2020年4月5日日曜日

スーパーマーケットの彫刻史


   スーパーマーケットの菓子棚で、ふと目に留まって手に取ったのが左のもの。商品名が碌山だ。驚いたが、中村屋という社名を見て納得すると共に、その名がこうして社会的に生きている事に奇妙な感覚を覚える。なぜかと言って、この商品を手に取る人の一体何人が、碌山という名称を気にかけるか、ましてやこの人物が日本の近代彫刻の始まりともなる作品を作りその完成と共にさらりとこの世を去ったことや、その死んだ場所が他でもない新宿中村屋の奥の部屋であったことなど、どうして想像ができるであろうか。

   碌山こと荻原守衛は、明治の日本が世界の中でその存在感を高めていこうとしていた時代のなかで、新たな西洋芸術から人間が個人を生きることの崇高さとその表現力を感じ取り、それを直接に学ぶために、公費など頼らずニューヨークやパリなどヨーロッパへ渡り、ロダンを現地で知り彼にも会い、帰国後はその最先端故に少ない賛同者の中でその新しい芸術を、それまでの日本には無かった“生きざまと表現の合一した芸術“としての彫刻を、貧困の中で模索し発表した人物である。その碌山は、1900年代始めの人が移り住み始めた新宿の駅近くに店を構えて成功した中村屋を始めた相馬夫妻と旧知の仲であり、繁忙期などには店の手伝いもして、半ば家族のような関係であった。1910年の4月、いつものように訪れていた中村屋の奥の部屋で突然に血を吐いて倒れ、そこで死んだ。30歳であった。碌山はごく簡単なアトリエ兼住居を、今の都庁あたりの、まだ畑が多かった角筈に建てて住んでいた。そこには作りかけのひざまづいた女の裸体塑像が残されていた。この「女」はのちに明治以後彫刻の重要文化財の第1号となる。

   碌山は、自分が生きる時代を最大に生きようとした人間に映る。それは国外まで単独で飛び出してしまう行動力にも現れるが、同時に、生きることと芸術追求への内面性も突き詰めて、自らを苦しめてもいた。
   そういう男が、東京新宿に居た。その生きざまの結晶が、彼が残した彫刻である。彫刻はそれら全てを再生する記録媒体ではないが、そこに残る指跡や形態が、かつてその男がいた事を証明している。今となっては、碌山という文字はその象徴でもある。それが、ある菓子の商品名となって印刷されているのを見ると、碌山という文字や、ひいては彼の作品から想起する百数十年前の東京にあった人生が、時流れた今ならば一つの物語に過ぎないという現実に引き戻され、寂しさを感じるのだ。
   
   そして、そうした新しい芸術家たちを支えたのが、新宿中村屋であり、その創始者の相馬夫妻であった。中でも、その妻である黒光(こっこう)は碌山にとって、まだ長野県の安曇野にいた頃からの仲であり、新宿に移ってからは、芸術論を語る仲間でもあり、生活面の支援者でもあり、密かな思いを抱く相手でもあった。絶作である「女」の顔は黒光に似せてあるという。
   
   和菓子の碌山の隣には、中村屋の羊羹が置かれていた。その中になんと黒光という名のものがあって、また驚いた。気付いてしまったからには、両方を買うしかなく、それをこうして並べてみたわけである。
   黒光は、今でこそその名は巷に響かないが、中村屋の事業的成功の後は、様々な文化的活動や芸術家支援で有名な文化人であった。

  生前の碌山とも親交があった彫刻家で詩人の高村光太郎は、彼の死を早めたのは黒光のせいだとして、好かなかったという。光太郎は碌山の死を悼む詩「荻原守衛」を残しているが、そこに登場する作品の名は「女」とは異なっている。


    粘土の「絶望(ディスペア)」はいつまでも出来ない

 「頭が悪いので碌なものは出来んよ」

 荻原守衛はもう一度いふ

 「寸分も身動き出来んよ。追いつめられたよ」

 四月の夜更けに肺がやぶけた

 新宿中村屋の奥の壁をまっ赤にして荻原守衛は血の魂を一升吐いた

 彫刻家はさうして死んだ……日本の底で