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2018年12月29日土曜日

形と音

 結局形なのか、概念なのか。大切なのは。本質は。そう分けてしまうことが、そもそもの間違いの始まりなのか。なぜ分けてしまうのか。分けずに本質に近づけるのか。言葉なき言葉があるのか。言葉なくして思考はあり得るのか。
 なぜ強いのは言葉より形なのか。それは刻まれるからだ。刻まれたものは物質であり、音声言語より長く保たれる。音声言語は音であって現象である。それは発された瞬間で終わる。だから音声はアラートとして用いられた。音声言語はその瞬間を表す生の伝達だ。色や形は違う。これらは光で伝達する。これは永続性を持つ。物と光があれば継続する。動物の体色を見よ。動物の擬態を見よ。彼らは常に大きな音など発さずともその身体でメッセージを発し続ける。それを継続するためにはただ生きれば良いのだ。
 音と形は違う。犬の唸り声と蜂の警戒色は異なる。犬の唸り声は形にはできぬ。彼らはそれを頭の中で反省することなどあるだろうか。我々の黙考とその結果として発せられる言葉は、犬の唸り声とは異なる。それはすでに書き言葉を読んでいるのである。ならばどうして、どうやって我々は言語を獲得したのか。話し声からか、手で音の意味を刻み込んだからか。我々は概念を確固とするためには、それを外部に刻まなければならない。言語は概念を刻んだ傷である。岩に刻んだ影だ。そうであったなら、私たちの意識や思考は頭だけでなく手が重要である。道具を使ったから意識ができたのではない。意識ができたから道具を使ったのでもない。
 我々が持っていた動物的な音、唸りはどこへ行ったのか。そこには未だ言語は割り当てられていない。怖れや怒りや喜びという言葉は感情の看板であり、そのものではない。笑いもそうだ。ワッハッハと書かれるがこれも犬の唸りをウーっと書くのと同じオノマトペに過ぎず感情を書き記しているのではない。
 未だに手段を持たず、しかしそれに形を与え観察し共有したいという人間という動物的な振舞いが芸術活動であろう。芸術はいたずらに逡巡しているのではない。そもそもどこへ向かえば良いのか今でも分からないのである。先が分からずとも進み続けるのは、生物としての本能、いやそれ以前の本質である。言語体系はあたかも完成しているように見えるがそれとて同じである。ただ、刻み、形を与えることで、分節化し、ちょうどパズルのようにまとめて組み上げることが可能になった。しかし、繰り返すが、私たちの内的世界は全てそのようにまとめ上げられない。言語は言語化できるものだけで成り立っているのである。しかし黙考はどうか。そこは言語と非言語が渦巻いている現場である。言語という型に流される前の坩堝(つるぼ)であり、次々と流し込まれ続けている。芸術家は流される前の溶けた鉄に目を向ける人だ。そして型にないものに流し込んで形を与え、視覚化する。その過程だけで言うなら思考と同じである。思考が言語で行われるように、芸術家は非言語で思考する。それは特別なことではないが、忘れがちな事でもある。芸術の種類にも関係する大事なことは、形が作られるには大きく2通りあるということだ。すなわち、何を作るか考えて作る事と、作りながら考えることである。単に人から物が作られるという過程と行為だけを見ると、両者は似ている。しかし、作られる現象としてみるなら両者は全く異なる。我々の身の回りにある人間の為に作られたほとんどの物は前者である。それが洗練され経済に組み込まれたものが商品である。純粋性の高い芸術作品は後者である。それはほとんど常に、人が初めて目にする物である。しかし同時に、いつか見たような気もするはずだ。もしくは、初めてなのにそれが見たかったと思うだろう。そうでなければ、強い嫌悪かも知れない。いずれにせよ、何らかの言葉にならない思いを喚起させるのである。しかしそれは、言語ではない。感情の看板でもない。もし、多く人に共通の思いを抱かせるのであればそれは言語的であり看板に近づいていると言える。そうなったなら、真の芸術家はそこに興味を失うだろう。革命的であろうとする芸術家は、いつも看板を言語化され固定したものを疑うからである。
 とは言え、芸術家が、特に視覚芸術は、現象を視覚化させて落ち着かせようとする点で文筆家に近い。音楽はどうか。音楽は音という現象を扱うが、しかしそこに音階がある。構造がある。音楽もまた言語から生まれている。音楽は現象を視覚化構造化してものを再び音化させているのだ。つまり最終的な表現様式に至る手前までは、画家も彫刻家も音楽家も同じである。鳥のさえずりと音楽はだから、本質的に異なるものである。
 芸術は、人類が未だ視覚化して固定できていないものをそうしようとする行為である。そういう人類の本能的行為のひとつである。それは人類の表現可能性を広げる事であり、意識、思考を拡大させようとする行為なのだ。つまり、芸術とは原始的どころか人類行為においてもっとも先端的行為なのである。その点において哲学とも近く、また、理論物理学などは同様のパッションに科学的根拠が付随したものであろう。
 音が発せられては消えていく性質である以上、構造なき瞬間的なアラートから脱せない。我々の内なる感情が形なく、唐突に、時に爆発的に沸き起こるのと同じである。犬の吠え、猿の叫び、人の悲鳴、爆笑、そう言う情動的に伴う発声は破裂音、爆発音、大きな軋み音と同じなのだ。それどころか、悲鳴の起源はそういった大きく遠くまで聞こえる自然音であっただろう。もちろん過去の動物たちが意識的にそれを真似たのではない。自然界のなかで進化してしてきた動物は音と物理現象との連関に包まれて来たのだからそれは至って普通のことである。
 そうした、発せられては消えていくものに、いつしか人類は形を与えた。それは純粋で大きな驚きと喜びに満ちた初めての経験だっただろう。形が与えられた概念とは、私たち自身とも、もちろん重なっていく。それは神と呼ばれる対象も、死んでいった祖先も、留まり続けるイメージとして生み出していった。何と言っても、視覚的対象は、それが維持される以上は永続的にメッセージを放つのである。土より木が、木より焼いた土が、焼いた土より石が選ばれていく。それは永続性によって選ばれる。むしろそういう選択を通して、永続性の概念がそこに転写されていったのだろう。そうして石は永遠性を手にしたと言っても良い。


 形なのか、概念なのか。両者は同じであった。私たちはどうしても形を信じる。言語という形を信じる。その永続性を信じる。しかしそこに、構造的永続性の起源たる構造なき瞬間性の再生を見なければならない。
 そして、むしろ考えるべきは、形と音であった。

2015年6月1日月曜日

大巻伸嗣『Liminal Air Space-Time』を観て

 5月29日(金)に、六本木の森美術館で開催中の美術展覧会「シンプルなかたち展」を観た。どういうコンセプトの展示内容なのかさえ、実はあまり把握していなかった。同展に出品している作家から招待券を頂いたので、彼の展示作品を鑑賞しに行くだけのような気軽な気持ちで向かったに過ぎなかった。森美術館は六本木ヒルズの中にあるので周辺は賑やかで、さらに森美術館内では、別の展示室で開催中のスターウォーズ展に来ている若い人たちが大勢居た。目的である「シンプルなかたち展」へ入っていく人たちはむしろ少数に見えた。エントランスを過ぎて、一つめの展示室の壁際に大きな打製石器が見えて、「この展覧会はきっと面白い」という予感を得た。直ぐ隣にはル・コルビジェが集めていた小石などが展示されている。それらの中に、ヘンリー・ムーアの小彫刻が置かれている。この時点で、かなり私の興味どころにピントがあった”めったにない”展覧会だと確信した。その後の、多くの展示作品や展示物について感想をひとつひとつ書くことはしないが、展示数も多く、質も高く、かつ分かりやすく、非常に上質な(そして私好みな)展覧会で、非常な満足感を得た。展示物のそれぞれも魅力的で、かつ全体の構成も調和がとれているなかで、特に印象に残った作品が、招待券を頂いた作家の作品だった。

 様々に趣向を凝らした展示作品の中に、招待券を頂いた大巻伸嗣氏の作品もあった。氏の作品はひとつの部屋をつかったものなので、作品が”ある”というより”観る”といったほうが正しいかもしれない。部屋のように区切られた奥の壁は前面のガラス張りで、六本木の50階以上の高さからの景色が見えている。当日は雨天だったので白くかすんでいて、それが白壁の室内と緩やかに連続しまとまりを作り上げていた。きっと晴天だと印象が全く変わるだろう。そのガラスの手前で、巨大な白いメッシュ地のシートが下から風を受けて舞っている。シート下の床には送風口が設けられ、そこから上へ向けて送風されているのだ。送風はコントロールされていて、その風を受けたシートはゆっくりと様々な波を空中で作り続ける。鑑賞者はその展示室の入り口側から、部屋内で舞い続けるシートを窓越しの霞んだ都会の景色を借景にして観るのである。全てが白い拡散光に覆われ、視覚的にも静かな光景だ。聞こえるのはかすかな送風機のファンの音で、シートが高く舞い上がる直前に回転数が上がる音が耳に届く。それはシートの視覚的挙動の前触れとして。送風のスリットは床の四隅と真ん中に1つの計5つで、そこから様々なタイミングと強度で風が上へ送り出される。その風は白いメッシュに受け止められ、その形を流動的に変化させる。風で作り出されるひとつひとつの波は緩やかで大きく、その挙動を私たちの目で追い続けることができる。大きな波同士は時にぶつかり、ひとつの大きな波となる。大きな波の表面に小じわのように小さな波が起こりさざ波のように流れ消えていく。送風のタイミングや強弱は機械制御で繰り返しているのかもしれないが、室内の様々な偶発的要素によって、同じ形の波は二度と表れることはない。暫く舞った後で、全てのファンが停止するとシートはゆっくりの自重と空気抵抗とで床に降りて行き、まもなくぴったりと白い床に広がって止まる。数秒の静寂の後に、ファンが音を立てて回り静かだが力強く空気を振動させると、シートにおおきな膨らみが形成されそれはやがてシートそのものを天井へ向けて再び持ち上げる。四角いシートの4つの角には目立たない小さなリングが付けられていて、それが床と天井との間に張られた同じく目立たないワイヤーに通されている。そのためにシートは風で一箇所にまとめ上げられたり、外にはじき出されたりすることなく上下に舞い続けることができる。

 風というものを、私たちは経験的に知っている。けれど、風とは何だろうか。風は私たちのどの感覚器で感じ取られる対象なのか。風は音を立てる。強風は「ピューピュー」と言う。風は草木を揺らす。風にそよぐ草木を私たちは見る。また風は涼を運ぶ。夕暮れ時の涼しい風を肌で感じる。強い風は思い大きな物さえ動かす力を持つ。時にそれは街を破壊するほどだ。私たちは風を五感で知っている。けれども、風そのものを見ることも掴むこともできない。大巻氏の作品の白いメッシュシートは、感じれども見られぬ風を視覚的に見せる変換装置としても存在する。我々はシートを通して風を見るのである。けれどもその時風はシートにぶつかり、捉えられ、シート下を横に広がり、シートの断端から再び私たちの目で見えない室内空間へと流れ出ていく。つまり、私たちが見るシートを通しての風は、視覚的媒体(すなわちシート)にぶつかって物理的変化を与えられた風である。ここで気付くのだ。私たちの五感で捉えられる形に変換された風だけが、私たちにとっての風という存在であると。私たちにとって、気付けぬものはすなわち存在しない。しかし、それがひとたび感覚できる形に変換されたとき、突如として我々の眼前に表れる。こうして、「見えぬけれどもあるんだよ」という事実を改めて飲み込むのだ。また、むく犬に化けてファウストの書斎に入り込んだ悪魔メフィストフェレスの「光は闇の一部に過ぎぬ」という文句を思い出す。そして、私たち自身が信じる”自意識”の知り得ぬ根源を思う。
 また、この波打つシートは、それが空間上でそう振る舞えるためには、シートを境界とした「差」がそうさせていることに気付かなければならない。一言で言うなら、圧差である。ファンによって作り出された風はシートの下面に風圧を与え、その押し上げる力がシートの重量に勝ることで空中に持ち上げられる。シートという膜が空間を隔てることで、そこに差が生じ、その力すなわちエネルギーが膜を動かしている。ここでシートを膜と言い直したのは、エネルギーによって運動を与えられるシートに細胞膜を見たからである。生物の基本単位である細胞を規定するための大前提こそが細胞膜にほかならない。リン脂質の集まりであるこの形質膜によって空間が仕切られることで始めて生物がこの立体世界に存在可能となる。その膜は、決して水を入れた風船のゴム膜のように閉鎖し動かぬものではなく、周囲の液体や物質と常に動的に繋がりあっている。きっとそのダイナミックに動き続ける様を私たちの肉眼的視覚に置き換えてみるならば、この白いシートのようだろう。そう思ったのである。細胞にとって生きているという状態は、細胞膜を介した内と外の不断の連絡のことであり、その連絡を起こさせる原動力こそが内外の「差」にほかならないのである。だから、この差が見られなくなる状態は細胞の死を意味する。白い空間を風圧による差で揺らめいていたシートは、送風が止まると緩やかに下降してやがて床上で全ての動きを止める。それは、まさしく現象としての生の消えた状態、死であった。会場において、シートが床に落ちて動かなくなったそのタイミングで立ち去る鑑賞者が多い。それは、私たちが「不動は終わり」という概念を予め持っていることを指し示している。私たち「動く物」すなわち動物は、動から静という運動の流れに生から死を見るのである。そこから数秒すると送風機が再稼働し、シートに有機的なドームが形成されるやいなや全体が浮上を始める。ここに私たちは「再生」もしくは「新生」を見るのではないだろうか。それは、「誕生」とは違う。誕生は生から新たな生が生まれる事を言う。動かぬことでその物質的側面を露わにしていたシートが、風という見えぬ力によって動き出すその様は、数十億年前の海の中で生命がまさしく新生したその瞬間を思わせる。生命”現象”が物質と出会うことで生命体が生まれた。そういった生命の始原の感動的な現場を垣間見たような気持ちにさせられる。これを、シートが下降して停止した連続として見るならば、「再生」としての意味が与えられるだろう。空気によっていま再び持ち上げられたシートを、35億年の形質膜の歴史と重ねて見ていると、緩やかに凹凸を変化させ続けるシートの上面が、大陸形成のダイナミズムともオーバーラップしてくる。私たち人間個人のライフサイクルで主観的に捉えられる大地は、基本的に不動のものである。しかし、最近の全地球的な地震活動や火山噴火の活動化からも分かるように、大地もまた常に動き続けている。そのような数千万年から億年単位での大地の動きをタイムラプスで見せてくれているような、はたまたタイムマシンにでも乗って変化する大地を俯瞰しているような気分にもなって楽しい。

 彫刻家である大巻氏の現在の活動内容は古典的彫刻家のそれを越えているが、この作品を観て、その触覚感と空間への強い意識に、まぎれもない彫刻家のセンスを強く感じ取った。彫刻に限らず芸術は、有史以来の幾つかの通過点において革新的な概念が付け加えられ、もしくは変革されてきた。美術の教科書などで出てくる作家たちの多くはその立役者たちである。彫刻に限れば、それは人間や動物の外形を他の物質に置き換えるという根源的かつ重要な発見から始まり、それ以降さまざまな概念や技法が付け加えられもしくは取り替えられてきた。前世紀の初頭から先の大戦以降になると彫刻表現は大きな広がりを見せ、その多様性の雑多としたありさまから、新規的表現のなかに従来見出すことのできた筋の通ったレールはもはや探すことさえ困難に思える。若い彫刻インサイダー達にはある焦りがある。彫刻表現は今後どこへ向かうのかと。そういった模索が、表現を通して多くの現代作家たちが意識的無意識的を問わず繰り返しているのだ。そういった現状にあって、この『liminal air space-time』は、そのひとつの方向性を明確な鮮やかさを持って示しているように思われた。
 まず第一に、作品が実際に存在しているという事実である。彫刻でも絵画でも人体像はあるが、実世界に物質として存在するのは彫刻の人体像だけだ。この「実際に存在する」という事実はそのまま私たち自身の存在感と繋がっている。私たちが絵画のような仮想的存在ではないのと同様の現実感を持って彫刻はそこにある。そして、現実界に存在するには、無と有とを分ける境界がなければならない。それが肉体での皮膚であり、細胞での細胞膜であり、彫刻での作品表面であり、この作品での白いシートの膜面にほかならない。
 命無き物質である彫刻に生命感を宿らせるために彫刻家が重要視する表面造形の方法論がある。それは、「内から外へ押し出せ」というもので、その形状がもたらす膨張感が生命観を観るものに与えるとされる。勿論、押し出すだけでは単なる膨張する球体となるに過ぎない。実際の形状は凹凸に溢れているのであって、つまりこの言葉が意味することは、理想的な膨張感を得られるための凹凸術を駆使せよということになる。ロダンも彫刻は凹凸の芸術であると言ったし、日本近代彫刻の立役者の1人である石井鶴三の「でこぼこのオバケ」の”でこぼこ”とはそのことだろう。結局はでこぼこの妙味が重要なのである。そして、でこぼこの出っ張りはあくまでも内からの押し出しに由来せねばならない。その膨張感は成長や筋の緊張を想起させる。膨張は収縮を感覚の内にはらみ、その連続は心臓の鼓動へと連想させる。2つの運動の繰り返しが生み出すリズムは、全ての生命現象の根底に横たわっている。要するに、膨張と収縮の形態が表象しているのは、あくまでも生命的な動勢なのだ。
 彫刻というのは静止している。しかし、鑑賞者にとってそれらは止まってはいない。彫刻家はでこぼこや姿勢などを制御することで、見る者の心象に、動くそれを再現させうるのである。だから、歩いているところを作る彫刻作品と、歩いている人を撮影した写真とは違うものである。少なくとも写真機が普及するまでの「動き」とは、あくまでも動きのなかでのみ見出されるものであって、その瞬間の像というのは想像するしかない対象だったのだ。まさにその過渡期に活躍したロダンは、ポーズの設定などでモデルを撮影した写真を残している。しかし、両者の根本的な違いを理解していた彼は、写真で撮られた歩く姿勢を真似して作ったところでその作品には動勢を感じることはできないと言った。彫刻で扱う動きは動勢であって、機械的で客観的な動きの事実とは違うのである。
 白い部屋で緩やかに舞う白いシートは、風によって大きなドームを形成し、複数のそれが時にぶつかり合いひとつになる。そこには膨らみと凹みが立体的波形の振幅として繰り返し現れては消える。それは有機的であり、何より「実際に動いている」。動きを持つ生命を表現する彫刻において、動勢をどう表すのかは永遠のテーマだと言って良いだろう。本展覧会の会場には、それらに迫ったかつての芸術家たちの作品も多数展示されている。たとえば、大巻氏の展示物のすぐ向かいには飛行機のプロペラが展示され、またプロペラと同様のコンセプトを内在するブランクーシの『空間の鳥』がそのとなりに置かれている。前世紀の初頭、飛行機がプロペラを回転させて大空へ舞うのを見た芸術家は、空気を捉えて動かすというプロペラの羽の機能美に人間の作為を越えた造形の力を感じ取ったに違いない。だからこそ、ブランクーシはその形状からインスパイアされ、空間の鳥という作品形状を通して目に直接見えぬ空気とそこを生きる場とする形状(鳥であり飛行機であり、プロペラ)の抽象化に挑んだのでは無かろうか。目に見えぬ空気という存在を、それを表象する対象によって表現したかつての彫刻と、大巻氏の白いシートとは同じレール上にある。ただ大きく違うことは、このシートは実際に空気をまとって動いているということだ。彫刻は、本来的には動かないものである。動かぬ中に、動勢や生命感を感じさせるものだ。この最大の利点は、時間のベクトルがそこにないことで、そのために鑑賞者がそれを見たときがいつでも彫刻的時間のスタートとなる。流れぬ時間ゆえに、始まりと終わりを同居させることも可能である。その意味で彫刻は4時限的な表現媒体であると言えよう。目を動かせばいつでもイントロであり、同時にクライマックスがあり、トータルでの協奏も常に流れるのである。大巻氏の作品はそこが違う。ここでは実際に時が流れている。私たちの生命時間と同じ流れがそこにある。うごめくシートを5分鑑賞する間に私たちは5分歳を取る。送風が始まってシートが舞い、送風が止まってシートが落ちる一連はその場で時間を削って鑑賞しなければならないのである。そこに登場する時系列のドラマは、音楽を思わせる。この重要な点においては、彫刻を逸脱している。動く彫刻が今まで無かったわけではない。だが、例えばカルダーのモビールと同列ではないことは明確だ。なぜなら、『liminal air space-time』はその始まりと終わりの物語が明確にプログラミングされている。我々鑑賞者は、作者である大巻氏の組み立てたストーリー(もしくは楽曲と言っても良い)を彼の意図したとおりに見なければならない。ちょうど大巻氏は作曲家のようだ。ただし映画監督ではない。これは映像作品ではないのだから。もしくは、強引に動く彫刻的な流れに押し込むならば、18世紀半ば頃にフランスなどで流行したオートマタに近いだろう。機械仕掛けで命を吹き込まれた人形たちは、作家が予め意図したとおりに動くことで当時の鑑賞者を驚かせた。彼らは、命の無い人形が動くことで生命を感じることに驚くのだ。では生命とは動きのことか。では動き生きる自分は機械に過ぎぬかと。大巻氏の白いシートはもはや人の形はしていないが、機械仕掛けで空気を送り込まれ一時の時間を有機的にうごめく様は、機械人形と似通って見える。18世紀においては、人の命は、人の形をしていなければならなかった。まだ、概念においても形が重要だったのである。しかし、この頃から科学を通した世界の見え方が変わってくる。つまり、物質から概念的な存在論が科学的根拠を伴って唱えられるようになっていくのだ。その萌芽は遠く古代ギリシア哲学からすでにあったが、中世、ルネサンスを越えて17世紀に入るといよいよ加速していったかに見える。現代における人体の基礎医学的視点は大きく解剖学と生理学とに分けるが、その生理学つまり機能としての人体という視点の実質的始まりとして17世紀のハーヴェイの血液循環論がある。その後まもないデカルトの動物機械論はオートマタに影響を少なからず与えているだろう。このプレ・オートマタ期において、生命現象はある程度明確に物質と魂とに分割された。目に見えぬ空気は魂側に割り振られた。これが、やがて科学的に発見され始めるのが18世紀である。ボイルによって燃焼と生命現象に空気が等しく必要であることが分かり、ラヴォアジェによって呼吸の神秘性は酸素と二酸化炭素の交換であることが明らかになる。神の形と同等であった人の形は、19世紀になるとサルや魚と同等であると言われるのだ。そうして20世紀の戦後には、私たちの形はたった4つの塩基配列を元にした「情報」から作り出されると解釈されるようになった。今や、形の根源的重要性は薄れ、それは隠されていた情報から生み出された結果に過ぎないとさえ言われるのである。同展覧会の図録にパウル・クレーの言葉が載せてある。「かたちとは終局であり、死である。形成こそ〈生〉なのだ」。近代において、私たちは形とは結晶のように結果的構造物として捉えるようになっていった。それは私たち自身の身体も同様である。いまや重要なのは、今を生きるこの肉体ではなく細胞内の塩基配列、すなわちDNAの情報であると言い切れてしまうほどだ。このような物質から情報への身体観のパラダイム・シフトが、当然ながら芸術における身体表現にも反映する。身体を人体形状ではなく、現象や動き、概念や情報といった代替的表象で表すようになる。そういう流れにあって、上記のクレーのような言葉が発せられるわけである。風ではためく本作品は絶え間なく運動を引き起こし、その結果としてシートに膨らみを”形成”する。それは決して留まらない。私たちは形成の連続に生命を見る。

 芸術に新たな概念が付け加わるとき、しばしばそれらは驚くほど単純な形で私たちの眼前に現れる。同展覧会にも展示されていたフォンタナの『空間概念』はその端的な例である。同作の素材と言えば、全面が単色に塗られたキャンバスだけだ。それを刃物で数筋の切り目を入れただけの作品。たったそれだけで、絵画の平面性とキャンバスの立体性を繋げて見せた。穴によって次元を広げたのである。大巻氏の『liminal air space-time』で私たちの視覚に映る物は巨大な白いシートだけだ。もちろん、インスタレーション作品としての装置全体で見れば、送風機や空間の必要性など多くの物が関与しているけれども、それら舞台装置を裏にして、私たちの感覚に変化を及ぼす具体的な視覚装置はシートだけである。そして、そのシートに命を与えるものは風だけだ。つまり、主な役者はシートと風だけなのだ。このシンプルでどこにでもあり、誰でも見たことがあるような現象から、今まで見落としてきたような気付かなかったような新しい感覚を導き出す鮮やかさがここにはある。それは清々しさを見る者に与える。作者が彫刻家であることから、私は同作を彫刻として見てきた。そうすることで、現代彫刻が模索する方向の1つを示唆しているさまも垣間見えた。ただ同作の鑑賞には時間の流れを必要とする点は、彫刻の概念から大きく逸脱するものである。それをどう捉えるかは様々だが、「彫刻の鑑賞」方法に一石を投じるものでもあろう。かつて彫刻は建築の一部であり、その意味において私たちを周囲から取り囲んでいた。やがて彫刻は分離したが、今ふたたび新しい形で鑑賞者を取り囲もうとしているのかもしれない。

 人類の造形した芸術物で最も古い発見物は彫刻である。数万年にわたり、私たちは形にこそ命は宿ると信じてきた。しかしその人類史的記憶に基づく感覚は整理分割され、命は現象であると捉えられるようになった。現象が物質と関係することが形成であり、その結果が形だと言うのだ。その物言いに従うなら、永く彫刻家は最終生成物を造形し、そこからそれ以前を感覚的に蘇らせようとしてきたことになる。クレーのように過激に言えば、彫刻家は死体から生きた姿を想像させようとしてきたのだ。そういった流れの末端において、大巻氏の同作は、形成そのものに目を向けさせようとしている。

 彫刻の今はどうなっているのか。彫刻に今何が起こっているのか。彫刻はこの先どうなっていくのか。ゆっくりとはためく白いシートは存在の境界でありつつ、彫刻表現そのものの境界でもあるように思えた。

2010年4月16日金曜日

物としての私

人を物の様に扱う、というのは失礼に値する。また、「心」や「たましい」は物質を指してはいないだろうし、心の問題を取り扱う「心理学」や「哲学」など、人間を非物質的な側面から考えることは、古くから行われてきた。思考したり、コミュニケーションでやりとりされる意思伝達は物ではないから、必然的にそこが強調されて見えてくるのは理解できる。また、人間社会では、私(あなた)が誰であるかという事よりも、何が出来るのか、もしくは何をしたのかで判断されるから、肉体的な個人はさして問題では無いかのようになっていく。肉体的な個人が売りのモデルや芸能人は別だが。
それに輪を掛けて、インターネット上では、ほとんど純粋に情報でのやりとりのみで個々の存在が成り立つようになった。それは、概念だけで成り立っている脳内ネットワークに似ている。
現実の私たちが見たり聞いたりする情報も、結局は脳内で概念化されて理解されるのだから、それを模したような現代のネット上での情報交換がすんなりと受け入れられるのは当然のことなのだ。むしろ、現実社会から情報への転換作業が無いだけ労力も掛からず、楽なのかもしれない。
情報化偏向の時代性もあってか、私たちも自己の肉体性を忘れつつあるように感じる。社会性動物としての人類という進化の方向性として、それが間違っているのかどうかは何とも言えないが、私たち個人が肉体性をもはや不必要と感じているのかと言えば決してそうではないのは事実だ。

死体を見ると、誰もがぞっとするだろう。なぜ、ぞっとするのか。勿論、身近な人の死体であれば、その理由は明らかだが、そうではない、どこかの誰かのものであっても、ぞっとする。生きていても死んでいても、死んで間もなければ人の形には大して変わりはない。それでも、何かが決定的に違っている。
私たちには、人(の形)であれば、自分と同じように意思の伝達が可能であるという前提がある。そして、それによって得られる情報にこそ、相手や自分にとって重要なものが含まれている。自分らしさ、その人らしさ、といった人格さえ、やりとりされる情報の中に宿っている。同時にそれは、自分や相手という「肉体」から発せられているのだから、両者はそこで強力に結びつけられている訳である。
ところが、死体では、その情報の部分がすっぽり抜け落ちている。もはや永遠に発せられることはない。そして、情報を発しなくなった肉体は、自らが持っている肉体の物質性を強烈に強調させる。これこそが、死体を前にして感じる強烈なる違和感の根源であろう。

次の瞬間、はっとさせられるのである。生きている私は、逆説的に言えば、情報交換が出来る死体ではないか。勿論、科学的に見て生体と死体には大きな差異がある。しかし、生体も死体も、肉体という物質において同じなのである。そこに横たわる死体は、動かない故にその物質性を強調するが、実は、その物質性をそのまま私も所有しているという事実に気付く。

心、魂、精神、霊魂・・。人間の非物質的側面は常に強調されてきた。物質的側面としての肉体に目が向くのは、怪我や病気の時などに、思い出したかのように見つめる感じだ。
普段は、全く意識しない。それでもいいように出来ているのもあるだろう。でも、そう出来ているからそのままで良し、ではおかしな事になりかねないとも思う。自己の肉体という物質性が希薄になれば、他者に対してもそのように見るだろう。結果、安易に自分も他者も傷付けてしまうかもしれない。社会としても、情報として見えてくる結果だけが尊重されるようになる。

精神面からの自分や他者は、強く意識せずとも考えられるものだ。人は皆、気付けば思考しているのだから。しかし、物としての自己、つまり自分の肉体については努力しなければ知ることが出来ない。実際、それを客観的に見つめるのに人類は長い時間を掛けた。それが解剖学だ。それでもまだ完全ではないが、自己の肉体性を感じ取るのには十分の情報を人類は既に得ていると思う。

自分という今の存在は、書物に書かれた情報ではない。肉体がなければ、思考も精神もない。ブログで自己の永遠性を刻んでも、肉体は刻々と変化し終焉へ向かっている。実は全て、肉体という物から発しているのである。
私たちは物だ。そう改めて思いつつ街行く人を見ると、一人一人の質量がずしりと感じられるようで。

2010年4月5日月曜日

彫刻"理想"論

彫刻家は、形の意味を探ろうとする本能が無ければ嘘だ。
ただ惰性で土を捏ね、木や石を削るくらいならやらない方がまだ良い。
映画において、映し出されるシーンの全てに意味があるように、彫刻における量や面も全て意味がなければならない。
そして、それは彫刻的に正しくなければ意味がない。
記号として表すくらいならば、記号を書けば良い。
彫刻家は、彫刻を作らなければならない。

彫刻家は、形、形、形が全てだ。
形がおろそかで済ませられる彫刻家など、信じることが出来ない。

岩の形、雲の形、水流の形、そして己自身の形・・全ての形に意味がある。
石ころを見て、その生い立ちを想像することだ。
川の波の形を捉えてみることだ。
人の形が複雑なのは当然だ。35億年の形態変化の末なのだから。