2009年11月30日月曜日

拍動する心臓

インターネットで衝撃的な動画を見た。それは、海外の悲惨な交通事故現場を映したものでたまたま居合わせた野次馬が事故直後を撮影したのだろう。男性が血まみれで倒れている。もはや生きていない。カメラがパンすると、男性から数メートル離れた路上に握り拳ほどの物体が落ちている。そこにズームしていくとその物体が拍動しているのが分かる。それは、倒れている男性の心臓だった。カメラがそこでしばし動かないのが、撮影している者の驚きを表していた。現場にいた他の人たちも同様だったろう。その光景を前にした彼らの心情には戸惑いがあったはずだ。彼は生きているのか?死んでいるのか?

心臓は、遠い昔から人類にはおなじみの臓器である。科学の時代と言われる現代でもなお心臓の特別な地位は揺るがない。「こころはどこにあるの?」という質問には”胸に手を当てて”考えるひともいるだろう。人類が心臓に特別な視点を向け、まるで個人の本質であるかのように取り扱ってきた理由を、この悲惨な動画で仮想体験した気がする。
体がもはや動かないのに、心臓は動いている。その事実を目の前で見たなら、命の根源は心臓にあると思って無理はない。マヤ文明では、捕虜の心臓を生きたまま取り出し、石の台に載せて祈る儀式が執り行われていた。それは石の上でしばしの間、生き生きと拍動していたはずだ。そのビジュアルは、観衆に強烈な印象を与えただろう。

―心臓は、心筋と呼ばれる筋で出来ており、手足を動かす筋とも、胃や腸を蠕動させる筋とも違う。私たちが生まれてから死ぬまで一時も休まず運動し続ける能力を持つ。実際、”彼”は自発的に動いている。拍動は心臓自身が生み出している。その速度の調節を自律神経が調節している。―

こういう知識は本で得られるが、心臓が体内から出ても拍動しているのを映像で見ると、不思議な気持ちになる。自分の運動の根幹が、自分の意志ではないことを見せつけられるような感覚。

現代の医学では、心臓は血流を生み出すポンプ以外の何者でもないような取り扱いである。機能で見たならそこに異論はないだろう。けれど、それをどう取り扱うのかは、人間の感情が絡んでくるのを免れない。脳死問題や延命治療でも、ここは問題になるのだろう。だって、心臓は拍動しているのだから!

心臓は、いつまでも人類にとって特別な臓器で在り続けるのだろう。機能だけではない、感情と深く結びついた特別な臓器。私たちが心の底から心臓はただのポンプだと言い切れるようになってしまったら、そこには何か冷たい無機質な社会が広がっているようにも思う。

2009年11月27日金曜日

DNAと肉体

生物は、DNAによって、自己を作り、同種を存続させてゆく。私たちが、ATGCというたった4つの塩基の配列の組み合わせから出来ているという事実は、今では当然のように語られるが、冷静に思えば思うほど、衝撃的な事実であり、生物の存在という事実に対して様々な示唆をそこに見ることも出来る。
ワトソンとクリックによるDNAの二重らせんの発見から20世紀後半のヒト・ゲノム・プロジェクトへの流れは、コンピュータの発展と切り離せず、それは、時代の情報化とも関連付けられるだろう。いまや私たちの存在は、”肉体”から”情報”へと昇華された。それも、ATGCの4つというデジタイズされたものだ。デジタル情報というものは扱いやすく、信用できる。それは現在のインターネットとコンピュータの普及を見れば一目瞭然である。電話も写真も音楽もおよそ「伝える」目的があるものは軒並みデジタル化の洗礼を受けた。デジタル化することで、意味がない情報を捨て、伝えたい情報も劣化することなく次へ伝えることが出来る。
私たちの存在は、種としての目的で言えば次世代の子孫を残すことに尽きる。それは、私の遺伝情報を「伝える」ことに他ならない。DNAとメディアのデジタル化が図らずも相似の目的と手段を取っているのは興味深い。

それにしても、これだけの多様性を生み出してまで連綿と進化を紡いできた生物が塩基配列まで還元出来てしまうのは、まるで、私たちの本質は遺伝情報に過ぎず、私たちの存在とは塩基配列から析出した結晶であるとさえ思えてくる。かつてジャック・モノーが「偶然と必然」で、生物と鉱物結晶を比較していたのを思い出す。

しかし、たとえ私たちが「動ける結晶」であったにせよ、現実的に重要なのは肉体であろう。自分にとっての魅力的な相手というのが実は魅力的な遺伝子の析出であると考えるのでは、魅力そのものが輝きを失う。
それに、DNAか肉体かという概念は、二元論的でもある。私たちの存在についての明確な1つの解答というのは、そもそもあるのかも分からない。

ともあれ、私たちはそれぞれが1つの肉体を所有しているという事実がある。そして、人生の命運の全てがその肉体と共にある。たとえ、真の存在理由が情報伝達であっても、個々の人生のリアリティは肉体にこそ宿るのだ。それは、いままでもずっとそうであったし、これからもそうであるはずだ。なぜなら、情報を伝達するための手段として、生命は肉体を持つことを選んだのだから。

真実はいつも表現形の奥深くに隠れている。

目で触る 触覚的から視覚的へ

彫刻も絵画も、基本的に私たちは目で見て鑑賞するが、両者には絶対的な違いがあることは明白で、それは絵画はそもそも見るためにあるが、彫刻は見て触れられるというものだ。
彫刻は触れられると言っても、実際に触ることが許される作品は数少ない。しかし、私たちは、目で鑑賞するだけでも作品に触れる感覚を実感することが出来る。これは、視覚と触覚が連動しているからだ。手の動きと視覚を高度に連動させることが出来る動物は、人類の他にはチンパンジーなど数少ない。人類の進化の過程で、私たちは様々な物を見て、それを触って確認することを繰り返してきた。今や、実際に触れなくともガラスのツルツルした感じやスポンジの柔らかさなど、物性をまざまざと指先に思い起こすことが出来る。この、視覚と触覚のリンクはしかし、個人が実際に経験した視覚―触覚リンクしか働かない。触れたことがない未知の物質を目の前にしても、その触覚感が現実味を帯びることはなく、代わりにそれに似た感覚を呼び起こさせて対応させるしかない。つまり、視覚で触覚を「リアルに」感じる為には、私たちは見て触るを事前に実体験していなくてはならない。何でもかんでも触りまくる幼児期の行動は、そのリストを急速に作り上げている過程なのかもしれない。これは味覚にもあてはまるだろう。

つまり、彫刻を鑑賞する時には視覚的経験に加えて、触覚的経験も導入されており、これが「彫刻は目で触れて鑑賞する」と言われる所以なのだろう。逆に言えば、彫刻を鑑賞するには触覚的感覚も要求されるということであり、漫然と眺めるだけで「目で触れ」なければ、その本質的な部分には触れられないということになる。

しかし、この部分で、現代の彫刻には変化が起きているように感じる。それは、触覚的彫刻が少なくなっている、もしくは、視覚的彫刻が主流になりつつあるように見えることだ。
もはや、作家が彫刻に触覚性を求めておらず、絵画のように視覚でのみ鑑賞することを前提としているような作品がある。これらは時に、立体絵画のようである。
触れるには対象の物性が必ず関係する。彫刻は、その歴史において素材の持つ物性から切り離せない領域だった。それは現在でも「石彫」、「木彫」などという素材でのカテゴライズが残っていることからも分かる。しかし、触覚性が希薄になると、石や木の物質感も自ずと希薄になる。これは、近代になり合成樹脂が広く素材として使われるようになったのも関係しているかもしれない。軽くて丈夫な合成樹脂は確かに彫刻家を素材から自由にした。一方で、彫刻の本質的要素だった触覚性を希薄にすることを後押しした。今では、「ブロンズ着色のFRP」は当たり前である。

90年代から急速に発展した3DCGは、さらに彫刻の次の段階を見せようとしている。
膨大な情報量を必要とする3DCGは、家庭用PCの高性能化に伴い一般的なものになりつつある。コンピュータ・スクリーンの内側で作り出される「彫刻」は、削りくずもなく、なにより重力という地球上の物質の根源的要素が存在していない。また、3DCGには大きさの概念もないので、その制作過程で極端に微細な構造を作ることも出来る。ある一定の数式やアルゴリズムを用いて「人為を介入させずに」造形することも可能である。
この仮想世界は本質的に物質性が存在しない。その意味で3DCGは明らかに絵画に属する物と言えるのだが、一方でNC工作機やプロッタで現実のものにすれば彫刻に属する。
それは、視覚的彫刻との関連性を想起させるものだ。

素材の多様化と情報重視の時代性が、物質性と切り離せないはずの彫刻にも大きな変化をもたらしている。芸術家も時代から離脱して生きることは出来ないが、急速な変化の中にあっても、大きく変わることのない普遍的な芸術性や彫刻的要素までも過去のものとして押し流してはならない。
今であればこそ、本質的な芸術を見つめ、見極めていたいと思う。

2009年11月2日月曜日

解剖学者 解剖学のちから

様々な領域にそれを専門とする人たちがいて、彼らは私たちからすれば「凄い」ことを当たり前のようにしたり、知っていたりする。日常的にある特定の事だけを追っていれば詳しくなるのは当然なのだろうが、そういう人を目の当たりにすると、単純に「凄い」と感じる。

私にとってのそういう人に、解剖学者がいる。それも肉眼解剖学だが、彼らの人体に関する広範な知識は、本当に凄い。
肉眼解剖学は、その発見の大方は出払ったなどと言われたりもするようだが、それは裏を返せば、それだけ綿密に観察されてきたという意味である。つまり、現在の解剖学者は、人体から新しいなにかを見出すために、既に発見済みの”膨大な”知見をまず知り、理解するところから始めなければならない。そういうフォースもありまた、人体の不思議にのめり込んだ結果だろう。

解剖学の知識は、人間の見方を変えるちからを持っている。漠然と知っているような気がしている「我が身」を、客観的に捉えてみることが出来るようなる。我が身の見方が変われば、他人の見え方も変わってくる。つまりは、全てが変化してしまう。それほどのちからを持っている。私などは、今更にそれに驚いているのだが、解剖学者たちはとうにそれを感じていたはずなのだ。彼らは、下手な宗教家などよりよっぽど人間について深く語れるはずなのにと思ってしまうが、知る人ほど口は重いのか、あまり積極的に外に出てこない。

生き方や、自分という存在に悩む人は多い。それに対応するものも多くある。生き方教室や、占いや、宗教などなど。占いや宗教には、「これが正しく、これは間違い」というバイアスが存在している。それは、言い換えれば、「誰かさんの意見」である。結局、私に従うか従わないかという事になる。
その一方で、科学である解剖学には「誰かさん」の恣意的なアドバイスのバイアスは存在しない。本当に自然に忠実的な目線での「私とは」を示してくれる。解剖学は、形態学の一種であるから、扱っている内容は基本的に物質なのだが、そこから心という非物質的概念の問題へと繋がってゆくダイナミズムは興味深い。

差別問題、性教育問題、死生観、宗教、脳死問題、うつ、QOL、子育て、いじめ、世代間問題・・いろいろあるが、それらにも解剖学は手を貸せるのかもしれない。
小学校や中学校で、人体解剖学を教えているのだろうか。「こころ」は大事だが、それは「肉体」から生まれるということも忘れられないだろう。
解剖学という高度に成熟した学問の力を借りることで、突破口を見いだせるものは以外と多いのではないだろうか。解剖学は、いまや医学領域だけに留まるものではないように思う。

2009年11月1日日曜日

美術+解剖学

美術解剖学というものがある。「学」が付くのだから、学問の一領域なのだが、具体的にまとまった1つの学問領域と呼べるのかは、よく分からない。その源泉は、16世紀のイタリアとされ、当時発展した医学の解剖学と、リアリティを求める芸術表現の欲求とが必然的に出会うことで起きた。当時、解剖学は科学の最先端と呼べるものだったが、具体的な何かの発見というよりも、むしろ「新しい人体の見方」そのものの発見だった。それは、新しいもの好きな芸術家達によって、その表現にも速やかに反映された。
それ以降、人体を表現する芸術家は、説得力のある造形の為に、解剖学からの情報を参考にするのは当然のことのようになり、同時に医学書における解剖図譜にも、画家や版画家が解剖学者の監修の元に精緻な図を提供するのが当然となった。医学と芸術は、やがて独自の道へと明確に分かれていったが、両者は現在でも「人体表現」においては結びついている。
解剖学における人体についての知見は今や膨大である。現在では、新たな発見の多くは、肉眼では見えないような微細な構造や機能へと移っている。しかしながら、芸術において要求される人体に関する知識は、あくまでも目で見える、それも外見に影響を与える部位である。すなわち、骨格と筋肉がほとんどだと言える。膨大に増え続ける医学的解剖学の情報から、芸術家が必要な部分だけを抜き取ってまとめたものが、美術解剖学である。

さて、書店では、美術解剖学の本が数多く売られている。その内容のほとんどは実は同じようなもので、骨格図と筋肉図で構成されている。同様の図は、医学の解剖学の本にもあるが、美術技法書では鉛筆画のような手描きタッチが多い。情報量は、当然ながら医学書のほうが圧倒的に多いので、何冊も技法書を揃えるなら、一冊医学書を手に入れたほうが良いのではないかとも思う。造形家は、絵のタッチも重要視するだろうから、鉛筆画タッチのほうが好まれるのだろうか。

実は、美術解剖学を学んでも人体が作れるようになる訳ではない。それは、あくまでも造形の手助けとなる人体構造の情報を与えてくれるだけだ。
説得力のある人体を造形するには、実際のモデルの観察は必須である。モデルの観察による造形に、補助として解剖の知識が多いに役立つのである。日本では、造形家がモデルを入れることは多々あるだろうが、その観察だけで造形をしている例がほとんどではないだろうか。日本人は、もともと鋭い観察力を持っていることは、日本画における描写を見れば分かるが、もし西洋美術を指向しているなら、西洋的な観察の仕方をしなければならない。解剖学的な観察視点というのが、まさにそれであろう。主観だけを信じない。解剖学という客観を取り入れることで、普遍的な形の公正性をそこに取り込もうとするのである。現在、医学の臨床ではさかんにEBM(Evidence Based Medicine:根拠に基づいた医療)が叫ばれているが、解剖学を芸術に取り込むという考えは、それに似ているようで興味深い。EBE(Evidence Based Expression)とでも呼ぼうか。

モデルの観察と、解剖学の知識。どちらか一方しか選べないとするなら、作家はモデルの観察を選ぶだろうし、それが正解だろう。だが、そんな状況は世界のどこにもないのだ。解剖学の知識をそこに加えることで、観察力に大きな違いが生まれる。すばらしくピントが合う眼鏡を手にするようなものだ。

現在売られている美術解剖学の書籍の内容と方向性は間違っていないが、少々不親切かもしれない。それはつまり、表現の初心者がそれだけで人体造形が出来るようになる訳ではないという事実と、その情報を使いこなすには実際のモデルの観察と知識の咀嚼という時間が必要であることが明記されていないからだ。そのせいで、手を出してみたものの理解しきれずに、結局、解剖学を手放したひとも有るだろう。美術解剖学など造形の役に立たないという意見は今でもよく聞くが、これらが原因の一つかもしれない。

情報は正しく使われることで最大の効果を発揮する。人体に関する美術解剖学的な基礎的情報は十分なストックがあると言えるだろう。今、必要とされるのは、情報の追加ではなく、その使用方法の提示なのだろう。