私は、彫刻という芸術のジャンルこそ、全ての純粋芸術において、もっとも原始的な感覚を保持しているものだと信じている。そして、芸術というものが人に与える快楽が、感覚の原始的な部分から沸き上がってくるものであるなら、彫刻こそが、人々をそこへ「直接的に」導くことが出来るものであろう。その純粋性の高さゆえに、もはやその感覚は動物的でさえあり、その原始性によって理性やら論理やらに惑わされることから守られている。
新生児は、まだほとんど視力が働いていない時から、その小さな掌に大人が指を置けば、力一杯に握ってくる。私たちがこの世に生まれて初めてたよりにする感覚は触覚である。そして、やがて追いついてくる視覚と触覚が結びつくことで私たちの「触覚的経験」は奥行きを増してゆく。尖ったものを「見て」、それに「触れる」ことで、次からは尖ったものを見るだけでもあのチクリとした感覚をありありと蘇らせることが可能になる。
物をつかむ、物に触れるという感覚は、私たちに安心感をもたらす。それは、幼い頃に親に抱かれた肌の感覚もあるだろう。
しかし、幼少時の記憶といった個人的追憶に依らなくとも、私たちは物をつかむことに安心感を得る理由を見つけることが出来る。それには、手を見ればいい。手の平を開けば、5本の指の腹が見えている。親指の腹だけは、斜めに内側を向いている。そこで物をつかむように指を徐々に曲げ始めると、人差し指から小指の4本はそろって曲がってゆくが、親指だけはその根本から他の指とは違うダイナミックな動きを始めるのが分かる。伸ばしていたときは皆一列に並んでいたのが、曲げ始めると同時に、親指だけはそこから急速に離れ、その腹は弧を描くように回転し、たちまち他の4本の指の腹と対向する向きを取るのである。
物を握って離さないための手。私たちの体には、物をつかむための機構が生まれつき備わっている。この手は、私たち人類がここまでやってきた道程を示している。この手は、かつて木の枝をしっかりと握り全体重を支えるものだった。長い腕、可動域の広い肩、そして4指と対向する母指。そして、立体視の出来る眼。この組み合わせが、私たち人類を他の動物より優位に立たせる強力なツールとなった。やがて、木から下りると、この手は道具を作るようになる。身を守る武器を握った。大きな獲物を運んだ。火をおこした。
私たち人類の進化は、物をにぎるという動作と切り離すことが出来ない。極端に言うなら、”握るために変形した手”を持つほどに、物を握ることを宿命づけられている動物なのだ。脳における体性感覚の分布を視覚的に表した有名な図(もしくは像)があり、「感覚のホムンクルス(人造人間)」と呼ばれる。これを見ると、人間にとって掌から得る触覚がどれだけ重要なのかが一目で分かるだろう。
これほどに、握ることに頼り、生きてきた人類。触れる感覚からもたらされる安心感は、触覚に対する信頼感に繋がっているに違いない。
この人類の存在に関わる、深い部分に根ざした感覚を揺さぶる芸術が彫刻である。歴史に残る傑作といわれる彫刻の多くは、かならずこの触覚をくすぐる要素を持っている。芸術のクライアントは、鑑賞者の感性つまり原始的感覚であり、ならば、そこが共鳴する作品が多くの共感を得るのも納得がいくのではないか。
2010年6月24日木曜日
物を見て触る
私たちは、感覚を持っている。生まれたときから当たり前のものとして機能している感覚。この感覚が無ければ私たちは自分の周りの事象を一切知ることができない。そのことを思うと、感覚の意味合いが変わる。
さて、解剖学では、感覚を幾つかに分けて考える。皮膚で感じる感覚は一般感覚。頭にある目、鼻、耳、舌で感じるものを特殊感覚と大きく分ける。また、それが意識下に上るのかどうかで、体性と臓性と区別もする。
頭部に集中する特殊感覚、目鼻耳を獲得したという進化上の事実は全く驚愕に値する。このうちどれか1つが欠けると、日常生活はとたんに困難さが増す。これらは、受容器として分かれているが、脳においてはそれらの情報は相互に補完し合い、統合された外部情報として扱われる。だから、音で見え方が変わったり、その逆もしかり。料理では、盛り合わせと香り付けは重要である。
目鼻耳のそれぞれの依存度は動物によって違う。人間は目の依存度が大きい。左右の目が仲良く並んで正面を向き、立体視を可能にしている。色盲が多いほ乳類において例外的に色覚を持っている。
この強力なツールと、自由に物をつかめる器用な手。この名コンビが人類を地球上で秀でた種に押し上げてくれた立役者だ。見て、触れる。見るだけでは足りない。触れるだけでも足りない。両者の情報の結合が要る。その蓄積が、物作りの経験となり、道具を作り操るという人類の特徴たる性質を構築した。
情報化が急速かつ高度に進んだ今、私たちは情報の利便性を日々”体感”している。情報を阻害するのは物質である。情報をより円滑に統合するには物質性を排除していかざるを得ない。iPhoneは物質的形状としてはもはやモノリスとなった。
情報至上主義的な流れは、芸術にも当然押し寄せている。もともとアート寄りの人間は新しい事象に敏感だから、そうなるのも分かる。とは言え、表現媒体としては以前からある素材(画布に油絵、木彫などなど)を用いていたりするから、どっちつかずの感があふれている。要するに、作家も物質と情報の間を揺れているのだろう。
情報を重視すると、物質を見なくなる。人を表現したいとき、情報としての人で十分ならば、モデルを立たせて観察し造形する必要などない。壁に「人」と書けばよい。
今の芸術、それもより物質と関連する彫刻でこの問題は静かにかつ深く問題になっていると感じる。人を作る作家が、人の形状や構造に興味を示さない。「雰囲気・気配」さえ出ればそれで良いということだろう。
美術解剖学というものがある。間口はとても広い。それは、人の見方を示している。人を見るには、人は物だという事にまず気付く必要があるだろう。そうして、目新しい物を観察するように見ていくと、広い間口の一歩奥に、別の扉があることに気付く。そうして奥へ奥へと進むにつれ人体と芸術のただならぬ面白さの連関に飲まれる。ここからが、人体、芸術、彫刻を追うことの快楽の真の入り口なのだと思っている。そしてそこが美術解剖学の本当の入り口でもあるのだろう。
そして、奥へ進む手段として外せないのが、見ることと触ることなのである。人間を「人体」として片付けない。構造を「解剖学」で終わらせない。彫刻を「象徴」にしない。そっちへ安易に流れないために、自らの目で見て手で触れる。
芸術家の仕事は、情報の整理ではなくて情報の翻訳ではないだろうか。
さて、解剖学では、感覚を幾つかに分けて考える。皮膚で感じる感覚は一般感覚。頭にある目、鼻、耳、舌で感じるものを特殊感覚と大きく分ける。また、それが意識下に上るのかどうかで、体性と臓性と区別もする。
頭部に集中する特殊感覚、目鼻耳を獲得したという進化上の事実は全く驚愕に値する。このうちどれか1つが欠けると、日常生活はとたんに困難さが増す。これらは、受容器として分かれているが、脳においてはそれらの情報は相互に補完し合い、統合された外部情報として扱われる。だから、音で見え方が変わったり、その逆もしかり。料理では、盛り合わせと香り付けは重要である。
目鼻耳のそれぞれの依存度は動物によって違う。人間は目の依存度が大きい。左右の目が仲良く並んで正面を向き、立体視を可能にしている。色盲が多いほ乳類において例外的に色覚を持っている。
この強力なツールと、自由に物をつかめる器用な手。この名コンビが人類を地球上で秀でた種に押し上げてくれた立役者だ。見て、触れる。見るだけでは足りない。触れるだけでも足りない。両者の情報の結合が要る。その蓄積が、物作りの経験となり、道具を作り操るという人類の特徴たる性質を構築した。
情報化が急速かつ高度に進んだ今、私たちは情報の利便性を日々”体感”している。情報を阻害するのは物質である。情報をより円滑に統合するには物質性を排除していかざるを得ない。iPhoneは物質的形状としてはもはやモノリスとなった。
情報至上主義的な流れは、芸術にも当然押し寄せている。もともとアート寄りの人間は新しい事象に敏感だから、そうなるのも分かる。とは言え、表現媒体としては以前からある素材(画布に油絵、木彫などなど)を用いていたりするから、どっちつかずの感があふれている。要するに、作家も物質と情報の間を揺れているのだろう。
情報を重視すると、物質を見なくなる。人を表現したいとき、情報としての人で十分ならば、モデルを立たせて観察し造形する必要などない。壁に「人」と書けばよい。
今の芸術、それもより物質と関連する彫刻でこの問題は静かにかつ深く問題になっていると感じる。人を作る作家が、人の形状や構造に興味を示さない。「雰囲気・気配」さえ出ればそれで良いということだろう。
美術解剖学というものがある。間口はとても広い。それは、人の見方を示している。人を見るには、人は物だという事にまず気付く必要があるだろう。そうして、目新しい物を観察するように見ていくと、広い間口の一歩奥に、別の扉があることに気付く。そうして奥へ奥へと進むにつれ人体と芸術のただならぬ面白さの連関に飲まれる。ここからが、人体、芸術、彫刻を追うことの快楽の真の入り口なのだと思っている。そしてそこが美術解剖学の本当の入り口でもあるのだろう。
そして、奥へ進む手段として外せないのが、見ることと触ることなのである。人間を「人体」として片付けない。構造を「解剖学」で終わらせない。彫刻を「象徴」にしない。そっちへ安易に流れないために、自らの目で見て手で触れる。
芸術家の仕事は、情報の整理ではなくて情報の翻訳ではないだろうか。
2009年8月9日日曜日
画家と彫刻家 見え方の違い
朝、眠りから覚め、目を開けた瞬間から、見慣れた部屋の光景が目に飛び込んでくる。それは、あまりにも当たり前の事で、見えるという事実に驚く者はいない。
個人が、見るという努力をせずとも、目を開ければ半ば強制的に光景が見えることから、「見る」ということは、受動的な現象だと信じられて来た。つまり、「見えて当然」ということだ。実際に今でもそう信じている人が大半だろう。
しかし、脳の構造や機能から、見るという行為が分析されるに至って、「見える」とは、それほど単純なものではないことが明らかになった。見るという行為のなかで、従来通り、受動的と言っていいのは、まぶたを開けて、光線が瞳孔を通り網膜に到達するまでに過ぎない。しかし、この段階では、単に視細胞が興奮した状態であるだけで、「見える」という感覚からはほど遠い。ここから多くの行程を経て、情報が取捨され再構成されて初めて「見える」のである。つまり、「見る」とは、実に能動的行為と言えるのだ。
だからこそ、「見れども見えず」になったり、無いはずのものをそこに見る事もある。また驚く事に、「見えずとも見れる」ことさえある事が分かっている。
さて、このように、見るという行為は能動的なのであるから、見え方も状況次第で、様々に違うのである。芸術では、大きく二つに分けられると思う。すなわち、「画家的視覚」と「彫刻家的視覚」とに。
まず、「画家的視覚」だが、これは比較的、一般の人の見え方に近いだろう。ただ、一般よりも圧倒的に色覚分析が優れている。目に映る光景に含まれる色彩を強調して捉えようとし、また、色彩のみから形状を読み取ろうとする。この見方が優れている人は、より色彩の鮮やかなものに目がいくだろうし、実際にも、ガラスや水面の反射のような、形状に束縛されない光を捉えて表現する事に秀でている。一方で、物体の形状や構造を的確に捉える事を苦手とする向きがあるようだ。これは、対象を表面の光線からのみ認識しようとするからだろう。
「彫刻家的視覚」は、ちょうど上記の画家のものと逆である。彼らは、極端に言えば視覚から色彩を消去する。まず、対象の形状と構造の分析を行うのだ。だから、複雑に見える形状から隠された構造的一貫性を見いだすことに秀で、また、その美しさを発見し、再構成することが出来る。しかし、色彩に関しては、不得意とする向きがある。
これらの相反するような二つの視覚は、実は誰でも持っているもので、普段からどちらも駆使されている。だが、「画家的視覚」で重要となる色覚の認識は脳内での伝達順序から見て、より初原的であると言えるだろう。つまり、より理解しやすい。それに比べると、「彫刻家的視覚」で重要となる距離覚、つまり立体感覚は、より高度な情報処理を必要とするので、専門的な訓練をより必要とするだろう。
これはつまり、一部が隠れていたり、斜めからしか見えていない対象の全体の形状が見て分かるとか、複数置かれている物体のお互いの位置と距離を認識できるとか、一見複雑な構造物から形状的な秩序を見いだせるとか、そういうものだ。
さて、そう見てみると、人体という構造物の形をより理解しやすくするための美術解剖学とは、「画家的視覚」よりも「彫刻家的視覚」に訴えるものであることがわかる。同時に、人体の形状を理解する為には、美術解剖学的な知識よりも前に、彫刻家的視覚を訓練する必要性があるということも分かる。
書店にならぶ解剖図譜を見ても、多くの人がそれを形状的に理解する事が難しいのは、そのあたりに理由の一端もあるのだろう。
個人が、見るという努力をせずとも、目を開ければ半ば強制的に光景が見えることから、「見る」ということは、受動的な現象だと信じられて来た。つまり、「見えて当然」ということだ。実際に今でもそう信じている人が大半だろう。
しかし、脳の構造や機能から、見るという行為が分析されるに至って、「見える」とは、それほど単純なものではないことが明らかになった。見るという行為のなかで、従来通り、受動的と言っていいのは、まぶたを開けて、光線が瞳孔を通り網膜に到達するまでに過ぎない。しかし、この段階では、単に視細胞が興奮した状態であるだけで、「見える」という感覚からはほど遠い。ここから多くの行程を経て、情報が取捨され再構成されて初めて「見える」のである。つまり、「見る」とは、実に能動的行為と言えるのだ。
だからこそ、「見れども見えず」になったり、無いはずのものをそこに見る事もある。また驚く事に、「見えずとも見れる」ことさえある事が分かっている。
さて、このように、見るという行為は能動的なのであるから、見え方も状況次第で、様々に違うのである。芸術では、大きく二つに分けられると思う。すなわち、「画家的視覚」と「彫刻家的視覚」とに。
まず、「画家的視覚」だが、これは比較的、一般の人の見え方に近いだろう。ただ、一般よりも圧倒的に色覚分析が優れている。目に映る光景に含まれる色彩を強調して捉えようとし、また、色彩のみから形状を読み取ろうとする。この見方が優れている人は、より色彩の鮮やかなものに目がいくだろうし、実際にも、ガラスや水面の反射のような、形状に束縛されない光を捉えて表現する事に秀でている。一方で、物体の形状や構造を的確に捉える事を苦手とする向きがあるようだ。これは、対象を表面の光線からのみ認識しようとするからだろう。
「彫刻家的視覚」は、ちょうど上記の画家のものと逆である。彼らは、極端に言えば視覚から色彩を消去する。まず、対象の形状と構造の分析を行うのだ。だから、複雑に見える形状から隠された構造的一貫性を見いだすことに秀で、また、その美しさを発見し、再構成することが出来る。しかし、色彩に関しては、不得意とする向きがある。
これらの相反するような二つの視覚は、実は誰でも持っているもので、普段からどちらも駆使されている。だが、「画家的視覚」で重要となる色覚の認識は脳内での伝達順序から見て、より初原的であると言えるだろう。つまり、より理解しやすい。それに比べると、「彫刻家的視覚」で重要となる距離覚、つまり立体感覚は、より高度な情報処理を必要とするので、専門的な訓練をより必要とするだろう。
これはつまり、一部が隠れていたり、斜めからしか見えていない対象の全体の形状が見て分かるとか、複数置かれている物体のお互いの位置と距離を認識できるとか、一見複雑な構造物から形状的な秩序を見いだせるとか、そういうものだ。
さて、そう見てみると、人体という構造物の形をより理解しやすくするための美術解剖学とは、「画家的視覚」よりも「彫刻家的視覚」に訴えるものであることがわかる。同時に、人体の形状を理解する為には、美術解剖学的な知識よりも前に、彫刻家的視覚を訓練する必要性があるということも分かる。
書店にならぶ解剖図譜を見ても、多くの人がそれを形状的に理解する事が難しいのは、そのあたりに理由の一端もあるのだろう。
登録:
投稿 (Atom)