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2015年8月11日火曜日

人体と人体彫刻

 私たち人類は、3万年前には自分のかたちを造形していました。それら小さな彫刻の造形表現が現在と比べて劣っているということはありません。28000年前に作られた『ヴィレンドルフのヴィーナス』像が見せる、冷静な観察に基づく大胆な変形と形態的な調和には感嘆させられます(図1)。
『ヴィレンドルフのヴィーナス』 
旧石器時代の11センチほどの石像


人体彫刻の起源は人類史的に遡ることができるものですが、現在の日本で彫刻と私たちが呼ぶときに心象に浮かぶもの、例えばブロンズ像や大理石像などの直接的起源は、2500年ほど前の古代ギリシア文明と言って良いでしょう。この西洋彫刻とも呼ばれる領域が日本に本格的に輸入されたのは文明開化後ですから、日本人にとっては”西洋彫刻を作り始めて100年ちょっと”ということになります。
 しかしここでは、文化史的な側面というよりも、人体彫刻とそのモチーフである人体との関係性に注目したいと思います。そこでは彫刻の最大の特徴である「実在」がキーワードとなるでしょう。なぜなら、私たちもまた人体として実在しているからです。彫刻と人体はこのことにおいて相互に関連しているのです。彫刻は物質の形態を操作することで非言語的に語らせようとします。人体は物質が複雑精緻に組まれた形態によって生命現象が生み出されています。どちらも実在する形態のありようが、その存在の意味を支えていることに変わりがありません。一方で、両者の由来は違います。すなわち彫刻は人類によって生み出されたものですが、人体は自然が生み出したものです。
 私たちは皆生まれたときから“人体を所有”していますが、人体のことを初めから知っているわけではありません。人体すなわち「私」とは何か。それを形態から探求する学問が人体解剖学です。解剖学は隠された内側から直接観察することで人体の認識を深めようとします。人体の内景は有史以来、長い時間をかけて少しずつ発見され、その探求は現在も続いています。こうしてみると彫刻も人体も、私たちの意識によって発見される形態という意味で同様です。このような類似性は、解剖学的な形態や構造に彫刻的な美しさを見いだせることからも分かるでしょう。
 多くの点で人体と似た”実在的な運命”を持つ人体彫刻を、解剖学的な視点も加えて眺めていきましょう。

実在のリアル

彫刻には、実在しているという事実によって生まれる特有の特徴があります。そのひとつが形状と素材の連関です。これは、彫刻の形状はその素材の特性の影響を受けると言うことです。彫刻の素材として良く用いられるものは石、粘土、木材、金属、樹脂などで、それぞれ特徴的な特性があります。たとえば、石材は硬く丈夫で屋外にも置けるが欠けやすく、木材は切削が容易で細かな表現ができるが強度はそれほどでもない、などです。大理石の彫刻は細くて長い造形は向かず、人体像の姿勢もそうならないように工夫されています。一方、素材に粘りがあるブロンズ像ではよりダイナミックな姿勢が可能になります。このように、彫刻は物理作用の影響下にあるために、その形や姿勢もそれに従う範囲でなりたっているのです。
 また彫刻が実在するということは、作品の題材(テーマ)が実在するということでもあります。鑑賞者はその作品の題材と物理空間を共有していることになります。この作品がミケランジェロ作の『ピエタ』であったとするなら、その物語の当事者であるキリストとマリアがあなたと同じ時空にあるわけです。この劇場的効果が彫刻に特有の強さを与えていることは確かでしょう。一方で絵画は、一枚の絵の中に限りなく自由な世界を繰り広げることができますが、それらは私たちの物理的空間とは隔絶されています。作品題材の存在では、”絵画はバーチャルの、彫刻はリアルの芸術”ということになります。
 作品を前にした鑑賞者は、作品がそこにあることを当然の事として捉え、その作品が持つテーマを感じ読み取ろうとするものです。先に例に挙げた『ピエタ』であれば、マリアやキリストの外見やそれに伴った物語という文脈です。しかしながら、彫刻の鑑賞においては文脈の鑑賞にくわえて、それが”実在する”という彫刻と私たちが共有する事象にも目を向けることで、彫刻特有の芸術的性質が見えてくるのです。素材と空間の制約の中で屹立する彫刻には、どこか私たちと似たものを感じます。

心も形から

心を私たちは知っています。「心と体」や「心身」といった言葉があるように、形のない心に対して物質の肉体と同程度か時にはそれ以上の存在感を感じもします。私たちは具体的な形を持たない心や意識を”意識”することができるのです。怪我をしたり病気になったりしてやがては消滅する肉体という物質的な存在と心は対極的な存在として捉えられるのです。
 医学に依れば、私たちに魂の存在を信じさせる意識は脳から生まれます。脳は神経細胞の集まり、つまり物質です。また感情や愛情といった情緒は、ホルモンなどの作用で変化することも分かっています。ホルモンとは体内に流れるごく小さなタンパク質などの物質です(図3)。
このことはつまり、心や感情といった形がない概念的なものが、物の形から生みだされていることを示しています。感情を生み出す形。それはまるで彫刻ではありませんか。彫刻が持つ形状は、鑑賞する私たちの心を動かします。それは私たちの考え方や行動さえ変える力を時に持ちます。彫刻という物質の形状と形なき心との関係性は、体内における意識や感情の立ち上がり機序と思いのほか似通っているのです。

彫刻特有の感覚

彫刻は立体物として量を持ちますが、見ることができるのはその表面だけです。表面の色彩だけを見ているのであれば絵画と変わりないのでしょうか。それでは描かれた彫刻と実物の彫刻は同じということになってしまいます。これには違和感を感じますが、実際のところ具象絵画はこの思想ゆえに成り立っているわけです。しかし描かれた彫刻を観ることが、実物の彫刻鑑賞の代わりにはならないこともまた明白です。描かれた彫刻では決定的に何かが物足りません。実在する彫刻を鑑賞するときだけに働いている感覚、それは立体感です。
 この世界は立体的にできていますが、それを立体的に見るには2つの目でひとつの対象物を捉える必要があります。2つの目で捉えられたそれぞれの映像を重ねるとズレが生じますが、脳はこのズレを元に距離感を得ます。この距離感が特定の対象物に向けられるとき立体感として感じられるのです。人間の両目は並んで前を向いているので立体視が可能なのです。視点が移動すると、このズレが連続的に起こるので立体情報をより多く捕らえられます。彫刻作品の前で鑑賞者が左右にゆらゆら動いているのは、そうやって立体感を味わっているのです。彫刻は私たちの両目が並んでいたから生まれたと芸術とも言えます。世界を立体で見ることの喜びがそこには内在されているのです。
 彫刻を写真に写してもこの立体感は残せません。平面化された時点で立体感は打ち消されてしまいます。ですから、彫刻が持つ立体感や量感を楽しむには、実物の前に立って鑑賞する意外にないのです。鑑賞者がその作品の前まで赴かなければならないという意味において、彫刻はライブショー的な側面も持っています。

彫刻の内側

ブロンズ像を間近に見ると、その表面に作者の指跡やヘラ跡が生々しく残っていることがあるので、これらは直接作られた中身の詰まった物だと漠然と思われていることがしばしばあります。しかし実際はそうではなく空洞です。ブロンズ像は始め粘土や蝋などで作られます。その粘土像から型を起こし複雑な工程を経て、最終的にブロンズつまり銅の合金へとすっかり置き換えられているのです。具体的には、型の中へ溶けた熱い金属を流し込みます。金属は冷えて固まる時に縮むので、金属の量が多いと歪みや割れが起こります。そうならないようにブロンズ像は空洞にされます。そもそもなぜブロンズに置き換えるのかと言えば、長期保存のためです。粘土で作られた彫刻はそのままでは壊れやすいので、長く保存できるようにブロンズなど別の丈夫な素材へと置き換えられるのです。置き換える素材は、金属の他にも石膏や樹脂など様々です。別の粘土で置き換える技法もあります。置き換えた粘土は焼くことで丈夫にします。このように、型を起こして置き換えられることで彫刻作品のほとんどが中空となるわけです。
 この「充実しているように見えるが実は空洞」という事実は、彫刻作品の質つまり像の表面造形とは関係のない舞台裏として取り上げられませんでした。これは、作品性は外表面だけに表れるということを意味してもいます。
 しかしながら、作品の存在に多くの芸術的な意味合いを語らせようとする現代の彫刻においては、作品の表面だけでなく、素材やその内側への意識もまた作品の一部として無視のできない要素となりうるのです。例えば、古代ギリシアのブロンズ像で象眼された目が外れて穴が開いているものがあります。それを以前なら欠損の穴と見ましたが、今では黒い影を落とす目の穴にも造形的な意味を与えよう、もしくは読み取ろうとするのです。この時、作品に開けられた穴は作品の表面と内側とを繋げる窓となって、内側はそれまでの舞台裏から作品の重要な要素として再認識されることになります。穴はそこから続く内奥を予感させ、それまで意味が与えられていなかった内側に意識の光が届けられることになるのです。さらに作品の表面は、それまでの充実した量の外面という意味合いから、内と外を隔てる境界へと意味合いが変わります。この時、境界を「膜」とするなら、ここに膜を隔てた内側の概念が彫刻に加えられたことになります。
 彫刻に開けられた穴と同様に、私たちの顔にも幾つか穴が開いています。穴と一目で分かりやすいのは鼻、耳、口です。目の瞳孔は光を通す穴で、眼球そのものも眼窩と呼ばれる穴にはまり込んでいます。顔に開いたこれらの穴もまた体の内と外とを繋げる窓です。目、鼻、耳から情報を取り入れ、鼻と口からは物質の取り込みと排出(食事、呼吸)をします。さらに目と口はコミュニケーションの道具としても重要です。口は言葉を話し、目は口ほどに物を言うのですから。

内側の外側

彫刻に穴が開くことでその内側が作品の要素として加わりましたが、この内側についてもう少し見てみましょう。人体はその中心部に限って内側に腔所があり、頭部は頭蓋腔、胸部は胸腔、腹部は腹腔といいます。これらの腔所に脳や胸腹部の内臓が納められているのです。この頭、胸、腹部を一括りに体幹と呼び、生きるために必須の器官はここにまとめられています。なぜ体幹にまとまっているのかは進化を遡ると分かります。私たち人類は4億年も遡れば魚でした。その頃の体の主要部分は体幹だけで、腕や脚は薄いヒレに過ぎません。体幹の主要な構成をごく単純に言うなら、全体を貫く腸管と運動のための筋肉からなります。
 日本の古い人体彫刻の埴輪を見ると、まず立派な体幹が像の全体観を作っており、対して腕や脚は単純化や省略がなされています。ここでは体幹部がまさに「体の幹」として表現されています。また、しばしば目や口に穴が開けられています。それらの穴は人間の顔に開いている穴すなわち目・鼻・口・耳と結びつき、その内側へと見る者の意識を誘います。私たちの目は脳へ続く意識の窓、口は腸管へ続く物質の窓です。口から始まって体幹を貫き肛門で終わる腸管は、さながら山に開けられたトンネルです。トンネル内と外は一繋がりであるのと同様に、腸管内は体の外と一繋がりです。つまり腸管内腔は体内のようで実は体外空間に他ならないのです。
 先に、彫刻に穴が開くことで表面の膜性が明らかになり、その膜によって内と外とが規定されましたが、ここで新たに口と肛門を繋ぐ腸管によって「内側の外」が加えられました。彫刻に穴が開けられたとき、その内側の空間を外と認識することで表面が拡張され、作品を取り囲む空間性も一気に広がりを見せるのです。穴による「内側の外」を作品に意識的に取り込んだのがヘンリー・ムーアです。ムーアの作品を特徴付ける穴。この穴を通して「内側の外」が提示され、さらに外と内の間にある量塊によって表裏一体だった「膜」は量塊を包み込む面となるのです。それはさながら、細胞膜から皮膚へと膜の存在意義が拡張されたかのようです。ムーアの作品は、それが一見では人体彫刻に見えなくとも、その存在思想が人体と似ていることに気付かされるのです。

胸像は魚の頭

人体彫刻には全身像だけでなく部位で切った表現もあります。胴体だけのものをトルソーと呼びます。その他でよく作られる部位はなんと言っても頭部です。それはもちろん、作られるその人の顔が作りたいからです。顔は個性の象徴ですから、全身を表さずとも顔だけでその人の全てを表すこともできるのです。特に印象を似せた顔の像を肖像と言います。しかし、実際の肖像では頭部だけが作られることはまれで、普通はその下に首がつき、更にその下の胸までがあります。この部位で切られた像は胸像とも呼ばれます。胸像の切断位置で多いのは胸の上部までを入れたものです。
 さて、首や胸など体の部位名が出てきましたが、その明確は境界はあるのでしょうか? これは外見で目立つ形の違いや、動いたときの変化の度合いなどから経験的にその部位の境界が決められているのでしょう。共通の認識を持つ必要のある医療分野では、体の部位分けと名称を決めています(図4)。
体表区分図
頭をひとつの塊として見ることは簡単です。頭には、目・鼻・口・耳という特殊感覚器が勢揃いしています。これらの特殊センサー付きの頭を身軽に動かせるのは首があるからです。後ろから不穏な物音が聞こえたら、頭だけ振り向けばいいのです。もし首がなければそのつど重たい全身を向けなければなりません。これが水中ならば話しは別です。水に浮かぶ魚に体重はありませんから、後ろを向くには尾びれを鞭打って全身の向きを変えてしまえば良いのです。ですから首のある魚はいません。首は私たちの遠い祖先が水から陸に上がってから頭と胸の間がくびれてできた、言わば新しい部位なのです。人体の外見では頭部と胸部は細い首で明確に部位分けできますが、その内側は外見ほど明確ではありません。例えば、首から肩にかけて目立つ胸鎖乳突筋と僧帽筋は、実は首の筋と言うより腕の筋とも言えるもので、本当の意味での首の筋はこれらの筋より深いところにあります。更に興味深いのは、首から胸にかけての血管です。胸の血管と言えば大事な心臓を思い出されるでしょう。ちょうど左右の胸の間にある心臓はその頭側へ大きな動脈を出します。それは直ぐに背中側へとカーブして腹の方へと向かっていきます。このカーブを大動脈弓といいますが、これはかつて魚だった時代のエラに通っていた血管でした(図5)。
鰓弓動脈概念図 
第3鰓弓の部位が首に、4番目の鰓弓動脈が大動脈弓となる

つまり、私たちの胸の高さほどまでがかつてのエラがあった部位なのです。魚の「頭を落とす」ときはエラより尾っぽ側を切りますが、これがちょうど胸像の境界とあいます。胸像は偶然にも魚時代の頭の領域までを選んでいるのです。

運動器と臓器

人体のかたちをごく単純に描くと、漢字の「大」のような棒人間になります。この横棒と斜め棒が腕と脚を表していることから分かるように、腕と脚は人のかたちのイメージの重要な要素です。大きく太い腕と脚は、上述したように、そもそもは魚の体位を安定させるヒレでした。およそ3億5千万年前に魚類が陸に上がることで運動の主役は体幹からヒレへと移行します。それ以降、ヒレは筋骨たくましい四肢となって体幹を支え、運搬する重要な役割を担うようになったのです。人類では体幹の運搬という役務から解放された腕が、器用な指先を活かして多彩な仕事をこなすようになりました。今では身振り手振りで自らの感情を伝えることさえできます。一方の脚は体の運搬に終始してきました。腕と比べてずっと太い脚は、その仕事の一途さを誇っているようにも見えます。
 ところで、この運動器と先に見た腸管とでは、そこに分布する神経の種類が違います。運動器への神経は、感覚と意識的に動かせる体を制御する「体性神経系」が分布します。脳はこの中枢です。つまり自意識や運動は全てここに属します。一方の腸管への神経は、意識が関与することなく自律的に活動を続けているので「自律神経系」と呼ばれます。腸管つまり内臓は意識がアクセスできない言わばブラックボックスですが、それは意識的行動の根源を成しています。私たちは体幹の内側にある無意識の自己(つまり内臓)から湧き起こる要求を、あたかも自意識(つまり脳)で決めたかのように思い込まされているだけなのかもしれません。
 「自分でもどうしようもない自分」は誰もが実感するものです。それらは実感してもなお制御できるものではありません。喜びや悲しみといった感情はどこか深いところから湧き起こってきます。この制御不能な自己とそれを認識する自己との対話が、近代以降の芸術表現のモチベーションの大きな部分を占めているのです。

 彫刻家も鑑賞者も、人体彫刻を通して人間という無数のスペクトルを放つ存在をそこに見ます。それは私たち自身の姿でもあります。自己存在とは何かという答えのない疑問を私たちは持ち続けます。3万年前の人間に小像を彫らせた欲求の根源には、初めて気付いた自己存在を確認する意味があったのではないでしょうか。人が人のかたちを作る。これは自分の存在という驚異に向けられた、ほとんど本能的とも言える営為です。私たちが人である限り人体彫刻という自己確認は続いていくのでしょう。

2011年9月24日土曜日

一般のための解剖学

 私たちは皆、一人につき一体の体を持っている。心身二元論的な言い方だが、そのように感じられるのも事実だ。体は超自然的な力によって生きているのではなく、眼前に広がる自然界と同様の物理原則に則って物質や情報が移動することで成り立っている。緩やかに流れている小川でもひとたび石などで流れが遮られれば氾濫を起こすように、体内でも何らかの原因で不具合が起こればたちまち体調不良という形でそれが現れる。小川と違う点は、不具合を積極的に取り除こうとする働きが起こる点だ。しかし、それとて「超自然」ではない。そこに何らかの意志を置こうと考えるのは私たちの脳の働きによるものに過ぎず、より大きな視点で見るなら、身体を一定に保とうとする機構もまた、そのような自然の系の現れのひとつに過ぎないと言える。
 人間を心と体に分けるというのは、私たちにとって非常に馴染みやすく、そこに違和感を感じることが少ない。だからこそ、世界中の宗教でも”物質的な体のない体=霊体”という、冷静に考えると矛盾した存在概念を受け入れている。しかし、脳の機能や体の機構が明らかになるにつれ、心と体が全く分けることの出来ない同列の存在であることも理解されてきた。個人は細胞の集まりという点では集合体であるし、「私」という自己同一性は、右脳と左脳とですでに違う。同様に、「私らしさ」も決して不動のものではなく、脳の特定領域が侵されれば、いとも簡単に別人格になってしまうことも分かっている。これらは、私たちの心というソフト的概念が、体というハード的存在に依っているという事実を示している。これらのような例を挙げるまでもなく、例えば、口内炎の一つも出来ればそれだけで、一日が憂鬱になってしまうことを思えば、どれだけ身体が心に影響を及ぼすのかが分かる。
 それでも、普段、体の調子が良いときは、私たちは身体について忘れがちである。「今日は体の調子が良いぞ」と毎朝考える子供はいないだろう。体の各所にがたが出始める大人になってこそ、そう思うようになるものだ。つまり、どこかに不具合を感じて初めて自己の身体を意識するのである。これはしかし、外傷や内臓疾患など明確に身体に関わるときであって、「気分が優れない」など、感覚的なものは最近まで身体と別の領域で捉えられていたように思われる。それが心理学という一領域を作ったのではないか。今では、それらも脳内物質との関連性から捉えられるようになっているが、家庭レベルでは今でも「それは怠けだ」で片付けられていることも多いだろう。

 書店などでは、いわゆる「こころの問題」に関する書籍が実に多い。こころというソフトに区分けすることで、それを身体というハードと別にし、論理的解釈で解決していこうとするわけである。それらは「こころと体」に分けることに慣れた私たちに非常に親和性が高く、実際、効果もある。これが身体性が更に希薄になり独自理論が組み合わさると「霊感」や「占い」など超自然的な解釈となってゆく。
 肉体の構造という「おもいっきりハード」として身体を見つめてきた解剖学の歴史は、この目に見える物質に、私たちが心と呼ぶものがどこに宿るのかを探る行為でもあった。現在、自然科学の領域である西洋医学において、身体が超自然的な働きで動いているという考える者はいないだろう。しかし、一般の人々にとってそれが全て飲み込める事実でもない。いや、多くの人にとって、医学的事実は理解できる。しかし、「こころ」がそれを受け入れない。脳死臓器移植問題などはそのギャップの表れである。
 書店では、身体についての書棚にあるのは、こころの扱いの書籍と、「家庭の医学」といった不具合に対処する書籍が大半で、シンプルな体の正常構造を記述した解剖書は目立たない。需要と供給のバランスがそこには現れている。多くの人にとって「正常な状態」の自分の体には興味が持てないのだ。「うまく行っているなら、それでいい」。これは、自動車などの所有物の構造にいちいち興味を持たないのと似ている。壊れて初めて「ラジエター」が何なのかを調べる。
 しかし、車と自分の体は違う。身体というハードは、そのまま「私自身」を構成しているのだ。解剖学を知ることは、正に「セルフ・コンシャス」な行為であり、自身の物質性というものに意識的になれる刺激的な学問である。わたしたちは自然状態(かつ健康)だと、どうしても「こころ」というソフトに傾きがちだ。巷では、骨盤矯正や頭蓋骨矯正など身体を改善させる行為やグッズがあふれているが、どうも情報のいいとこ取りで済ませている印象を受けることがある。自分の身体がどのように出来ているのかを基本知識として知っているなら、乱れがちなこれらの情報に流されずに済むかもしれない。このようなメディア・リテラシー的な目的でなくとも、せっかく生きている間お世話になる身体だと思えば、知っているのも損ではないと思う。
 解剖学に詳しい知人が以前、「全身骨格を一体分持っているよ。体の中にね」と言った。そのような身体感覚は面白いと思う。私自身の感想だが、解剖学を知ることで、身体性の扉が一つ開く。それは、自分自身そして自分以外の生きている存在に対する見え方を大きく変えるほどの刺激に満ちている。これほど身近で(何せ自分自身の問題なのだから)、全てに関わってくる学問が、「医学のもの」のように思われていることが残念に感じる。自身の身体は、誰のものでもない。知識の扉に鍵は掛けられていない。多くの人にその扉を開けてもらえればと思う。

2010年7月1日木曜日

解剖学への興味

解剖学に興味を持ったのは、遠く大学生の頃。美術解剖学の講義の名前、その「解剖学」というフレーズに何か惹かれるものがあった。そう言う人は少なくないと思う。
決定的なのは、2年生の頃の解剖見学だった。その日の朝と夕方では世界が変わってしまった。もう、知る前に戻れないという事実を眼前にして、興味本位で見学した行為を後悔さえした。しかし、その時にそっと心に結わい付けられた解剖学と繋がる興味の糸は外れることがなかった。

解剖学の面白さは、じわじわとくる。しかも、面白さに段階があって、それぞれの興味範囲でも楽しめるようになっている!
自分の経験を元に考えると、初期段階は、骨だ。やはり、カラリと乾いているし、そのまま置いておける身近さも手伝って、その形状にまず惹かれるのはもっともである。
骨は、まもなく連結した「骨格」への興味へと移るだろう。一緒じゃないかと思われるかもしれないが、単独の骨と連結した骨格は、全くと言っていいほど興味所が違う。骨格では、関節の可動や、連結した骨同士によって意味をなす構造などが見所になる。
骨格に満足すると、そこに付着していた筋肉が気になる。それが次段階だ。なにせ、今まで見ていた骨の形状を規定しているのは、それにまとわりついていた筋によるのだから。すると、筋の付き方の精緻さとそれが生み出す運動の複合構造が見えてくる。骨格と筋で、体表を成す凹凸のほとんどが構成されている。こうなると、体表の凹凸を知るのに、体表筋だけを見ていたのでは物足りない事に気付く。
人体の形状を成す構造をメインとして見るなら、ここまでで一段落付く。ところが、本当の面白みはこの次から現れるのだ。

この先にあるのは、血管。体表のすぐ下を走行する静脈もある程度の規則性があるから、知っておくと造形にも役立つが、そこから脈管系に入り込み、また、筋の運動を制御している神経系に入り込む。そうしてなだれ込むように、内臓系へと入ってゆくと、全てが切り離すことが出来ない機能と構造の環を成していることが分かり、もはや、筋だ骨だと言っていられなくなる。言わば、系統的な見方に局所的な見方が加わる。
そして、それらがどうしてその形になったのかを知るヒントとして、発生学にも首を突っ込んでしまう。これが、これで凄まじく深くかつ面白いのだ。
こうしている内に、ふと自分の存在の見え方の基底が変化してゆくのに気がつく。個と全体、命の流れの一瞬としての今・・。
そんな生の哲学めいたことも、誰かに用意された言葉や思考機序によって発見されるものではなく、生命存在の事実から導き出されるから素直に染みこんでゆく。
そうしてここからは、形状(構造)とそれが織りなす生命(機能)が生み出す留まることを知らない好奇心の波にのまれてしまう・・。

解剖学は、生命を「生命」という看板が付いたつかみ所のない概念に落ち着かせない。それを、「生物」という確固として存在している物体から見いだされる現象であることに引き返させてくれる。
私は、ここに解剖学が持つダイナミクスを感じるし、情報という概念が一人歩きしがちな今にあっては、ひとの存在のあり方を見返す為のツールにさえなり得ると思っている。じゃあ、具体的にどうするの?かと言われると、まず中高基礎教育に解剖学を取り入れたらどうだろうか(もちろん人体解剖は無理だけど)。ただ、解剖学は進める順序が重要で(何でもそうだろうが)、いきなり内臓だ骨だと言っても伝わらないから、そこは考えなければならないだろう。
まあ、単なる思いつきにすぎないが。

とにかく、そんなことを柄にもなく考えてしまうくらい、解剖学は自分を含めた命ある物の存在について多くの示唆を与えてくれるのである。

2010年6月17日木曜日

体腔という空間

体を考えるとき、通常はその皮膚の内側は肉やら骨やらで完全に満たされたものとして捉えている。だが、その構造を見直してみると、体内は以外と空間が多い。もっともそれらは普段は圧迫されてはいるが。
分かりやすい例としては、口から肛門までの間の腸だ。物が通るのだから空間があるのは当然である。他にも肺もそうだし、血管も流動性の血液を考えなければ管状の空間があると言える。
これら想像しやすいものの他に、大きな空間がある。体腔と言う。肺、心臓、内臓全体を包括している空間である。つまり、肺や心臓や内臓の多くは肉の中に直に埋もれているのではなく、それらを包む空間のなかに収まっている。厳密に言えば、腹膜の外にあるそれらの臓器が体腔の膜と共に押し入っているのである。

この体内にある空間は、かつては体の外の空間だった。胚子期にそれが体内に取り込まれる。この外の空間は、母体内で私たちの体が浸っていた羊水ではなく、それをさらに取り巻いていたもので、言うなれば羊水という海(地球)を取り巻く宇宙空間である。

生命体の構造の複雑さから、それを「小さな宇宙」、「内なる宇宙」などと形容するが、私たちの腹の中にはまさに、全体を包括した空間が取り込まれていた。
この空間は生体では完全に閉鎖されているが、女性の腹腔は卵管を通して体外と通じている。女性の卵は毎月、腹腔内という「外空間」に生み出されただちに卵管に吸い込まれる。この、一度出してまた取り入れるという2段方式には何か秘密が隠されている気配がある。

ともあれ、私たちの体内には空間がある。この事実は、概念として彫刻との関連性を考える意味がある。ソリッドであるか、ホロウであるか。存在することの意味を問うならば無視することは出来ないし、事実作品性に大きな影響を与える要素である。
穴とそこから続く空間。その感覚。芸術における空洞の重要性を自らの構造とも照らして考えたい。

2010年5月19日水曜日

体に残る「節(ふし)」

節のある動物と聞くと、何を思い出すだろう。ある人は昆虫かもしれない。芋虫かもしれない。ミミズかもしれない。それは、体の頭からおしりへ向かって体を区切っている横線として描かれる。
それら節のある動物を気味悪く感じる人は多い。

しかし、私たち自身の体も「節」がある。そう言われてもピンとは来ない。自分の裸を鏡で見ても、どこも区切られておらず、一枚の皮膚で全身が覆われている。実はそれは、体の中にある。背骨をイメージして頂けるとピンと来るだろうか。背骨は椎骨と呼ばれる骨が縦に連なり、個々の椎骨の間に軟らかい組織が挟み込んでいる。ここだけを見たら、まるで節足動物だ。節足動物はこの節の内側に筋肉を詰め込んでいる。私たちはこの節の外側に筋肉をまとった。彼らと私たちは表裏を分けた関係だ。

そう言っても、体に横線のある芋虫やミミズのようではないと思われるだろうが、運動の為に特殊化した腕と脚を想像で取り除いてみると、残された胴体には横線があるではないか。それは、脂肪が少なくてほどよく鍛えた腹部に見られる。腹筋の横割れ線こそ、芋虫の横線と同じだと言うと悪趣味だろうか。とは言え、背骨を初め、胴体の背中の深い筋肉や肋骨の連なり、腹筋の割れなどは体節と言って、ボディプランの古いデザインがそのまま継承されているのは事実だ。

では、頭はどうだろう。頭に横線がはいってグネグネ蠢かれたらさぞホラーだろう。実際、外見で頭部に分節性を見いだすことは不可能だろう。しかしながら、中に収まる大事な器官「脳」には、分節性をにおわす構造が見て取れる。進化的に見ても、体が出来て頭が出来るのだから、体が持っている分節性を改変させて頭を作ったと考えることもできる。
頭を構成する様々な器官は、かつて魚のエラであったものを作り替えている。エラは数対あったわけだが、それも分節性を物語っていると言える。

お尻の先には、3つか4つの尾っぽの骨が残っている。骨と骨の間に横線を描いて。
頭の先からお尻の先まで、私たちは体の中にフシを隠し持っている。

2010年4月16日金曜日

物としての私

人を物の様に扱う、というのは失礼に値する。また、「心」や「たましい」は物質を指してはいないだろうし、心の問題を取り扱う「心理学」や「哲学」など、人間を非物質的な側面から考えることは、古くから行われてきた。思考したり、コミュニケーションでやりとりされる意思伝達は物ではないから、必然的にそこが強調されて見えてくるのは理解できる。また、人間社会では、私(あなた)が誰であるかという事よりも、何が出来るのか、もしくは何をしたのかで判断されるから、肉体的な個人はさして問題では無いかのようになっていく。肉体的な個人が売りのモデルや芸能人は別だが。
それに輪を掛けて、インターネット上では、ほとんど純粋に情報でのやりとりのみで個々の存在が成り立つようになった。それは、概念だけで成り立っている脳内ネットワークに似ている。
現実の私たちが見たり聞いたりする情報も、結局は脳内で概念化されて理解されるのだから、それを模したような現代のネット上での情報交換がすんなりと受け入れられるのは当然のことなのだ。むしろ、現実社会から情報への転換作業が無いだけ労力も掛からず、楽なのかもしれない。
情報化偏向の時代性もあってか、私たちも自己の肉体性を忘れつつあるように感じる。社会性動物としての人類という進化の方向性として、それが間違っているのかどうかは何とも言えないが、私たち個人が肉体性をもはや不必要と感じているのかと言えば決してそうではないのは事実だ。

死体を見ると、誰もがぞっとするだろう。なぜ、ぞっとするのか。勿論、身近な人の死体であれば、その理由は明らかだが、そうではない、どこかの誰かのものであっても、ぞっとする。生きていても死んでいても、死んで間もなければ人の形には大して変わりはない。それでも、何かが決定的に違っている。
私たちには、人(の形)であれば、自分と同じように意思の伝達が可能であるという前提がある。そして、それによって得られる情報にこそ、相手や自分にとって重要なものが含まれている。自分らしさ、その人らしさ、といった人格さえ、やりとりされる情報の中に宿っている。同時にそれは、自分や相手という「肉体」から発せられているのだから、両者はそこで強力に結びつけられている訳である。
ところが、死体では、その情報の部分がすっぽり抜け落ちている。もはや永遠に発せられることはない。そして、情報を発しなくなった肉体は、自らが持っている肉体の物質性を強烈に強調させる。これこそが、死体を前にして感じる強烈なる違和感の根源であろう。

次の瞬間、はっとさせられるのである。生きている私は、逆説的に言えば、情報交換が出来る死体ではないか。勿論、科学的に見て生体と死体には大きな差異がある。しかし、生体も死体も、肉体という物質において同じなのである。そこに横たわる死体は、動かない故にその物質性を強調するが、実は、その物質性をそのまま私も所有しているという事実に気付く。

心、魂、精神、霊魂・・。人間の非物質的側面は常に強調されてきた。物質的側面としての肉体に目が向くのは、怪我や病気の時などに、思い出したかのように見つめる感じだ。
普段は、全く意識しない。それでもいいように出来ているのもあるだろう。でも、そう出来ているからそのままで良し、ではおかしな事になりかねないとも思う。自己の肉体という物質性が希薄になれば、他者に対してもそのように見るだろう。結果、安易に自分も他者も傷付けてしまうかもしれない。社会としても、情報として見えてくる結果だけが尊重されるようになる。

精神面からの自分や他者は、強く意識せずとも考えられるものだ。人は皆、気付けば思考しているのだから。しかし、物としての自己、つまり自分の肉体については努力しなければ知ることが出来ない。実際、それを客観的に見つめるのに人類は長い時間を掛けた。それが解剖学だ。それでもまだ完全ではないが、自己の肉体性を感じ取るのには十分の情報を人類は既に得ていると思う。

自分という今の存在は、書物に書かれた情報ではない。肉体がなければ、思考も精神もない。ブログで自己の永遠性を刻んでも、肉体は刻々と変化し終焉へ向かっている。実は全て、肉体という物から発しているのである。
私たちは物だ。そう改めて思いつつ街行く人を見ると、一人一人の質量がずしりと感じられるようで。