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2025年8月29日金曜日

見えない月を見る

 感覚器は細部と結びついている。感覚器は自らの周囲の細部、些細なこと、を見つけるためにある。いや、ためと言うより、それらと結びついていると言いたい。

微細な生き物、単細胞生物などでは、それだけで反応している。それでも絶滅しない。

なぜなら、感覚器が拾う、周囲の細部的事象は、実際はそれと地続きの全体の末端であるから。つまり、全体を捉えずとも、細部だけでも問題はない。

ただ、それは、全体に身を完全に委ねているようなものである。文字通り、完全に委ねるというのは生物ではなく、物であり、生物世界で言えばそれは死である。だから、単細胞であっても、生物である以上は、感覚器によって最小レベルで、全体から抗っているとも言えよう。


ともあれ、その発展形として我々はある。依然として、身体は細部だけを拾っていることに注意せよ。感覚器は身近のことしか知らぬ。遠隔受容器である目、鼻、耳などは少々異なる。だが、注意すべきはこれらであっても、本当に遠くを感受しているのではない、という事は気付くべきである。耳は、鼓膜の震えを拾っているだけで、震わせているのは鼓膜と接触している空気のみであり音源ではない。食べ物の匂いも、そこから出た化学物質が触れただけで、その食べ物そのものではない。目も同じである。月を見て、「月という遠方物を見た」と思っているがそうではない。目が捉えているのは、月に反射してやってきた光子のうち、網膜に当たったものだけを感受しているに過ぎない。これは初め理解しづらいだろう。月が見えているのだから。だがなぜ、私はそれを「月だ」とわかるのか?こう問い直せば分かるであろう。「月を見ている」というのは、すでに感覚の後の高度な判断の末の答えなのである。その意味において、他の感覚器と同じである。

つまり、世界を感受するという、環境との関係性において、我々は単細胞生物と基本的に変わらぬ。何が異なるのかは、すでに述べてあることだが、その感覚を素材として、何らかの高度な判断をするという点である。上の例を再度上げれば、網膜に当たった光子の刺激を元にして「月だ」と思えるということだ。単細胞生物にも月明かりは当たるが、彼らはそれを月明かりとは思わない。


我々は、感覚器からやってくる不断の細部情報を積み上げて、自らのうちに確固たる全体を編み出したのである。これを作り上げているのが、他ならぬ、脳である。

感覚器からやってくる細部だけであれば、脊髄だけで事足りることは、脊髄反射の言葉からも分かる。

それら、細部情報のうちで、常にある規則性を持ってやってくるものに対して、順応するように、そこにある不動の対象を生み出した。それがここで言う全体である。

ここでも月で例えよう。網膜に当たる光学情報には、常に激しく変化するものからほとんど変化しないものがある。この違いを感受するには、光線方向を明確に捉えるレンズが必要である。だから、目が要る。目の獲得は、雑に変わる光とそうではない光を分けた。動物が動くと、身体の近接受容器や筋受容器が拾う情報と、目が拾う情報が組み合わされる。そうして、動いても変わらない光と、激しく変わる光に、距離が与えらえる。こうして、月は(遠方の山々も)自分から遠くにあるものとして扱われるのである。

このような光の変化の感受には、だから、自らの動きが必須で、それが動物だけに目がある理由であろう。動かないのであれば、おおまかな光の有無と方向だけで事足りる。外世界という全体は要らないのである。


このような、感覚器からの不断の細部情報の獲得と、自らの運動とが重なり合って、脳内で全体が作り上げられた。全体は動物が生きる上で必須の要素である。この全体を我々人は世界とか宇宙とか空間と呼んでいる。これらは脳内で作られたものであるから、言い換えれば、実在の有無とは厳密に関係がない。いや、この言い方は危険だ。厳密に実在していると信じ切ることができなければ動物として生きていけないほどのものであるから、その意味においては実在しているのだが、ここで私が述べ立てている段においては、実在していないと言おう。ともかく、動物はこうして、自らの内に、世界を作り上げたのである。これがどれだけ重要か実感している者は少ないだろう。動物がなぜ空間内を自由に動けるのか。我々は世界があることを知っているからである。知っている、というのは、それを口に出して説明できるという意味ではない。自らが動けるだけの場が自らの周囲には存在していると“信じきれている”という意味である。

私はなぜ動けるのか。自らの周囲に空間がある、部屋がある、野原がある、と信じきれているからである。信じ切れる理由は、自らの感覚器が不断に与える情報が元となって作られている、空間感である。

見回してみれば良い。自分の周囲に空間があり、さまざまな物が自分からどれほどの距離にあり、それが置いてあるのか動いているのか、はたまた、自分が動いているのか、それこそ全身感覚として分かる。それは常に安定している。その安定が自らの運動の基礎となっている。

世界が安定していなければ、我々はそこに自らを定位できない。


さて、ここで考えを先に進める。ここまで述べた全体と細部は、主に物質感や空間感と、それに基づいた反射としての自己存在、それも物質的存在と関連づいていた。

この事について考えたい。自己存在、物質的存在である。

感覚器が細部を拾い、そこから全体が作られ、世界が作られた。そう、“作られた”のである。作り上げたものは、我々の内において作られたのである。それを今では“概念“とまとめて呼ぶ。空間や存在とはつまり、概念である。概念とは本来存在していないのであるから、さまざまに作り変えることができる。それこそ、何にでもして良い。本来なかったのであるから。

この事が、私たちの抽象観念の説明であり、ほとんどすべてに当てはめる事ができる説明でもある。

イデアであろうが、神であろうが、どのような宇宙論であろうが、何でもそうである。つまるところ、こちらが作っている物語なのだから、「うまく語れているか否か」の問題に過ぎない。

この感覚は、私たちの意識と不断に結びついているのは間違いのないことである。自らの思考を見渡してみよ。先ず、この言い回しがすでに、概念と空間性とを同一視していることを証明している。自らの内を「見渡せ」と、あたかも景色のように言っているのであるから。さあ、見渡してみよう。形のないはずの思考を、まるで存在し、掴み取ることができるように扱っていることに気付くであろう。思考は、目に見る事ができない。それは感覚器を刺激していないからである。それは我々の脳内においてのみ感じられるのに過ぎない。だが、この内なる感覚は、かつては感覚器の不断の情報から紡がれた脳内における外世界の”概念構造“をそのまま利用しているのである。それゆえに、我々の思考は形を持つのである。いや、そのように感じられるのである。この感覚を、逆向的に外部へ取り出す行為が、人間の工作行為である。もちろん、芸術行為もこの内に入る。

だから芸術作品は、脳内の概念に形が与えられたものである。よく言われている事である。だが、それを、我々は具象と抽象とに分けてきたがこれが本質的には無意味であることが今や分かっただろう。どちらも根本的には同質である。具象抽象の言い分けは、単にそれが、感覚器が拾ってくる情報に近いのかそうでないのか、とも言い換えられる。どちらにしても脳内で再合成されていることに違いはない。


今や、哲学や科学は、自らの感覚器に基づいて作っている世界に自分が生きていることを忘れ(厳密に言えば忘れていてよい、知らなくて当然、そのように進化したのだから)、世界が本当に外にあって、自らとは別物だと思い切ろうと努力している。その傾向が顕著なのはもちろん科学である。科学の主観・客観問題はしばしば議論される(主に哲学・科学哲学領域であろう)が、科学的な真実の探究には人間の不要性を追い求めているようにすら見える事がある。だが、ここまで述べてきたことからも分かるであろうが、我々が思うところの世界、宇宙は、あくまでも”我々が思うところの“が前提であって、それを外すことはできない。我々自身の存在、この肉体が、その宇宙を生み出した張本人なのであるから。これは、どこまで行っても抜け出ることはできない。我々である以上、我々の限界は越えられない。

別な言い方をしよう。どのような科学であれ、分析しているのは、実際のところは”自分自身“である。

例えば、量子力学のパウリが心理学のユングと親しかったことなどは、この流れで見てみれば全くもって意外な話でもないのだ。


8月23日(土)

2011年9月24日土曜日

一般のための解剖学

 私たちは皆、一人につき一体の体を持っている。心身二元論的な言い方だが、そのように感じられるのも事実だ。体は超自然的な力によって生きているのではなく、眼前に広がる自然界と同様の物理原則に則って物質や情報が移動することで成り立っている。緩やかに流れている小川でもひとたび石などで流れが遮られれば氾濫を起こすように、体内でも何らかの原因で不具合が起こればたちまち体調不良という形でそれが現れる。小川と違う点は、不具合を積極的に取り除こうとする働きが起こる点だ。しかし、それとて「超自然」ではない。そこに何らかの意志を置こうと考えるのは私たちの脳の働きによるものに過ぎず、より大きな視点で見るなら、身体を一定に保とうとする機構もまた、そのような自然の系の現れのひとつに過ぎないと言える。
 人間を心と体に分けるというのは、私たちにとって非常に馴染みやすく、そこに違和感を感じることが少ない。だからこそ、世界中の宗教でも”物質的な体のない体=霊体”という、冷静に考えると矛盾した存在概念を受け入れている。しかし、脳の機能や体の機構が明らかになるにつれ、心と体が全く分けることの出来ない同列の存在であることも理解されてきた。個人は細胞の集まりという点では集合体であるし、「私」という自己同一性は、右脳と左脳とですでに違う。同様に、「私らしさ」も決して不動のものではなく、脳の特定領域が侵されれば、いとも簡単に別人格になってしまうことも分かっている。これらは、私たちの心というソフト的概念が、体というハード的存在に依っているという事実を示している。これらのような例を挙げるまでもなく、例えば、口内炎の一つも出来ればそれだけで、一日が憂鬱になってしまうことを思えば、どれだけ身体が心に影響を及ぼすのかが分かる。
 それでも、普段、体の調子が良いときは、私たちは身体について忘れがちである。「今日は体の調子が良いぞ」と毎朝考える子供はいないだろう。体の各所にがたが出始める大人になってこそ、そう思うようになるものだ。つまり、どこかに不具合を感じて初めて自己の身体を意識するのである。これはしかし、外傷や内臓疾患など明確に身体に関わるときであって、「気分が優れない」など、感覚的なものは最近まで身体と別の領域で捉えられていたように思われる。それが心理学という一領域を作ったのではないか。今では、それらも脳内物質との関連性から捉えられるようになっているが、家庭レベルでは今でも「それは怠けだ」で片付けられていることも多いだろう。

 書店などでは、いわゆる「こころの問題」に関する書籍が実に多い。こころというソフトに区分けすることで、それを身体というハードと別にし、論理的解釈で解決していこうとするわけである。それらは「こころと体」に分けることに慣れた私たちに非常に親和性が高く、実際、効果もある。これが身体性が更に希薄になり独自理論が組み合わさると「霊感」や「占い」など超自然的な解釈となってゆく。
 肉体の構造という「おもいっきりハード」として身体を見つめてきた解剖学の歴史は、この目に見える物質に、私たちが心と呼ぶものがどこに宿るのかを探る行為でもあった。現在、自然科学の領域である西洋医学において、身体が超自然的な働きで動いているという考える者はいないだろう。しかし、一般の人々にとってそれが全て飲み込める事実でもない。いや、多くの人にとって、医学的事実は理解できる。しかし、「こころ」がそれを受け入れない。脳死臓器移植問題などはそのギャップの表れである。
 書店では、身体についての書棚にあるのは、こころの扱いの書籍と、「家庭の医学」といった不具合に対処する書籍が大半で、シンプルな体の正常構造を記述した解剖書は目立たない。需要と供給のバランスがそこには現れている。多くの人にとって「正常な状態」の自分の体には興味が持てないのだ。「うまく行っているなら、それでいい」。これは、自動車などの所有物の構造にいちいち興味を持たないのと似ている。壊れて初めて「ラジエター」が何なのかを調べる。
 しかし、車と自分の体は違う。身体というハードは、そのまま「私自身」を構成しているのだ。解剖学を知ることは、正に「セルフ・コンシャス」な行為であり、自身の物質性というものに意識的になれる刺激的な学問である。わたしたちは自然状態(かつ健康)だと、どうしても「こころ」というソフトに傾きがちだ。巷では、骨盤矯正や頭蓋骨矯正など身体を改善させる行為やグッズがあふれているが、どうも情報のいいとこ取りで済ませている印象を受けることがある。自分の身体がどのように出来ているのかを基本知識として知っているなら、乱れがちなこれらの情報に流されずに済むかもしれない。このようなメディア・リテラシー的な目的でなくとも、せっかく生きている間お世話になる身体だと思えば、知っているのも損ではないと思う。
 解剖学に詳しい知人が以前、「全身骨格を一体分持っているよ。体の中にね」と言った。そのような身体感覚は面白いと思う。私自身の感想だが、解剖学を知ることで、身体性の扉が一つ開く。それは、自分自身そして自分以外の生きている存在に対する見え方を大きく変えるほどの刺激に満ちている。これほど身近で(何せ自分自身の問題なのだから)、全てに関わってくる学問が、「医学のもの」のように思われていることが残念に感じる。自身の身体は、誰のものでもない。知識の扉に鍵は掛けられていない。多くの人にその扉を開けてもらえればと思う。

2010年11月22日月曜日

原始的感覚と彫刻

 私は、彫刻という芸術のジャンルこそ、全ての純粋芸術において、もっとも原始的な感覚を保持しているものだと信じている。そして、芸術というものが人に与える快楽が、感覚の原始的な部分から沸き上がってくるものであるなら、彫刻こそが、人々をそこへ「直接的に」導くことが出来るものであろう。その純粋性の高さゆえに、もはやその感覚は動物的でさえあり、その原始性によって理性やら論理やらに惑わされることから守られている。

 新生児は、まだほとんど視力が働いていない時から、その小さな掌に大人が指を置けば、力一杯に握ってくる。私たちがこの世に生まれて初めてたよりにする感覚は触覚である。そして、やがて追いついてくる視覚と触覚が結びつくことで私たちの「触覚的経験」は奥行きを増してゆく。尖ったものを「見て」、それに「触れる」ことで、次からは尖ったものを見るだけでもあのチクリとした感覚をありありと蘇らせることが可能になる。

 物をつかむ、物に触れるという感覚は、私たちに安心感をもたらす。それは、幼い頃に親に抱かれた肌の感覚もあるだろう。
 しかし、幼少時の記憶といった個人的追憶に依らなくとも、私たちは物をつかむことに安心感を得る理由を見つけることが出来る。それには、手を見ればいい。手の平を開けば、5本の指の腹が見えている。親指の腹だけは、斜めに内側を向いている。そこで物をつかむように指を徐々に曲げ始めると、人差し指から小指の4本はそろって曲がってゆくが、親指だけはその根本から他の指とは違うダイナミックな動きを始めるのが分かる。伸ばしていたときは皆一列に並んでいたのが、曲げ始めると同時に、親指だけはそこから急速に離れ、その腹は弧を描くように回転し、たちまち他の4本の指の腹と対向する向きを取るのである。
 物を握って離さないための手。私たちの体には、物をつかむための機構が生まれつき備わっている。この手は、私たち人類がここまでやってきた道程を示している。この手は、かつて木の枝をしっかりと握り全体重を支えるものだった。長い腕、可動域の広い肩、そして4指と対向する母指。そして、立体視の出来る眼。この組み合わせが、私たち人類を他の動物より優位に立たせる強力なツールとなった。やがて、木から下りると、この手は道具を作るようになる。身を守る武器を握った。大きな獲物を運んだ。火をおこした。
 私たち人類の進化は、物をにぎるという動作と切り離すことが出来ない。極端に言うなら、”握るために変形した手”を持つほどに、物を握ることを宿命づけられている動物なのだ。脳における体性感覚の分布を視覚的に表した有名な図(もしくは像)があり、「感覚のホムンクルス(人造人間)」と呼ばれる。これを見ると、人間にとって掌から得る触覚がどれだけ重要なのかが一目で分かるだろう。
 これほどに、握ることに頼り、生きてきた人類。触れる感覚からもたらされる安心感は、触覚に対する信頼感に繋がっているに違いない。

 この人類の存在に関わる、深い部分に根ざした感覚を揺さぶる芸術が彫刻である。歴史に残る傑作といわれる彫刻の多くは、かならずこの触覚をくすぐる要素を持っている。芸術のクライアントは、鑑賞者の感性つまり原始的感覚であり、ならば、そこが共鳴する作品が多くの共感を得るのも納得がいくのではないか。

2010年6月24日木曜日

物を見て触る

私たちは、感覚を持っている。生まれたときから当たり前のものとして機能している感覚。この感覚が無ければ私たちは自分の周りの事象を一切知ることができない。そのことを思うと、感覚の意味合いが変わる。
さて、解剖学では、感覚を幾つかに分けて考える。皮膚で感じる感覚は一般感覚。頭にある目、鼻、耳、舌で感じるものを特殊感覚と大きく分ける。また、それが意識下に上るのかどうかで、体性と臓性と区別もする。

頭部に集中する特殊感覚、目鼻耳を獲得したという進化上の事実は全く驚愕に値する。このうちどれか1つが欠けると、日常生活はとたんに困難さが増す。これらは、受容器として分かれているが、脳においてはそれらの情報は相互に補完し合い、統合された外部情報として扱われる。だから、音で見え方が変わったり、その逆もしかり。料理では、盛り合わせと香り付けは重要である。

目鼻耳のそれぞれの依存度は動物によって違う。人間は目の依存度が大きい。左右の目が仲良く並んで正面を向き、立体視を可能にしている。色盲が多いほ乳類において例外的に色覚を持っている。
この強力なツールと、自由に物をつかめる器用な手。この名コンビが人類を地球上で秀でた種に押し上げてくれた立役者だ。見て、触れる。見るだけでは足りない。触れるだけでも足りない。両者の情報の結合が要る。その蓄積が、物作りの経験となり、道具を作り操るという人類の特徴たる性質を構築した。

情報化が急速かつ高度に進んだ今、私たちは情報の利便性を日々”体感”している。情報を阻害するのは物質である。情報をより円滑に統合するには物質性を排除していかざるを得ない。iPhoneは物質的形状としてはもはやモノリスとなった。
情報至上主義的な流れは、芸術にも当然押し寄せている。もともとアート寄りの人間は新しい事象に敏感だから、そうなるのも分かる。とは言え、表現媒体としては以前からある素材(画布に油絵、木彫などなど)を用いていたりするから、どっちつかずの感があふれている。要するに、作家も物質と情報の間を揺れているのだろう。

情報を重視すると、物質を見なくなる。人を表現したいとき、情報としての人で十分ならば、モデルを立たせて観察し造形する必要などない。壁に「人」と書けばよい。
今の芸術、それもより物質と関連する彫刻でこの問題は静かにかつ深く問題になっていると感じる。人を作る作家が、人の形状や構造に興味を示さない。「雰囲気・気配」さえ出ればそれで良いということだろう。

美術解剖学というものがある。間口はとても広い。それは、人の見方を示している。人を見るには、人は物だという事にまず気付く必要があるだろう。そうして、目新しい物を観察するように見ていくと、広い間口の一歩奥に、別の扉があることに気付く。そうして奥へ奥へと進むにつれ人体と芸術のただならぬ面白さの連関に飲まれる。ここからが、人体、芸術、彫刻を追うことの快楽の真の入り口なのだと思っている。そしてそこが美術解剖学の本当の入り口でもあるのだろう。
そして、奥へ進む手段として外せないのが、見ることと触ることなのである。人間を「人体」として片付けない。構造を「解剖学」で終わらせない。彫刻を「象徴」にしない。そっちへ安易に流れないために、自らの目で見て手で触れる。

芸術家の仕事は、情報の整理ではなくて情報の翻訳ではないだろうか。

2010年5月19日水曜日

体に残る「節(ふし)」

節のある動物と聞くと、何を思い出すだろう。ある人は昆虫かもしれない。芋虫かもしれない。ミミズかもしれない。それは、体の頭からおしりへ向かって体を区切っている横線として描かれる。
それら節のある動物を気味悪く感じる人は多い。

しかし、私たち自身の体も「節」がある。そう言われてもピンとは来ない。自分の裸を鏡で見ても、どこも区切られておらず、一枚の皮膚で全身が覆われている。実はそれは、体の中にある。背骨をイメージして頂けるとピンと来るだろうか。背骨は椎骨と呼ばれる骨が縦に連なり、個々の椎骨の間に軟らかい組織が挟み込んでいる。ここだけを見たら、まるで節足動物だ。節足動物はこの節の内側に筋肉を詰め込んでいる。私たちはこの節の外側に筋肉をまとった。彼らと私たちは表裏を分けた関係だ。

そう言っても、体に横線のある芋虫やミミズのようではないと思われるだろうが、運動の為に特殊化した腕と脚を想像で取り除いてみると、残された胴体には横線があるではないか。それは、脂肪が少なくてほどよく鍛えた腹部に見られる。腹筋の横割れ線こそ、芋虫の横線と同じだと言うと悪趣味だろうか。とは言え、背骨を初め、胴体の背中の深い筋肉や肋骨の連なり、腹筋の割れなどは体節と言って、ボディプランの古いデザインがそのまま継承されているのは事実だ。

では、頭はどうだろう。頭に横線がはいってグネグネ蠢かれたらさぞホラーだろう。実際、外見で頭部に分節性を見いだすことは不可能だろう。しかしながら、中に収まる大事な器官「脳」には、分節性をにおわす構造が見て取れる。進化的に見ても、体が出来て頭が出来るのだから、体が持っている分節性を改変させて頭を作ったと考えることもできる。
頭を構成する様々な器官は、かつて魚のエラであったものを作り替えている。エラは数対あったわけだが、それも分節性を物語っていると言える。

お尻の先には、3つか4つの尾っぽの骨が残っている。骨と骨の間に横線を描いて。
頭の先からお尻の先まで、私たちは体の中にフシを隠し持っている。

2009年12月20日日曜日

脳と肉体

人間の存在を考えるとき、人間の形態を忘れるわけにはいかないはずだが、私たちの思考は容易に「精神」と「肉体」を概念分け出来るので、考えるときに肉体を置き去りにしがちである。
精神は心に在ると言われる。永い時代、心の所在が議論されてきた。それが宗教と結びつくことで精神と肉体の分離がより明確になり、精神は肉体より高貴な位置を与えられ不滅の対象ともなったが、一方で、科学の進歩と共に客観的視点の有効性が認められると、様々な観測的事実から心と感じるものは脳が作り出していることが明確になってきた。

現在は、脳ブームだと言われる。前世紀末期から、今世紀は脳の時代になると言われていた。それは、脳の機能が前世紀末から次々と明らかになり始めていたことによる。とは言え、実質的には、脳の機能はまだほとんど分かっていないという。
ともあれ、標準的な現代人なら、人格や心は脳が生み出しているという意見に異論はないだろう。では、これは、かつて魂と肉体を分けていた人たちよりも前進したと言えるのだろうか。私たちは、脳を精神の器と考えてはいないだろうか。つまり、かつての「精神と肉体」の2元を「脳と肉体」と言い換えたのに過ぎないのではないか。
先日のテレビ番組で、延命の行き着く先の技術として、脳を若い肉体と入れ替えるというアイデアを紹介していた。ほぼSFだが、このアイデアが理解し納得されるところに、「脳=自己存在」という暗黙の了解を見る。

解剖すれば、確かに脳は物体として分離出来る。しかし、それは工場で作られるパソコンに最後にCPUを差し込むようなものではなく、たった一つの卵から分岐した最終結果としての形状である。両者は概念こそ似ているだけでむしろ真っ向逆を行くものと言えるだろう。
脳はどうやって出来るのか。それは、個体発生学が見せてくれる。なぜ、脳があるのか。それは系統発生学が見せてくれる。そして、その両者を比較解剖学が取り持ってくれる。
そこで見えてくるのは、脳と肉体は不可分である、という事実に他ならない。肉体は脳の為の労働者ではなく、私たちの人格は脳だけで完結しているのでもない。そもそも、脳と肉体の分化は単に 必要に応じた機能分けの結果に過ぎないはずだ。私たちが、生物として今ここに立っているのは、脳が肉体を操ってきたからではなく、両者不可分の協力によるものだろう。つまり、精神も心も肉体全てから生み出されると言って良いのだ。

私たちは、肉体という物質だ。それが、様々に考え、思い、文化を生み出すことが驚異なのだと思う。あえてもう少し意識的に、自己を物質性から見直すのも悪くない。解剖学はその大きな手助けになる。

2009年8月19日水曜日

言葉という道具 言語優位性

私たちの社会では、言葉がきちんと使える事が、その立場において非常に重要な要素となっている。立場と状況に応じて、適した言葉を選んで使い、意思を明確に伝えられるかどうかで、その人の知性と社会的地位が計られる。
海外に旅行に行くと、言葉が使えないが為だけに、ひどく自分が劣った人間のように思えるものだし、逆に、拙い日本語を使っている外国人を見ると、何だか自分より劣っているように感じてしまう。
もちろん、人間の知性などは、言語だけで計れるものではないのに、なぜ、そう感じてしまうのか。そこには、人類にとっての言語優位性という性質が見て取れる。

言語を扱う動物は人間しかいない。人類がいつ言語を使うようになったのかは正確には知る由もないが、その取得過程には、道具の使用と関連性があるように思う。
言葉を持たない動物も、鳴き声などで相手に意思を疎通するが、それは、発声した時のみの単純な伝達に過ぎず、「ここ」、「向こう」、「逃げろ」、などのように、掛け声のようなものだ。
やがて、言語取得初期の人類は、「お前、あそこ、私、ここ、追う、お前、出る、私、お前、捉える」という感じで、増えた語彙をいくつも重ね始め、間を埋めるように、文法が出来ていったのだろう。これは、例えば、綿密に狩りの計画などを立てることを可能にした。協力し合って狩りをする動物は、オオカミなど人類以外にもいるが、彼らのそれは進化によって身につけた固定されたものであるのに対して、言語が可能にした共同作業はどのようにでも変更をすることが出来る点で、本質的に全く違うものだと言う事が出来る。
この、進化的に身につけたものではなく様々に変更が可能であるというのは、人類が身につけた「道具」と同じなのだ。その意味で、言語は道具であり、その取得時期は道具の使用時期と近い可能性が考えられるのではないか。

実際の道具と言語では、物質と概念という大きな違いがある。言語は形を持たないため、行動や思想など形のないものも表す事が出来る。
しかし、それを的確に操るためには、意識(脳)が明晰である必要が有る。言葉が物事に呼び名を付ける事で明確化し、それによって、思考が明晰になっていった。私たちは、物事を考える時に言語を必要とする。
こういった理由から、言語を高度に操れる人は意識が明晰であると判断する事が出来る。また、どんな動物も固有の身体的能力を持っているが、人類にとってのそれは、高度な意識(脳)の表出である道具とその一種である言語であり、それが優れている者が集団の長に付く事が出来るのは各動物種におけるヒエラルキー構造と何ら違いが無い。
つまり、私たちが、相手を言葉遣いで判断するのは、言語を持つ人類としての本能のようなものなのだ。的確な言語は、作戦を正確に伝達させることで狩り(または、農耕など)を成功に導き、集団を保護する。そうやってきた記憶が私たちに刻み込まれているのではないだろうか。