2016年8月13日土曜日

アルワコ族のポポロ

 中米の先住民アルワコ族の男性が携帯するポポロ。ポポロは貝殻を焼いた粉が入れてあるひょうたんと、その粉を付けて舐めるための棒からなる。
 以前にテレビでポポロの事を「棒を舐めて中の粉を付けて、それをひょうたんの外側に擦りつけながら考え事をする物」と紹介していて、その奇妙さから気になった。それだけ聞くと儀式的用具のようで、しかしそういう物を日常的に携帯するという事があるだろうか。ネットで調べてみるとテレビでは言っていない部分があった。すなわち、ポポロはコカの葉と一緒にあるもので、首から掛けた袋に沢山のコカの葉を入れてそれを口中で噛みながら、貝の粉を舐めるという。むしろコカの葉を噛むというのが行為としては主で、つまりはアルワコ族の男性の嗜好品というのが事実だろう。そう見るなら我々にとってのタバコやコーヒーやガムなどと同じだ。もしタバコやコーヒーが一般的ではない文化があったとして「乾燥させた葉に火を点けてその煙を吸い込んで吐く。焙煎した豆の抽出液も一緒によく飲まれる。」と紹介されるようなものだろう。ただ、アルワコ族にとってのそれはもっと文化に根付いていて神話的物語とも繋がっているようだ。タバコやアルコールがシャーマン的な行為とよく結びついていることに近い。それにしても興味深いのは「粉をひょうたんに擦り付けながら」考え事をするという点である。考え事という部分はまあタバコで一服する人の精神状態に近いだろうが、その間、ひょうたんに棒を擦り付けるという行為が成される点は独特だ。その行為が生まれた根源的理由には手持ち無沙汰があるかも知れない。電話で話しながらつい描いてしまう謎の落書きや、人のおしゃべりを聞きながら手元のおしぼりで折り紙をしてしまうような類である。考え事をするにも、椅子にじっと座るより歩きながらのほうがアイデアが浮かんだり、手を動かしながらのほうが思考が進むというのは誰でも実感としてあるだろう。ポポロの貝の粉の擦り付けはそういった行為が形式化、儀式化したものかも知れない。アルワコ族の動画を見ると、口でコカの葉を噛みながら、棒を差し込んだひょうたんを振ったり、棒を右手で持って左手のひょうたんに擦り付けたりしている。その仕草は体に染み付いた自然なものだ。棒の持ち方は皆が同じなので定型化しているのだろう。鉛筆を持つ仕草に近いが、人差し指と中指の間に挟む。

 生産的な行為と直接結びつかないような行為のために両手を塞いで時間を消費している。ポポロはその為だけの道具だ。言い換えればそういった行為が形となった物である。テレビではポポロを異質な行為として紹介していたが、嗜好品として見ればタバコであるし、手持ち無沙汰の時間つぶしとして見ればケータイのソーシャルゲームに似ている。アルワコの人からしたら、皆が皆ケータイを手に持って暇となれば覗き込んでいる光景は異様に映るに違いない。

 また、テレビで紹介されていた時、日本人が気軽にアルワコの男性のポポロの棒を手に取りながら説明していた。その間、持ち主の男性はそれを別段気に留めていなかった。それは、ポポロがお守りのような大切な個人的携帯物ではない事を物語っている。確かに長く使われているであろうそれには、貝の粉が厚く層をなしていたが、それはアルワコの男性にとっては単なる行為の蓄積に過ぎないのかも知れない。


  なぜだか奇妙な魅力があるポポロ。きっと外部の人間が入ってきてその奇妙さを指摘するまで、アルワコの人々は気にも止めていなかったのではないだろうか。私たちにも外から見たら奇妙で儀式めいた日常があるだろうか。

2016年8月10日水曜日

Appleの商品デザイン

 アップル社の商品が持つある種の潔さは、日本人にとって新鮮でもある。iPhoneやMacBookなど革新的な商品とサービスを作るが、その一方で、MacBookの充電ケーブルはプラグ部品のフックを持ち上げてそこにぐるぐると巻き付けさせるという「アナログ」さを持つ。これが日本製品だったら、この案は採用されないと思う。巻き付けさせるにしてもそれを見せないようなカバーが付いていたりと、何かもう一段階のお飾りが加えられているだろう。iPadも革新的商品だが、その保護カバーは「ゴム製シートで覆う」というアナログさである。使う時はそれを裏側へとめくり返す。ペラペラとしたシートは視覚的なチープさがあって、これも日本製品だったら却下されてしまうアイデアだろうと思う。Microsoft社のタブレットはそういうところがより日本製品ぽい。

 しかし、よくよく考えてみると、アップル製品が持つ革新性は”より直感的に”という目標に向かっているのであって、なにも非日常的なクールさといったデザインされた格好良さだけを目指しているのではないことがわかる。iPhoneやタブレットのハードウェアのシンプルさは、その方が(ハードウェア的拘束から離れることによって)もっと便利で直感的な物にできるからだ。アナログなコードの巻き付けも、それが最も直感的で簡単だから採用されたのだろう。「風呂の蓋」と呼ばれるiPadの保護カバーも、それが最も軽量でシンプルなのだ。

 こうやって見ると、アップル商品はデザインのためのデザインではない事がわかる。対する日本的は製品は、デザインのためのデザインが多い。家電や自動車はそれが際立っている。時には見た目の良さのために使いやすささえ犠牲になっている。日本人は形に機能以上の重要性を見出す気質があるとも言える。形もまた機能と同等に捉えるとも言い換えられる。

 ともあれ、iPhoneやMacBookなどは、機能と形(デザイン)を高度に結び付けた点(更にそれをセールスポイントとして積極的に提示する点も)が従来になく新しかった。機能は機能、形は形と別々に進んでいるように見える日本商品に慣れていた私にはそれが衝撃的だった。アップル社製品に見られる商品開発デザインの方向性の元となる気質は、民族性や文化性など、より深い気質の違いが関係しているのだろうか。

2016年8月8日月曜日

カブトムシ

オスのカブトムシが死んだ。昨晩は元気で、他のもっと体の大きなオスをツノで追い払っていて元気だったが、朝には死んでいた。カブトムシは生きていても死んでも色や形が変わらない。生きているのか死んでいるのかは、動くか動かないかの違いだけだ。死んで間もなければ重さも変わらない。カブトムシの人生(カブト生)がどんなものかわからないが、虫ケースの中で餌ゼリーを取り合ったり、土に潜ったり、メスを追いかけたりして、そこにはカブトムシとしての生き方が確かにある。死んで動かなくなったカブトムシはそこから脱落したかのように見える。もはやそれは、「生き方の中のカブトムシの形」ではなく、ただの「カブトムシの形」だ。形と、形の成因としての生き方とは密接に関連しつつ同一のものではない。「かたちとは終局であり、死である。形成こそ〈生〉なのだ」というパウル・クレーの言葉を思い出す。

 唐突だが、このクレーの言葉は彫刻芸術において最重要の訓示ではなかろうか。ただ形の面白さだけを追っていては決して生きた彫刻にはならない。我々は、形成を生をそこに宿さなければ。