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2022年8月5日金曜日

ジャコメッティは両手利き

   YouTubeにいくつもの、ジャコメッティの動画が残されている。私はそれを知らなかった。それらを見ると、粘土の付け方や、湿らせておくための布の巻き方などが、映画「ファイナルポートレート」での俳優ジェフリー・ラッシュの動きとそっくりだと分かる。映画は、これらの映像を参考にしたのだ。

デッサンをするジャコメッティ
左手で消している

   また、ジャコメッティがデッサンをしている動画を見て、小学生の頃の私と同じ癖があることに気づいた。それは、右手で書いて左手で消すというもので、私はある時大人にそれを指摘されて気付いたのだ。これは利き手を矯正された結果の“両手利き”がすることらしい。確かに多くの人はそれをせず、消す時はペンを机に置いて消しゴムに持ち替える。ジャコメッティは、デッサン時に右手で描き左手で消していた。これは持ち変える動作によって作業が妨げられることがないので、一連の動きが流れるようにスムーズである。私自身は、やがてその持ち方をしなくなったが、今でも講義の板書において、自分の左側に書くときは左手を使うことがある。

デッサンをするジャコメッティの手元
右手に鉛筆、左手に消しゴムを持つ

   映画「ファイナルポートレート」での粘土造形のシーンでは俳優が両手で粘土をこねくり回していて、これは通常の粘土造形では利き手のみで粘土を付けるのと違うので、違和感を感じていた。ところが記録動画を見ると、なんとジャコメッティ本人が両手で粘土をこねくり回していた。その造形シーンで興味深いのは、左手に小さなポケットナイフを持っていることである。両手で粘土をこねて顔を造形しているのだが、時々、左手のナイフの小さな刃先で鋭い溝を刻み込む。なるほど、あの鋭さはナイフの刃先によるものであった。

両手で造形するジャコメッティ
左手にポケットナイフを持っている


   両手を使うとすぐに分かることだが、自分の真ん中に横向き鏡を置いて見るように、左右対称の動きをする。両手一緒の動作は、それ自体がシンメトリー(左右対称性)を生み出す。ジャコメッティの細い造形や絵画が正面性が強く、またシンメトリーであることは、両手を用いる造形手法と密接であり、さらに言えば両手利き特有の世界の見方も関連しているかも知れない。

ナイフの刃先で粘土にデッサンしている

   人は何にせよ、自己経験に照らすことで対象を理解する。私は幼少時からシンメトリー形状への親近感が強かったのだが、それはもしかしたら、利き手を矯正したことによる両手利きが影響していたのではないかと、ジャコメッティの造形動画を見て思い至った。


   それともう一つ、作家は誰でも、自らも気付いていないが、往々にして自分自身の顔に似た像を作っている。それはジャコメッティも同じで、つまりは輪郭がシャープで彫りが深く構造的な頭部は、ジャコメッティ自身の顔がそうなのだ。もし、彼がふくよかな体型の人物であったなら、あれら作品群は生まれていなかったかもしれない。

2022年7月23日土曜日

整ったアトリエと、良い芸術とが関連しているのではない

 

アトリエ内の彫刻家ジャコメッティ

 整ったアトリエから良い芸術が生まれるわけではない。アトリエが整っているということは、そこを使う者の心も整っていて考えが良くまとまるから、良い仕事につながり、結果として良い作品が生まれる、という考えがあるから、「整ったアトリエは良い芸術をうむ」と言われるわけである。

   しかし、芸術は整っていれば良いというものではない。考えがまとまっている方が良いというものでもない。むしろ、混沌を混沌として表すことができる場が芸術である。


   芸術については、「そのまま」、「なるようになる」、「なんでも良い」という言葉で表されるものを大事とするべきなのである。これらは、自立的で上昇的な思考とは合わないものだ。“常に今より良いものを”というスローガンで見るなら、芸術は決して認められないものである。しかし、この近代的かつ商業主義的なスローガンを掲げて生きるならば、その眼には決して今を満足することはできないであろう。目の前に広がる光景や今の自分自身は、常により良くなる可能性を宿した不完全なものとして現れるのであるから。人間の不満やそれに付随する様々な消極的な思考や行動は、今を満たされないという感覚から引き起こされる。なぜ私たちは満たされないのか。なぜ、より良いと思われる他者に目が行き、羨み、妬み、自らを否定するのか。それは、“より良いはずの状況”とそれに満たない現在とを比較するからである。そして、それが満たされることは決してないのだ。それは言ってみれば常に“理想”というイデアを志しているのであるから。

   アトリエをきれいに保つという考えは、その“理想”のイデアに通ずる。しかしそれは、芸術が真に志す方向とは異なっている。未整理であるがゆえに豊かな意味を内包する混沌を認められなければ、そこから豊かな芸術は生まれ得ず、また、そのような人は、芸術の豊かさに気付くこともないであろう。


   では、アトリエは散らかったままでいいのであろうか。現実世界との関係性を無視するわけにも行かない。混沌が許されるのは、自分の精神と自分だけのアトリエに限られる。アトリエが他者と共有されるのであれば、話は全く変わるのである。つまり、他者との共有においては、自分だけの混沌は全く許されなくなるということである。

   結論は、共有アトリエは整理されていなければならない。共有アトリエや学校のアトリエは公共であり、社会に所属する場なのである。そこは私的な場ではないのだ。


   学校のアトリエや公共アトリエの環境を考慮するときは、「私的」か「社会」かを見極めたうえで判断しなければならない。両者の階層は異なり、混ざり合わないものであるから。

2021/12/29

2017年7月29日土曜日

ジャコメッティとロダンの『歩く男』

現在開催中のジャコメッティ展のメイン作品の1つである、『歩く男』(1960)は、動きの少ない人物像がほとんどのジャコメッティ作品の中で目立つ存在だ。
 彫刻家は、それぞれの感性において、人間の存在について考えている。ジャコメッティもそれは同じだろう。細くなったことはその回答の1つであり、上へ伸びたこともそうである。

 確かに、脊椎動物で脊柱を天に向けて縦に立たせるという大胆な姿勢を取った動物は人間しかいない。この”他にない”という特徴は、そのまま”人間しか持っていない”特殊性を生み出した。大きく重たい脳の獲得や両手の移動運動からの解放は分かりやすい例である。他にも、動物として決定的な違いを生み出した。それが移動運動(locomotion)である。脊柱が横を向いて、四つ脚で移動する多くの動物では、後ろ脚で地面を蹴って生まれる推進力を脊柱を通しで前方へ伝達させる。ところが人類では、脊柱が天を向いているので、脊柱を貫く力は、ぴょんとジャンプさせる運動になってしまう。そこで私たちが前へ進むためにしていることは、脊柱を進行方向へ傾け、前へと倒れていく落下エネルギーを一歩踏み出した脚へと伝達して、振り子のように次の一歩へと繋げているのだ。このような運動は四足動物と比べるとバランス維持は格段に難しく、そのまま転倒してしまう高いリスクを負っている。このような危険な姿勢で成功しているのは、人類が社会性動物であることも関係していることは想像に難くない。互いに守り合う集団内でなければ、維持できないだろう。ともあれ、”体幹を前方へ傾けて歩く”という特徴がそのまま『歩く男』には表れている。
 しかし、街で往来する人々を見ても、この像ほど傾けて歩いてはいない。この像は歩くとは行っても、かなりの早歩きで、数歩先では小走りに変わっているかも知れないほど、急ぎ足に歩いている。こんな姿勢で急ぎ足の男が目に付くのは時間に追われる都会だろう。現代の日本ならば、東京の駅周辺で朝の通勤時間には良く見られる。


 『歩く男』という題名では、他にロダンの彫刻(1878)がある。『説教する洗礼者ヨハネ』と関連する同作は、”歩く”と言ってはいるが、そのようには見えない。人体の重心は2本の脚の間に収まって、骨盤は後ろに傾いており、前進運動のさなかの姿勢と言うより、左脚を大きく後ろへ引いて立っている。ロダンは、写真が時間を切り取ったような動きの表現をそのまま彫刻に持ち込むべきではないと考えていたようだ。確かに、実際に動くことのない彫刻としての、構築的堅牢性は強く感じ取ることができる。歩こうとしているような傾きが生み出す”倒れそうな姿勢”は彫刻としてはふさわしくないと考えていたのかもしれない。

 ロダンとジャコメッティは、共にモデリング、ブロンズ鋳造の技法で、主題が人体と同じだが、その示そうとした内容が全く異なるのである。ジャコメッティがロダンの同作を知らなかったはずはない。とは言え、それを意識していたのかは分からない。いずれにせよ、両作品の違いには、時代における人間の在り方の差が垣間見えるようで、興味深い。