ラベル 芸術の起源 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 芸術の起源 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2015年8月11日火曜日

人体と人体彫刻

 私たち人類は、3万年前には自分のかたちを造形していました。それら小さな彫刻の造形表現が現在と比べて劣っているということはありません。28000年前に作られた『ヴィレンドルフのヴィーナス』像が見せる、冷静な観察に基づく大胆な変形と形態的な調和には感嘆させられます(図1)。
『ヴィレンドルフのヴィーナス』 
旧石器時代の11センチほどの石像


人体彫刻の起源は人類史的に遡ることができるものですが、現在の日本で彫刻と私たちが呼ぶときに心象に浮かぶもの、例えばブロンズ像や大理石像などの直接的起源は、2500年ほど前の古代ギリシア文明と言って良いでしょう。この西洋彫刻とも呼ばれる領域が日本に本格的に輸入されたのは文明開化後ですから、日本人にとっては”西洋彫刻を作り始めて100年ちょっと”ということになります。
 しかしここでは、文化史的な側面というよりも、人体彫刻とそのモチーフである人体との関係性に注目したいと思います。そこでは彫刻の最大の特徴である「実在」がキーワードとなるでしょう。なぜなら、私たちもまた人体として実在しているからです。彫刻と人体はこのことにおいて相互に関連しているのです。彫刻は物質の形態を操作することで非言語的に語らせようとします。人体は物質が複雑精緻に組まれた形態によって生命現象が生み出されています。どちらも実在する形態のありようが、その存在の意味を支えていることに変わりがありません。一方で、両者の由来は違います。すなわち彫刻は人類によって生み出されたものですが、人体は自然が生み出したものです。
 私たちは皆生まれたときから“人体を所有”していますが、人体のことを初めから知っているわけではありません。人体すなわち「私」とは何か。それを形態から探求する学問が人体解剖学です。解剖学は隠された内側から直接観察することで人体の認識を深めようとします。人体の内景は有史以来、長い時間をかけて少しずつ発見され、その探求は現在も続いています。こうしてみると彫刻も人体も、私たちの意識によって発見される形態という意味で同様です。このような類似性は、解剖学的な形態や構造に彫刻的な美しさを見いだせることからも分かるでしょう。
 多くの点で人体と似た”実在的な運命”を持つ人体彫刻を、解剖学的な視点も加えて眺めていきましょう。

実在のリアル

彫刻には、実在しているという事実によって生まれる特有の特徴があります。そのひとつが形状と素材の連関です。これは、彫刻の形状はその素材の特性の影響を受けると言うことです。彫刻の素材として良く用いられるものは石、粘土、木材、金属、樹脂などで、それぞれ特徴的な特性があります。たとえば、石材は硬く丈夫で屋外にも置けるが欠けやすく、木材は切削が容易で細かな表現ができるが強度はそれほどでもない、などです。大理石の彫刻は細くて長い造形は向かず、人体像の姿勢もそうならないように工夫されています。一方、素材に粘りがあるブロンズ像ではよりダイナミックな姿勢が可能になります。このように、彫刻は物理作用の影響下にあるために、その形や姿勢もそれに従う範囲でなりたっているのです。
 また彫刻が実在するということは、作品の題材(テーマ)が実在するということでもあります。鑑賞者はその作品の題材と物理空間を共有していることになります。この作品がミケランジェロ作の『ピエタ』であったとするなら、その物語の当事者であるキリストとマリアがあなたと同じ時空にあるわけです。この劇場的効果が彫刻に特有の強さを与えていることは確かでしょう。一方で絵画は、一枚の絵の中に限りなく自由な世界を繰り広げることができますが、それらは私たちの物理的空間とは隔絶されています。作品題材の存在では、”絵画はバーチャルの、彫刻はリアルの芸術”ということになります。
 作品を前にした鑑賞者は、作品がそこにあることを当然の事として捉え、その作品が持つテーマを感じ読み取ろうとするものです。先に例に挙げた『ピエタ』であれば、マリアやキリストの外見やそれに伴った物語という文脈です。しかしながら、彫刻の鑑賞においては文脈の鑑賞にくわえて、それが”実在する”という彫刻と私たちが共有する事象にも目を向けることで、彫刻特有の芸術的性質が見えてくるのです。素材と空間の制約の中で屹立する彫刻には、どこか私たちと似たものを感じます。

心も形から

心を私たちは知っています。「心と体」や「心身」といった言葉があるように、形のない心に対して物質の肉体と同程度か時にはそれ以上の存在感を感じもします。私たちは具体的な形を持たない心や意識を”意識”することができるのです。怪我をしたり病気になったりしてやがては消滅する肉体という物質的な存在と心は対極的な存在として捉えられるのです。
 医学に依れば、私たちに魂の存在を信じさせる意識は脳から生まれます。脳は神経細胞の集まり、つまり物質です。また感情や愛情といった情緒は、ホルモンなどの作用で変化することも分かっています。ホルモンとは体内に流れるごく小さなタンパク質などの物質です(図3)。
このことはつまり、心や感情といった形がない概念的なものが、物の形から生みだされていることを示しています。感情を生み出す形。それはまるで彫刻ではありませんか。彫刻が持つ形状は、鑑賞する私たちの心を動かします。それは私たちの考え方や行動さえ変える力を時に持ちます。彫刻という物質の形状と形なき心との関係性は、体内における意識や感情の立ち上がり機序と思いのほか似通っているのです。

彫刻特有の感覚

彫刻は立体物として量を持ちますが、見ることができるのはその表面だけです。表面の色彩だけを見ているのであれば絵画と変わりないのでしょうか。それでは描かれた彫刻と実物の彫刻は同じということになってしまいます。これには違和感を感じますが、実際のところ具象絵画はこの思想ゆえに成り立っているわけです。しかし描かれた彫刻を観ることが、実物の彫刻鑑賞の代わりにはならないこともまた明白です。描かれた彫刻では決定的に何かが物足りません。実在する彫刻を鑑賞するときだけに働いている感覚、それは立体感です。
 この世界は立体的にできていますが、それを立体的に見るには2つの目でひとつの対象物を捉える必要があります。2つの目で捉えられたそれぞれの映像を重ねるとズレが生じますが、脳はこのズレを元に距離感を得ます。この距離感が特定の対象物に向けられるとき立体感として感じられるのです。人間の両目は並んで前を向いているので立体視が可能なのです。視点が移動すると、このズレが連続的に起こるので立体情報をより多く捕らえられます。彫刻作品の前で鑑賞者が左右にゆらゆら動いているのは、そうやって立体感を味わっているのです。彫刻は私たちの両目が並んでいたから生まれたと芸術とも言えます。世界を立体で見ることの喜びがそこには内在されているのです。
 彫刻を写真に写してもこの立体感は残せません。平面化された時点で立体感は打ち消されてしまいます。ですから、彫刻が持つ立体感や量感を楽しむには、実物の前に立って鑑賞する意外にないのです。鑑賞者がその作品の前まで赴かなければならないという意味において、彫刻はライブショー的な側面も持っています。

彫刻の内側

ブロンズ像を間近に見ると、その表面に作者の指跡やヘラ跡が生々しく残っていることがあるので、これらは直接作られた中身の詰まった物だと漠然と思われていることがしばしばあります。しかし実際はそうではなく空洞です。ブロンズ像は始め粘土や蝋などで作られます。その粘土像から型を起こし複雑な工程を経て、最終的にブロンズつまり銅の合金へとすっかり置き換えられているのです。具体的には、型の中へ溶けた熱い金属を流し込みます。金属は冷えて固まる時に縮むので、金属の量が多いと歪みや割れが起こります。そうならないようにブロンズ像は空洞にされます。そもそもなぜブロンズに置き換えるのかと言えば、長期保存のためです。粘土で作られた彫刻はそのままでは壊れやすいので、長く保存できるようにブロンズなど別の丈夫な素材へと置き換えられるのです。置き換える素材は、金属の他にも石膏や樹脂など様々です。別の粘土で置き換える技法もあります。置き換えた粘土は焼くことで丈夫にします。このように、型を起こして置き換えられることで彫刻作品のほとんどが中空となるわけです。
 この「充実しているように見えるが実は空洞」という事実は、彫刻作品の質つまり像の表面造形とは関係のない舞台裏として取り上げられませんでした。これは、作品性は外表面だけに表れるということを意味してもいます。
 しかしながら、作品の存在に多くの芸術的な意味合いを語らせようとする現代の彫刻においては、作品の表面だけでなく、素材やその内側への意識もまた作品の一部として無視のできない要素となりうるのです。例えば、古代ギリシアのブロンズ像で象眼された目が外れて穴が開いているものがあります。それを以前なら欠損の穴と見ましたが、今では黒い影を落とす目の穴にも造形的な意味を与えよう、もしくは読み取ろうとするのです。この時、作品に開けられた穴は作品の表面と内側とを繋げる窓となって、内側はそれまでの舞台裏から作品の重要な要素として再認識されることになります。穴はそこから続く内奥を予感させ、それまで意味が与えられていなかった内側に意識の光が届けられることになるのです。さらに作品の表面は、それまでの充実した量の外面という意味合いから、内と外を隔てる境界へと意味合いが変わります。この時、境界を「膜」とするなら、ここに膜を隔てた内側の概念が彫刻に加えられたことになります。
 彫刻に開けられた穴と同様に、私たちの顔にも幾つか穴が開いています。穴と一目で分かりやすいのは鼻、耳、口です。目の瞳孔は光を通す穴で、眼球そのものも眼窩と呼ばれる穴にはまり込んでいます。顔に開いたこれらの穴もまた体の内と外とを繋げる窓です。目、鼻、耳から情報を取り入れ、鼻と口からは物質の取り込みと排出(食事、呼吸)をします。さらに目と口はコミュニケーションの道具としても重要です。口は言葉を話し、目は口ほどに物を言うのですから。

内側の外側

彫刻に穴が開くことでその内側が作品の要素として加わりましたが、この内側についてもう少し見てみましょう。人体はその中心部に限って内側に腔所があり、頭部は頭蓋腔、胸部は胸腔、腹部は腹腔といいます。これらの腔所に脳や胸腹部の内臓が納められているのです。この頭、胸、腹部を一括りに体幹と呼び、生きるために必須の器官はここにまとめられています。なぜ体幹にまとまっているのかは進化を遡ると分かります。私たち人類は4億年も遡れば魚でした。その頃の体の主要部分は体幹だけで、腕や脚は薄いヒレに過ぎません。体幹の主要な構成をごく単純に言うなら、全体を貫く腸管と運動のための筋肉からなります。
 日本の古い人体彫刻の埴輪を見ると、まず立派な体幹が像の全体観を作っており、対して腕や脚は単純化や省略がなされています。ここでは体幹部がまさに「体の幹」として表現されています。また、しばしば目や口に穴が開けられています。それらの穴は人間の顔に開いている穴すなわち目・鼻・口・耳と結びつき、その内側へと見る者の意識を誘います。私たちの目は脳へ続く意識の窓、口は腸管へ続く物質の窓です。口から始まって体幹を貫き肛門で終わる腸管は、さながら山に開けられたトンネルです。トンネル内と外は一繋がりであるのと同様に、腸管内は体の外と一繋がりです。つまり腸管内腔は体内のようで実は体外空間に他ならないのです。
 先に、彫刻に穴が開くことで表面の膜性が明らかになり、その膜によって内と外とが規定されましたが、ここで新たに口と肛門を繋ぐ腸管によって「内側の外」が加えられました。彫刻に穴が開けられたとき、その内側の空間を外と認識することで表面が拡張され、作品を取り囲む空間性も一気に広がりを見せるのです。穴による「内側の外」を作品に意識的に取り込んだのがヘンリー・ムーアです。ムーアの作品を特徴付ける穴。この穴を通して「内側の外」が提示され、さらに外と内の間にある量塊によって表裏一体だった「膜」は量塊を包み込む面となるのです。それはさながら、細胞膜から皮膚へと膜の存在意義が拡張されたかのようです。ムーアの作品は、それが一見では人体彫刻に見えなくとも、その存在思想が人体と似ていることに気付かされるのです。

胸像は魚の頭

人体彫刻には全身像だけでなく部位で切った表現もあります。胴体だけのものをトルソーと呼びます。その他でよく作られる部位はなんと言っても頭部です。それはもちろん、作られるその人の顔が作りたいからです。顔は個性の象徴ですから、全身を表さずとも顔だけでその人の全てを表すこともできるのです。特に印象を似せた顔の像を肖像と言います。しかし、実際の肖像では頭部だけが作られることはまれで、普通はその下に首がつき、更にその下の胸までがあります。この部位で切られた像は胸像とも呼ばれます。胸像の切断位置で多いのは胸の上部までを入れたものです。
 さて、首や胸など体の部位名が出てきましたが、その明確は境界はあるのでしょうか? これは外見で目立つ形の違いや、動いたときの変化の度合いなどから経験的にその部位の境界が決められているのでしょう。共通の認識を持つ必要のある医療分野では、体の部位分けと名称を決めています(図4)。
体表区分図
頭をひとつの塊として見ることは簡単です。頭には、目・鼻・口・耳という特殊感覚器が勢揃いしています。これらの特殊センサー付きの頭を身軽に動かせるのは首があるからです。後ろから不穏な物音が聞こえたら、頭だけ振り向けばいいのです。もし首がなければそのつど重たい全身を向けなければなりません。これが水中ならば話しは別です。水に浮かぶ魚に体重はありませんから、後ろを向くには尾びれを鞭打って全身の向きを変えてしまえば良いのです。ですから首のある魚はいません。首は私たちの遠い祖先が水から陸に上がってから頭と胸の間がくびれてできた、言わば新しい部位なのです。人体の外見では頭部と胸部は細い首で明確に部位分けできますが、その内側は外見ほど明確ではありません。例えば、首から肩にかけて目立つ胸鎖乳突筋と僧帽筋は、実は首の筋と言うより腕の筋とも言えるもので、本当の意味での首の筋はこれらの筋より深いところにあります。更に興味深いのは、首から胸にかけての血管です。胸の血管と言えば大事な心臓を思い出されるでしょう。ちょうど左右の胸の間にある心臓はその頭側へ大きな動脈を出します。それは直ぐに背中側へとカーブして腹の方へと向かっていきます。このカーブを大動脈弓といいますが、これはかつて魚だった時代のエラに通っていた血管でした(図5)。
鰓弓動脈概念図 
第3鰓弓の部位が首に、4番目の鰓弓動脈が大動脈弓となる

つまり、私たちの胸の高さほどまでがかつてのエラがあった部位なのです。魚の「頭を落とす」ときはエラより尾っぽ側を切りますが、これがちょうど胸像の境界とあいます。胸像は偶然にも魚時代の頭の領域までを選んでいるのです。

運動器と臓器

人体のかたちをごく単純に描くと、漢字の「大」のような棒人間になります。この横棒と斜め棒が腕と脚を表していることから分かるように、腕と脚は人のかたちのイメージの重要な要素です。大きく太い腕と脚は、上述したように、そもそもは魚の体位を安定させるヒレでした。およそ3億5千万年前に魚類が陸に上がることで運動の主役は体幹からヒレへと移行します。それ以降、ヒレは筋骨たくましい四肢となって体幹を支え、運搬する重要な役割を担うようになったのです。人類では体幹の運搬という役務から解放された腕が、器用な指先を活かして多彩な仕事をこなすようになりました。今では身振り手振りで自らの感情を伝えることさえできます。一方の脚は体の運搬に終始してきました。腕と比べてずっと太い脚は、その仕事の一途さを誇っているようにも見えます。
 ところで、この運動器と先に見た腸管とでは、そこに分布する神経の種類が違います。運動器への神経は、感覚と意識的に動かせる体を制御する「体性神経系」が分布します。脳はこの中枢です。つまり自意識や運動は全てここに属します。一方の腸管への神経は、意識が関与することなく自律的に活動を続けているので「自律神経系」と呼ばれます。腸管つまり内臓は意識がアクセスできない言わばブラックボックスですが、それは意識的行動の根源を成しています。私たちは体幹の内側にある無意識の自己(つまり内臓)から湧き起こる要求を、あたかも自意識(つまり脳)で決めたかのように思い込まされているだけなのかもしれません。
 「自分でもどうしようもない自分」は誰もが実感するものです。それらは実感してもなお制御できるものではありません。喜びや悲しみといった感情はどこか深いところから湧き起こってきます。この制御不能な自己とそれを認識する自己との対話が、近代以降の芸術表現のモチベーションの大きな部分を占めているのです。

 彫刻家も鑑賞者も、人体彫刻を通して人間という無数のスペクトルを放つ存在をそこに見ます。それは私たち自身の姿でもあります。自己存在とは何かという答えのない疑問を私たちは持ち続けます。3万年前の人間に小像を彫らせた欲求の根源には、初めて気付いた自己存在を確認する意味があったのではないでしょうか。人が人のかたちを作る。これは自分の存在という驚異に向けられた、ほとんど本能的とも言える営為です。私たちが人である限り人体彫刻という自己確認は続いていくのでしょう。

2013年3月31日日曜日

一枚のコイン 心を物に託す


 「こころのこもった贈り物」とは、コマーシャルのコピーの響きだが、他者へ物を贈るという行為は、確かに、そこに心という無形が込められることで成り立っている。贈り物、ギフト、プレゼント、お土産・・様々な呼び方で贈り物は分けられているが、現在の文明社会では、贈り物の多くが”商品”という形を取る。商品の価値は、値段という数字で計られる。これは、様々な価値観を一度数字に還元して平均化させる私たちの文化に乗っ取っている。この数値化が、贈り物の商品化という形で、私と他者との間の「心」に入り込み、大事な人には高価な物を、そうではない人には安価で・・という図式が作られた。婚約指輪には給料3ヶ月分を、それにはダイアモンドが適しています、となる。”心という無形を物に託して他者へ届ける行為”はこうして、ひとつの型に押し込まれている。

 先日、喫茶店でしばらくおしゃべりをして店を出る際、代金を私が支払った。勿論、大した額ではない。その時は大きなお金しか持っていなかったのを崩したいという理由もあった。店を出ると、相手の人が、一枚のコインを差し出した。一枚の海外のコイン。随分傷だらけでレリーフは一部摩耗している。聞けば、海外旅行の際の物で、旅のお守りとして財布に入れていたと。それは大切なものとお返ししようとしたが、今がきっと持ち主が移る時なのですと言うので頂いた。私はこの時に、内心自分でも驚くほどとても感動してしまって、あの時体が震えていたのは夜風の寒さだけでは無かったと思う。
 一枚の海外のコインには、ほとんど実質的な貨幣価値はない。その意味でそれは、純粋な物に近く、事実そのひとはコインに”旅のお守り”という別の価値観を忍ばせていた。それは信仰に近い。そのような、そのひとにとって特別な意味の込められた物を受け取ったとき、私は確かに、一枚のコインという物質や貨幣という本来的意味ではない、無形でいて大きく暖かいものを受け取ったように感じたのだ。言い換えれば、無形の心を、コインという物に託して私に届けられた。これこそは、贈り物の原点だろう。
 人と人は、言語のみでコミュニケーションを図っているのではないとつくづく思う。実質的価値のないものを贈り、受け取るという行為は、両者が同様にその意味を理解し合っていなければ成り立たないのだ。コインを差し出したときに、その人は500円玉と思って手に取ったからと言ったが、それのみが事実ではないことを私は分かっているし、言ったままを鵜呑みにはしないだろうとその人も判断が働いていたに違いない。
 数字的貨幣価値に依らない贈り物。それは始原的行為であり、それが純粋な形で行われると、心に深い感動をもたらす。記憶をたどれば、お金など関係のない幼少の頃は、その価値観でのやりとりをしていたのだ。いつしか、数字という便利な仕組みに価値判断を押しつけ、心をデジタル化していた。それが当たり前のようになっていた日常に、突如、純粋が流れ込み、嬉しいことには私もそれをまだ受容できた。

 思えば、心という無形を物質に転換して他者に示すという行為は、芸術と同様である。芸術にはそれを受容する相手を必要とする。それは、かつては神であり、王であり、皇帝であった。やがて一般化し、現代では誰でもが鑑賞者と呼ばれる相手になっている。芸術作品は、他者へ示す、心の贈り物なのだ。私の心が始めにあれども、それを相手が受け取ってくれるにはそこに同様の価値観が前提として必要とされる。相手が「誰でも」の現代においても作家はそれを想定して表現しなければならないだろう。感動を届けたいのなら。
 私は彫刻芸術において本質的に重要なのは構造や形態であり、文脈は二の次で良いとさえ思っていた節もあるが、今回のような体験を通すと、発端としての心の動きこそが最も重要であり、「芸術家よ感動せよ」とはまさしくそうであると、改めて感じた。感動に打ち震えるような出会いこそが芸術を推進させるのは間違いない。冷静さの底に、感動という情動の炎をゆらめき続けさせよう。芸術が人間にしか作り得ないのは、それ故である。

 全く不意に手渡された一枚のコインに、私は心を見た。ここには1人と1人の行為であるが、それは人類がいにしえより繰り返してきた心の確認作業でもある。手渡し、意味を感じて理解し、受け取る。そこには全く言語では語り尽くせない情報の往来や、数値化のそぐわない価値が含まれているのに違いない。

2010年11月22日月曜日

原始的感覚と彫刻

 私は、彫刻という芸術のジャンルこそ、全ての純粋芸術において、もっとも原始的な感覚を保持しているものだと信じている。そして、芸術というものが人に与える快楽が、感覚の原始的な部分から沸き上がってくるものであるなら、彫刻こそが、人々をそこへ「直接的に」導くことが出来るものであろう。その純粋性の高さゆえに、もはやその感覚は動物的でさえあり、その原始性によって理性やら論理やらに惑わされることから守られている。

 新生児は、まだほとんど視力が働いていない時から、その小さな掌に大人が指を置けば、力一杯に握ってくる。私たちがこの世に生まれて初めてたよりにする感覚は触覚である。そして、やがて追いついてくる視覚と触覚が結びつくことで私たちの「触覚的経験」は奥行きを増してゆく。尖ったものを「見て」、それに「触れる」ことで、次からは尖ったものを見るだけでもあのチクリとした感覚をありありと蘇らせることが可能になる。

 物をつかむ、物に触れるという感覚は、私たちに安心感をもたらす。それは、幼い頃に親に抱かれた肌の感覚もあるだろう。
 しかし、幼少時の記憶といった個人的追憶に依らなくとも、私たちは物をつかむことに安心感を得る理由を見つけることが出来る。それには、手を見ればいい。手の平を開けば、5本の指の腹が見えている。親指の腹だけは、斜めに内側を向いている。そこで物をつかむように指を徐々に曲げ始めると、人差し指から小指の4本はそろって曲がってゆくが、親指だけはその根本から他の指とは違うダイナミックな動きを始めるのが分かる。伸ばしていたときは皆一列に並んでいたのが、曲げ始めると同時に、親指だけはそこから急速に離れ、その腹は弧を描くように回転し、たちまち他の4本の指の腹と対向する向きを取るのである。
 物を握って離さないための手。私たちの体には、物をつかむための機構が生まれつき備わっている。この手は、私たち人類がここまでやってきた道程を示している。この手は、かつて木の枝をしっかりと握り全体重を支えるものだった。長い腕、可動域の広い肩、そして4指と対向する母指。そして、立体視の出来る眼。この組み合わせが、私たち人類を他の動物より優位に立たせる強力なツールとなった。やがて、木から下りると、この手は道具を作るようになる。身を守る武器を握った。大きな獲物を運んだ。火をおこした。
 私たち人類の進化は、物をにぎるという動作と切り離すことが出来ない。極端に言うなら、”握るために変形した手”を持つほどに、物を握ることを宿命づけられている動物なのだ。脳における体性感覚の分布を視覚的に表した有名な図(もしくは像)があり、「感覚のホムンクルス(人造人間)」と呼ばれる。これを見ると、人間にとって掌から得る触覚がどれだけ重要なのかが一目で分かるだろう。
 これほどに、握ることに頼り、生きてきた人類。触れる感覚からもたらされる安心感は、触覚に対する信頼感に繋がっているに違いない。

 この人類の存在に関わる、深い部分に根ざした感覚を揺さぶる芸術が彫刻である。歴史に残る傑作といわれる彫刻の多くは、かならずこの触覚をくすぐる要素を持っている。芸術のクライアントは、鑑賞者の感性つまり原始的感覚であり、ならば、そこが共鳴する作品が多くの共感を得るのも納得がいくのではないか。

2009年12月29日火曜日

非言語コミュニケーション

言語は人類を特徴付ける能力のひとつと言える。言語により森羅万象は概念化され、事象のインタラクションを正確に行えるようになった。言語化は即ち、内外世界の標本化(デジタル化)なのだ。その戦略によって人類は、地球上での現在の地位を得た。武器や火の使用など物質的道具の使用が人類たらしめる要因として良く上げられるが、それらが真の力を発揮するのは個から個への伝達が可能になってからであることを思い返せば、その最たるものは言語の使用を置いて他にない。人類の歴史において、人々の上位に立った者たちは、皆言葉を巧みに操ったのだろう。言語による恩恵を「身をもって」知っている私たちは、今でも言葉巧みな者ほど「偉い」、「立派」と盲目的に思いがちである。

芸術が本質的には、言語を必要としていないのは明確だ。そこからも芸術の起源が古いことが分かる。芸術が表現するものは、従って言語によって明確に定義分けできるような細かな具体性を帯びたものではなく、もっと始原的な感情に寄り添ったものになる。喜びや悲しみや怒り、恐怖や愛などだ。これらは、民族を超えて人類という動物に共通の感情である。極東の文化も全く違う日本人が、西洋のキリスト教美術に感動できるのは、そういう始原的感覚に訴えかけているからだろう。細かな物語の背景は、正直どうでもよいのだ。

彫刻などは、そういった感情として分類できるものより、さらに起源的な感情にさえ訴えかけるものがあるのだと思う。それは、「物の存在」に対する感覚である。人類は道具を使うことで他に秀でた。初めのそれは石や木の棒や骨の棒などだったろう。それら「物」を握りしめることで、今までは倒せなかったり捕れなかった獲物を得ることが可能になり、競合する他の集団を制圧することが可能になった。手元の「物」はそうして、単なる「物」以上の意味を持ち始めたのだ。
手にすることが出来ないよう巨大な物に対する畏敬の念は、現在でも山岳信奉など様々な形で残っている。
こうして育まれた物に対する愛着的感覚に、様々な感情表現が結びついて彫刻表現が確立されてきたのだと思う。彫刻は単に絵画を立体にしてみたというような物ではなく、起源的にも、訴えかける内容としても、絵画とは大きく違うものである。

しかし、最近では、彫刻の持つ本来の要素、即ち量感や存在感からの脱却を計っているような表現も増えている。これは、加工技術の高度化とも切り離せないが、それよりも、作家がそれらを「古い」と考え始めているからなのかもしれない。だが、それは彫刻による彫刻の否定になり、本質的に意味がないようにも思う。絵に奥行きが欲しいからと、キャンバスを”物理的に”立体的にするようなナンセンスさがそこにはある。

芸術表現には時代性がある。それは移ろいやすい文化に引っ張られているのだから当然である。しかし、私たちの感情や感覚はそうではない。肉体的構造はクロマニヨン人から変化していない。それは、現代の私たちも彼らの始原的感情は理解出来るであろうことを意味している。

今の文化に受ける表現を「今、間違いなく」伝えようとすると、それは必然的に言語化されるようになる。現代美術の多くが言語化が可能、もしくは言語化しなければ理解不能なのはそのような理由がある。抽象芸術はそうして、言語化へと進まざるを得ない。それは、本来の芸術からの離脱であり、行き着く先は「言葉」である。そして、美術の目立つ流れはそちらを向いている。
言語により現在の地位を得た私たちが、言語化(即ち、抽象化、標本化)を好み、言葉に安心し、それを求めるのを否定することは出来ない。だが、私たちの行動規範は、言葉の奥に潜んで見えない始原的感覚から起こっているのもまた、隠しようのない事実である。

言葉は新しい。だから、嘘がつける。悲しくても、「うれしい」と言えてしまう。だが、悲しい感情をごまかすことは決して出来ない。感情表現は各国語が存在するが、感情そのものは人類共通である。
芸術が本来、表してきたのは、この感情のほうだ。それは人類が人類である限りは”文化、時代を超えて”引き継がれてゆくものである。

言葉で言えるものならば、言葉で言えば良い。
言い表せないものに、芸術が必要なのだ。