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2019年1月6日日曜日

西洋人ヌードモデルを用いて

 2019年初の外仕事は朝カル。いつも参加される皆さんの顔ぶれに宿る芸術と人体への積極的な眼差しは相変わらずで、そこには年始も平日もない。

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3回セットの今回は外国人モデルの体型を見ることが主眼である。私たちが「芸術」と呼んでいる対象は大抵は西洋美術で、もちろんヌードを描いたり見たりする文化も西洋から来たものだ。西洋美術のヌード(のモデル)も西洋人なのでその体を実際に観察することで、色々と気づくこともありそうだ。そのうえ、受講される方の多くは常連なので、日本人のヌードは相当に目に馴染んでおり、西洋人の身体を見たときに東洋人との体型の差異をより敏感に感じ取れるだろう。実際、私自身もほとんど経験のない西洋人の身体で、改めて、同じパーツで構成されながらもこうも異なるのかと驚きの連続であった。
 モデルは白人の細身の女性で、よく言われる通り、脚が長い。それを担保しているのは短い胴である。頭は前後に長い長頭型なのも典型的である。このように一般的に言われている”違い”は、もちろんそれ以外の全身に渡って探し出せるもので、手足の先端までに至る輪郭線ひとつとっても見慣れた東洋人のそれとは異なっていて、身体に現れる曲線が全て引き伸ばされているように見えた。脊柱の弯曲も若干強いので、前面では肋骨弓が強く張り出し、骨盤下部は後方へ引っ込む。胸郭は垂直に立ち気味なので、そこから上へ伸び出る頚は垂直に近く立っている。
 「日本人のふくらはぎは低く、欧米人のそれは高く見える」と受講者からの意見。しばしば比較に出される部位で、実際そのような違いがある。ふくらはぎは、膝を曲げる筋とかかとを挙げる筋の複合体で、後者の筋腹がより低く位置し立位では足首を固定する姿勢維持筋でもある。収縮力を持つ筋腹は厚く重い。その重量物は脚の運動の起点である胴体に近いほど、前後に振り戻す際の力が少なくて済む。実際、高速移動型の動物は重たい筋腹を胴体側に集めていることは馬の体型を思い出せばよくわかる。反対に、東洋人のふくらはぎのように筋腹が作用点つまり足首に近い場合、脚の高速運動には明らかに不利に働く一方で、かかとを挙げた姿勢で”てこ棒”(モーメントアーム)を長くできる。なぜこのような違いがあるのか分からないが、東洋人の身体は高速で移動するデザインではない。
 また、頭部における耳の位置の違いも質問で出た。耳は頭部の目立つ部位でありながら、その表現においては二の次に扱われる。それはおそらく人の表情の構成要素ではないからであろう。耳は頭部の中を個人差で移動するものではない。耳の位置は頭部の位置と強く関係している。普段私たちは耳は音を聞く器官ほどしか思わないが、耳の本当の働きは頭部の位置、それも立体空間内での位置を同定するためにある。頭部以外の身体は、大げさに言えば頭部の位置に従っているに過ぎない。もしくは、頭部の望むべき場所と位置を叶えるために存在している。内耳と呼ばれる耳の奥深くは液体で満たされ、身体とは別のもう一つの空間が再現されており、頭部の動きや位置はこの空間との差異によって同定されている。そして、もうひとつがいわゆる外耳が拾う外世界の音だが、単に音を聞いているというより、音波の高低と大小の違いから外世界との相対的な位置を算定している。自分が止まっていれば周囲の音源を立体的に探索することができるのは、耳が左右についているからであり、目が左右にあることで視覚的距離感を得ることと理論的に大差がない。ただ音は光より遅く進むので、到達時間の差異を探索に利用することができる。どうするかというと頭部を動かすのである。犬や猫が頭をかしげることがあるが、それは音で距離を測っているのだ。ちなみに私たちのかしげる動作は「分からない」というメッセージになっているが、これも音による探索から来ているのかもしれない。話を戻すが、耳は音の差を拾うために、頭部の両側(互いの距離が最大)に置かれ、その回転中心に頭と頚の関節がくる。こうすることで、ちょうど回転レーダーの傘と軸のように機能している。人間の耳も同様で、外耳孔の真下に頚との関節が位置している。つまり、耳の位置は頭の中で決定するというより、頚椎と頭が連結する部位との関係性で決まるのである(もう少し細かく言えば、空間内における特定の動物ごとの頭部の運動軸)。
 西洋人は耳から前方までの距離が長く感じられるが、これは一言で言えば長頭だからで、ではなぜ長頭なのかと言うと”よく分からない”。ただ、長頭という一言でまとめてしまうと若干大づかみで、例えば化石人類は顎が丈夫で長いために長頭だが、西洋人のそれはもちろん異なる。むしろ、額の突出と大きな鼻がそう見せている。そのうちの鼻は中が空洞だが、額は脳の前頭葉によるものだから重さが相当ある。頭関節から遠方が重いのでそれを支えるには後頭部を下に引っ張らなければならない。より小さな力で引っ張るには”てこ棒”を長くすれば良いので後頭部も突出する。結果的に前後に長い長頭となる。頭関節を間に介して頭部の前後を比較すると、ちょうど脳の体積を前後に2分するような位置にあることがわかる。ただ前方には脳に加えて顔があり、顔は丈夫で重たい下顎やそれらを動かす筋が付着するので重さが増す。とは言え、獲物を捉えるためにできた顎はいたずらに短くできない(人類は十分に短いけれども)。短すぎると咀嚼力の低下か、それを補うための厚く重たい咀嚼筋を具えるかのジレンマが生まれる。その際どい拮抗点が人類の今の顔の前後長であろう。対して頭関節から後方には強力なうなじの筋を目一杯つけることができる。頭部をペンチ(はさみでもいいが)に例えれば、グリップが後頭部だ。大人が力任せに握れるならグリップは短くてもいいだろう。だから頭部を耳を起点として前後長を比べると必ず前方がより長い。一方で顎が小さくて筋力が弱い幼児では、後頭部が相対的に長く突出して見える。

 クロッキーを行う部屋の天井は蛍光灯が全面に取り付けられ全光源になっている。そのため、モデルの体にも反射光を含めると全体に光が回る。これは輪郭線を追うには良いが、身体の起伏を追うのには実は向いていないことに、今更ながら気付いた。モデルの肌は白く、日本人以上に光を吸うので数メートル離れると起伏がほとんど消えてしまう。そこで部屋の奥側の蛍光灯を消して見たところ、凹凸が強調され、全く見えなかった微細な起伏を目で追うことも可能になった。思えば西洋絵画の古典のほとんどが蛍光灯や室内灯などない時代の光線をもとに作られている。今後は光源のコントロールも念頭におきたい。

 セッション後に、西洋人の「動き」も観察したいという意見を頂いた。確かにそれも興味深い。今後は、人種の違い、光源、そして動きなど、要素の拡大を考慮していきたい。





















2015年2月22日日曜日

解剖学とヌードクロッキー その情報量の差 

Benvenuto Cellini "A Satyr" 1544/1545
先日、ヌードクロッキー実習を行った。半年間、人体の構造とその見方を講義で行って、全カリキュラムの最後に実習を取り入れている。講義は、解剖学に基づいた人体構造の解説を、板書(というより”板描”か)を多用して名称より形状での理解を重視している。それでも、実物の裸体を目の前にすると、その情報量に圧倒される。経験者の私でも毎回そう思うのだから、学生に至っては、半年の講義などほとんど役に立たないだろうと思う。そんなことでは教える側としても不本意なのだが、しかし、こればかりは現実的に厳しいだろうと、ほとんど諦めに近い感覚を覚える。

 裸体を目の前にすると、例えば肩周りだけを観察しても、そこに現れる起伏の複雑さは相当なものだ。解剖学の教科書レベルで記述されている内容が、いかにその一部を極断片的に伝えているに過ぎないかを、実感する。そして、医学解剖学ではほとんど触れられない皮下組織の影響をまざまざと見せつけられるのである。つまり、皮下脂肪と皮膚の厚みによる影響だ。また、筋が作り出す凹凸も、単純に「力んだところが盛り上がる」というだけではない。例えば、通常モデルはポーズ中は静止している。しかし、生きているからゆらゆらと揺れるし、ときにはピクッと動く。その瞬間だけに凹凸が顕著に浮かび上がるのである。自動車が動き出すときにギアを一速に入れるように、動き始めに大きく筋収縮が起きているのだ。筋の部位ごとの境界線も、教科書のように素直に見えるとは限らない。例えば、肩の三角筋と、上腕三頭筋との境界など直ぐに分かるように思われるかも知れないが、実際には平均的な皮下脂肪量のモデルさんでは、定かではない。一言で言えば両者はほとんど一体として見えるのである。皮下脂肪が相対的に多い女性ではほぼ分かれて見えることはない。下肢の太ももやふくらはぎも同様で、解剖図譜のように各筋の境界線がそのまま立ち現れることの方がまれだ。内転筋とハムストリングスなどまず見えることはない。腓腹筋が内と外で分かれて見えることもない。これらの構成筋がその輪郭を明らかにするのは、皮下脂肪の少ない人において、先にも書いたように運動の瞬間(初動時)に限られるように思われる。
 とまあ、上記に挙げた例も、実際の裸体を前にすると極々小さな問題に過ぎず、膨大な「形態の事実」の大波にのみ込まれてしまうのが本当のところだ。

 この波に飲み込まれることを拒み、むしろ波に乗ってコントロールしてしまおうというのが、15世紀の初期ルネサンスから見られる「芸術家による解剖学の応用」だったのだろう。しかし、それをなすことは並々ならぬ努力があったに違いない。そこには強烈な意思がなければ、なしえないことだ。よく、美術史書などには、「解剖学を応用することで人体描写に現実性を持たせることが可能になった」というように簡単に書くが、「解剖学」を理解することだけでも大事であり、「人体描写」ができるだけでも大変な努力が要り、その両者を掛け合わせて「描写に現実性を持たせる」というゴールまで到達させるのは、並大抵の事ではないのだ。しかも、ここでのゴールは描写技術に限ったことであり、芸術はさらにそこに「画題」を語らせなければならないのである。高度に完成された芸術作品ほど、その表情はあくまで自然であるから、それが生み出される過程の多大な労力の積み重なりを隠す。
 私自身、人体の存在感の源泉として人体解剖学を捉えているのだが、その情報量と、実際の人体の情報量との格差に愕然とするものだ。科学という説得力と芸術という表現力とを融合させたところに、いわゆるマスターピースと呼ばれる作品たちの表現が存在している。あの目、あの技術のほんの裾の端でも良いから、掴めるような、そういう瞬間、領域にたどり着くことが出来るのだろうか。

 解剖学を知っても人体を造形できるようにはならない。それは、ごく始まりに過ぎない。骨や筋の名称を知ったところで、残念ながらそれらの知識は造形上、ほとんど意味を成さないのである。だから意味がないというのではない。それらは、「あいうえお」を習うのに等しい。人体描写を説得力あるものにしたいと思うなら、解剖学は初めに修めてしまうほうがよい。そして、その基礎力を基にしつつ、実物に出来るだけ触れなければならないのだろう。結局それは、過去の巨匠たちが通ったのと似た道である。

 ところで、人体の形態に関するシビアさは、医学解剖学より芸術のほうが遙かに厳しい。ただ芸術領域はそれを言語化して明言していないだけである。だから、医学解剖学書だけでは、芸術における要求を満たすことは出来ない。では美術解剖学書ならよいか、というと残念ながらそれも叶わない。なぜならそう謳っている書のほとんどが、単純に医学解剖学書を水で薄めたような内容に過ぎないからだ。つまり、現代においても人体描写に関する情報は明文化された形で手に入ることはないのである。真の意味での美術解剖学書というのを私は見たことがない。
 私たちができることは、解剖学で人体の形態に関する輪郭線を知り、実際の観察を通してそこに肉付けをしていくことだけであろう。結局これが最も効率的で近道であるということなのだろう。


2013年7月15日月曜日

ヌードと人体解剖


 日、夜の大都会某所で、表現のための人体構造を学んだ学生たちを対象にヌード・モデルを用いたセッションが行われた。広い空間をパーティションで2つに区切り、それぞれに男性モデルと女性モデルを入れるという贅沢なものだ。同時に同じポーズをしてもらい、学生は男女モデル間を自由に行き来することができる。途中、男性モデルには上腕運動時の上肢帯(肩甲骨と鎖骨)の連動的運動を実演してもらい、女性モデルには乳房の可動範囲を示してもらった。
 モデルの体型や今回のセッションの内容については事前にエージェントへ伝わっているものの、どのような方が来るのかは当日まで分からない(海外では、モデルのプロフィールや写真などの情報開示をしているところもある)。今回のお二人は若いうえに、ポージングにも慣れていてリクエストにも好意的に対応してくれたことで非常に良いセッションとなった。

 初のポージング始めにモデルが臆せず下着を脱いでポーズを取ると、初めての学生達はモデルの正面に陣取って、皆が背中が壁に着かんばかりに後ろへ下がっていたのが微笑ましく印象的だった。ただ、そんなのははじめだけで、皆すぐに観察と描写に夢中になりどんどんモデルに近づいていく。
 学生たちのほぼ全員がヌード・モデルを描くのは人生で初だったのではないかと思う。そんな彼らを見て、”人間が人間を見る、それもまじまじと”という行為の奇妙さと求心力の強さを感じた。全く我々は奇妙は動物だ。
 目の前のモデルが持つ肉体と、ほとんど同じ物を皆が持っている。そんな、言わば究極の身近でありながら、それを冷静に客観的に見るという行為は一般的生活を送る人々はほとんど体験することがない。だから、ヌード・モデル・セッションはその意味において非日常性の高い奇妙な体験である。
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 ともと志の高い学生達だが、この日の皆の集中力は特別だった。休憩時間になってもペンが止まらない者、画力の理想と現実の差にため息を突く者、男女モデルを同時に観察したいのでどうにかならないかと聞きに来る者、とにかく時間が足りないと嘆く者・・。こんな積極性を見せるのは初めてで、どれもこれも、本物を目の前にして、それを捕らえてやりたいという欲求が強烈に引き出された故だろう。
 私としては、彼らのクロッキーを見て、構造で対象を捉えたうえで表現(描写)へ反映させるということの難しさを改めて感じた。講義では、人体を構造の複合体として捉えられることが表現を輪郭線という平面性の呪縛から解き放つ強力かつほとんど唯一の手段であることを具体的に示してきた。ところが、いざ目の前に”総天然物”である裸体が立ちはだかると、そんな座学の知識はほとんど力を持たず、輪郭線で対象を追うことで精一杯という描写がほとんどだった。また、顔が整った女性モデルだったので、ある学生はその描写に捕らわれた結果小さな体が巨大な顔の下にぶら下がったような描写になっていた。
 これらを、残念な気持ちで見ていたのではない。ヌード・セッションが学生達から”ぎりぎりの本気”を引き出した、その”場のちから”に驚いていたのだ。ポーズは静止しなければならないので、20分ごとに休憩が入る。今回は毎ポージングごとに違う姿勢だったので、学生達はたった20分の間に目の前の描きたい部位を出来るだけ紙の上へ収めなければならないというタイム・プレッシャーが掛かっていた。これも、彼らの本気を引きずり出す主要因のひとつであった。とは言え、何と言っても強力な要因は”目の前の裸体”であることは疑いがない。捕らえどころのない人体を目の前にして時間内に何とか画帳へ留めようとペンを走らせるとなると、身になっていない知識など吹き飛んでひたすらに”今まで通りの”輪郭線で追うしか出来ない・・。そんな切羽詰まった様子が見て取れた。
 構造視と実物観察。この往復作業を数回繰り返すことで、もっと実質的な描写力へと繋げていけると感じる。今は第一歩を踏み出したというところか。

 回は指導側ゆえに、モデルと観察者とが作り出すこの空間を客観的に感じられた。この空間には、画力向上という本来の目的以外に、何某か心に訴えかけるものがある。それは有機的な感覚と繋がっている。観察という冷静さが、有機的な暖かいものと繋がるという経験で近いものを思い浮かべていた。それは、人体解剖だ。実習室に並んだご遺体との対面と、実習を通しての内部構造の観察。腰が引けているのは最初だけ。剖出が始まれば、直ぐに作業に夢中になっている。そうして、その間冷房の効いた実習室では冷静な観察と理解が求められるが、それらの知識は皆、”人が人を治し助ける”という有機的暖かさと繋がっている。それだけではない、生前は決して見せることのない自分の内側(内部器官)という究極のプライベートの開示と観察とがこの空間では許されている。見せる側の生命はもはや無くとも”見ても良い”という遺志がそこには明確に強くある。要求と許諾。求め許すという行為がそこには流れているのだ。
 ード・モデル・セッションもそこが似ている。他人に裸を見せるというのは相当にプライベートに入り込んだ行為だ。そこには「こっちは賃金を払っているのだから」というような無機質さだけでは成り立たない類の、感情のやりとりがある。それは金銭を超えた要求と許諾である。そういった暗黙の取り引きはあの空間にいることで”感覚的に”くみ取ることができる。だから皆、真剣になるのだろう。
 解剖実習は「死」のイメージを払拭できないが、ヌード・モデル・セッションにはそれがないどころか、「生」の瑞々しさや、なまなましささえ漂っているという決定的な違いがある。それに、解剖見学は厳しく限定されているが、ヌード・モデル・セッションは求めるなら基本的に誰でも参加できるものだ。

 ード・モデル・セッションの一義的な目的は「生きた人体の形状の観察」だが、その看板に書かれない独特な空気感を体験するだけでも参加する価値が十分にあるのではと、この日思っていた。

2010年2月11日木曜日

ヌード 芸術的人体観の根源

いま、芸術における人体表現の基本は裸と決まっている。それは、現在の芸術の主流である西洋美術の根源がギリシアであることと関係があるのだろう。ギリシア時代は、競技場では全裸で競技や練習をしていたそうで、芸術家は自由にそれを観察していたという。それが、自然な感覚からそうなったのか、何らかの先行する思想や哲学があってのものなのかは知らないのだが、今の感覚ではにわかに信じられないようなエピソードだ。しかし、あれだけの裸体芸術を生み出したのだから、相当綿密に観察と計測が行われていたのは事実だろうし、芸術家たちにとってはうらやましい理想ではある。

人体を正確に描写しようという強い欲求があれば、外見だけの観察ではやがて満足できなくなり、可能ならばその外見が出来る理由をその皮膚の内側に探りたくなるものだ。そして、それが実際に行われたのが16世紀のイタリアであり、美術解剖学の始まりとされる。
一方、人体解剖の古い記録は、パピルスに記されていたエジプトまでさかのぼることが出来る。エジプトと言えばピラミッドとミイラだが、そのミイラもただ死体を乾かすというものではなく、幾つもの手順があったそうで、内蔵や脳も事前に取り除かれていた。そういう技術を持っていたのだから、解剖の知識があったというのも納得がいく。ただ、その知識が造形に反映されていたのかは定かではない。
裸体の芸術が華開いたギリシアのクラッシック期は、フィディアスやポリクレイトスら歴史的彫刻家が活躍し、医学ではヒポクラテスが活躍していた。ヒポクラテスは解剖をしなかったという。しかし、それが当時解剖が全く行われなかったと言う根拠にはならない。16世紀のイタリアで、近代的解剖学の先陣を切ったのは医学者ではなく芸術家のミケランジェロであり、レオナルド・ダ・ヴィンチだったように、ギリシアでも芸術のためにそれが行われていたかもしれない。カノンやコントラポストなど現代まで続く美の基準は、体表の観察のみで生み出されたのだろうか。それから150年ほど後のヘロヒロスは既に綿密な人体解剖をしていたのである。解剖は、単に皮膚を切り裂いて中をのぞくだけでは何も見えては来ず、混沌と混乱が広がるのみだ。そこから意味を見いだすには相当の知識と経験が無ければならないことを考えると、ヘロヒロス以前からそれは行われていた可能性はあるだろう。

ギリシアから古代ローマの後、暗黒期と言われる中世を超えて、16世紀のイタリアでルネサンスが起こった。ここで古代の裸体芸術は再び息を吹き返し、名だたる芸術家によって新しい裸体美が生まれた。しかし、この時代は既にギリシアのように裸は身近ではなくなっていた。その意味では現代に近い。身近でないものを効率よく知るにはどうするのが良いか。知識と情報で補うのである。死体を解剖するという発想の裏には、芸術家のそんな切羽詰まった欲求があったのだろう。

現代の芸術家と裸を取り巻く環境は、大きく見ればこの頃から変わっていない。ただ、現代では裸はもっと遠い存在になっているかもしれない。
先日、友人の彫刻家(彼は日常的にヌードモデルと接していた)と話していて、「他人の裸を丹念に観察するという非日常性」に気付かされた。そう、ほとんどの人は、裸がどういうものか知らないのだ。正確には、裸の人の形を知らない。現代人にとって、他人は常に着衣である。他人にとっての自分もそうだ。裸をさらすという行為は、特殊で閉じられた行為で、もはや、「外世界に対しての体表とは皮膚ではなく、衣服である」とさえ言える。

近代彫刻の父ロダンは、何人もの裸のモデルをアトリエ内で自由にさせて、それをクロッキーしていたという。彼は古代ギリシアの芸術家と同じ環境を自ら作っていたのだ。
裸が遠くなった現代においては、芸術家は美術解剖学で筋肉や骨を知るだけでは足りないだろう。その前に、十分に裸を観察しなければならない。裸を知らぬ美術解剖学の知識は空疎なものだ。

こんな夢想をした。何人ものヌードモデルたちが自由にしている「ヌード・ルーム」もしくは「ヌード・ハウス」が美大内にあって学生や許可を得た作家は自由にそこでデッサンやクロッキーができるのである。ギリシアの芸術家やロダンのように。もしこれが実現したら、日本は世界からその文化レベルを賞賛されるだろう。

2010年1月7日木曜日

マッチョ 身体依存時代の思い出


ギリシア時代に作られた人物像は、皆みごとな肉体美を晒している。 理想的な肉体美についても研究されていたそうだから、あの彫刻たちはその解答という意味合いもあるのだろう。その美の基準は、ローマへ引き継がれて、ルネサンスで再発見され現代へと脈々と続いている。アジアでは、それとは違う価値観があったが、近代以降の日本では西洋の肉体美の基準が取り込まれ、今では1つの方向性として当然のように認知されている。

西洋のそれを一言で言えば、男はマッチョである。女もがっしりした骨格に厚い皮下脂肪をまとった表現が多い。筋骨隆々が良いという価値観は美術だけに限ったことではないのは、欧米のメディアに出てくる男性たちを見れば分かる。
なぜ、マッチョが良いのか。最も健康な状態で、強さを象徴しているから。きっとそうだろう。人が作り出す物には理想が具現化されている。

筋肉や骨格を含め、身体は基本的に必要以上の努力をしようとしない。エネルギーを消費したくない、とも言い換えられる。動かなくても生きていけるのなら、その方がいい。実際、そういう進化の道を選んだ生物もいる。
だが、私たちは自らが運動して生を繋げる道を選んだ者たちの末裔である。体も動き続ける事を前提にデザインされている。だから、私たち「動物」にとって、動けなくなることは即ち死を意味していた。人類は社会を生み出したことで、それを克服しているが、単体で放って置かれればやはり生きてはいけない。

筋骨格系は、外部からの負荷がかかると、それに応じて強度が上がる。何も運動しなくても、重力という負荷は常にかかっている。宇宙飛行士は無重力環境に居るために、重力負荷を受けず、その結果筋骨格系が短期間に著しく衰弱してしまう。反対に、肉体を酷使しなければならない環境で生活している民族の肉体は、どれも一様にたくましい。
肉体(筋骨格系)は、そもそも、動くための道具や装置に近いものとも言える。 「たくましさ」とは生活の過酷さから生まれ、後から発見された概念である。社会が安定した頃にそれは見つけ出され、やがて様式になった。もはや、生活の過酷さとは関係なく、「マッチョがいい」となったのだ。

人類は、道具の創造が大きな特徴とされる。実際、道具とは身体の延長であり、道具を充実させることで、生物的な身体は無性格で良くなった。人類の進化の特徴として幼形成熟(ネオテニー)が上げられることがあるが、道具の使用との関連性がそこには在るかもしれない。著しい身体的特性を持つ様々な他の動物(ブタやオオカミやクジラなど)も、その胎児期においては皆似通っている。もし、身体的特性が不必要ならば、それらが発現する以前の状態を維持する形で成長するほうが無駄がない。

道具の発明で、身体的特性がいらなくなった人体の「かたち」。文明の発達と共にさらにその強度も必要なくなり、それ(マッチョ)は鑑賞の対象へと変化した。
毎年、夏が近づくと男性陣は体を鍛えようとムズムズしだす。大人より自然状態に近い子供時代(小中学校)では、知識系男子よりも身体能力系男子が圧倒的に女子にもてる。

高度な身体能力が必要ではなくなった現代においてもマッチョが求められることの根底には、それによって守られてきた遠い過去(身体依存時代)へ記憶の回帰があるのかもしれない。