2023年9月15日金曜日

構造しか言わないのなら

 構造しか言わないのなら

それを彫刻と言うのだろうか

彫刻は

構造によって

詩を紡ぐ

構造はいつも背後にある

2023年9月11日月曜日

カリアティドのよろこび

カリアティドbyロダン

抑圧の状況において、抑えられるが故に得られるよろこびというものがある。

カリアティドは動けず、責任を背負っている

しかし、カリアティドは苦しみに苛(さいな)まれてはいない。

それは重量に耐えるなかで、抑圧されるがゆえに、そのよろこびを増している。

2023年2月17日金曜日

AIが良い絵を描くということ

深層学習させたAIが、プロのイラストレーター並みのイラストを描く時代になった。それも研究レベルではなく、一般に使用解放されるレベルにおいてである。 AIによって、イラストのように、人間にしかできないと言われていた表現行為が、非人間でも可能であり、それどころかあっという間にできてしまうことが実証されたのである。 表現とは困難を伴い厳しい修練に耐えうる人間のものと信じている芸術家ならAI作画を開発しようとすら思わないだろう。これは、描きたいというより、ただそれが欲しいという者だから開発できたのだ。 AIによる作画が芸術的創造と同じであるとは、現時点ではまだ言えない。しかし、今後AIが我々が創造と呼ぶ領域に入ってくることは予想できる。その時我々は、創造行為が人間だけが作り得る崇高なものではなかったことを知るだろう。 

 つい最近、ある投稿スレッドで、「パソコンなどというものを、なんで人が作れたのか想像もできない」と書かれているのを見た。この、何気ないが同意できるような一言には、私たちが対象に何を投影して見ているのかを考えるきっかけがある様に思われる。このコメントを投稿した人は、パソコン画面から得られる情報の複雑さや、パソコンやコンピュータを行なっている計算の複雑さや速さを見聞きして、そのように思ったに違いない。このような、コンピューターの処理能力を身近に感じるがゆえに、もしもこの性能が人間の制御を超えてしまったならどうなってしまうだろうかという不安が生じ、数年前に良く言われた「シンギュラリティ問題」が登場するのだろう。AIがプロ並みのイラストを描くことも、ある意味においては、シンギュラリティ問題に近い。 

しかし、本当にコンピューターはそれほど驚異的なのだろうか。AIが描くイラストは人間の画力を超えているのだろうか。これを考えようとする時に気をつけるべきは、描かれた物とそれを判断する者とを明確に区別することである。イラストにせよ芸術にせよ、完成した作品の質は、我々人間が見て判断しているのだから、その作品の価値判断は人間によるものである。 では、作品を作る時はどうか。作者は一枚の絵を描くために訓練を重ねる。構図や色調、人物画の均整、描線の強弱などなどである。それを身に付けるには多くの絵を見て何が良いのかを知らなければならないし、自分が良いと判断した絵が描けるように何度も繰り返し習作を描いて手の筋肉を制御できるようにしなければならない。画材の特性も知り、使い方も習熟しなければならない。画力を下支えする要素は、それぞれをマスターするだけでも多くの時間が必要である。つまり、一枚の絵を描くためには、その絵を思い描く能力と、それを具現化させる画力とが必要で、両者が高度に噛み合った時に、優れた絵が描かれるのである。画家はそれを身を持って知っているし、画家でなくても、優れた一枚の絵は簡単に描かれるはずはないと“信じている”。 だが、コンピューター上のAIは優れた絵がどういうものか知らないはずだ。AIは我々のような主観を持っていない“はず”だから、優れた絵という主観的判断を知りようがないからである。そうであるにも関わらず、我々人間が優れた絵だと感じる絵を描く。それも、何年という習熟期間もなしに。優れた絵は優れた感性と技術を持つ画家から生まれると信じている我々は、それゆえにAIの実力に脅威を抱くのである。

この考え方をひっくり返す必要がある。優れた絵を知らないAlが良い絵を描いたという事は、良い絵かどうかの判断と良い絵が描けることとは別という事実を示している。AIが改めて証明したことはこれである。実はこれについて、私たちはすでに知っていたはずである。絵の教育を受けたことのない子どもが素晴らしい絵を描くことはままあるし、良い絵についての教育など受けた事のない者による絵、いわゆるアイドサイダーアートも同様である。それどころか、絵ですらない自然界の風景に素晴らしい絵画のような光景を見出すことは誰でもある。このことから、良い絵かどうかは、絵に内在する要素ではない事が分かる。それは我々観賞する側のものなのだ。だからこそ、絵が何かなど知らずとも絵を描くことは可能であり、それゆえAlも描き得たのである。 むしろ、今回明らかになった驚きは、私たちが”良い“と感じる美的な要素が、実は何ら主観を必要とせず、言わばパターンのみによって生み出し得ることが証明されたことだろう。そこには、多くの経験や苦労どころか、一片の神秘性もなかったのだ。これは、私たちの芸術性を否定するものではないが、芸術性という響きが内在させてきた高尚さや高貴さや、人間だけの唯一性といった中心的な要素は否定される事になるだろう。意識なきコンピューターが、自分が何をしているのか分からないまま、あっという間にそれを生成するのだから。チンパンジーがただキーボードを叩き続けてもシェイクスピアは書けない。彼には“キーを叩く“という意識はあるにも関わらず。しかし、無意識のAlは、アルファベットの語順のパターンを深層学習することで、恐らく近いうちに、シェイクスピア文学に到達し追い抜くだろう。自分が何を書いているかなど知らぬままに。 良い絵が何か知らずとも、良い絵は描ける。それは確かにショックでもあるが、愉快さもある。人間だけが特殊で高能力な存在だという、限りなく高まった自意識を根底から突き崩すような潔さがもたらす自虐的な愉快さである。確かに、斜に構えた視点で様々な芸術作品を眺めてみれば、そこにある形態的要素は決して高度に複雑なものではないことに気付く。芸術作品に高尚性を与えてきたのは、鑑賞する者の意識なのだ。その意識は何となれば、転がっている石ころであっても、到達不可能な美として見ることさえできる。AIにとって、美術作品から解析する要素など大した複雑さではない。それが特定のテイスト、例えばレオナルド・ダ・ヴィンチ風などに限定されるなら、さらに単純であろう。 そう考えると、むしろAIにとっての最後の牙城は、日本の侘び寂びの世界かも知れない。その無造作の世界、無作為の世界の微妙さをAIは再現できるだろうか。コンピューターは「する」世界に向かっているが、侘び寂びはそれとは真逆の「しない」世界にある。しないままのしない、はあり得ず、するを知ったがゆえにしないがある。足したからこそ引くことができる。膨大な情報を足し続ける現在のコンピューターが、引くことに向かい始めることがあるだろうか。

現在のAlは、深層学習をベースにしている。膨大な量のパターンを読み込ませ、そこにあるパターンの組み合わせをさらに組み替えたパターンを作成する。これは経験から理想的な解答を見つけ出す我々の学習と同様である。ただし、コンピューターは我々とは比較にならない量を信じられないような速度で学習する。その結果の一つが今回のAIイラストである。人間がAlと決定的に異なるのもここである。人間は深層学習などしていないし、できない。そうであるにも関わらず、良い絵を生み出す。この理由を我々は直感やひらめきと表現しているが、どうしてひらめきが起こるのか、それは分からない。本当に直感なのかさえ、分からない。ただ事実として、その結果の産物が世界には存在している。人間が生み出してきた芸術的な創造物はまさにそのようにして登場したのである。現在のAIはいつかひらめくだろうか。もしそうなったなら、いよいよ人間以外が生み出す、もう一つの芸術的創造が登場することになると言えよう。しかし、それを我々人間が芸術として理解し得るのかどうか、それは未知である。 

 2022/10/05(水)

2023年2月13日月曜日

南江堂の『人体解剖学』

末梢神経系のページ。
右上の頭部の図の詳細さに注目。眼球に反射した窓が描かれている。

かつて、私が解剖学を専門的に学び始めた頃、私の解剖学の恩師である教授にお勧めの教科書を聞いたところ、一冊の教科書を頂いた。それが『人体解剖学』であった。教授も学生時代はこの教科書を使っていたとのことであった。それはそれは難しい内容かと身構えたが、意外や文字も大きく図も多く、余白も余裕のあるレイアウトで、少々安心したような思い出がある。

今では『人体解剖学』は、日本の解剖学教科書の最高峰だと思っている。私が考えるその理由はいくつかある。

まず、売られている期間の長さがそれを証明している。初版は実に1947年の2月で、終戦から2年経過していない。直近の改訂が2003年で、これが第42版である。これを書いている今は2023年であるから、初版から76年、最終改訂から20年経過している。著者は、藤田恒太郎(つねたろう)氏であり、第12版以後は御子息で同じく解剖学者の藤田恒夫(つねお)氏が改訂に関わってきた。しかし、藤田恒夫氏も2012年に亡くなられており、それが改訂が長く止まっている理由としてあるのかも知れない。

また次に、これが質の高い教科書として重要なことだが、想定読者が明確であるということだ。「この本は初めて解剖学を学ばれる医学生諸君を目あてに書かれたものである。」という一文から始まるように、読み手を限定することで、膨大で広範な解剖学の情報から、効果的に必要な情報だけを伝えることに成功している。そして、添付される図も、そのほとんど全てが、本文の内容とリンクした描き下ろしであって、情報量の多い写実的なものから明快な模式図まで多様に用意されており、理解を助けるのに非常に有用である。

そして、何よりこの教科書を唯一無二にしているのは、その文体である。多くの洋書から翻訳された解剖学書では感じられない人間味が文章に宿っているのだ。本書は、日本人が日本人のために、日本語で書いた教科書である。それも、どこかの誰かではなく、読んでいて著者の姿が思い浮かんでくるような、生きた文体なのだ。これは、編者の下で複数の著者によって書かれるような、今どきの本ではこのようにはいかない。特に教科書では単独の著者の個性は出さないような記述になる傾向があり、その結果は皆が知っているような、味気のない情報が列挙された無機質な文体となる。著者が直接語りかけてくるような文体は、おそらく著者が自分が受け持つ医学生を思い浮かべながら書かれたことによるのであろう。

内容も、単独の著者ゆえの興味深い記述が多く、自然と読み込んでしまう。解剖学は暗記の教科だと嫌われる節があるが、このように理屈で語られることで自然と頭に入ってくるように工夫されている。さらには、本文のところどころに、縮小文字で追加的な説明がなされていたり、欄外注として学習のヒントになる小文(小ネタ)が載せてあり、これも理解の大きな助けとなる。

この個性の強さは、いくつかの場所で、現代的な教科書の記述との違いとして現れており、本書だけで学ぶ者は戸惑うことがあるかも知れない。いくつか顕著な例を挙げると、筋系の固有背筋は筋名だけの列挙で説明が終わる。これなどは、“今はこれだけで十分”という著者の主張である。さらに、同様の主張が直接的に書かれるのは、名称の読み方で、例えば頭蓋は「とうがい」と読ませるところが、これに「ずがい」とわざわざカッコ入りで付け加えて、欄外注に「‥この種の業界用語を医学生に押しつけるのは、ナンセンス‥」と書いている。また、舌には解剖用語の「ぜつ」ではなく「した」とふりがなをしてあり、明瞭で平易な読み方を定着させるよう、読者の医学生に説いている。これらの読み方は、今でも浸透しておらず著者の狙いは外れた形になるが、信念に基づいた主張には日本の解剖学を担う責任と自信が感じられる。本書では脳神経が1、2、3‥と番号付けされているのも同様のこだわりである(通常はⅠ、Ⅱ、Ⅲとされる)。

解剖学は学問として古く、また、学会によって基準も整備されているので、用いられる用語も安定している。それが、初版から76年経った今も使用できる下地となっている。また、解剖学が医学の基礎に位置付いていることも、その内容が安定している理由である。しかしながら、人体の見方は時代と共に少しづつ変化している。70年前との大きな違いは、分子レベルでの視点であって、現在の教科書は必ず細胞の構造から説明が始まるものであるが、この教科書にはそれが丸ごと抜けている。ただこれとて、著者が現代に生きていたとしても、今は必要ないとして入れないかも知れない。

今どきの教科書には載っていないような詳細が書かれていたり、反対にほとんど説明が飛ばされていたりしているので、さっと内容に目を通しただけの人の中には、この教科書は記載ムラがあって良くないと感じる者もあるかも知れない。しかし、よくよく目を通すとそのムラには著者の筋が通っていることが分かると思う。そのような、隠されたメッセージに気付く時、著者と時空を超えた対話をしているような不思議な感覚があり、一度も会ったことのない著者が身近に感じられて親近感を得る。それゆえに、私は普段、本書を「藤田先生」と読んでしまう。むしろ正しい書名がすぐ出てこない。藤田先生の呼び名で学生たちも自然と本書を開いている。

記載内容は全く信頼でき、教科書として非常に優れているが、2023年現在で20年間改訂がされていない事実や、Amazonで新書が掲載されていない事に、今後の出版継続への不安を覚える。これはそのまま、現在の出版部数を反映していると言っていいだろう。

このような、人間味ある文体で、かつ信頼できる内容の教科書は、簡単に生まれるものではない。それどころか、肉眼解剖学の流れを思うと、今後作られることなど不可能ではないかとさえ思ってしまう。著者と改訂者なき今であっても、一部内容を現代に求められるものに修正するだけで、そのまま現代の解剖学教科書としての輝きを取り戻すはずだ。出版社にあっては、本書のような、日本の戦後から現代までの医学教育の基底を支えてきた名教科書を、今後も存続して欲しいと願わずにいられない。