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2026年4月13日月曜日

AIとハサミは使いよう

 AIは道具である。当然だ。つまり、車やカメラやペンなどと同じである。ただ、AI以外の道具は、それをどう使うのかは全て使う側の人間に委ねられている。AIはそうではない。いや、そうではないように“見える”。わざわざここで書かなくてもいいことだが、歴史上、このように書けるのは現在だけなので書いておく。すなわちそれは、人類は生成AIという道具を手にしたばかりの状態であって、世界中のどこにも、この道具の可能性もしくは影響を真に理解している者はいない。ただ、誰もが感じていることは、この道具は、人類がこれまで手にしてきた道具とは質が異なり、それが使いこなせる者は集団から秀でた者となり得るだろうという予感である。想像だが、人類にとってこれまで、そのような道具はいくつかあった。まず、石器である。そして火の取り扱いである。これらが人類をその他の動物と隔てることを促した道具であることは明らかである。だが、より現在のAIに近い発明は、言語であろう。ただこれは身体そのものを用いているので発明というより特徴というべきものか。ともあれ言語は、発話と記述に分けられるが、初め登場したのは発話であろう。言語によって、我々は世界を区切ることの表出に成功し、それを共有可能な対象物とすることに成功した。現在であっても言語の高度な使い手はすなわち高い知性を持つことと同意であり、言語能力は力の象徴でもある。言語と思考は密接であり、発生の順序は、同一であると私は言いたいけれど、因果論的には、思考がまずあると言われるのであろうか。これはまあ、卵が先か鶏が先かというのと変わらない。ともあれ、両者が歯車として周りだせば、あとは互いに影響しあい、どこまでも事象を細かく、深く、切り分け構築していける。生成AIは、どちらかと言えば、この2つの歯車のうちの思考を担う。このような道具は、つまり身体の外部化としての道具は、これまでなかった。現在の人類が生物史上初めて手にするものである。


さて、道具というのは、使い主の身体能力を超える能力を与える物である。そうでなければ、道具存在の意味がない。一言で言えば“効率が上がる”。人類が手にしている道具は全てそうである。生成AIもそれは同じである。すなわち、思考の効率が上がる。自分だけの思考より、はるかに上回った思考結果を出すことができる。果たしてそれは、自分の思考と言えるのであろうか。だが、このような疑問が出るときは、既存の道具でもそれを問い直してみる必要がある。つまり、定規を使って引いた直線は自分で引いた線だと言えるのか、というものや、ノミやチェーンソーを使って作った木彫作品は自分で作ったと言えるのだろうか、というものだ。人間は道具無しの姿、すなわち裸体ではほとんど機械的に無力である。四季を乗り越えることもできないだろう。つまり、“人間”という存在は、裸体の個体を言うのではない。様々な道具(それは衣服から社会インフラまで全て)と切り離せず、さらにそれらを言語的思考で認識しまとめ上げる意識も含めてのものだ。これをもっと過激に言うなら、人は存在するが人間は存在しないとさえ言えよう。今言ったように、人間は区切られず、人の間にある現象なのであるから。


話を戻すと、生成AIとて、このように見れば、決して真新しい道具ではないことがわかる。ただし、鉛筆の持ち方やカメラの使い方というものより、“意識”の構築反映の結果としての出力に近しいため、使い手側が、その結果を身体的自己能力由来なのか付加的自己能力由来なのか、分からなくなるのである。例えば、絵を描いたことのない人は自分がどれくらいの画力があるか見当も付かない。そこで砂場で指でなぞって描いてみれば、それが自分の画力ということになる。彼に紙と鉛筆を渡してみれば、シャープな線の新しい絵が描かれる。顔を描いていたとして、今度は線が細いから、細部まで描こうとする。そうして砂場の絵とは異なるものができる。これが今や彼の画力である。次に筆と絵の具を渡したらどうだろうか‥。このように、自己能力は道具によって付加的に変化する。絵の具で楽しく色まで付けていた彼から、道具を返してもらって、再び砂場に戻したらどうか。初めとは違う絵にはなるだろうが、鉛筆と絵の具と紙がある時と同じ能力は出しようがない。同じことは、料理でも言える。何もない平原で素手で料理せよとなったら、普段食べている物を作ろうとは思えないだろう。このように、自己能力は身体的なものと、道具ありきの付加的なものがあるのが我々人間である。なお、現代アスリートは身体だけだから身体的自己能力なのかというと、道具によって鍛えているので、やはりそうではない。


AIは、その出力結果が、自分の考えたものではない可能性があるにも関わらず、自分が命令したことで、あたかも自分が考えたのだと思い込めてしまうところに、危険性がある。例えば、紙を切ろうと思っているとして、いつもそれを指でちぎり切っていたとしよう。そこにハサミを手にすると、切ろうと思ったところをこれまでになく素早くかつ綺麗に切れる。これを一回でも体験してしまったら、2度と紙を手でちぎり切ろうとは思わなくなるだろう。こうして、もうハサミ無しでは紙は切れない、ということになる。ところが、これは切る効率化を、速さと綺麗さという価値観に集約させたということであって、切る行為のその他の可能性がハサミの登場によってかき消された(覆い隠された)ということにも気付かなければならない。ここでのハサミの例えは行為が単純だから実質的問題は大きくないが、これが言語意識というものになると、潜在的な可能性は膨大であろう。その膨大な可能性が、AIという切れるハサミによって、“早く綺麗に”成されるため、受け取る側つまりユーザーは、もうそれ以外の答えなど必要ないのではないかと信じてしまうのである。こうして、人類が紙を切るときハサミを欲するように、物事を考えるときAIを欲するようなることは、実は潜在的な膨大な可能性をみすみす捨てているということになる。ハサミで切った紙の切れ線が世界どこでも同じように、AIで出される思考の答えは、全世界的に同じものへと収束するだろう。それは、今ここで生きる固有の1人の思考と言えるだろうか。今再び考えるべき古いことわざに、「ナントカとハサミは使いよう」がある。次のようにバージョンアップしよう。

「AIとハサミは使いよう」。

2026/04/11(土)

2015年2月24日火曜日

人をまとう魚

 人体は、初めからこの形で地球上に現れたのではない。少なくとも科学的にはそう断言しても良いほどに条件が揃っているということだ。だから、遠い過去に遡るとその地球上にはどこにも人間の形は存在しなくなる。例えば7千万年前の恐竜時代には、まだ人間の形は存在していない。その頃の「やがて人間へと続く動物」はネズミや猫ほどの小さな4つ脚の哺乳類だったそうだ。このようにしてどんどんと過去へ遡れば、やがて体毛も消え、体温を作ることもせず、徐々に水辺へ近づき、仕舞いには水中へと入っていく。つまり、私たちはかつては魚の形だったのだ。進化の順で言い直せば、「魚の形が、人の形になった」のである。このように、進化的な長い時間を経てある生物の形が形成されることを系統発生とも言う。一方で、私たち個人は、あたりまえだが、母親から生まれる。それも魚の形で生まれてくることはない。だれでも、初めから人の形で世に出てくるわけである。だれでも生まれたときから人の形だから、私たちは生物史的にもずっと人間の形をしていただろうと漠然と思いやすい。だから、神話や宗教で語られる人類は初めから人間の形をしている。けれども、よくよく考えれば、生まれ出る前から母親の胎内ではすでに存在していた。その期間(およそ10ヶ月)の初めの2ヶ月は胚子期と呼ばれ、このころに体の器官が形成される。つまり、人の形がゼロから(いや、1個の細胞から)作り出されるのはこの2ヶ月間のお話ということである。この間の胚子の形の変化を見ると、細胞分裂からそのままスムーズに人の形ができて”いかない”ことに驚く。初めは尻尾が長く、顔の脇にはいくつもの溝がある。それはまるで数条のエラの切れ目を持つサメのようだ。やがて、腕と脚ははえ出てくる。その先にはヒレがある。そう、魚のヒレ。このヒレの水かき膜が消えていき、残された骨周りが指となる。このように、人の形の出来方はまるで魚から人への進化のようだ。このような人の形が形成されることを個体発生と言う。私たちひとりひとりも、はじめから人の形としてできるのではなく、まず魚をつくって、そこから人の形へと変形させているのだ。つまり、系統発生的に見ても、個体発生的に見ても私たちの体は「魚の変形体」というようなものだ。もしくは、「乾いた陸上生活に適応した魚のなれの果て」とでも言おうか。

 魚の変形体である私たち。自らの形に魚の形の断片でも見出すことができるだろうか。そう思って見回してみれば、共通する構造はいくつか見出せる。目がふたつに口がある頭部。背骨や肋骨も共通している。しかし共通しない部分も多い。魚に耳は?まぶたがないぞ。首がないな。等々。もちろん、両者で最大の違いは呼吸器(エラと肺)だろうが、構造的に見えてくる違いが多い。そしてそのほとんどが、魚が上陸したことで身に付けざるを得なかった機能である。つまり、「後から加えた」ものだ。ここで、非常に興味深いのは、生物はどうやら初めから持っているものでなんとかやりくりしたいと思うものらしく、新しいものが必要となるとそれをゼロから作り上げることはせずに、もともと体にあるものを改変していく傾向があるということだ。だから上にも書いたように、私たちの腕や脚は上陸してお役ご免になったヒレの再利用であるし、空気の通り道である気管周りも、使わなくなったエラをリサイクルして作り上げている。

 この時、ヒレから作り出された腕と脚は、水中時代とは比べものにならないほど大きな役割を担わされることになった。すなわち、重力に逆らって体を運ぶ、ということだ。その為に、この4本の突起の根本には筋が広く発達することになる。しかしそれらの筋は、もともとの体の中へ侵入することはない。体の表面に広くその場を求めた。それはまるで、地中に根を張ることができない大木が、その根を地中浅くしかし広く張るかの如くである。その結果、私たちの体の形を作り上げている筋肉は、層構造をなすことになる。それもだから、深層に魚時代の筋層を、浅層に上陸してからの筋層を重ねたかたちとなっている。

 外から見ただけでは、見慣れた「人の形」だけが目につくが、その形は長い歴史の基にたどりついたものだ。そしてそれは、この形を目指してたどり着いたものではない。環境の変化に対峙したとき、その場その場で、手元にあった体を改変して何とか乗り越えてきた”結果のかたち”である。生物の形はだから、それが続く限り、いつでもが「暫定的完成形」ということなろう。

 ところで、人体において、表層にまとっている「人の形」を取り去ると、そこには古い「魚の形」が立ち現れる。それは、3億5千万年前から隠してきた太古の姿、私たちのひとつの起源的な姿にも見えて興味深いのである。



2010年7月21日水曜日

頭と頚

芸術における人体表現で、肖像というジャンルがある。肖像において一義的に重要なのはそれが誰かということだ。どこの誰でもない肖像というのは元来存在しえない。しかし、芸術家はそこに自身が持つ芸術的信念や技術を反映させることで、それが誰であるかは一義的には重要ではない、芸術作品として独立しうる物にしようとする。そのように、芸術的な側面を強く押し出されたものは、肖像と呼ぶよりも頭像や首像(しゅぞう)などと呼ぶ方がしっくりくる。
首と頭部という体の一部を切り取って表現しても成り立つというところに、我々にとって顔がいかに重要なのかが分かる。

首像において、頚は重要な部位である。頭と体をつなぐこの部位は、明確なランドマークがないから簡単なようで難しい。ここをないがしろにして作られた作品は頭の所在がうわついていて見るに堪えない。
生体としても、頚は重要な部位だ。頚が固定されてしまえば日常の動作が著しく阻害されるし、かといって、可動性の為に細くなっている故に弱く、様々な外傷を負いやすい。この細い幹の中には脳と体を繋ぐ重要な神経も通っているし、脳へ血液を運ぶ重要な血管も浅い部分を通らざるを得ない、言わば急所である。
頚は、私たちが水中から陸へ上がってから獲得した部位だ。だから頚がある魚はいない。頚を獲得したことで、いちいち体全てを動かさなくとも、特殊感覚器がまとまっている頭だけを動かせるようになった。
この頚が、魚で見るとどこにあたるのか。腕は胸びれと対応するから、頚は魚のエラと胸びれの間が細く伸びた感じである。この時エラは上下に分けられてしまったから、今でもエラの名残が、頚の位置と心臓の上あたりの両方にある。魚を基準にして頚と体を区分けするなら、心臓の乗っている横隔膜あたりまでが頭だから、心臓はアゴ下にあって腕は頭から生えているような感じになる。

芸術では、胸像という区分けもある。字の如く、頭から胸あたりまでを表現するのだが、上記の区分けで見れば、これはまだ頭の範囲であるから、魚から見ればこれも頭像となるのだろう。

2010年7月6日火曜日

野生の美 内蔵

存在の調和が取れているものは、概して美しさを持っている。 そして、生き物のそれは「野生」ほど強く、飼い慣らされたものは(人為的な美しさはあれども)、それが弱い。
実際、家畜化された動物は、保護によって不要になった機能が退化して、そこに醜さが見られる。分かりやすい部分では、歯並び。野生動物の歯並びは非常に美しく、また、虫歯などもない。これが、家畜やペットのものになると、ガタガタで歯石だらけとなり、虫歯や歯槽膿漏にもなる。この症状は人間と同じだ。人間は、社会化という形で自己家畜化を進めたと言われるが、骨格の変成からもそれが伺えるのである。
他に、頭蓋底の形状なども人類のそれは野生動物と比べると、落ち着きがない。ガタガタしている。
目立たないけれど、腕や脚などの運動器にも同じような変化はあるのだろう。要するに、これら変化する部分は、体が外世界と関連しある部位なのである。体は本来、厳しい外世界に対応するように長い進化の時間をかけて作られた。それとバランスが取れるようになっている。しかし、家畜化により本来の性能が必要とされなくなりバランスが崩れ、それが様々な障害や「醜さ」として見えてくるわけである。言わば、300キロで走り続けるように作られたレーシング・カーを街乗り車として使うような強引さがそこにはある。

これが、内蔵になると見え方が変わる。内蔵、それも消化器は、食物の変化という形で外世界の影響を受けるが、それは運動器と比べるならわずかなものと言える。それに、食物が消化され栄養が吸収される過程そのものはなんら変更はない。その意味で、内蔵は家畜化されるか否かでの変化が少ない部分であろう。また、腸など一定の形態を持たないせいもあるだろうが、”内臓は家畜よりも野生のほうが美しい ”とは言えない。内臓はまだ野生を保っていると言えるのかも知れない。

内臓には調和による美を見いだすことが出来る。生きている状態での腹腔内が仮に透視できたとしたら、色鮮やかで張りがあって綺麗にまとまり、一定の調和をもって活動しているさまが見えるだろう。 そこには、外見からだけでは決して知り得ない、もう一つの色彩と量感の美があるのだ。私たち皆が持っている、野生の美である。

2010年6月29日火曜日

美の調和

優れた芸術は、押し並べて調和を保持している。それは色彩であったり、音階であったり、陰影であったりと表現領域によって様々であるが、必ず調和をもって成り立っているものだ。これを、私たち鑑賞者は言葉に出来ない心地よさとして認知し、それを「すばらしい」と表現する。つまり、作家でなくとも調和の心地よさを知っている。それを良しとする能力をそもそも持っているのである。
それは、生命体として今まで生きながらえてこられた経験がそのような感情としてわき上がらせるのかも知れない。ある生命体はそれを取り囲んでいる環境との調和が保たれていなければ淘汰されてしまうからだ。生命誕生から35億年の長きにわたり続いてきた生命の流れ。これまで、無数の生命が調和を保てずに絶滅してきた。いま生存している生命体は、その意味で調和のバランスを保てている成功者であり、長く存在を許された「命のヒット作」とも言えるだろう。
調和を美とする私たちは、そうしながら、今まで生きながらえてこられた自分たちの潜在能力を讃えているのかもしれない。

2010年6月24日木曜日

物を見て触る

私たちは、感覚を持っている。生まれたときから当たり前のものとして機能している感覚。この感覚が無ければ私たちは自分の周りの事象を一切知ることができない。そのことを思うと、感覚の意味合いが変わる。
さて、解剖学では、感覚を幾つかに分けて考える。皮膚で感じる感覚は一般感覚。頭にある目、鼻、耳、舌で感じるものを特殊感覚と大きく分ける。また、それが意識下に上るのかどうかで、体性と臓性と区別もする。

頭部に集中する特殊感覚、目鼻耳を獲得したという進化上の事実は全く驚愕に値する。このうちどれか1つが欠けると、日常生活はとたんに困難さが増す。これらは、受容器として分かれているが、脳においてはそれらの情報は相互に補完し合い、統合された外部情報として扱われる。だから、音で見え方が変わったり、その逆もしかり。料理では、盛り合わせと香り付けは重要である。

目鼻耳のそれぞれの依存度は動物によって違う。人間は目の依存度が大きい。左右の目が仲良く並んで正面を向き、立体視を可能にしている。色盲が多いほ乳類において例外的に色覚を持っている。
この強力なツールと、自由に物をつかめる器用な手。この名コンビが人類を地球上で秀でた種に押し上げてくれた立役者だ。見て、触れる。見るだけでは足りない。触れるだけでも足りない。両者の情報の結合が要る。その蓄積が、物作りの経験となり、道具を作り操るという人類の特徴たる性質を構築した。

情報化が急速かつ高度に進んだ今、私たちは情報の利便性を日々”体感”している。情報を阻害するのは物質である。情報をより円滑に統合するには物質性を排除していかざるを得ない。iPhoneは物質的形状としてはもはやモノリスとなった。
情報至上主義的な流れは、芸術にも当然押し寄せている。もともとアート寄りの人間は新しい事象に敏感だから、そうなるのも分かる。とは言え、表現媒体としては以前からある素材(画布に油絵、木彫などなど)を用いていたりするから、どっちつかずの感があふれている。要するに、作家も物質と情報の間を揺れているのだろう。

情報を重視すると、物質を見なくなる。人を表現したいとき、情報としての人で十分ならば、モデルを立たせて観察し造形する必要などない。壁に「人」と書けばよい。
今の芸術、それもより物質と関連する彫刻でこの問題は静かにかつ深く問題になっていると感じる。人を作る作家が、人の形状や構造に興味を示さない。「雰囲気・気配」さえ出ればそれで良いということだろう。

美術解剖学というものがある。間口はとても広い。それは、人の見方を示している。人を見るには、人は物だという事にまず気付く必要があるだろう。そうして、目新しい物を観察するように見ていくと、広い間口の一歩奥に、別の扉があることに気付く。そうして奥へ奥へと進むにつれ人体と芸術のただならぬ面白さの連関に飲まれる。ここからが、人体、芸術、彫刻を追うことの快楽の真の入り口なのだと思っている。そしてそこが美術解剖学の本当の入り口でもあるのだろう。
そして、奥へ進む手段として外せないのが、見ることと触ることなのである。人間を「人体」として片付けない。構造を「解剖学」で終わらせない。彫刻を「象徴」にしない。そっちへ安易に流れないために、自らの目で見て手で触れる。

芸術家の仕事は、情報の整理ではなくて情報の翻訳ではないだろうか。

2010年5月19日水曜日

体に残る「節(ふし)」

節のある動物と聞くと、何を思い出すだろう。ある人は昆虫かもしれない。芋虫かもしれない。ミミズかもしれない。それは、体の頭からおしりへ向かって体を区切っている横線として描かれる。
それら節のある動物を気味悪く感じる人は多い。

しかし、私たち自身の体も「節」がある。そう言われてもピンとは来ない。自分の裸を鏡で見ても、どこも区切られておらず、一枚の皮膚で全身が覆われている。実はそれは、体の中にある。背骨をイメージして頂けるとピンと来るだろうか。背骨は椎骨と呼ばれる骨が縦に連なり、個々の椎骨の間に軟らかい組織が挟み込んでいる。ここだけを見たら、まるで節足動物だ。節足動物はこの節の内側に筋肉を詰め込んでいる。私たちはこの節の外側に筋肉をまとった。彼らと私たちは表裏を分けた関係だ。

そう言っても、体に横線のある芋虫やミミズのようではないと思われるだろうが、運動の為に特殊化した腕と脚を想像で取り除いてみると、残された胴体には横線があるではないか。それは、脂肪が少なくてほどよく鍛えた腹部に見られる。腹筋の横割れ線こそ、芋虫の横線と同じだと言うと悪趣味だろうか。とは言え、背骨を初め、胴体の背中の深い筋肉や肋骨の連なり、腹筋の割れなどは体節と言って、ボディプランの古いデザインがそのまま継承されているのは事実だ。

では、頭はどうだろう。頭に横線がはいってグネグネ蠢かれたらさぞホラーだろう。実際、外見で頭部に分節性を見いだすことは不可能だろう。しかしながら、中に収まる大事な器官「脳」には、分節性をにおわす構造が見て取れる。進化的に見ても、体が出来て頭が出来るのだから、体が持っている分節性を改変させて頭を作ったと考えることもできる。
頭を構成する様々な器官は、かつて魚のエラであったものを作り替えている。エラは数対あったわけだが、それも分節性を物語っていると言える。

お尻の先には、3つか4つの尾っぽの骨が残っている。骨と骨の間に横線を描いて。
頭の先からお尻の先まで、私たちは体の中にフシを隠し持っている。

2010年4月15日木曜日

解剖実習

私がお世話になっている学校では、学部生の解剖実習が始まっている。医学を志す生徒たちが初めて人体の内部に直接触れる貴重な授業である。その主要な意義としては、人体の内部構造の立体的、系統的な認識を深めるということがあるが、それと同等かそれ以上の本質的な意義として、人が人を切って勉強するという特殊な経験を通した、倫理的教育の側面がある。
我が国での、解剖実習で用いられるご遺体は、ほぼ全てが献体でまかなわれている。その字(”献血”のように)が表すように、それらは献体者(生前では篤志家と言う)の遺志に寄っているのである。つまり、生前に「私が死んだら、体を医学教育のために使って下さい」と意思表明をされていた方々の亡骸である。そのことだけでも尊いが、彼らにも親族や知人などがおられる訳だから、当人が亡くなった後では、その周囲の身近な方々の理解をも巻き込んでいるのである。また、この一連の行為が滞りなくおこなわれるようになった歴史的背景も、誰かお偉いさんが突然作り上げたものなどではなくて、篤志家主体として興ったものであり、まさに献体制度そのものが、医学と民間との間の絆として生まれた尊いものと言える。
解剖実習に先立っては、上記のような経緯も説明され、どこかから拾ってきた類のものとは全く違うということが強調される。或物事の価値とは文脈から理解されるものであるから、このような導入は非常に重要である。

そして、上記の倫理的側面の他に、学問としての解剖学の歴史も、先立つ講義で説明される。医学部の講義や実習としての解剖学は教育的側面が大きいが、それは解剖学という学問に根ざしている。そして、授業とはいえ体表から深部まで解剖し、見るという行為の方法論はその歴史の上に乗っているとも言えるのである。実際、そこまで意識は出来ない(特に学生の時分は)かもしれないが、解剖学の存在を語るならば外すことの出来ない事柄であることは間違いない。

体の構造を見るときに、その部位がどのようにして出来てきたのかという見方をすることがある。個体発生(つまり成長過程)や系統発生(進化過程)を部分的に取り込むことで完成している体では理解しにくい構造が理解しやすくなるのだ。

体のつくりも、解剖学という学問も、解剖実習という授業も、ポンとただそれを置いただけでは真意は見えにくいが、それがそこに在るまでの流れを意識することで、大切なものが明快になる。


解剖学を担当する講師陣は、普段はそれぞれに研究領域を持っているのが、この実習期間になると、一堂に会して同じ方向を向く。それは、紛れもなく「より良い解剖学実習」という方向であって、その熱意と労力に多大なものを感じる。実習期間は3ヶ月に及び、ほぼ毎日午後から夕方、遅い時は夜まで続く。その間、教授以下講師陣は生徒に付きっきりである。それでも以前はもっと時間を掛けていたものが、全体の教育内容が増えるに従って、実習期間は短くなる傾向にあるそうだ。そういった問題は、どこの大学にもあるのだという。

ご遺体に初めて触れる直前の学生たちの顔は、緊張と好奇心とで高揚して見えた。

2010年2月4日木曜日

元祖あひる口 オルメカ

若い女性の「あひる口」が流行ってしばらく経つ。と言っても、いつ、誰から、どういう経緯で流行りだしたのかは知らない。
あひる口とは、字の如くで、あひるのクチバシを正面から見たような「口角が上がって、上唇がわずかに突出して気持ち上を向いている」ものを指す。
これをかわいいと言うわけだが、それも当然である。なぜなら、この口の形は、乳幼児の唇の形と同じだからだ。私たちは赤ちゃんの事をかわいいと思う。それは、かわいいと思うように脳がなっているとも言い換えられる。本能的に保護したいと思ってしまう。その赤ちゃんは皆、あひる口をしている。これは、母親の乳首に吸い付くのに適した形なのだ。

そもそも、「くちびる」自体が乳を吸うために獲得された構造である。故に唇を持つ動物を「哺乳類」(乳を口にふくむ・乳で育てる類の意)と呼ぶ。乳を吸う必要のない動物たちは唇を持っておらず、皆、口裂けである。私たちは、乳に吸い付くための道具を二次利用して表情の足しにしたり、発声の役にも立てたりしている。ものを食べるにも唇で口を閉じなければ大変である。歯医者で麻酔をした後に水を含んだことがあれば分かるだろう。
このような進化上後付けの構造を証明するように、アゴを上下させる神経と唇を動かす神経は別系統である。

漫画が発展している日本で、大きな需要を抱えている領域が「美少女漫画」だ。そこに描かれる少女は、購買層による「かわいさ」の厳しい淘汰を経て生き残った者たちと言える。その顔を見ると、丸みがある大きな頭部に、巨大な眼、目立たない鼻(正確には鼻翼が張っていない)、小さな口。これらは紛れもなく、幼児のそれだ。
このように、男女を問わず「かわいい」要素を追い求めた結果に幼児性へとたどり着く事は興味深い。

幼児とあひる口。この要素を表現様式として採用していた文化が過去にもあった。日本の裏側メキシコにおいて、今から3000年前の古代文明オルメカである。オルメカは、古代アメリカ大陸における最初の巨大文明とされている。オルメカを初めとするメキシコ古代文明は石像文化であったため、さまざまな遺跡や発掘物が見つかっている。そのオルメカ文化を代表するような石彫表現にジャガー神というものがある。人間とジャガーのハーフであり信仰の対象だったが、それらの幾つかは幼児の姿で表されている。その口を見ると、典型的な乳幼児の口が表現されているのがわかる。あひる口である。開かれた口内にはまだ歯が生える前の歯茎が見えている。様式化しつつも写実的要素を残す印象深い造形のジャガー神は後に続くテオティワカンではより図式化されたトラロック神へと変貌し、後のアステカ文明の神々へも継承され、1521年にメキシコによって滅ぼされるまで生き続けた。

あひる口とそれを含む幼児性への欲求。本能的に引きつけられてしまうその容姿に、古代オルメカの人々は神を割り当てた。そして、現代の私たちはそのかわいらしさを自らの魅力を引き立てる手段として用いている。

ちなみに、南米の彼ら”インディオ”は氷河期の終わりにアジアから渡っていった人々である可能性があり、そうならば私たちと遠くない親戚とも言える。マヤの壁画に描かれる人物表現に時折日本と共通する何かを感じるのは私だけだろうか。

2010年1月7日木曜日

マッチョ 身体依存時代の思い出


ギリシア時代に作られた人物像は、皆みごとな肉体美を晒している。 理想的な肉体美についても研究されていたそうだから、あの彫刻たちはその解答という意味合いもあるのだろう。その美の基準は、ローマへ引き継がれて、ルネサンスで再発見され現代へと脈々と続いている。アジアでは、それとは違う価値観があったが、近代以降の日本では西洋の肉体美の基準が取り込まれ、今では1つの方向性として当然のように認知されている。

西洋のそれを一言で言えば、男はマッチョである。女もがっしりした骨格に厚い皮下脂肪をまとった表現が多い。筋骨隆々が良いという価値観は美術だけに限ったことではないのは、欧米のメディアに出てくる男性たちを見れば分かる。
なぜ、マッチョが良いのか。最も健康な状態で、強さを象徴しているから。きっとそうだろう。人が作り出す物には理想が具現化されている。

筋肉や骨格を含め、身体は基本的に必要以上の努力をしようとしない。エネルギーを消費したくない、とも言い換えられる。動かなくても生きていけるのなら、その方がいい。実際、そういう進化の道を選んだ生物もいる。
だが、私たちは自らが運動して生を繋げる道を選んだ者たちの末裔である。体も動き続ける事を前提にデザインされている。だから、私たち「動物」にとって、動けなくなることは即ち死を意味していた。人類は社会を生み出したことで、それを克服しているが、単体で放って置かれればやはり生きてはいけない。

筋骨格系は、外部からの負荷がかかると、それに応じて強度が上がる。何も運動しなくても、重力という負荷は常にかかっている。宇宙飛行士は無重力環境に居るために、重力負荷を受けず、その結果筋骨格系が短期間に著しく衰弱してしまう。反対に、肉体を酷使しなければならない環境で生活している民族の肉体は、どれも一様にたくましい。
肉体(筋骨格系)は、そもそも、動くための道具や装置に近いものとも言える。 「たくましさ」とは生活の過酷さから生まれ、後から発見された概念である。社会が安定した頃にそれは見つけ出され、やがて様式になった。もはや、生活の過酷さとは関係なく、「マッチョがいい」となったのだ。

人類は、道具の創造が大きな特徴とされる。実際、道具とは身体の延長であり、道具を充実させることで、生物的な身体は無性格で良くなった。人類の進化の特徴として幼形成熟(ネオテニー)が上げられることがあるが、道具の使用との関連性がそこには在るかもしれない。著しい身体的特性を持つ様々な他の動物(ブタやオオカミやクジラなど)も、その胎児期においては皆似通っている。もし、身体的特性が不必要ならば、それらが発現する以前の状態を維持する形で成長するほうが無駄がない。

道具の発明で、身体的特性がいらなくなった人体の「かたち」。文明の発達と共にさらにその強度も必要なくなり、それ(マッチョ)は鑑賞の対象へと変化した。
毎年、夏が近づくと男性陣は体を鍛えようとムズムズしだす。大人より自然状態に近い子供時代(小中学校)では、知識系男子よりも身体能力系男子が圧倒的に女子にもてる。

高度な身体能力が必要ではなくなった現代においてもマッチョが求められることの根底には、それによって守られてきた遠い過去(身体依存時代)へ記憶の回帰があるのかもしれない。

2009年12月29日火曜日

非言語コミュニケーション

言語は人類を特徴付ける能力のひとつと言える。言語により森羅万象は概念化され、事象のインタラクションを正確に行えるようになった。言語化は即ち、内外世界の標本化(デジタル化)なのだ。その戦略によって人類は、地球上での現在の地位を得た。武器や火の使用など物質的道具の使用が人類たらしめる要因として良く上げられるが、それらが真の力を発揮するのは個から個への伝達が可能になってからであることを思い返せば、その最たるものは言語の使用を置いて他にない。人類の歴史において、人々の上位に立った者たちは、皆言葉を巧みに操ったのだろう。言語による恩恵を「身をもって」知っている私たちは、今でも言葉巧みな者ほど「偉い」、「立派」と盲目的に思いがちである。

芸術が本質的には、言語を必要としていないのは明確だ。そこからも芸術の起源が古いことが分かる。芸術が表現するものは、従って言語によって明確に定義分けできるような細かな具体性を帯びたものではなく、もっと始原的な感情に寄り添ったものになる。喜びや悲しみや怒り、恐怖や愛などだ。これらは、民族を超えて人類という動物に共通の感情である。極東の文化も全く違う日本人が、西洋のキリスト教美術に感動できるのは、そういう始原的感覚に訴えかけているからだろう。細かな物語の背景は、正直どうでもよいのだ。

彫刻などは、そういった感情として分類できるものより、さらに起源的な感情にさえ訴えかけるものがあるのだと思う。それは、「物の存在」に対する感覚である。人類は道具を使うことで他に秀でた。初めのそれは石や木の棒や骨の棒などだったろう。それら「物」を握りしめることで、今までは倒せなかったり捕れなかった獲物を得ることが可能になり、競合する他の集団を制圧することが可能になった。手元の「物」はそうして、単なる「物」以上の意味を持ち始めたのだ。
手にすることが出来ないよう巨大な物に対する畏敬の念は、現在でも山岳信奉など様々な形で残っている。
こうして育まれた物に対する愛着的感覚に、様々な感情表現が結びついて彫刻表現が確立されてきたのだと思う。彫刻は単に絵画を立体にしてみたというような物ではなく、起源的にも、訴えかける内容としても、絵画とは大きく違うものである。

しかし、最近では、彫刻の持つ本来の要素、即ち量感や存在感からの脱却を計っているような表現も増えている。これは、加工技術の高度化とも切り離せないが、それよりも、作家がそれらを「古い」と考え始めているからなのかもしれない。だが、それは彫刻による彫刻の否定になり、本質的に意味がないようにも思う。絵に奥行きが欲しいからと、キャンバスを”物理的に”立体的にするようなナンセンスさがそこにはある。

芸術表現には時代性がある。それは移ろいやすい文化に引っ張られているのだから当然である。しかし、私たちの感情や感覚はそうではない。肉体的構造はクロマニヨン人から変化していない。それは、現代の私たちも彼らの始原的感情は理解出来るであろうことを意味している。

今の文化に受ける表現を「今、間違いなく」伝えようとすると、それは必然的に言語化されるようになる。現代美術の多くが言語化が可能、もしくは言語化しなければ理解不能なのはそのような理由がある。抽象芸術はそうして、言語化へと進まざるを得ない。それは、本来の芸術からの離脱であり、行き着く先は「言葉」である。そして、美術の目立つ流れはそちらを向いている。
言語により現在の地位を得た私たちが、言語化(即ち、抽象化、標本化)を好み、言葉に安心し、それを求めるのを否定することは出来ない。だが、私たちの行動規範は、言葉の奥に潜んで見えない始原的感覚から起こっているのもまた、隠しようのない事実である。

言葉は新しい。だから、嘘がつける。悲しくても、「うれしい」と言えてしまう。だが、悲しい感情をごまかすことは決して出来ない。感情表現は各国語が存在するが、感情そのものは人類共通である。
芸術が本来、表してきたのは、この感情のほうだ。それは人類が人類である限りは”文化、時代を超えて”引き継がれてゆくものである。

言葉で言えるものならば、言葉で言えば良い。
言い表せないものに、芸術が必要なのだ。

2009年8月19日水曜日

言葉という道具 言語優位性

私たちの社会では、言葉がきちんと使える事が、その立場において非常に重要な要素となっている。立場と状況に応じて、適した言葉を選んで使い、意思を明確に伝えられるかどうかで、その人の知性と社会的地位が計られる。
海外に旅行に行くと、言葉が使えないが為だけに、ひどく自分が劣った人間のように思えるものだし、逆に、拙い日本語を使っている外国人を見ると、何だか自分より劣っているように感じてしまう。
もちろん、人間の知性などは、言語だけで計れるものではないのに、なぜ、そう感じてしまうのか。そこには、人類にとっての言語優位性という性質が見て取れる。

言語を扱う動物は人間しかいない。人類がいつ言語を使うようになったのかは正確には知る由もないが、その取得過程には、道具の使用と関連性があるように思う。
言葉を持たない動物も、鳴き声などで相手に意思を疎通するが、それは、発声した時のみの単純な伝達に過ぎず、「ここ」、「向こう」、「逃げろ」、などのように、掛け声のようなものだ。
やがて、言語取得初期の人類は、「お前、あそこ、私、ここ、追う、お前、出る、私、お前、捉える」という感じで、増えた語彙をいくつも重ね始め、間を埋めるように、文法が出来ていったのだろう。これは、例えば、綿密に狩りの計画などを立てることを可能にした。協力し合って狩りをする動物は、オオカミなど人類以外にもいるが、彼らのそれは進化によって身につけた固定されたものであるのに対して、言語が可能にした共同作業はどのようにでも変更をすることが出来る点で、本質的に全く違うものだと言う事が出来る。
この、進化的に身につけたものではなく様々に変更が可能であるというのは、人類が身につけた「道具」と同じなのだ。その意味で、言語は道具であり、その取得時期は道具の使用時期と近い可能性が考えられるのではないか。

実際の道具と言語では、物質と概念という大きな違いがある。言語は形を持たないため、行動や思想など形のないものも表す事が出来る。
しかし、それを的確に操るためには、意識(脳)が明晰である必要が有る。言葉が物事に呼び名を付ける事で明確化し、それによって、思考が明晰になっていった。私たちは、物事を考える時に言語を必要とする。
こういった理由から、言語を高度に操れる人は意識が明晰であると判断する事が出来る。また、どんな動物も固有の身体的能力を持っているが、人類にとってのそれは、高度な意識(脳)の表出である道具とその一種である言語であり、それが優れている者が集団の長に付く事が出来るのは各動物種におけるヒエラルキー構造と何ら違いが無い。
つまり、私たちが、相手を言葉遣いで判断するのは、言語を持つ人類としての本能のようなものなのだ。的確な言語は、作戦を正確に伝達させることで狩り(または、農耕など)を成功に導き、集団を保護する。そうやってきた記憶が私たちに刻み込まれているのではないだろうか。

人類とマトリックス 宇宙への進出

マトリックスという映画があった。主人公が生活している世界は全てコンピューターが作り出した偽物だったという話しだが、そこでは、主人公のいる「偽の世界」のことをマトリックスと指している。日本語では、基盤とか母岩という意味だが、全体を取り囲むものというニュアンスがある。

さて、私たちを含む全ての存在は、それを取り囲むマトリックスから独立して存在することは出来ない。しかし、”動き回れる”動物である私たちは、環境から違う環境へ移動できるために、そのことを忘れがちだ。いや、むしろマトリックスとは関係なく存在出来ると思っている人のほうが多いかもしれない(というか、そんなことは意識もしない)。その点は、”動けない”植物たちのほうが、一見、肝に座っている。なぜ、「一見」かと言えば、植物の多様性を見る限り、彼らも動物とは違う方法で「動き」、環境への適応を計っていると言えるからだ。

私たち人類は、進化を辿れば、かつて水中の生き物だった。そう教育されなければ、全く信じられないような話しだが、実際、私たちの体内には「魚」だったころの名残が各所に残っている。いや、むしろ「魚の変形版」であると言っていいほどなのだ。

私たちが「魚」だったころ、マトリックスは海水だった。しかしやがて、勇気ある者が新天地である陸を目指した。そのとき彼らは、マトリックスである海水を手放す事はしなかった。いや、出来なかった。それを体内に取り込んで、陸に上がったのである。それが体液だ。
そのころの体の作りもそのままに、ただそれを改変することで使い回して来た。エラはあごに。ヒレを手足に。かつて水中で物を見ていた眼は今でも濡らさなければ使えない。水の匂いを嗅いでいた鼻も濡らしたままだ。今や、空気の振動を音として聞いている耳だが、その奥ではわざわざ液体振動に変換しているのだ。

かつてのマトリックスを体内に取り込み、陸上に進出した私たちの祖先。その後、「道具を作り、使う」という能力を得た人類は、肉体的な改変を止めた。進化という時間とエネルギーの膨大なコストを「発明」によって補うことにしたのだ。

人類は、地上の生物として、次のステージを目指している。宇宙への進出だ。そこには、今までの私たちを取り囲んでいたマトリックスが存在しない。しかし、進化という身体の改変を待つ事はしない。宇宙服という道具を身にまとい、その中に、地球上のマトリックスを閉じ込めた。
この部分が、生物が今まで行って来た進化との大きな違いだ。

道具による肉体の延長。宇宙基地という人工的なマトリックス。今、人類が宇宙進出にあたって行っている行為は、進出エリアにマトリックスを広げていくという作業だ。これは、今までの進化のやり方と全く逆を行く新しい概念と言える。
しかし、進出エリアの全ての場所にマトリックスを作らなければならないこの方法は、広いエリアへの展開には不利である。この部分で、今後人類はどういう方法を選択するのか。興味どころではある。

体の内側にマトリックスを取り込んだ今までのやり方。体の外側にマトリックスをまとう新しいやり方。
両者の折衷案がやがて登場するのだろうか。

2009年8月6日木曜日

人類進化の方向性 はだかの由来

私たちは、初めからこの形で存在していたのではない。私たちではないものから進化して、現在ここに至る。
だから、私たちの体は、私たちではなかった時代のものから作られているわけで、それを丹念に見る事で、由来の大体を知る事が出来るのだ。

私たちは、立ち上がり、道具を使うようになった。そして、常に仲間と群れる。これらの特徴は全てが繋がり合っていて、切り離す事が出来ない。
道具を使うのには、高度な知能が必要で、それは大きな脳と関連がある。大きく重い脳を頭のてっぺんに奥には、頭をまっすぐ垂直にしなくては首に負担が掛かってしまう。インドなどの女性が頭頂に物を乗せて運ぶが、人体構造的には理にかなっていると言えるだろう。
道具を使うことで、人間はマルチになった。身体に足りないものは道具で補えば良いのである。だから、私たちは、身体能力では、これといった秀でたものが無い。走りも、泳ぎも、木登りも、攻撃や防御も裸の体では自然界において全くお話しにならないレベルだ。
道具を開発し、使用することで、私たちはどんな動物よりも優位に立つ事に成功した。しかし、人類の皆が全ての道具を開発するのではない。それは非効率というもので、私たちは、大勢で集まって、分業を「発見」し、これを効率的におこなった。

こうして群れることで、私たちは「人類」としての最大のパフォーマンスを発揮することができる。某先生が言う「人という字はお互いに助け合う様を云々・・」は、人類進化的に言っても正しいのだ。

さて、人類の特徴で、とても目立つはずなのに比較的無視されがちなものがある。それは、私たちが「裸」であるということだ。人類以外のほ乳類を見回せば、裸がいかにマイナーな存在かが分かる。にもかかわらず、私たちはその「変」さに無頓着である。
そして、実際、この理由についてはっきりしたことは分かっていない。いったい、いつから裸なのか・・。良く聞く説としてサバンナ説というのがあり、端折って言うなら、発汗に都合が良いからとか、そんな感じだった気がする。対して、ユニークなものとしてアクア説というものがあり、それは、人類が一度水辺に適応したため、体毛を失ったというものだ。もちろんアイデアの発端には、海棲哺乳類が無毛であるというのがあるのだろう。これは、ロマンと意外性に満ちて魅力的ではあるが、殆ど支持されていないのが実情である。

わたしは、そんなに難しくないところに答えがあると思う。今の私たちを見ればよいのだ。今の私たちは、過去の私たちから続いているのだから。
わたしたちは、裸ではあるが、そのままでは外に出ない。人類にとって、裸と衣類は常に一緒にある。これには、大きな利点がある。すなわち、衣類による保温性の調節が可能であるということだ。野生動物には、夏毛と冬毛を生え変わらせるものがいるが、当然それは年に一度のみであり、生息域が変わらないからそれでよいが、逆に言えば、それは生きる範囲を固定してしまっているとも言える。もし、その生息域に住めなくなった時、彼らは生き続ける術を持たない。
だが、私たちは衣類を変える事で、さまざまな状況下で生活することを可能にした。現在の人類が地球のあらゆるところへ生活域を広げる事が出来たのは、裸になり、服を手に入れた事が大きな要因と言えるのだ。

体毛は、そもそも表皮の変化したもので、アルマジロやセンザンコウのように堅くなって体を保護したり、ヤマアラシのように攻撃性を持つようにも進化している。そうでなくとも、生息域に準じて体毛の質は変化しており、それぞれの動物においてなくてはならない特殊能力と言っても良いものだ。つまりそれは、チータの俊足や、ライオンの牙などと並べてもよい、各動物固有の能力である。
そのように見た時、身体の特殊能力を必要としなくなった人類には、速い脚も鋭い牙もいらないように、全身を覆う体毛も必要ではなくなったのだ、と言えるだろう。
牙を誇るライオンは、一生、それに頼って生かざるを得ず、チータは生涯走り続けなければならない。その能力を失えばそれは死を意味する。
同様に、ホッキョクグマはその体毛故に生活域を限られ、裸のゾウは北に上る事はできないのだ。
つまり、身体の特殊能力は、考え方を変えれば、その能力故にその動物を縛り付けていると言える。
人類は、その身体的な縛りをことごとく手放す事で、圧倒的な自由を手に入れたのである。体毛のその一つに過ぎない。

ただ、裸が先か、服が先か。そこは分からない。
道具が先か、脳が先か、の問題と同じように。