2018年12月29日土曜日

形と音

 結局形なのか、概念なのか。大切なのは。本質は。そう分けてしまうことが、そもそもの間違いの始まりなのか。なぜ分けてしまうのか。分けずに本質に近づけるのか。言葉なき言葉があるのか。言葉なくして思考はあり得るのか。
 なぜ強いのは言葉より形なのか。それは刻まれるからだ。刻まれたものは物質であり、音声言語より長く保たれる。音声言語は音であって現象である。それは発された瞬間で終わる。だから音声はアラートとして用いられた。音声言語はその瞬間を表す生の伝達だ。色や形は違う。これらは光で伝達する。これは永続性を持つ。物と光があれば継続する。動物の体色を見よ。動物の擬態を見よ。彼らは常に大きな音など発さずともその身体でメッセージを発し続ける。それを継続するためにはただ生きれば良いのだ。
 音と形は違う。犬の唸り声と蜂の警戒色は異なる。犬の唸り声は形にはできぬ。彼らはそれを頭の中で反省することなどあるだろうか。我々の黙考とその結果として発せられる言葉は、犬の唸り声とは異なる。それはすでに書き言葉を読んでいるのである。ならばどうして、どうやって我々は言語を獲得したのか。話し声からか、手で音の意味を刻み込んだからか。我々は概念を確固とするためには、それを外部に刻まなければならない。言語は概念を刻んだ傷である。岩に刻んだ影だ。そうであったなら、私たちの意識や思考は頭だけでなく手が重要である。道具を使ったから意識ができたのではない。意識ができたから道具を使ったのでもない。
 我々が持っていた動物的な音、唸りはどこへ行ったのか。そこには未だ言語は割り当てられていない。怖れや怒りや喜びという言葉は感情の看板であり、そのものではない。笑いもそうだ。ワッハッハと書かれるがこれも犬の唸りをウーっと書くのと同じオノマトペに過ぎず感情を書き記しているのではない。
 未だに手段を持たず、しかしそれに形を与え観察し共有したいという人間という動物的な振舞いが芸術活動であろう。芸術はいたずらに逡巡しているのではない。そもそもどこへ向かえば良いのか今でも分からないのである。先が分からずとも進み続けるのは、生物としての本能、いやそれ以前の本質である。言語体系はあたかも完成しているように見えるがそれとて同じである。ただ、刻み、形を与えることで、分節化し、ちょうどパズルのようにまとめて組み上げることが可能になった。しかし、繰り返すが、私たちの内的世界は全てそのようにまとめ上げられない。言語は言語化できるものだけで成り立っているのである。しかし黙考はどうか。そこは言語と非言語が渦巻いている現場である。言語という型に流される前の坩堝(つるぼ)であり、次々と流し込まれ続けている。芸術家は流される前の溶けた鉄に目を向ける人だ。そして型にないものに流し込んで形を与え、視覚化する。その過程だけで言うなら思考と同じである。思考が言語で行われるように、芸術家は非言語で思考する。それは特別なことではないが、忘れがちな事でもある。芸術の種類にも関係する大事なことは、形が作られるには大きく2通りあるということだ。すなわち、何を作るか考えて作る事と、作りながら考えることである。単に人から物が作られるという過程と行為だけを見ると、両者は似ている。しかし、作られる現象としてみるなら両者は全く異なる。我々の身の回りにある人間の為に作られたほとんどの物は前者である。それが洗練され経済に組み込まれたものが商品である。純粋性の高い芸術作品は後者である。それはほとんど常に、人が初めて目にする物である。しかし同時に、いつか見たような気もするはずだ。もしくは、初めてなのにそれが見たかったと思うだろう。そうでなければ、強い嫌悪かも知れない。いずれにせよ、何らかの言葉にならない思いを喚起させるのである。しかしそれは、言語ではない。感情の看板でもない。もし、多く人に共通の思いを抱かせるのであればそれは言語的であり看板に近づいていると言える。そうなったなら、真の芸術家はそこに興味を失うだろう。革命的であろうとする芸術家は、いつも看板を言語化され固定したものを疑うからである。
 とは言え、芸術家が、特に視覚芸術は、現象を視覚化させて落ち着かせようとする点で文筆家に近い。音楽はどうか。音楽は音という現象を扱うが、しかしそこに音階がある。構造がある。音楽もまた言語から生まれている。音楽は現象を視覚化構造化してものを再び音化させているのだ。つまり最終的な表現様式に至る手前までは、画家も彫刻家も音楽家も同じである。鳥のさえずりと音楽はだから、本質的に異なるものである。
 芸術は、人類が未だ視覚化して固定できていないものをそうしようとする行為である。そういう人類の本能的行為のひとつである。それは人類の表現可能性を広げる事であり、意識、思考を拡大させようとする行為なのだ。つまり、芸術とは原始的どころか人類行為においてもっとも先端的行為なのである。その点において哲学とも近く、また、理論物理学などは同様のパッションに科学的根拠が付随したものであろう。
 音が発せられては消えていく性質である以上、構造なき瞬間的なアラートから脱せない。我々の内なる感情が形なく、唐突に、時に爆発的に沸き起こるのと同じである。犬の吠え、猿の叫び、人の悲鳴、爆笑、そう言う情動的に伴う発声は破裂音、爆発音、大きな軋み音と同じなのだ。それどころか、悲鳴の起源はそういった大きく遠くまで聞こえる自然音であっただろう。もちろん過去の動物たちが意識的にそれを真似たのではない。自然界のなかで進化してしてきた動物は音と物理現象との連関に包まれて来たのだからそれは至って普通のことである。
 そうした、発せられては消えていくものに、いつしか人類は形を与えた。それは純粋で大きな驚きと喜びに満ちた初めての経験だっただろう。形が与えられた概念とは、私たち自身とも、もちろん重なっていく。それは神と呼ばれる対象も、死んでいった祖先も、留まり続けるイメージとして生み出していった。何と言っても、視覚的対象は、それが維持される以上は永続的にメッセージを放つのである。土より木が、木より焼いた土が、焼いた土より石が選ばれていく。それは永続性によって選ばれる。むしろそういう選択を通して、永続性の概念がそこに転写されていったのだろう。そうして石は永遠性を手にしたと言っても良い。


 形なのか、概念なのか。両者は同じであった。私たちはどうしても形を信じる。言語という形を信じる。その永続性を信じる。しかしそこに、構造的永続性の起源たる構造なき瞬間性の再生を見なければならない。
 そして、むしろ考えるべきは、形と音であった。

2018年12月24日月曜日

パウル・クレーの墓碑




なお掴み難し

我は死の中に生き

未だ生まれぬ者の中にある故

創造に僅か近づくも

捉えるには未だ遠し