2014年12月10日水曜日

在宅ホスピス番組を見て(2014年12月記す)

 末期癌患者が自宅で最後を迎えるのをサポートする専門医の活躍を伝えるテレビ番組内で、多くの患者が担当してから1ヶ月足らずで亡くなるところを5年間生存している患者がいて、その人が亡くなるまでが映し出された。

 70代男性で頭髪もなくかなりやせ細っている。ほとんど寝たきりだが意識はある。元気な頃に姉と建てた家で、老いた姉が面倒を見ている。男性は痩せているが肌はきれいで、骨格も整っていて、変な言い方だが美しさのようなものを感じた。姉がひとりで介護してきたが、自身の老化も進み、体力的に厳しくなってきていた。「なかなか迎えが来ない」とインタビューに応じていた。今年の夏に男性は亡くなったのだが、その前日に体調が厳しくなって専門医が駆けつける。といっても、それを治そうとするわけではない。ベッドで顎をあげて虚空を見つめ荒い呼吸をしている男性にかけた言葉は「よく頑張ったね。もう頑張らなくて良いんだよ。」。うつろな目が一瞬意識を取り戻し、荒い呼吸の中で視線が医師の顔を探していた。

 この男性は5年前に”もう手の施しようがない。いつ死んでもおかしくない”というような診断が下されていた。本当ならその数ヶ月以内に死ぬと読んでいたのだろう。それが5年も持った。それで、本人も家族もこの5年間まだ死なない、いつ死ぬのかと思い続ける。この男性の最後の5年間とは何だったのか。「あなたはもう死にます」と言われたことで、その後はもはや死を待つだけの人生となる。すっかり死ぬ気になっている意識と、死んでたまるかという身体が、そこでは乖離している。死の前日、うつろな目で呼吸が乱れている男性に「頑張らなくて良い」と声がけする医師。しかし、がんばっているのは男性の意識ではなく無意識の身体なのだ。

 男性はしかし最後まで幸せではあった。家族や周囲に面倒を見て貰えた。ひとり残された老いた姉はこれからどうなるのか。テレビでは追わないそこも気になった。どう死ぬかとどう生きるかは同じ道の上にある。

2014年12月9日火曜日

「パッコロリン」の寂しさ


 NHKのEテレ幼児向け番組「おかあさんといっしょ」の最後に、「パッコロリン」というショートストーリーアニメがある。丸、三角、四角の頭の形をした幼児がキャラクターで、一番下が2歳くらい、次が3〜4歳、上が5歳くらいか。いつも一緒でほのぼの物語がごく短い時間に流れるのだが、大人が観ると何か寂しさを感じる。それは、そこに親の存在感が全く欠けているからだ。例えば、夜の就寝時でも3人だけ。ケーキを食べていても3人だけ。いつも楽しそうな3人だが、人間であれば本来そこに必ず居るであろう親が全く出てこないし、その気配さえ描かれない。親がいないのに、3人にとってはそれが当然、つまりそもそも親という存在さえ知らないかのように映る。もちろん、制作側は単純に子供向けの短編作品の要素を絞り込んだだけのことなのだろう。しかし、描かれているキャラクターとその物語は明らかに”人間界の幼児風”なので、見る側の私はどうしても親の不在に違和感を感じてしまう。

 しかし、彼らをよく見ると頭から触覚が出ている。どうやら彼らは人間ではなく虫だ。虫は親不在で卵から孵る。そうであれば描かれているとおり、彼らは親の存在を知らずその事を寂しいとも思わない。近い時間に近くで卵から孵った3匹が兄弟として一時を一緒に過ごしている。キャラクターが虫であることで、3匹だけの登場人物に説得力を持たせられる。

 彼らが虫だと仮定してもなお、哺乳類である私たちがそれを観る限り、けっきょく親不在で3人の幼児が屈託なく楽しそうにしている様には健気さと同時に寂しさを感じてしまうのだ。

2014年11月25日火曜日

歯のゾンビ

 歯科医で歯の1本を神経治療した。神経治療とはつまり「神経を抜く」というものだ。

 歯は硬くて白いので、骨が外に出ていると思われていることがあるが、もちろんそうではない。健康な状態で骨が体の外に見えることはない。歯は、そのできかたや歴史から見れば、むしろ皮膚に近い。サメのざらざらした皮膚を鮫肌と言うが、あのざらざらの1つ1つを拡大してみると表面はエナメル質でその内側に象牙質がある。その構造は私たちの歯と同じだ。だから、歯は大昔に体を保護していた硬い皮膚が口の中に入り込んでそのまま居座ったなれの果てとも言える。皮膚は盛んに新しいものができて古いものが剥がれ落ちるが、サメの歯も常に生え替わり続けている。そういえば私たちも幼少時に一度だけ生え替わる。

 そう考えたところで、歯1本の神経を抜くことの意味が軽くなるものでもない。顎の骨に刺さっていながら1本の歯は神経を切断された。神経を抜かれた歯はもはや感覚を伝えることもないし、その先に生きていた細胞たちの命も絶たれる。つまり、この歯は顎にありながらもはや生きていないのだ。死してなお、咀嚼の仕事をさせられる。言わば歯のゾンビだ。口の中のゾンビ・・おぞましい響きだが、思い返せば私たちの皮膚表面の角質層も細胞の死体たちである。死んだ細胞が何層にも重なり合うことで、皮膚は摩擦などに対抗している。そもそも死んでいるから引っかかれて多少剥がれてもさして問題ではない。

 人はみな細胞のゾンビをまとって生きている。私は口の中に1体ゾンビが増えたわけだ。

2014年10月28日火曜日

藤原彩人「像ヲ作ル術」展覧会・トークイベント回想

 これは、2014年10月25日(土)Kart Lecture Room Project 藤原彩人「像ヲ作ル術」展覧会・トークイベント展覧会の回想、感想である。

会場
 主な作品は藤原氏による陶の1メートルほどの人物像が2点で、胸部の作りを見ると男と女のようだ。また、会場の出窓のようになっている場所に、同じ形が15センチほどになった物が3点置かれている。これらは藤原氏の作品の粘土原型から立体的にスキャンされた後に樹脂で出力された、いわゆる”立体プリント”である。ぐっと顔を近づけてみてもスキャニングの荒さなどは目立たず高精細である。これを何と呼ぶか。やはり彫刻よりも模型やモデルといった単語が頭に浮かぶ。別の壁には、藤原氏が今回の立像制作に過程で描いた作品実物大のドローイングや、制作過程を氏がiPhoneで撮影した画像が貼られている。その手前に床には、小さな断片的作品が透明ケースの中に並べられている。これら小品たちは完成されたものというより、制作の途中で生まれる偶発的な造形物のようだ。立体ドローイングとでも言おうか。展示室の空間は決して広くはないが、メインの2点も大きいものではないので、空間的に圧迫されるようなものは感じない。
 床に置かれた1メートルほどの立像と、窓際の小品。大きく言えば同じ形である。同じ形でありながら、大きさが違う。両者で考えるべきことは、この「大きさ」が与える彫刻的な印象の相違についてだ。

トークセッション。複製と型
 トークイベントは、作家の藤原氏と立体スキャンとプリントを担当した今井紫緒氏、進行の石橋尚氏の3名。藤原氏と今井氏の自己紹介がスライドと共になされた後に本題に入る。
 石橋氏は本展に先立って、藤原氏が自作を立体出力したことを聞いて、彫刻にとってある意味タブーとも言える”複製”に手を出したとみなして、「やっちゃったな(本人談)」と感じたそうだ。その際の例として、有名なロダンの「青銅時代」のモデル型取り疑惑事件を出した。しかし、この指摘は正しくない。19世紀当時、そして今も、タブー視される向きがある行為とは”モチーフの複製”である。ロダンは、「青銅時代」の生々しさから、生きたモデルに石膏を欠けて型を起こして複製しただけではないのかと疑われたのである。つまり、そこには芸術家の感性が造形されていないから、芸術作品とは言えないということだ。対して、今回の藤原氏の行為は、”作品の複製”であって、これ自体は全く目新しい行為ではない。例えば、古代ギリシアに作られたブロンズ像なども、その制作過程において型が作成されている。粘土の原型をブロンズに”置き換える”過程においてそれは必要な行程である。
 では、従来の複製と、今回の立体出力とで何が本質的に違うのか。その最たるものが「大きさの相違」であろう。今回の試みにおいて、従来の彫刻作品で”あまり”重要視されなかった視点はここにある。なぜ”あまり”と強調したかというと、複製過程において従来も大きさを変えることが無かったわけではないからである。コンパスを応用した同比率でサイズを変えられるディバイダーや、星取法などは彫刻家にとって身近な道具である。しかしながら、従来のこういった手法は、あくまでも数えられるほどの点と点との距離だけが計測されるのであって、その補間は作業者の技術や感性にゆだねられる。古代ローマ時代において、数多くのギリシア彫刻がこうして複製された。では、今回、今井氏によって実施された立体スキャンはそういった歴史的伝統技法と全く違うのだろうか。ある意味でそうであり、ある意味で違う。全く新しい点は、計測対象に一切触れないという点だ。作品に触るのは光線だけだ。従来と変わらない点は、点計測であるという点。人間では到底計測できないほどの膨大な数ではあるが、その1つ1つは、星取法の星ひとつと同じ重みである。また、作業者の主観が入らないかと言えばそうでもない。スキャンされた情報(幅、高さ、奥行きに基づく1点1点)を私たちの視覚で分かるようにコンピューター内で再構築するのはプログラムであり、それは人間が作成したものだ。さらに、投光によって計測するために、影になる部分は計測されない。その部分は、作業者(例えば、今井氏)によって補間される。こうしてみると、立体スキャンは本質的に星取法と同じであり、複製技術と一言で言っても、型を起こして複製するキャスト法とは違う点に注意しなければならない。

「像ヲ作ル術」
 本展のタイトルである。まだ「彫刻」という呼び名も定着しない、1873年のウィーン万博の際に、「像ヲ作ル術」と言ったそうだ。「像作術」と「彫刻」とでは、趣が全く違う。現在では、「〜術」というのは、”メインジャンル”の「美術」であって、そこに含まれる”サブジャンル”としての絵画や彫刻などには「術」の文字は付けられない。ともあれ、我が国における西洋的彫刻黎明期の呼び名を冠すのに、藤原氏の日本における彫刻の文脈に生きる気概を感じずにはおれない。それ以外にも、”形を生み出すことができる”ことへの自負心にも言及していたように記憶している。これは私の印象だが、術という字が付くとどこか”秘められ伝承する特殊技能”という趣がする。それもあながち間違っていないか。
 さて、ウィーン万博の3年後には、日本で初の洋風美術教育機関として工部美術学校が開校(1876年)した。ここで本式の西洋美術教育を教えるために、イタリアからお雇い外国人が3名やってきた。そのうち彫刻を担当したのがラグーザである。ところで、我が国の医学もまたこの頃には従来の東洋医学から西洋医学へと大きく舵を切っていた。正式に採用されたのはドイツ医学であった。大学東校(現東大医学部)へミュルレルとホフマンが来たのが1872年であった。ちなみに、今の上野公園には広場に立派なスターバックス・カフェがあって、その右側に”けもの道”よろしくある林中の小径をご存じだろうか。その小径のいりぐちとスタバの間に控えめなブロンズ胸像がある。彼の名はボードウィン(ボードワン)といって、我が国にはじめて西洋医学を教えたオランダ人ポンペの後任者である。なぜ彼の像が上野公園にあるか。もし、彼がいなければ、東大は今の上野公園にあった。当時、基礎工事が始まりつつあるなか、ボードウィンはこの緑多き環境は公園として残すべきと主張し、結果、現在の上野公園がある。
 ともかく、この時代は日本の西洋化が急がれている時代であった。

藤原氏と今井氏。同じ価値観
 立体スキャンから出力までの担当した今井氏もまた、東京芸大彫刻科出身である。今井氏は3DCGを専門としているが、多くの”一般的な”3DCGクリエーターと違う点がある。それは入力デバイスにバーチャル・リアリティ・デバイスを用いるところだ。モニター相手に用いる入力デバイスと言えば、マウスやタブレットが一般的だが、これはアームの先にペンがついたような装置で、モニター内の仮想的物質に触れるとその感覚がデバイスに「抵抗感」として表現されるようになっている。今井氏はこれを「反力」と言っていた。
 3DCGが高精度で出力可能になった。この事実は、従来の彫刻家に何らかの驚異や反発を招くだろうか。もしくは、新しい”デジタル彫刻家”は従来の彼らに対して何らかの優越感を抱いているのだろうか。新旧というコントラストは、このような分かりやすい問題を提示する。実際、この2人がこの日相対しているのも私たちのどこかにその期待に応えるような近くて反発するようなambivalenceがそこにあるからに違いない。
 しかし、藤原氏と今井氏、両氏の意見は全く違った。藤原氏はこの新しい技術に純粋に驚き、楽しんでいた。そして、それが自分の領域において役立つものであるなら、積極的に使っていきたいという。今井氏もまた、デジタルの利便性を理解しながらも、3DCGと立体出力がそのまま彫刻となり得るものではないという。この2人の意見は、トークセッションを通して揺るがず、統一されていた。私はこの意見に、お二人の専門性の高さとそこから来る明確で堅固なidentityを感じ取った。つまりはprofessionalismである。ここで強調したいことは、今井氏が自身の仕事について「彫刻の手の技術とCGがうり」と言っていたことである。先にも書いたが、立体スキャンは影の部分はスキャンできず穴が開く。そこを埋める技術に今井氏の彫刻で培った見る力、造形力が用いられている。これは、誰でもできることではないし、ここにこそ初めにも触れたように、立体スキャンと星取法の同一点が如実に表れているのである。星取法が彫刻家の仕事であるように、今井氏も彫刻家である。

彫刻か、出力物か
 藤原氏による陶作品が彫刻であるというのはここでは前提だが、その粘土原型からスキャンされ出力された物体を何と呼べばよいのか。それが本質的問題だと思う。しかし、今回のトークセッションでは、その部分には深く降りなかった。まだ、深淵の湖面を眺めているに過ぎない。もちろん、解を急ぐ必要はない。石橋氏が投げたMedium Specificという言葉にあったように、これからその輪郭線が際立っていくだろう。


同展覧会は11月9日まで開催された。

2014年9月15日月曜日

告知 「人体描写のスキルアップ」講座が始まります

 お陰様で続いている「人体描写のスキルアップ」講座の新規タームが10月より始まります。

 解剖学にもとづいた視点で人体を見ることで、構造的にしっかりと捉えられることを目指します。
 これは言わば、描写力を引き上げるブースターのようなもの。身につけることで、より早く、高く登ることを可能にします。

 10月からの3回は、体の中心である体幹に特に注目します。いつもどおり、男性・女性ヌードクロッキーではモデルさんを前に解説をいたします。

 詳細はここをクリックして朝日カルチャーセンターのサイトをご覧下さい。

2014年9月7日日曜日

レオナルド・ダ・ヴィンチ解剖図「腕と背中の筋」1508年


全体図(18.9×13.7㎝)

背中の筋を拡大
1 僧帽筋
2 三角筋
3 棘下筋
4 大円筋
5 聴診三角
6 広背筋に覆われた胸郭部
7 前鋸筋を覆う広背筋
8 胸最長筋と腰腸肋筋
9 外腹斜筋
10 外腹斜筋の胸郭部
11 多裂筋
12 中殿筋
13 大殿筋
14 大腿筋膜張筋 
白色 非筋肉部


 1の僧帽筋の脊柱部にある白抜き部は第7頸椎棘突起であり、その周囲の腱膜部位(腱鏡とも)でもある。2の三角筋はその隆起が肩峰部と肩甲棘部とに分けられている。5は僧帽筋、肩甲骨内側縁、広背筋上縁の間に構成される「聴診三角」に相当するが、筋隆起のように膨らみとして表されている。7は再浅部は広背筋だが、外側への膨らみはその深部にある前鋸筋も寄与している。8の大きな膨らみは、その内側が胸最長筋で外側が腰腸肋筋のそれぞれ筋腹に相当する。

 男性の背中に浮き上がる筋の凹凸を、誇張した量として表現している。陰影腺は筋線維の方向を考慮せず、単純に量感を表すのに有効なクロスハッチングを用いている。個々の膨らみは一様に曲線的で、内側から膨れあがった風船のような印象を見る者に与える。

2014年8月20日水曜日

〈告知〉新宿美術学院にて、美術解剖学ゼミを開講します

 今月最後の週末である8月30日(土)に、新宿美術学院(新美)にて『美術解剖学ゼミ』を開講いたします。
 本講座は、美大進学を目指す高校生・予備校生を対象にしています。

 私もかつては美術予備校(新美ではない)に通っていたが、美術解剖学という単語すら知らなかった。地方予備校では今も同じではないだろうか。夏休み企画とはいえ、通常は大学進学後に出会う美術解剖学を知ることができるのは、中心都市の利点に思う。
 では、美術解剖学を知るのは予備校生には時期尚早かと言えばそうではない。これは上級向けではなくあくまで”美術基礎”である。

 美術解剖学とは、解剖学を基盤として、人体の見方を示すものだ。人体という自然物は、どのように見ても良いものである。見方に決まりなどない。ただ、自由に見ると、多くの人がある見方の”くせ”におちいる。輪郭線と陰影だ。私たちの視覚は対象を区別するために、実在しない輪郭線を引く。それはとても有効な見方のツールとも言えるもので、決して悪いものではない。ただ、私たちはそれを”意識的に制御しなければならない”。陰影はもっとやっかいだ。それは対象に立体感を与えるものだが、個々の陰影に囚われてしまうと簡単に全体性を失う。要するに、輪郭線も陰影も、明確な意識のもとの観察し、制御し、描写しなければならない。
 美術解剖学は、ここで言う「意識的制御」を担当するものだ。一見無秩序に見える人体に秩序を見出すことで、観察する視線は無駄に遊ばなくなる。それは、「眺め、分からないまま写す」から「見て、理解した上で描写する」に移行させる強力な方法論なのだ。

 そもそも「人生は短く、芸術は長し」であるが、試験という期限のある受験生にとってそれはより現実味を帯びて感じられるだろう。”描いているうちに分かるさ”と悠長に構えてはいられない。ぜひ、美術解剖学という対象の見方を知って、観察力の効率化を図ってほしい。
 
 本講座は、新美の彫刻科前主任と現学院長のご理解があって続いている。受験生の技量向上に(当然ながら)本気である。やがて美大へ進学すると分かるが、造形力の中心部は予備校時代に形成される。日本の美術の基礎を事実上支えているのは美術予備校と言って過言ではない。そのような基礎養成に携わる方だからこそ、美術解剖学の有用性を理解いただけるのだろう。

 本講座は終了しました。

2014年8月19日火曜日

好きな彫刻

 私は彫刻が好きだが、現代の作品で「これが好き」というものにほとんど出会えない。良いと思えるものはいわゆる古典作品から近代までに大きく偏っている。
ネットを介して、今まさに活動している若い作家の展示も見ることができるけれど、私にとってそれらの多くが彫刻には見えない。

 彫刻とは何か。いろいろな規準があり得る。中でも最も広範囲にカバーできる規準として”立体物”がある。現代において彫刻と立体物とはほぼ同義に扱われている。実際、彫刻の明確な境界線など引くことはできないだろう。
 ただ、古典作品のように時代を超えて人に愛される作品に共通してみられる彫刻的な要素はさがすことが可能だ。それらを要約して言葉にしたのが、「量感(マッス)」「動勢(ムーヴマン)」「面(プラン)」「構造」といった”彫刻用語”なのだろう。これらの要素が効果的にあれば、良い彫刻が成り立つということだ。つまり、私たちはこれらの要素に強く惹き付けられる性質を持っているのである。
 ただ、近代から現代になり、彫刻芸術の範囲は大きく広がったように見える。何が加わったのか。思うにそれは情報ではないか。現代以降の彫刻作品は、従来のモニュメンタルな要素のもの(それは永続的時間性を重視している)から、情報発信の道具(それは短期的時間性を重視する)へと変貌した。そのことが、彫刻の性質・作風を大きく変化させたように思われる。
 今どきの彫刻の多くはだから、非常に”饒舌”だ。やいのやいのと何かを喋り続けている。けれども、その体がとてつもなく貧弱なのだ。骨も筋肉もなく空気の抜けた風船みたいな体をして得意げに喋り続けているから、一種異様な感覚を抱く。でもこれは、やっぱりとても現代っぽい。まるでインターネットにあふれる姿なき言葉たちのようだ。

 古典的要素は決して古いのではない。そうではなくて、真実に近いのだ。その真実に近い部分で追求すべき芸術要素も多いはずである。
 きっと、私の好きな”古典的要素”を追求した作品もどこかで作られているのだと思う。けれど、時代がそれらを表層へ浮かび上がらせないのだ。きっとそうだと信じて、いつかそれら作品に出会えたらと思い続けている。

2014年7月20日日曜日

ハリウッド造形と彫刻・解剖学的なアプローチ

 『アナトミースカルプティング』という造形技法書の出版記念講演会へ行った。書名を日本語で言えば「解剖学的造形法」といったところ。著者はハリウッドで長く造形師をしている日本人の方。
 この方は高校卒業後に渡米して以降、現場で生きてきた方なので、造形へのスタンスが明確でブレを感じなかった。これは、高卒後に美大へ進んで”芸術とは”や”造形とは”と色々な道筋を散歩する”美大系人間”と大きく違う点だ。なによりそれを感じたのは、空想キャラクター頭部を粘土造形する過程を早回しで見せていたときだ。ちゃちゃっと形ができていく動画を見せながら「このくらいの早さで出来たらお金も増えるんだけどね」と笑いながら言った。仕事の速さが重要なのだ。これは世の中では当然の事だが、美術では必ずしも当てはまらない。美術には制作のゴールが明確に規定されていないから、「早い仕事が良い仕事」とは言い切れない。

 また、興味深かったのは、フォトリアルな空想キャラクター頭部の画像作成過程の紹介。仕上げ手前までのほとんどの過程が、様々に集められた顔の部位の写真画像の編集合成なのだ。作業はフォトショップを用いる。ブラシツールで描写を入れるのは最後の方だけだった。「コンセプト・アートも鉛筆画などはもう見ない」とのこと。自分のなかにある技量こそが大事だと教え込まれてきた美術系人間としては、なぜ自分で描かないのかと思ってしまう。しかしこれも、短時間で効率的に写実的な造形をするという理にかなっている。
 全身像の塑造制作過程も動画で見せてくれた。解剖学の知識は形が見えるようになるためにも必要であると言っていた。実際、彼の造形は解剖学的な構造のレリーフが、リアリティに大きく寄与している。何度も言っていたのが「解剖学は大事。大事だけれどあくまでも道具。一番大事なのは、何を作りたいか。」
 氏の姿勢はピントがあっている。「求められるものを高いレベルで提供できる、そのために必要な知識と技術を”必要なだけ”身につける。」そういう感覚なのだろう。

 粘土で作られた様々な造形物が本には載せられている。講演会会場には現物彫刻も数体展示されていた。
 映像で使われることが前提のこれら造形物と、いわゆる美術彫刻は似ているけれども求める方向性が随分と違う。その最たるものが、「表面性」だ。映像用の造形物は、最終的には表面性、生き物ならば皮膚の表現が重要になる。解剖学的な構造があっていても皮膚が皮膚らしくなければリアリティのゴールに達しない。だから、これら造形物はどれも皮膚のしわ表現にとても注意が払われている。映像で使われるときはこれはシリコーンなどに置き換えられ実際の皮膚のように着彩される。だから、造形はそれだけで完成ではない。対する美術彫刻は、内在する構造や量のコントロールこそに重点が置かれる。皮膚のしわを細かく作る事は普通はない。むしろ、そこを作り込んであるだけで否定的な批評さえ受けることもあるだろう。

 ハリウッドの造形師。これは、美術彫刻とは違い、より直接的で実質的な技量が求められる領域として最も高いレベルのスペシャリストだろう。そこで生きる人が、人体造形に解剖学的な知識をどのように応用しているのか、常々知りたいと思っていた。今回、それを垣間見ることが叶ったのだが、その方法論が、自分が考えているものと非常に近いものがあって、安心感を抱いた。私自身の方法論に自信を持つことができた。もっと押し進めていきたい。
 
 最新の映画のキャラクターを見ていると、合成などはリアルになっているが、生命体の表現にはまだまだ伸びしろを感じる。解剖学的な知識の応用先もまだまだある。クリエイティブ系の学校で学ぶ学生さんたちも”本気で”身につけて表現に結びつけることが出来れば、ハリウッドは遙か彼方ではない、そんなことも感じさせてもらえた講演だった。

2014年6月6日金曜日

告知「美術解剖学入門 人体描写のスキルアップ」上肢・下肢編開講します

 7月より9月まで、朝日カルチャーセンター新宿校にて、「美術解剖学入門 人体描写のスキルアップ」を開講いたします。今回は、上肢と下肢を詳しく見ていきます。

 上肢と下肢は、まとめて四肢とも言います。また、それらを構成する骨格と筋とをまとめて運動器系と分類もされます。日常会話では腕や脚(あし、きゃく)という部分ですが、それをあえて上肢と下肢と言うのは、そこには腕脚という一般的解釈を超えた広がりをそれらが持っているからに他なりません。その広がりとは、言わば腕脚の”根っこ”のことで、それらは思いのほか広く体幹へ延びています。体の形状とその運動による変形を明確に認識するには、この”根っこ”を知ることが有効です。私たちの腕は本当に肩から始まっているの?お尻は体、それとも脚?これら素朴な疑問の答えを形状に乗っ取って知ることで、運動と連携した形状変化を明確に認識できるようになります。

 2回のヌードモデルセッションでは、個人や性別による違いを見ます。実際の体を前にして構造を確認していきます。
 自分自身でもありながら捉えどころの難しい人体を、解剖学的な視点でその見方を示します。従来の輪郭線や陰影による体の見方に構造的視点を加えることが目的です。

2014年4月7日月曜日

見る業、作る業

目を開けた瞬間から、対象が視界に「飛び込んでくる」。その視覚的な見え方は、透視図法という技法を通して再現が可能だ。透視図法に繋がる技法に、レンズを用いて光線を屈折させて紙に投影させるものがある(カメラと同原理)。より単純には、単に小さな孔を開ける方法もあるが、いずれにせよ、普段自分の目で見ているのと同じ光景が、壁なり紙なりの上にあるというのは、純粋な驚きをもたらす。いわゆる「映像」に慣れきっている現代の私たちでも、映画や立体映像など視覚的な刺激には心を躍らせるものだ。自分の目で見える世界がレンズや孔を通した投影像と同じだという事実は、視覚は受動的であるという感覚を補強する。
 しかし、視覚が受動的ではないことが現在では知られている。外光がレンズで屈折して投影されるという光学的現象は、目の水晶体(レンズ)で屈折し眼球の後ろの内壁の網膜に結像するまでの話だ。その壁には無数の視細胞があり、各自が光線のスペクトルと光量に応じて興奮反応を示す。そして、光線を細胞が受け取ったこの時点から、網膜に映った映像は分解され必要とされる情報へと変質される。その後は脳へ運ばれ更に要素へ分けられていく。私たちが意識としてイメージする主観的映像は、それら分解された情報を必要に応じて再合成したものと言える。つまり、視覚は受動ではなく能動的行為なのだ。だからこそ、同じ光景を前にしても、最終的な心象風景として何が見えているのかはそれぞれが違うのだ。
 
 心に思い浮かぶ心象風景を描出した景観画には作家の個性に基づく表現がなされる。それらは時に共感を呼ぶが、時に拒絶もされる。より多くの鑑賞者に受け入れられるには、どうすればよいだろうか。その手段として有効な物のひとつが様式化だ。様式化は言わば世界の記号化であり、全ての表し方を統一してしまう。数千年に渡った古代エジプト文明の人物表現様式や、中世のビザンティン様式などを見ても様式化がどれだけ強力であるかが分かる。そこに光学的な事実を取り込んだのが透視図法だ。透視図法は計測に基づくという点で、それまでの様式化とは違う。そこに表される世界は、私たちの視覚認識系を通る前に規定された世界だ。目で言うなら、網膜に光線が当たるところまでの世界、視覚の能動性の前段階である。そこに個人的心象や文化的規定が入り込む隙はない。これは、表現の拡散におけるブレークスルーだった。時代や文化が異なっても、光学的現象に変化はないからだ。透視図法に基づく景観画はその意味で時代と国を超える力を持つことになる。また、透視図法は観測と描画とが同時に結びついているという特徴がある。つまり、その方法に従って線を引くと、そこに自ずから景観が描かれる。洗練された透視図法は自動的であり、没個性的な技法とも言える。

平面芸術の空間表現において透視図法は大きな力を発揮するが、芸術のもうひとつの主題である人体表現には透視図法は適さない。人体は遠近の効果をもたらすほど大きくもなく、直行する直線的要素も持たないからだ。年齢や性別などでも形態が大きく変わる。それでも、多くの人が持つ人体の恒久的印象があるはずとの信念から、理想的比率を持つ人体像が模索されてきた。言葉として知られているのは古代ギリシアのポリュクレイトスの「キャノン」であり、図像として知られているのはレオナルド・ダ・ヴィンチの「ウィトルウィウス的人体」がある。これらは共に、外見から体部の計測に基づいている。しかしこれらは、強い説得力の半面、不信にも晒されてもいたはずだ。なぜなら、人体は動きによって姿勢が変わるごとに体表の各部位は変形して比率は変化してしまうので、不動の建築物や彫刻でもなければ固まった計測事実は恒久的有効性を持たないからだ。事実イタリア・ルネサンスにおいても、ミケランジェロら芸術家が何らかの外部計測に基づくキャノンに従うことはなかった。では、一挙動ごとに変形する人体を捉えるにあたって、拠り所となるものはあるだろうか。そこで選ばれたのが、硬く変形せず運動を捉えやすいもの、すなわち骨格である。それは変形しがちな人体をその内側から支え、曲がる箇所は関節に限定されている。
アルベルティ
絵画論を著した
「人体においてまず意識すべきは骨格である。骨格の位置と姿勢を決めれば、後は然るべき部位に筋肉を割り振り、最後に皮膚で全てを覆えば良い。」(アルベルティ)
 そのために、芸術家は裸体をただ外から観察するのではいけなくなった。今や骨格と筋肉の立体的位置関係と形状とを知らなければならない。そうして解剖学的構造という内なる事実から組み立てられる人物像は、透視図法ほどでないにせよ、一定の恒久性を持ち得た。なにより、捕らえどころのない人体という自然物の形状の成り立ちを明確に示してくれることは、芸術家の人体描写の下支えとして大いに役だった。ただ、解剖学的な事実を知ることが直接的に描写に反映はしないという点が透視図法と大きく異なる。解剖学に基づく人体構造の認識(つまり美術解剖学)は、「人体の見方論」に過ぎない。人体の形や皮膚に現れる起伏の理由を知ることが視覚の能動性に影響を与え、見えなかったものが見えるようになる。見えるようになった対象を再現するには手業の訓練が別途必要なのだが、その事実は忘れられがちに思う。

2014年4月6日日曜日

「知」と「業」

 先日の講座の終了後に、受講された方のひとりが人物デッサンを見て欲しいと来られたので、幾つかのアドバイスをした。ある段階までの完成度があるからこそ、「ここをこうすればより良くなるのに」というポイントが浮かび上がって見える。他人の作品から、修正すべき点を見つけるのは容易である。これだけ容易に形の狂いを見いだせるのなら、自分で制作したらさぞ良い作品が作れるのではないかと私自身ふと思うこともある。
 ところが、実際は全くそうはいかない。自分でデッサンをしたり、粘土で造形すると、思い通りの形状が現れてくれないのだ。理解していることと、それを表現することとの間には思う以上の断絶が存在している。その断絶を狭める、もしくは埋めていく作業こそが日々のデッサンの繰り返しなどの「手業」の鍛錬なのだろう。言語による知識は、芸術家にとっては、あまりに集約抽出され過ぎている。例えば、「サイコロの形」と聞けばだれでもそれを頭に思い浮かべられる。では、それを描いて下さいと言われて、どれだけの人が破綻なく描写できるだろうか。

 造形家は知識をかたちへ還元しなければならず、そこには、言語を遙かに超える情報が必要とされている。そういえば、レオナルド・ダ・ヴィンチも、その事実に言及していた。造形家は、「業」と「知」が要求され、その両者を表現において結びつけられなければならない。「知」なき「業」は手癖に陥りやすい。「業」なき「知」ならば理論家に任せておけばよい。

 私は、人体の構造的な「知」は自らの内にある程度ため込んでいるが、「業」の鍛錬を長くないがしろにしてきた。形が見えれば見えるほど、芸術を見ることは楽しくなり、身の回りからも美しいものを見いだせるようになっている。それと共に、それらを形にしたいという欲求が自らの内で大きくなっているのも感じる。「業」をもういちど鍛えなければいけない。

2014年3月29日土曜日

〈告知〉人体描写のスキルアップ講座を開講します

 本講座は、講義と実習を通して、人体を構造的な視点から見ることで、人体描写技量を向上させることを目的としています。
 美術解剖学は、皮膚の内側にある骨や筋のかたちと構造についての知識によって、人体を立体的に捉えられるようにするための方法論です。
 全6回で構成され(※4回目~6回目は7月以降に開催)、初回に講義で基本的な人体の見方を学び、2回目からはヌードモデルを観察して実際に各部位を描きながら理解を深めます。輪郭線や陰影だけではなく、構造的に人体を観る目を養いましょう。 

2014/04/05 講義 美術解剖学を実技に生かす・全身構造の捉え方① 頭と胴体を中心に
2014/05/17 実技(モデル男性)頭と胴体を中心に解説
2014/06/07 実技(モデル女性)頭と胴体を中心に解説・男性との体型差

本講座は終了しました。

2014年3月24日月曜日

〈講座告知〉レオナルド・ダ・ヴィンチの人体表現


 今週末3月29日(土)に、新宿朝日カルチャーセンターにて講座を致します。
タイトルにありますように、レオナルドの人体表現を、解剖手縞の素描を紐解きつつ見ていきます。
 万能の人レオナルドが残した解剖手縞の記録は、30代後半から60代はじめまで断続的に綴られました。その描写の品質は初期から既に非常に高度です。また、その描写の現代性から、現代の書店に売られている解剖書の図譜を連想するのですが、ルネサンスの時代にあのような解剖図は他に存在していません。つまり、レオナルドはほとんど独自にその表現方法を編み出したのです。解剖手縞の素描を見ると、レオナルドが言語に対する絵画の優位性を信じそれを実践すべく努力したことが伝わってきます。恐らく、出版も念頭にあったのでしょう。しかしそれは実現しなかったばかりか誰にも知られることなく時代に埋もれました。レオナルドの死後250年以上も経った18世紀の後半になってやっと医学者に発見され、その内容の包括的な研究は1970年代に入ってからと言われます。
 解剖手縞は17世紀からイギリスのウィンザー城王立図書館に所蔵されており、2012年に大規模な展覧会が開かれました。その図録の解説に目を通すと、解剖図の分析に誤りが散見されます。世界で最も有名な芸術家レオナルドの絵画作品はあらゆる角度で研究されているのでしょうが、解剖手縞となるとまだまだ分析の余地が多くありそうです。私たちはまだレオナルドの人体理解を把握してはいないのです。

 土曜日の講座では、解剖手縞の最初期の頭蓋骨から、アンギアーリの戦いに関連したもの、子宮と胎児、そして”100歳の老人”解剖所見からの素描まで時系列で見ていきます。
 また、関連する作品として若い頃の作品「聖ヒエロニムス」と最後の作品『洗礼者ヨハネ』も構造的視点から見てみます。

 解剖図は、眺めるというより読み取るという要素の強いものですから、前提知識なしでは少々取っつきにくいものです。レオナルド解剖図が気になっていた方、ただ眺めるだけではもったいないです。是非この機会にレオナルドが伝えたかった人体構造を読み解きましょう。

本講座は終了しました

2014年2月26日水曜日

見えれば、描ける

 ードモデルを描くとき、どこから描き始めるだろうか。ほとんど全ての人がまず輪郭線を描くだろう。対象を輪郭で捉えるのは、個人の癖という段階ではなく、視覚系にもともと備わっている機能である。だから、描画経験が浅いと輪郭線をひたすらに追うような描写になる。人型の線の内側はあいかわらず白い紙のままだ。そこで指導者の指摘によって輪郭線の内側を描写しようとするが、モデル体表の起伏による影のつもりが紙面の黒いシミとなってしまう−。

 輪郭の内側の陰影描写によって、描かれる人体は量を得る。実際のモデルの体の量は、解剖学的な構造によってできている。従って、描写をより対象に近づけるには、構造を理解することが非常に有効的である。

 これまでの指導の経験からも、そして西洋美術の歴史的事実からも、人体の形状を把握してその描写をコントロールできるようになるためには解剖学的な構造の把握が欠かせない。そして、(上級者向けと勘違いされていることが良くあるが)このことは描写技術習得の”基礎的”な項目なのだ。実際に、描き初めが輪郭線のみでおぼつかないのが、構造を意識して描いていくうちに”非常に短期間で”描写技術が向上するのを何度も目にした。これが意味することは何か。それは「描く」という行為において、対象が「見える」ということがその善し悪しを大きく分けているという事実だ。私は描けないと信じている人の多くは、単にまだ見えていないに過ぎない。これは考えてみれば当然のことだ。どんなに手先が器用で、思い通りの線を鉛筆で引けたとしても、見えない物は描けない。
 
 短期間で描けるようになったことを受講生から感謝されると、指導の方向性が間違っていないと証明されたようで嬉しい。先に「基礎」だと書いたが、事実、初心者ほど飛躍的に進歩する。そして「私にも見える、描ける」という充実感は続く向上心を引き出してくれるだろう。 

2014年2月25日火曜日

Love is art. Struggle is beauty.

 刻家、荻原守衛の言葉。

 私はこう見た。
 まず「愛は芸術」だが、ここにある2つの単語が指し示す対象は幅広い。愛と一言で言っても異性へ向けたものから母性愛、さらには人類愛のように大きな対象まで含む。芸術もまた同様に様々な様式や技法の芸術から、職人技術や特殊技能までも含み得る。そう考えると、これは限定的な対象を示していると言うよりも、固定された全体つまり普遍的価値を指し示した言葉であるように思える。
 対する「もがき(相剋)は美」は、より動的だ。もがきはその状態の渦中を示し、美はその状態において見出されると言っている。ここでのもがきは、肉体的でなく精神的なそれである。
 つまり、「相剋の渦中にあってそこから解放されようとするとき、そこには希望が内在している。囚われつつも望みを持って立ち向かう様には美しさが見出されよう」との意である。

 また、2つのフレーズに対応関係を見ることもできる。すなわちLoveはStruggleと、ArtはBeautyと。そして、始めのフレーズが理想の到達点であり、後のフレーズはそこに至る過程を示す。愛に至るには相剋があり、芸術となるには美が必要なのだ。

 単純な言葉で構築的に組まれ、その意は相似と対極とを組み合わせている。そう見ると、この言葉はまるで彫刻だ。事実この言葉をそのまま造形したような作品「女」を最後に残して、荻原守衛は31歳を前にこの世を去った。1910年のこと。