるならそれは、その形態そのものというよりむしろ、その親密な精神的関係性を喜んでいるのかもしれない。

2023年9月15日金曜日

構造しか言わないのなら

 構造しか言わないのなら

それを彫刻と言うのだろうか

彫刻は

構造によって

詩を紡ぐ

構造はいつも背後にある

2023年2月17日金曜日

AIが良い絵を描くということ

深層学習させたAIが、プロのイラストレーター並みのイラストを描く時代になった。それも研究レベルではなく、一般に使用解放されるレベルにおいてである。 AIによって、イラストのように、人間にしかできないと言われていた表現行為が、非人間でも可能であり、それどころかあっという間にできてしまうことが実証されたのである。 表現とは困難を伴い厳しい修練に耐えうる人間のものと信じている芸術家ならAI作画を開発しようとすら思わないだろう。これは、描きたいというより、ただそれが欲しいという者だから開発できたのだ。 AIによる作画が芸術的創造と同じであるとは、現時点ではまだ言えない。しかし、今後AIが我々が創造と呼ぶ領域に入ってくることは予想できる。その時我々は、創造行為が人間だけが作り得る崇高なものではなかったことを知るだろう。 

 つい最近、ある投稿スレッドで、「パソコンなどというものを、なんで人が作れたのか想像もできない」と書かれているのを見た。この、何気ないが同意できるような一言には、私たちが対象に何を投影して見ているのかを考えるきっかけがある様に思われる。このコメントを投稿した人は、パソコン画面から得られる情報の複雑さや、パソコンやコンピュータを行なっている計算の複雑さや速さを見聞きして、そのように思ったに違いない。このような、コンピューターの処理能力を身近に感じるがゆえに、もしもこの性能が人間の制御を超えてしまったならどうなってしまうだろうかという不安が生じ、数年前に良く言われた「シンギュラリティ問題」が登場するのだろう。AIがプロ並みのイラストを描くことも、ある意味においては、シンギュラリティ問題に近い。 

しかし、本当にコンピューターはそれほど驚異的なのだろうか。AIが描くイラストは人間の画力を超えているのだろうか。これを考えようとする時に気をつけるべきは、描かれた物とそれを判断する者とを明確に区別することである。イラストにせよ芸術にせよ、完成した作品の質は、我々人間が見て判断しているのだから、その作品の価値判断は人間によるものである。 では、作品を作る時はどうか。作者は一枚の絵を描くために訓練を重ねる。構図や色調、人物画の均整、描線の強弱などなどである。それを身に付けるには多くの絵を見て何が良いのかを知らなければならないし、自分が良いと判断した絵が描けるように何度も繰り返し習作を描いて手の筋肉を制御できるようにしなければならない。画材の特性も知り、使い方も習熟しなければならない。画力を下支えする要素は、それぞれをマスターするだけでも多くの時間が必要である。つまり、一枚の絵を描くためには、その絵を思い描く能力と、それを具現化させる画力とが必要で、両者が高度に噛み合った時に、優れた絵が描かれるのである。画家はそれを身を持って知っているし、画家でなくても、優れた一枚の絵は簡単に描かれるはずはないと“信じている”。 だが、コンピューター上のAIは優れた絵がどういうものか知らないはずだ。AIは我々のような主観を持っていない“はず”だから、優れた絵という主観的判断を知りようがないからである。そうであるにも関わらず、我々人間が優れた絵だと感じる絵を描く。それも、何年という習熟期間もなしに。優れた絵は優れた感性と技術を持つ画家から生まれると信じている我々は、それゆえにAIの実力に脅威を抱くのである。

この考え方をひっくり返す必要がある。優れた絵を知らないAlが良い絵を描いたという事は、良い絵かどうかの判断と良い絵が描けることとは別という事実を示している。AIが改めて証明したことはこれである。実はこれについて、私たちはすでに知っていたはずである。絵の教育を受けたことのない子どもが素晴らしい絵を描くことはままあるし、良い絵についての教育など受けた事のない者による絵、いわゆるアイドサイダーアートも同様である。それどころか、絵ですらない自然界の風景に素晴らしい絵画のような光景を見出すことは誰でもある。このことから、良い絵かどうかは、絵に内在する要素ではない事が分かる。それは我々観賞する側のものなのだ。だからこそ、絵が何かなど知らずとも絵を描くことは可能であり、それゆえAlも描き得たのである。 むしろ、今回明らかになった驚きは、私たちが”良い“と感じる美的な要素が、実は何ら主観を必要とせず、言わばパターンのみによって生み出し得ることが証明されたことだろう。そこには、多くの経験や苦労どころか、一片の神秘性もなかったのだ。これは、私たちの芸術性を否定するものではないが、芸術性という響きが内在させてきた高尚さや高貴さや、人間だけの唯一性といった中心的な要素は否定される事になるだろう。意識なきコンピューターが、自分が何をしているのか分からないまま、あっという間にそれを生成するのだから。チンパンジーがただキーボードを叩き続けてもシェイクスピアは書けない。彼には“キーを叩く“という意識はあるにも関わらず。しかし、無意識のAlは、アルファベットの語順のパターンを深層学習することで、恐らく近いうちに、シェイクスピア文学に到達し追い抜くだろう。自分が何を書いているかなど知らぬままに。 良い絵が何か知らずとも、良い絵は描ける。それは確かにショックでもあるが、愉快さもある。人間だけが特殊で高能力な存在だという、限りなく高まった自意識を根底から突き崩すような潔さがもたらす自虐的な愉快さである。確かに、斜に構えた視点で様々な芸術作品を眺めてみれば、そこにある形態的要素は決して高度に複雑なものではないことに気付く。芸術作品に高尚性を与えてきたのは、鑑賞する者の意識なのだ。その意識は何となれば、転がっている石ころであっても、到達不可能な美として見ることさえできる。AIにとって、美術作品から解析する要素など大した複雑さではない。それが特定のテイスト、例えばレオナルド・ダ・ヴィンチ風などに限定されるなら、さらに単純であろう。 そう考えると、むしろAIにとっての最後の牙城は、日本の侘び寂びの世界かも知れない。その無造作の世界、無作為の世界の微妙さをAIは再現できるだろうか。コンピューターは「する」世界に向かっているが、侘び寂びはそれとは真逆の「しない」世界にある。しないままのしない、はあり得ず、するを知ったがゆえにしないがある。足したからこそ引くことができる。膨大な情報を足し続ける現在のコンピューターが、引くことに向かい始めることがあるだろうか。

現在のAlは、深層学習をベースにしている。膨大な量のパターンを読み込ませ、そこにあるパターンの組み合わせをさらに組み替えたパターンを作成する。これは経験から理想的な解答を見つけ出す我々の学習と同様である。ただし、コンピューターは我々とは比較にならない量を信じられないような速度で学習する。その結果の一つが今回のAIイラストである。人間がAlと決定的に異なるのもここである。人間は深層学習などしていないし、できない。そうであるにも関わらず、良い絵を生み出す。この理由を我々は直感やひらめきと表現しているが、どうしてひらめきが起こるのか、それは分からない。本当に直感なのかさえ、分からない。ただ事実として、その結果の産物が世界には存在している。人間が生み出してきた芸術的な創造物はまさにそのようにして登場したのである。現在のAIはいつかひらめくだろうか。もしそうなったなら、いよいよ人間以外が生み出す、もう一つの芸術的創造が登場することになると言えよう。しかし、それを我々人間が芸術として理解し得るのかどうか、それは未知である。 

 2022/10/05(水)

2022年8月20日土曜日

根源的な調和と意識的な調和

意識的な調和が感じられるであろうか。
   身体は調和で繋がっている。正しく言えば、あるべき身体の形には調和が見て取れる。もっと言えば、あるべき自然物には調和が見て取れる。これは私たち自身のうちに、調和というものを捉える能力が備わっていることを示している。調和とは世界にあるものではなく、私たちが感じ取るものだからである。言わば、私たちのうちに、すでに調和とは何かというものへの求心的な能力があるのだ。

    視覚芸術、形態芸術においては、その調和を感じ取り、それを反映して制作する能力が求められる。調和はしかし、ただ単に流線型であるとか、グラデーションであるとかいうだけではない。調和の幅は広い。なぜか。そこには人間に特有の調和の感受性の幅広さがあるからである。

    調和は少なくとも、根源的な調和と、意識的な調和の二つに分けられる。根源的な調和は、流線形とか、木の枝の分岐であるとか、川のせせらぎに見られる流水のフォルムとか、流れる雲に見られる形といったものだ。そこから抽出された渦巻きや直線や単純な幾何形態もそこに含まれる。これらは味覚で言うところの、旨味、甘味、塩味である。意識的な調和とは、味覚で言えば苦味や辛味に相当する。つまり、初めはそれらに対して否定的な感覚を覚えるものである。これらは初め、調和を見出すものとして感じられる。どのようなものがあるか。簡単に言えば、根源的な調和を見出すものである。しかし、学習によって味覚が育つと苦味が美味しく感じられるように、意識的な調和は経験によって心地よく感じられたり、正しく感じられるようになる。身の回りにはそのようなものが実は多い。特に、人間界において視覚にとらえられる多くがこの意識的な調和である。日本の都会の街並みや、工業製品の形態、衣服のデザインなど至る所にそれがある。しかし、私たちは普段それを不調和としては感じない。これは、視覚的には不調和であるものの、それがある理由を知っていたり、理解できることによって受け入れられるものである。つまり、それらは元来は不調和であるものが、意識によって、意識的に調和の列に加えられているのだと言えよう。この意識的な調和には、一種の諦めが内在する。それを受け入れざるを得ないという諦めである。人間社会はこの諦めの調和で構成されていると言っても過言ではない。特に、工業化の進んだ、合理性重視の世界においては、この諦めの調和に満たされていると言って良い。都会に住んでいるなら、身の回りを見てみれば良い。横の直線、縦の直線、唐突に断たれるライン。連続性のない、無頓着な色彩。そう言ったものだけで構成されている。これらは元来、全く美しくないものだ。しかし、都会に生きているものにとっては、そこに何らかの美を見出しもするのである。それは、純粋な形態美ではなく、そこに見られる生活の哀愁であるとか、自然を駆逐する人工の力強さであるなどである。これは、都会の人間が、そこに植え付けられた人間が、自らの心情をそこに反映されることで見出される意識的な調和である。

   しかし、意識的な調和は都会でしか見られないというものでもない。むしろ、人間活動のあるところならば、必ずそれが見つけられるとも言えよう。畑を耕す道具、衣服、住宅など古くから人間の身の回りにあるものも、そこには意識的な調和が見て取れる。具体的な例を挙げれば、唐突に色合いが変わる衣服の上下や、デザインの異なる衣服の上下などは、根源的には全く調和がない。

   意識的な調和は、根源的な調和からみれば、不調和である。しかし、根源的な調和にこの不調和を内在させることで、表現物はむしろ魅力を増す。正しく言えば、より魅力を感じさせる。実際のところ、芸術作品はこの調和と不調和のコントロールが重要である。これを調和の破綻ということもある。

   2021/09/24

2022年8月5日金曜日

ジャコメッティは両手利き

   YouTubeにいくつもの、ジャコメッティの動画が残されている。私はそれを知らなかった。それらを見ると、粘土の付け方や、湿らせておくための布の巻き方などが、映画「ファイナルポートレート」での俳優ジェフリー・ラッシュの動きとそっくりだと分かる。映画は、これらの映像を参考にしたのだ。

デッサンをするジャコメッティ
左手で消している

   また、ジャコメッティがデッサンをしている動画を見て、小学生の頃の私と同じ癖があることに気づいた。それは、右手で書いて左手で消すというもので、私はある時大人にそれを指摘されて気付いたのだ。これは利き手を矯正された結果の“両手利き”がすることらしい。確かに多くの人はそれをせず、消す時はペンを机に置いて消しゴムに持ち替える。ジャコメッティは、デッサン時に右手で描き左手で消していた。これは持ち変える動作によって作業が妨げられることがないので、一連の動きが流れるようにスムーズである。私自身は、やがてその持ち方をしなくなったが、今でも講義の板書において、自分の左側に書くときは左手を使うことがある。

デッサンをするジャコメッティの手元
右手に鉛筆、左手に消しゴムを持つ

   映画「ファイナルポートレート」での粘土造形のシーンでは俳優が両手で粘土をこねくり回していて、これは通常の粘土造形では利き手のみで粘土を付けるのと違うので、違和感を感じていた。ところが記録動画を見ると、なんとジャコメッティ本人が両手で粘土をこねくり回していた。その造形シーンで興味深いのは、左手に小さなポケットナイフを持っていることである。両手で粘土をこねて顔を造形しているのだが、時々、左手のナイフの小さな刃先で鋭い溝を刻み込む。なるほど、あの鋭さはナイフの刃先によるものであった。

両手で造形するジャコメッティ
左手にポケットナイフを持っている


   両手を使うとすぐに分かることだが、自分の真ん中に横向き鏡を置いて見るように、左右対称の動きをする。両手一緒の動作は、それ自体がシンメトリー(左右対称性)を生み出す。ジャコメッティの細い造形や絵画が正面性が強く、またシンメトリーであることは、両手を用いる造形手法と密接であり、さらに言えば両手利き特有の世界の見方も関連しているかも知れない。

ナイフの刃先で粘土にデッサンしている

   人は何にせよ、自己経験に照らすことで対象を理解する。私は幼少時からシンメトリー形状への親近感が強かったのだが、それはもしかしたら、利き手を矯正したことによる両手利きが影響していたのではないかと、ジャコメッティの造形動画を見て思い至った。


   それともう一つ、作家は誰でも、自らも気付いていないが、往々にして自分自身の顔に似た像を作っている。それはジャコメッティも同じで、つまりは輪郭がシャープで彫りが深く構造的な頭部は、ジャコメッティ自身の顔がそうなのだ。もし、彼がふくよかな体型の人物であったなら、あれら作品群は生まれていなかったかもしれない。

2022年7月23日土曜日

整ったアトリエと、良い芸術とが関連しているのではない

 

アトリエ内の彫刻家ジャコメッティ

 整ったアトリエから良い芸術が生まれるわけではない。アトリエが整っているということは、そこを使う者の心も整っていて考えが良くまとまるから、良い仕事につながり、結果として良い作品が生まれる、という考えがあるから、「整ったアトリエは良い芸術をうむ」と言われるわけである。

   しかし、芸術は整っていれば良いというものではない。考えがまとまっている方が良いというものでもない。むしろ、混沌を混沌として表すことができる場が芸術である。


   芸術については、「そのまま」、「なるようになる」、「なんでも良い」という言葉で表されるものを大事とするべきなのである。これらは、自立的で上昇的な思考とは合わないものだ。“常に今より良いものを”というスローガンで見るなら、芸術は決して認められないものである。しかし、この近代的かつ商業主義的なスローガンを掲げて生きるならば、その眼には決して今を満足することはできないであろう。目の前に広がる光景や今の自分自身は、常により良くなる可能性を宿した不完全なものとして現れるのであるから。人間の不満やそれに付随する様々な消極的な思考や行動は、今を満たされないという感覚から引き起こされる。なぜ私たちは満たされないのか。なぜ、より良いと思われる他者に目が行き、羨み、妬み、自らを否定するのか。それは、“より良いはずの状況”とそれに満たない現在とを比較するからである。そして、それが満たされることは決してないのだ。それは言ってみれば常に“理想”というイデアを志しているのであるから。

   アトリエをきれいに保つという考えは、その“理想”のイデアに通ずる。しかしそれは、芸術が真に志す方向とは異なっている。未整理であるがゆえに豊かな意味を内包する混沌を認められなければ、そこから豊かな芸術は生まれ得ず、また、そのような人は、芸術の豊かさに気付くこともないであろう。


   では、アトリエは散らかったままでいいのであろうか。現実世界との関係性を無視するわけにも行かない。混沌が許されるのは、自分の精神と自分だけのアトリエに限られる。アトリエが他者と共有されるのであれば、話は全く変わるのである。つまり、他者との共有においては、自分だけの混沌は全く許されなくなるということである。

   結論は、共有アトリエは整理されていなければならない。共有アトリエや学校のアトリエは公共であり、社会に所属する場なのである。そこは私的な場ではないのだ。


   学校のアトリエや公共アトリエの環境を考慮するときは、「私的」か「社会」かを見極めたうえで判断しなければならない。両者の階層は異なり、混ざり合わないものであるから。

2021/12/29

世界は能動的に生み出される


   世界にはそもそも境界も物体も何もなく、それらは私たちの中において合成され作り上げられている、という感覚を強めている。


   世界の全てを私は認識できる。実際にはその逆なのだが。つまり、私が認識できるものだけで世界はなり立っているというのが実際のところであろう。だが、両者の区別などつけられはしない。厚みのない紙の表と裏のような関係性である。

   ともあれ、世界を私がこのように捉える以前には何があるか。それは連続した事象である。連続した事象を、少なくとも視覚的に体感することは可能であろうか。可能であるはずだ。なぜなら、私の眼球はそれを捉えているのであるから。眼球はただ連続した電磁波の強弱を捉えているに過ぎない。それが神経刺激の強弱に変換され脳にとどけられると、見事に私が今見ている机とその上のiPadに変わるのである。

   どうすれば、視覚的に事象とそれが事物へと変換される瀬戸際を体感できるであろうか。身の回りを見回しても、全てが私の世界としてすっかり馴染んでしまっている。私に馴染んでいない、未だ事物化していない事象を目撃するにはどうするか。流れゆく雲、川面の波立ち、木々の枝葉の集まり、土や石の表面、それらのいわばランダム性のある場所にはそれが見られるだろう。もっと身近にないか。そう考えた時に、思い至ったのがロールシャッハテストの図である。ロールシャッハの図にはインクを垂らす部位や紙といったところ、つまり発端においては人間の意思があるが、現れる図に関しては手を入れていない。だから、そこにあられる染みはある程度ランダムである。これを見たとき、私たちは何らかの図像をそこに見出す。この過程は、事象から図像が立ち現れる過程と似通っているかもしれない。


サンドアートと呼ばれる商品

   サンドアートという商品がある。2枚の透明な板の間に水と2色の砂が入れてあって、水の中を砂が落ちて下に溜まっていくときに模様を作り出すというものだ。2色の砂は重さや大きさが異なるので落ち方に違いが生まれ、縞模様となったりする。それが重なると、見事に遠近法で描かれた景色のようになる。これは驚くべきことだ。なぜなら、景色ではないものに景色が現れるということは、本当の景色が真実であるなら、サンドアートは意識がない物質であるにも関わらず、景色を模倣したことになるのであるから。もちろん、実際には砂が景色を模倣するはずはない。では、どういうことか。外世界に景色は存在せず、それは、私たちの内側で作られているという事実がここで示されたことになる。これこそが驚くべきことであろう。遠くへ続く渓谷の景観は、それがあるから私たちが理解するのではなく、私たちの内にあらかじめ景観があって、それをリプレイさせるスイッチとして、外世界の光景(の、元となる光線)があったに過ぎないということなのだ。だからこそ、私たちはそのスイッチをオンにするきっかけがあれば、そこに景観を見るのである。

   ここで、はたと気づく。ならば、それ以外の全ての視覚もまた同様ではないか。いや、そうでなくてはならない。なぜ、写真を見て、それをその写っているものとして認識するのか。なぜ、絵画や彫刻が無意味な色染みや土塊として見えないのか。それは、その形や色があれば、本物も偽物もなく、同様に私たちの内側の事物がオンになるからに違いないからである。


   そうであるなら、私たちは、全てをすでに知っていなければならない。知っていなければ、再生できないからだ。それを私たちはいつ獲得するのであろうか。一つ一つの事象を事細かに拾っているはずなどない。私たちは何らかの共通性だけを取り出しているのではないか。それが、水平垂直や直線といった幾何形態なのではないだろうか。抽象化されると世界は直線になっていく。


   ロールシャッハの図や、サンドアートの模様は、風景や図像は外にあるのではなく、私たちの内にこそあるという事実を端的明快に示すものだ。そうであるにも関わらず、この事実を殊更に驚く人はいない。私もこれまではそうであった。なぜか。それは、私たちが世界を、現実と空想とに分けるからである。目が捉えた現象に基づくものは現実で、あるはずのないロールシャッハやサンドアートの模様に基づくものは空想とみなすからである。

   その考えが根強いから、芸術は空想の領域に押しやられているのである。しかし、ルネサンスの芸術家は違った。レオナルドなどは、現実も空想も、人間の内において統合された同一のものであることを知っていた。だから、平面の絵画に奥行きや動きをもたらせようと考えたのだ。それが可能となれば、現実と絵画とは区別がつかなくなるだろうと考えたのだ。今世紀のVR技術などはまさにそれを現実のものとしようとしている。そこにあるのは、創造された画像である。

   VR空間で騙される視覚と、ロールシャッハの染みに図像を見出すこととは、私たちの視覚的認知における同様の性質に基づくものなのだ。


   世界とは、私たちの内において、能動的に生み出されているものなのだ。


   2021/09/18

本当の幻覚はそれと気が付かない

本当の幻覚はそれと気が付かない。幻覚と気付くのは、破綻を来していない意識があるからで、言わばまだ軽症である。本当の幻覚となれば、もはやその異常さをも受け入れられるので、何の違和感も感じない。それは正常なものとして受け入れられる。そんなことがあるかと思うかもしれないが、寝ている時の夢を思い出せばいい。夢の中では全てを自然なこととして受け入れている。それが奇妙なことであったと気付くのは起きてからである。

これが意味する事は小さくない。なぜなら、実は私たちの日常も、異常で奇妙な事が起きているのかもしれないからである。しかし、それに気付く事はないのだ。

Sep 17, 2021

2021年7月28日水曜日

1964東京オリンピック後の円谷幸吉の自死と三島由紀夫

疾走する円谷幸吉

   NHK「映像の世紀」で1964年の東京オリンピックを当時の映像で振り返っていた.マラソンは当時のハイライト的な競技であったらしいが、そこで走者の円谷幸吉が競技場へ帰ってくると観客も実況も興奮している.しかし、そのスタジアム内において後続の走者に抜かれ、3位でのゴールであった.その際、興奮の絶叫の中で実況者が「円谷疲れました!」と叫ぶ一言に応援者の賞賛と惜敗の感情が込められていた.それでも放送では円谷によって日の丸の旗が競技場に上がったことを誉めたたえ、「ありがとう円谷君」という当時の言葉も紹介していた.ただ、映像として観ている側としては、あそこで頑張ってくれていたならと誰もが思ったに違いない.そして、当時それを一身に受け止めた円谷当人の気持ちは察するに余りある.テレビではそこまでで次の話題に移っていったが、私はこの走者には何か事後物語があったような気がしてネットで調べると、やはりその後若くして自殺していた.東京オリンピックの成績を苦にしたものではないが、次のオリンピックを目前にしての自殺であり、遡るなら東京オリンピックの成績が起源であることは容易に推測できる.

   円谷は遺書を残している.それは「美味しゅうございました」を繰り返す文体で、確かに、韻を踏んだ一寸した詩のようにも聞こえるが、これは全く独自の文体と言うより、第二次大戦中の特攻隊員が書いた遺書の文体にそっくりなのだそうである.最後には「幸吉は、もうすっかり疲れ切って走れません」とある.これは、オリンピックの実況の「円谷疲れました」への呼応であるとも取れ、彼の孤独な勝負はオリンピック後も休みなく続いていたことを表している.

   三島由紀夫は円谷の生き様と死に様とを絶賛していたようだ.小さなカミソリで頸動脈を切っての自死という方法もその意思の強さを象徴している.三島をもって感嘆させたのはそういう刃物での自決という手段もあっただろう.

ウィキを見ると、三島による円谷の遺書と自死への言葉が載っている.

「三島由紀夫は『円谷二尉の自刃』の中でこれらの無責任な発言を「円谷選手の死のやうな崇高な死を、ノイローゼなどといふ言葉で片付けたり、敗北と規定したりする、生きてゐる人間の思ひ上がりの醜さは許しがたい。それは傷つきやすい、雄々しい、美しい自尊心による自殺であつた」と斬り捨て、最後に、「そして今では、地上の人間が何をほざかうが、円谷選手は、“青空と雲”だけに属してゐるのである」と締めくくった。」

   上記の一文を読んで思い出すのは、映画「東大全共闘と三島由紀夫」においての楯の会のメンバーによる回想で、そのメンバーの知人が自死した際に「理由は精神衰弱」と三島に報告したところ彼が顔を真っ赤にして怒ったというエピソードである.その際に三島が言った言葉というのが、上記に書かれていることとほとんど同じなのだ.もしかしたら、円谷のことを思い出してのことだったのかも知れぬ.

   三島による円谷の死の評価をどう見るか.人は死すれば言葉なく、純粋な他者に対する存在のみとなる.だから、その価値や意味付けは全く他者に依存することとなる.三島は円谷の死を美しい自尊心とした.そう表現することで彼を貴いものとした.だが、死してなおこのように言われる境遇に生前置かれていたからこそ、彼はそこに常に自己との違和を感じていたのではないか.そのような滅私の存在であれと言う輪郭線の見えない巨大な圧力が彼を押し潰したのであろうと思わざるを得ない.無垢な個人による理想像の押し付けが集まり、やがて巨大な津波となって一人の青年の人生を押し流した.

   ところで、三島は、意識ばかりで行動が伴わないことを良しとせず、両者を統一させ、いやむしろ行動を持って意識を規定しようとして、自らの身体を鍛えていた.実際にも全共闘に対しても、その思想は置いておいたとして、行動を起こして現状を変えようとする態度は「絶対に認めます」と言っている.

   行動しなければ意味がないという思想はどうやら60年代には盛り上がっていたように思われる.そこにはサルトルの実存主義も少なからず影響を与えていたのだろう.また、「映像の世紀」を観ていて思ったが、高度成長期の日本こそが、思想より行動の時代であった.それこそ、毎日街が変わって行く.思い出の光景などは文字通り思い出の中にしか存在しなくなる.そう言う時代である.フィジカルに動いて物理的に物事を変えていく有無を言わせぬ重たい力強さが満ちていた時代である.文筆で自らの思想を書き連ねる作家にとって、所詮それが物質化したところで手に収まる書籍という神の束に過ぎない.そう言う物理的な存在的弱さを体感させられる時代であったのだろう.そう思うと、人は自分が生きる時代と場所に分かち難く結び付けられているのだと強く感じ入る.深く自己を考え、自己の在り方を問うた各時代ごとの知識人とて、結局のところ、その思想は彼らが生きる時代と場所という背景の上に描かれるのである.

   歌は世につれ世は歌につれ

   ということである.


   2021/07/22

2021年7月27日火曜日

偶然という物語

    物言わぬひとつの石ころに目が行くことがある。それらがこちらへ話しかけてきたわけでもない。たまたまそこを歩いていて、ふと目を落とした先にその石があっただけの事だ。もし何か急いででもいたら、同じように目を向けたとしても、それが網膜に映ったことなど気付きもしない。人生の時間と移動する空間の広さに、その時の精神状態まで考慮に入れて、その石ころを拾い上げる可能性を割り出したら、それこそ“たまたま”や“偶然”と呼ぶにふさわしい数値が出るに違いない。

   

   もし、あなたが石ころだったらどうか。今まで一度も誰もあなたに目をくべた存在は、それこそ虫一匹でさえ、なかった。それがある日、突然に誰かがあなたに気付き手を伸ばし拾い上げられる。あなたはこう感じるだろう。やった!私は他とは違う。その事が認められたのだと。私という才能の抑えきれぬ光によって、物言わずともこうして選び取られるのだと。


   さて、拾い上げた方も、それを握って重さを確かめたり、土をはらって形や色をよく見て、なるほどこれは面白い石ころを見つけたものだと悦に入るかもしれない。その内に、こんな石はそうそう見つかるものでもない。これは単なる偶然でもなく、いつも何か珍奇な物を見つけてやろうとする心持ちがあったからこそ見出せたのだと、そう思えてくる。


   見つけた、見つけられた。そのどちらにせよ、起きたことを振り返る時、そこに理由という物語が付け加えられる。そうでなければならないのだ。私たちの“意識”にとっては。意識とは物語である。私たちの外世界は感受され意識によって反復可能な内世界として再構築される。私たちが思い出とか記憶と呼ぶものである。外世界の現象は二度と反復されないが、記憶はその再生を可能にしている。それは、撮影した動画の再生とは根本的に異なる。動画は、それが貴重な瞬間を反復していようと、実際には光線の明滅の集積であり、そこに物語は存在しない。それを“貴重な瞬間”という物語にしているのは、それを見た私たちの意識である。


   実際には意識のない(必要のない)石ころには拾われた理由などないが、それは私たちとて同様である。しかし自らの人生が偶然の積み重ねに過ぎないなど受け入れ難い。それは、意識ある人間の否定と等しいからだ。意識ある、もしくは記憶ある人間である以上、世界は物語である。物語である以上、真なる偶然はなく、何らかの事象が繋がりあった理由がそこにある。

   私たちにとっては偶然に見える事象でさえ、偶然という物語に彩られているのである。


2019年2月5日

2019年7月21日日曜日

思考の時系列

 記述言語はほとんどが時系列を内在している。つまり、読み始めと読み終わりが存在する。わたし達は文章を読むことに慣れているので、思考もそうであるように感じる。実際、頭の中で文章を“語る”こともある。しかし、普段の思考は本当に記述言語のように文章化されているだろうか。おそらく、そうではない。非言語的な思考の立ち上がりがあり、次にそれを言語的に置き換えている。もし口述や記述するなら、それは完全に言語化された証である。
 つまり、非言語的な思考が言語化される過程において、そこに時系列が組み込まれた可能性がある。読んでしまう前はそうではなかった。なぜそう言えるか。非言語的な伝達手段があるからである。つまり、芸術だ。私たちの世界認識は言語だけではない。周囲を見回しても言語以外のものが多く目に入るが、私たちはそれをいちいち言語化せずに認識している。本棚が“本棚”になるのは、そう言おうと(書こうと)した時である。
 だから、記述言語は自由な思考を制限するものでもある。文法を知らなければ、その言語で考えることはできない。言語は階段に似ている。そこを通る人は皆歩幅を強制的に合わせられてしまう。しかし、階段を作る原因は高低差で、本質はその高低差をクリアすることにある。坂道でも構わないのだ。しかし、坂道では歩みの遅い人、歩幅の小さい人など個人の特性に進度を委ねているので、進み方にブレが大きい。階段にすれば、皆同じ歩幅となり、使う筋肉も合わせられ、より効率的となる。
 しかし、記述言語は始まりと終わりがあるので、絵画を一瞥するような、瞬間的な全体理解ができないという致命的な欠陥がある。それでも巻物から書籍となり、ページ数と目次が加わったことは大きな飛躍だったろう。しかし、文章である以上、そこに時系列は常に存在する。文章を構成する単語にはそれがない。「文章」「構成」「単語」「それ」「ない」などには時系列がない。それが組み合うとそこに時系列が現れる。「文章を構成する」は「文章を構成」までは結果が分からず、最後の「する」を読んで意味が決定する。決定する最後までは「しない」かも知れない。ならばそれも単語化すればよいか。「構成文章」「非構成文章」とすればどうか。これは結局、英語や中国語の文法体系である。つまりこれが長くなり、複雑化すればそれを初めから読まざるを得ないので、時系列が組み込まれる。既存の言語は時系列がある前提だから、これに乗っている限りは、時系列に従わざるを得ない。
 しかし、生物が今ある身体を基盤としながら進化してきたように、言語も今ある形から進化することができる。新しい言語へと、よりわたし達の思考に近い、つまり自由自在に飛翔できる思考に寄り添った記述言語へと進化することは不可能ではない。

 わたし達は言語によって自らの思考に形を与え、他者との認識共有を果たし、文化を構成してきた。とは言え、その形式が固まったわけでもない。もしその思考に限界を感じるなら、窮屈さを覚えるなら、それはこの思考の体系の限界が透けて見えているのだ。
 芸術は非言語的思考体系の一つだと言える。しかし、それはあえて原初的段階で常に止められる傾向があるので、意思疎通の道具としては機能していない。少なくとも厳密性に欠ける。言語としての厳密性があり、かつ、時系列の呪縛からも逃れた体系が構築されれば、その時はわたし達の知性は次の領域へと飛躍するかもしれない。

2019年6月19日水曜日

生きる喜びについて

   そもそも生きる事と喜びとを単純に結びつけるべきではないのかも知れない。それは意識的に創り出したものではなく、見つけたものだ。つまり、生の喜びはそもそも与えられていたのである。重要なまちがいは、生を一生の事として、たった一つの事象としてまとめてしまうことにある。現実の生は一色ではなく常に変わっていく。幼少期、少年期、青年期、成人期、壮年期、老年期、そして晩年期と分ける言葉を我々が知っていることからもそれが分かるだろう。色合いが変わるのは人生の後半で、壮年期から人生の憂いは色濃くなり、老年期は諦めの色を帯び、晩年期ともなると達観の領域となる。ここで重要なのは、これら世代ごとの変化の主観が世代ごとに異なる点である。すなわち、晩年期の達観は、青年期の諦めとは本質的に異なるもので、ゆっくりと動き、滅多な事で驚きもせず笑いもしない老人の心境は若者には理解しがたい。その達観は若者が何か衝動をじっと我慢しているのとは本質的に異なる。それは、多くの経験を積んだから心が動かなくなっているのとも違って脳の器質的な変化によるもので、つまりは本質的に若者のようには心が動かなくなっているのである。これは、私たちが、5歳児のように遊べない事と同じである。

   生の喜びはなぜ老齢とともに失われるのか。残酷な表現ならそれは死への準備と言うことになろうか。別の視点で言えば、種としての存在必要性の減少とも言える。加齢による肉体の衰えは雪が必ず融けるような自然現象とは異なり、進化によって作られた現象である。それは動物種ごとに寿命が異なることからも明らかである。加齢による身体の衰えはだから周到に準備された現象として見るべきだ。壮年期以降になると、身体には様々な不具合が生じ、身体機能の調和が徐々に失われていく。青年期以降の人生は、それまでに得てきた身体的能力の喪失の期間だとさえ言える。人類という生物の寿命のデザインは青年期が終わって壮年期に入る頃までで終わることを想定しているのかもしれない。そうすると本来は、せいぜい長くがんばっても人生50年ということになろうか。
   ところで身体は全ての器官が同じ速さで衰えるのではなく、これは実感できるものだが、運動器系の衰えが早く、中枢神経系はそれより遅れて衰え、消化器系は最後まで働く。野生では運動器系の衰えは死に直結するので、自然界では老齢個体はほとんどいない。運動器系が衰えても他者によって保護されれば個体はより長く生命を維持できる。人類はそれを実行した動物種で、当然そこにはメリットが存在する。それは、より長く維持される中枢神経系の機能すなわち知識の維持である。人類は互いに身体機能劣化を保護しあい知識の伝達共有のメリットを最大限に利用してきた。さてそれが個人では種とは異なる意味合いを持つ。身体の運動機能より長く保たれる脳は、運動機能の低下の後も記憶というその主な仕事を継続する。記憶の呼び起こしは過去と今の比較に他ならない。それが、かつては可能だったことの喪失に気付かさせ、喜びを失わせる一因ともなる。


   ところで、自分でこうして考えて大事な視点に気付く。それは私が老年期未経験者であることだ。老年期に達していない者が、観察と経験に基づいて、老年期は喜びが失われると言っていることが全幅において正しいとは当然思えない。しかし同時に未経験者は何も知ることができないというのもうなずき難い。結局のところ、喜びや悲しみといった感情は主観の最も深いところに根ざしたもので、個人的な彩りが強く、また同時に年齢期ごとにも異なるものとしか言いようがない。ただし、経験してもいないことを語れるのは人類に特有の性質である。

2019年6月10日月曜日

芸術は人

   芸術はその作品を鑑賞するものだが、その作品性が作家の性格を色濃く反映する事実は特筆するまでもない。それはつまり、良い作品を生み出すには、まず作家がよい芸術家でなければならないことを意味している。何もこれは芸術に特別な話ではなく、人の成すことはその人以上のものは現れないという事実を言っているだけだ。ただ、世間的な価値観との差異で気をつけなければならないのは、「良い芸術家=良い人」という図式ではない。もちろん、それが成り立つ人もいるだろうし、その人は社会的にも生きやすいだろうが、明らかに社会的には問題のある人が良い芸術家である事実は少なくない。ただ、個人的に感じることは、良い芸術を創り出す人は、魅力的な性格者であることが多いように思う。人に好まれたり目が離せないような作品を作る人は、やはりその人自身が、そういった性格の人物なのだと思う。作品はそれを作った人物の性格をかなり深いところまで明らかにする。おそらく、そのいくつかは作家自身でさえ気付いていないようなものだったり、気づいて欲しくないようなものかもしれない。制作者の内面性がそのように現れる媒体を芸術の定義としても良いだろう。もちろんそれが本当に正しく内面性を読み取っているのかは分からないし判断が付かないが、それは、自分の性格を自分が本当に知っているとも限らない事とさほど変わらない。

   作品の魅力と作家とが分かち難く結びついているので、芸術は商業や工業のような匿名性がない。かつて、芸術家が自覚的になる以前は、作品に記名しなかったが、それでも作品の造形性に作家性が残っている。そして本質的に重要なのもそれである。これは個人の存在とその者の氏名との関係性と似ている。芸術の歴史を振り返ると、数千年の間に、ほんの数名の芸術家だけによってその方向性が決められてきた驚くべき事実に気付く。フェイディアスのように幸運にも芸術家の名前が残っていれば数千年の時を超えて名が呼ばれるが、そうでなくとも、例えばアマルナ美術やメソポタミアなど一度見たら忘れられないような表現に名の知られぬ芸術家の個性を見るだろう。私たちはその形が継承された時間の長さからそれを様式と呼んでまとめてしまうが、それらは時間の総体として生まれたのではなく、私たちの身体形状が環境と時間ーつまり進化ーによって磨かれたのとは異なり、まず強烈な個性の芸術家が1人だけ居たのに違いない。


   日本語で「芸術」とはよく言ったものだ。それは理論と実践が高度に融合しなければならず、そのためには時間が必要で、それも数年というような短いものでなく、人生と呼んでもいいような長いスパンが要求される。それも学校の時間割のように、もしくは日曜大工のように、もっとはっきり言えば趣味のように、人生の空き時間で飛び飛びに行えるレクリエーションの類ではない。芸術は芸術家の考え方(感性)と手業(芸)を高度に融合させるべく継続を続ける完成なき行為、そのような芸(わざ)の術である。

2019年6月3日月曜日

時が経つ

   時は流れ、私が通った大学の校舎は最新設備の高層ビルとなり、お世話になった教授は3月末日で退官された。
   かつて通い始めた頃の校舎は昭和一桁の竣工で、その一帯でもそこだけ取り残されたような古さを漂わす趣のあるものだった。もちろんそれは外見に留まらず、その内部もひと昔どころか五つ昔いやそれ以上といった歴史的な蓄積を思わせるもので、古くさいと言ってしまえばそれまでだが、私は時の止まったようなその感じを好んでいた。教室の秘書さんや技官の方々も、それこそ教授より長く籍を置いていて、教室の歴史を体現しているようにも見えた。やがてその建物を立て直す事になり、在籍していた教室は近所の廃校小学校へ一時移ったが、それも区で保存していたほどの建物なので、床は廊下も含めて総板張りのクラッシックな趣あるものだった。エレベーターなどもちろんなく、日が傾き夕陽が差し込むとそこはかとない寂しさに包まれる、小学校建築だけが持つ不思議な空気を漂わせていた。軋む床を教授や教員、学生らが靴の音を響かせて歩いていた日々がもはや懐かしい。天井からは雨漏りがするのでビニールシートで滴る水をバケツへと誘導させていた。これらは遠い昔の話ではない。つい数年前のことだ。私の学生生活はこの廃小学校で終わったが、時折、諸用で教室へはお邪魔していた。それがついに今年、新校舎が完成し教室はそこへ移動することとなった。

   免震構造の新校舎ビルは、エリアごとにロックされており、個人管理されたカードキーを持っていなければ建物内部へ入ったところでどこへも進めない。ビルの上層階の新しい教室は、全面ガラス張りで、こちらの廊下から反対側の廊下まで見通せるほどだ。つい数ヶ月前までの、木の床の小学校とあまりにも差が大きく、おかしな感覚になる。それまでの古めかしい環境との連続性が断たれ、全く新しい大学か、はたまた新しい組織か、それとも未来へでもタイムスリップしたように感じるほどだ。真新しい建物の内部はどこまでも直線的で無機質で、これまでの時に置いて行かれたようなのどかさはどこにも無い。そこにいる人々だけが以前と同じだが、それだけに何か、人間が建物に順応させられているように思えて仕方がない。長い期間、このような金属とガラスでできたカゴのような施設にいる事が、人間精神に何らかの影響を与えないとも限らないだろう。

   今年度から来た学生は、つい先日までの教室ののどかさを知らず、この教室を長く取りまとめていた前教授も知らない。そして真新しく近代的な校舎を当然なものとして受け入れていく。時が経つとはそういうことなのだ。

   

2019年3月5日火曜日

蛇口を操るカラス

   公園の水飲みを器用に使うカラスが話題になっている。付近では知っている人が多いようで、以前からしばしば目撃されていたようだ。それを鳥類学者が調査して、これは確かに賢いというので発表したところ今回の評判となった。カラスが賢いというのはよく知られているが、学者曰く水の量までコントロールするのは相当なもの。映像で見ると水飲み用の上向き水道の栓を嘴で少し回して数センチ水を出し、そこに嘴を付けて飲んでいる。次は栓を更に回し噴水のように水を出して水浴びをする。楽しそうだ。少し前には駅の自動券売機で切符購入の振りをするカラスも話題になったが、学者曰く、これは飼いカラスが真似遊びをしているのであって、今回の野生カラスの行動とは本質的に異なると。

   何が賢くて、何が賢くないか、それは捉える側の判断で異なってしまう。券売機のカラスはもちろん電車に乗るために必要な券を購入しようとしていたのではなく人間の行為を真似に過ぎない。つまり、行為と目的が一致していない。水飲みカラスは、それが一致している。だからこちらが賢いのだと言う。しかし、水飲みカラスの栓回しもおそらく人間の行為を真似たのだ。こちらは、「栓を回す、水が出る」と行為と結果が単純である。結果としての水の使用目的はカラスはすでに知っている。つまり、これは飲むもの浴びるものだと。対しての券売機を使う理由と使いかたを理解するのは、単に機械のボタンが押せたところで理解できるものではない。行為と目的の複雑さが比較にならない。仮に券売機ではなく、タッチディスプレイを押したら水が出る機械だったなら、モノマネ券売機カラスもおそらく水を出して飲んでいただろう。
   公園の水飲みなど一度も見たことのないカラスが今回の行為に至ったのなら、それは相当な知性を感じさせる。また、このカラスが飛び立つ前に栓を閉めているなら、それも知性的である。しかしそれはしていない。当然である。カラスは水道水に料金が掛かるなど知らないし税金も払っていないのだから。人間でも23歳の幼児では水道をうまく使えないと言っていたが、幼児は自分で水道を使う必要がそもそもない。


   人間の作った道具を操っているから高度、なのだそうだが、カラスが自然物と人工物を区別している訳でもない。私はむしろこう言ってほしい。我々が知性的だと信じていた行為が実はカラスができる程度のことだったと。

2019年2月14日木曜日

革製品とその強さ

 革製品は丈夫だと言われるが、それは素材の革が丈夫だからで、長く使用していると大抵は縫い合わせがほつれて使えなくなる。つまり結局は、縫製の強度、糸の強さが革製品の寿命を決めている。

 革の元である真皮はコラーゲン線維を絡み合わせたようになっている。これを植物線維で人工的に再現したような物が紙だ。ただ紙の線維の絡み合いは皮とは比べ物にならないほどゆるく薄いので簡単に引きちぎれる。コラーゲン線維はそれ自体が強靭であるうえに、非常に緊密に絡み合っているので、全体としての引っ張り強度が高い。線維のランダムな絡み合いなのでどこかの線維が千切れたとしてもそこからほつれていくこともない。ランダムであることが全方向への強度を担保している。線維を編んだ布は当然ながら糸の並びが一定であり、そのため強度にも方向性がある。また、編まれている糸も整然と並んでいるので、その一本が切れると、その糸の列全体の力学が乱れ、そこと直行する糸列との力関係も乱れる。だから人工的な布はその整然さ故に、最高のパフォーマンスは新品時にあって、使っていくほどにそれは減弱の一途を辿る。いっぽう革にはそれがない。一本のコラーゲン線維は長くはないし、整然さとは真逆の混沌とした並びをしているので、どこかの線維が切れてもその影響は最小限に抑えられる。同様の強度がある人工物としてはフェルトがある。フェルトは動物の毛を使っているので、紙とは違って動物性であり、その点でも革と近い。ただ、組織学的には体毛は表皮由来で、真皮由来の革とはわずかに異なる。フェルト製品を手で引きちぎろうとしてもまず無理である。見た目にはふわふわして弱そうに見えるが、そのゆるさ故に、引っ張ると線維が一斉に牽引方向を向き一本の太い縄を指でちぎろうと努力するような力学関係となる。

 織られた物、ファブリックとしての革やフェルトは、柔軟さと強靭さを併せ持った理想的な素材である。そのうえ革は皮としてすでに織りあがっている。人類が初めて使用したファブリックは狩った獲物の皮だったろう。皮(スキン)を腐らないように加工した革(レザー)を身にまとうには、穴を開けて紐でくくる必要がある。衣類として快適に用いようとすればいくつかの部品に分けて縫い合わせる必要も出てくる。「縫う」という行為もしくは技は、革と革とを結びつける必要性から生まれたのではないだろうか。木綿の衣類が現れるのはずっと先になってからだ。おそらく、初期は革同士を革紐で縫っていただろう。太い革紐は強靭である。やがて、植物繊維から糸が作られ織物が生まれた。織物を縫い合わせるのに植物性糸は相性が良い。強度も似ているからだ。しかし強度問題はこの時生まれた。つまり、強靭な革素材を植物性糸で縫い合わせるようになったのである。引っ張り力が加わると、線維がランダムな革では張力は分散し減弱していくのに対して、方向がまとまっている糸は張力が逃げず張力に負けて断線する。

 現在の革製品は、人類が手にした素材として最も古いであろう革と、それより新しい素材の植物性糸からなる。両者はそもそも作られた目的が異なるのだから、その間に強度差があるのは当然である。縫製が切れないようにナイロンなどの強い糸を用いることもあるかもしれないが、今度は縫い穴に過度な負荷が掛かって縫い目から切れるだろう。糸の強さは本質的な解決策ではない。問題は張力の伝達である。革の線維同様に短い線維をランダムかつ緊密に絡めされることができれば理想的だが難しいだろう。革の裁断方向とその形、そして縫い方の工夫によって張力を減衰させるやり方が現実的である。動物の皮は概ね全方位への引っ張り強度を持つが、縫製でそれを再現することは厳しいだろう。しかし、ジャケットやバッグ、靴などそれぞれの製品ごとに張力の向きはある程度規則性が見られるはずだから、それに見合った形の裁断と縫製を工夫することで、相当の商品強度を持たせることは可能だと思われる。特にジャケット(やパンツ)であれば、人体の外形研究だけではなく、筋の走行が相当なヒントを与えてくれるはずだ。そのようなアプローチを研究して開発された製品を私は未だ知らない。作って見たい気もする。











2019年2月8日金曜日

本の使い方

   本を分解してしまう。本を購入して先ず最初にすることはカバーを取ることだ。カバーが付いていると読む時に本が上下にずれて煩わしい。著者の情報や価格などカバーにしか書かれないこともあるのだが、読む時の煩わしさが優って結局は取り外す。カバーは人の外着のようだ。自分を包み込みながら、それが何なのかを表現し、手に取ってもらうアピールも兼ねている。だから、専門書のように値段が張る本になるとカバーも凝ったものが多い。そういうものは紙質も厚くて良く捨てる気がひけるのでしばらく取っておくのだが、いずれは結局捨てる事になる。
   専門書だと、表紙と裏表紙が硬い厚紙のハードカバー版も多い。これも本によっては切り取ってしまう。硬い表紙だと手に持った時に曲がらず板を保持しているようで疲れる。硬い表紙を開いたところに刃を入れて切り取るのだが、ひとつながりの背表紙も無くなるので、いかにも作り途中と言うか、もしくは壊れかけのような見た目になって、書籍が纏っていた威厳はいっぺんに失われる。しかし、背表紙が妨げていた折り広げが解放され、それがしなる紙葉の束と相まって保持しやすさは格段に向上する。硬い表紙の無い書籍は、紙の厚い束のような物なので、棚に立てておくと簡単に自重でひしゃげてしまう。物としての寿命は確実に縮むだろうが、読んでいるうちにページが取れてしまうというような事は今まで無い。表紙はあくまで出来上がった書籍にかぶせる下着のようなものだ。
   雑誌は読むページだけを切り取る。厚い専門書のいくつかは、章ごとに切り分けてしまったが、これは持ち運ぶのに便利で、医学部学生のアイデアを参考にした。本によっては、必要ない情報の章やページがあるので、そこは切り取ってしまう。
   書き込みや線引きも多くするのでペンを手元に置いておく。もちろんそれらは、読み返した時のためなのだが、最近は読んだことの記録に過ぎないというか、犬のマーキングに近いような気もする。年齢とともに、読んだ事が頭に素直に入らなくなった。そのおかげで、毎回新鮮なのだが、そこに書き込みがしてあると、忘れていた過去に再開したような感覚がある。今考えているような内容のメモ書きを見つけて、その日付けが10年前だったりすると、停止している自分に唖然とする。付箋も多用する。だんだん増えて付箋だらけで返って読みづらいという逆転現象に陥ってから抑えるようにしている。久しぶりに開く本などで用済みの付箋を剥がしていくのは気持ちが良い。
   
   先日立ち読みした本で、養老孟司先生が本のページは破ってしまうと言っていた。切るのではなく破るというところがすごい。した事がある人は分かるだろうが、本のページをきれいに破り取ることは非常に難しい。ただ引っ張ると根元から取れるが、雑誌などでは繋がっている反対側のページも取れてしまう。それを気にして力加減を誤るとページ途中から切れる。養老先生が破ったページを見てみたい。
   朝カルを受講頂いている方が、本は2冊買って1冊はばらして読むと言っていた。本は買ったままで読まなければいけない訳はなく、自分のスタイルがあって当然なのだ。


   グッゲンハイムのジャコメッティ展には、彼がボールペンでデッサンを描きこんだ新聞紙や本も展示されていた。中にはエジプト彫刻の大きな写真集もあって、その解説ページの広い余白に写真の彫像を模写しているのだ。白い余白は描ける場所。確かに高校生の頃は教科書の余白はそう見えたが、画集の余白に模写しようと思ったことはない。目的と対象との関係について、その重要性の比較について、ジャコメッティのボールペン素描を時々思い出す。書籍を物として大事に扱う事と、分解して書き込んでしまう事の間にも同じ比較が横たわっている。

2019年2月4日月曜日

レンズ

   レンズは道具として作られるので、それ自体はあまり注目されない。カメラなどの光学機器の価格は安くないが、それは高級一眼レフの交換レンズを見れば分かるように、レンズの価格である。レンズの表面で進行角度を変える光線の向きがバラつかないように、表面は厳密に角度を変えて磨かれていなければならないので、加工技術には精密さが求められる。結局はその工程がレンズの価格に反映しているのだろう。良いレンズかどうかは、良く見えるかどうかで測られる。レンズを通した現象がそのものの価値となっている。だから、良くできたレンズはその存在を感じさせない。実際にもレンズに用いられるガラスは非常に透過性が高い。

 レンズが単体で置かれている時、私たちの目はそれを見分けるが、それは石や本を見ているのとは少し異なる。そこで見ているのは、実はレンズそのものではなく、それが曲げた光線の先にある反射物である。レンズは決してそれ自体を見せないのである。
 景色を反射する水面や、光を集めて輝く水滴などは純粋に我々の興味を引く。水のように光を透過したり反射させる天然の水晶や人工的なガラスは、古くから人々の興味を惹いてきた。水晶玉は占いの象徴だが、世界を違った形に歪ませてみせるそれは、異界を覗かせるレンズのようだ。肉眼では見通せない限界の先を、レンズを通すことで見ることが可能となる。
 ところで、水晶やタロットカードやロールシャッハテストでは、一見では何か分からない視覚的対象を見て、それをどう見るかもしくはどう読むかが判断対象になる。そこで大事なのは意識的にコントロールできないランダムさである。そうするためにタロットはシャッフルされ、ロールシャッハは紙を二つ折りにする。天然の水晶玉は結晶ゆえの透過の歪みや不純物があり、それが占う際の読み取りに重要だったのではないだろうか。

 光を曲げる玉は、その純度を高めていくことで占術から離れ工学の材料となった。ここで求められるコントロール可能な精密さは、水晶玉の方向とは真逆とも言える。制御された透明なレンズは、人間の視覚能力の拡大に貢献しつつ、自らの存在感をどこまでも透明にしていく。

2018年11月24日土曜日

スマートウォッチ

   Apple watchは、かつて多くの人が描いていた「夢」の商品化である。腕時計ほど常時身につけられてきた道具はない。これまで発売されてきた多くの多機能腕時計を見れば、そこに多くの機能を盛り込むことが一つの夢だったことがわかる。中でも叶わぬ夢の機能としてたびたびSF作品や漫画などに描かれたのは通信機能とテレビであろう。そのうち、通信機能はApple watchが実現した。テレビ機能は未だ付いていない。ただこれは、テレビが動画媒体の唯一の代表からその座をネット動画へ明け渡したこともある。とは言え、YouTubeのような動画もまだApple watchでは再生できない。Apple watchはスマートウォッチという新たな領域を広げつつあるが、それと同時に、誰もが欲するような夢の道具とはなり得なかった事実も示している。その原因はスマートフォンに他ならない。腕時計型電話が実現するより前に可能だった携帯電話が、一足先にかつての夢の多くを叶える場となったからだ。今や“電話”機能はサブに回り、メインはネット通信や電子決済の端末である。電子決済はまさに拡大の真っ最中だが、その読み取り機のデザインは、駅の改札やコンビニのレジを見ればわかるように、携帯電話をかざすことを前提としている。Apple watchを電子決済に使用することもできるのだが、手首にはめているので膝を曲げて読み取り機へ近づけなければならず、かえって使いづらい。また、腕時計で時間を見る時は、肘をわずかに曲げて見れば済むが、スマートウォッチで画面操作をする際は、それをかなり上方まで上げる必要がある。手首と肘を同じ高さほどまで上げなければならず、ほとんど肩関節は90度前方へ屈曲させることになり、その姿勢をしてみればわかるが、決して楽ではない。

   そういった理想と現実の差異は当然シミュレーション済みのはずで、だからこそ一時の流行りで廃れないような機能(心臓モニターなど)を市場がそれを求めるより前に持たせているのであろう。

   腕時計は、それをつけることで、公共の時間と常に接続されることになる。腕時計が流行という言葉さえ追いつかないほどに浸透していることから分かるように、私たちは繋がっていたい欲求を持っている。Apple watchは腕に巻くことで携帯よりさらに持続的接続を実現させている。今後は、Apple watchやスマートウォッチが進化するというより、IoT(物とインターネットとの接続)の進歩によって、それらと常時接続する媒体として人々に浸透していくように思われる。やがて、出生と同時にその腕にスマートウォッチを巻かれる、そんな時代が来るのだろうか。