2019年1月15日火曜日

日本美術解剖学会の記録


 取り立てて喧伝するような活動をしているわけでもない私に、発表の機会を頂いた。同学会幹事でもあり今回の(そして常連の)発表者でもある小田先生の発案との事で、とても嬉しい。小田先生とは、多く話せなかったが、「(私が)いつも聞いているほうだから。もっと発表すべき」と言われたことが印象深い。

   その小田先生がご自身の発表(筋骨格図の製作過程)の中で数回、「肋骨を描くのが辛くて辛くて、発狂しそうだった」という事を言っていて、そこに私は強く同感し頷いていた。「骨格に比べたら筋は簡単」というのも、全く同意である。骨格それも脊柱と肋骨は同じ形状の繰り返しで、中でも肋骨はほとんど同じカーブを何本も描く事になる。その上ただの縞模様を描くわけでもなく周辺構造との関連性や立体感を維持しながらそれをしなければならないので、非常に辛い。輪郭線から始めるとなると、一本の肋骨に対して上下に2本の線を描く事になり、また、肋骨と肋間の区別がその段階では表現されていないので、ただ何本も鉛筆のカーブが描かれているだけのように見えて、その確認でも精神を消耗するのだ。
   私自身も、解剖図作成で体幹の骨格を描くのが最も気が重い。そんなのはしかし誰とも共有できるような感覚ではないと思っていたが、やはり他にもいたのだと分かっただけで今後は気が楽になるだろう。

   私の発表内容は2016年末に出版した自著の製作過程の紹介だった。その中で、粘土写真を使った理由の説明過程で、解剖書の解剖図が現在のように前後上下の直交視点になったのは1858年のGrayからのように見えるが坂井先生にお聞きしたいと言ったところ、後の坂井先生の発表中に、Grayの木口木版で本文と同ページの印刷が可能になった事が影響しているだろうとの返答をいただいた。
   発表後すぐ、坂井先生に「いやぁ、色々やってるんですねぇ。」と言われた。

   その坂井先生の講演は、医学の立場からということで、「言葉 Literacy」を美と並置した内容であった。医学における美と言語の並置とは、つまり解剖図である。坂井先生の膨大な研究に基づく深い知識から掬い上げた簡潔な言葉で論理的かつ明解に組み上げられた発表は、ほとんどそれ自体が構築的作品である。「アルビヌスの解剖人は私たちの世界とは異なる悠久に立っているようだ」との言及は詩的で主観的にも聞こえるかもしれないが、それはアルビヌスの作画過程とその前後の解剖図と医学の変貌の流れを踏まえているからこその真実味なのだ。

   剖出(ぼうしゅつ)に技としてのアートを見出している加藤さんの発表は、まさに解剖写真の見どころを示していく内容だった。人体を内部構造を意識しながら造形する作家には直接的に役立つ情報の数々だった。よくできているものほど違和感がないので、そこに至る過程などは見えなくなるものだ。加藤さんによる剖出の丁寧さによって、そこに至る労力は見事に隠されていた。発表中の笑顔に解剖への態度が現れていた。

  東大博物館の遠藤先生による司会のMCの安心感たるや真似できるものではない。私の発表中にそっと手渡された紙の切れ端には「そろそろ終わりましょう」と走り書きされていた。これは記念に取ってある。

   会の後半は、演者の4名が前へ出て質疑やディスカッションを行う予定だったが時間がなく、数名の質疑応答のみ。「ヌードモデルの観察で、前と後の腸骨棘の関係性がずれて見えたことがあるが、動くのか」という質問には、全員から動かない、ずれないという回答。しかし質問者(学生)はずれていたという実感があるのだから、その主観的事実を重視すべきだとも答えた。ずれたり動いたりはしないが、人間が自然物である以上、個体差として前後の高さが異なることは十分に有り得る。だから、それがどのように違和感を感じさせたのか、が知りたいところではあったが時間の関係上それ以上は話は進まなかった。私としては、そういう視点で人体を構築性から観察する学生がいることが嬉しい驚きである。確か彫刻科と言っていたような。
 また、私の書籍で用いている材料が安価なものばかりなのはなぜか、という質問も受けた。まさしく、それが売りの一つと思っていた事なので気付いてもらえて嬉しかった。粘土で人体を造形するというのは非日常的行為なので、特殊な材料が必要になると実際に作ろうとするハードルが高まってしまうだろうと考えたからだ。芯材の価格は500円もしないものだが、それでも街のホームセンターなどには売っていないので、実はまだハードルは低くない。本当なら、100円ショップの材料で始めた方が良いのかもしれない。もちろん理想は、ダイソーが芯材を販売してくれることだが。懇親会にてこの質問をされた方と話すと、大学は違えど彫刻科出身との事だった。私よりずっと先輩だが。

 美術解剖学という狭い領域に興味を持つ数少ない人々が集まれるこのような場から、次の展望が広がればと思う。








2019年1月7日月曜日

告知 日本美術解剖学会


参加料が掛かりますが、どなたも参観できます。
どの時間からでも入室できます。硬い雰囲気ではありません。
芸術と学術の境界を楽しんでいただければと思います。

2019年1月6日日曜日

西洋人ヌードモデルを用いて

 2019年初の外仕事は朝カル。いつも参加される皆さんの顔ぶれに宿る芸術と人体への積極的な眼差しは相変わらずで、そこには年始も平日もない。

イメージ
3回セットの今回は外国人モデルの体型を見ることが主眼である。私たちが「芸術」と呼んでいる対象は大抵は西洋美術で、もちろんヌードを描いたり見たりする文化も西洋から来たものだ。西洋美術のヌード(のモデル)も西洋人なのでその体を実際に観察することで、色々と気づくこともありそうだ。そのうえ、受講される方の多くは常連なので、日本人のヌードは相当に目に馴染んでおり、西洋人の身体を見たときに東洋人との体型の差異をより敏感に感じ取れるだろう。実際、私自身もほとんど経験のない西洋人の身体で、改めて、同じパーツで構成されながらもこうも異なるのかと驚きの連続であった。
 モデルは白人の細身の女性で、よく言われる通り、脚が長い。それを担保しているのは短い胴である。頭は前後に長い長頭型なのも典型的である。このように一般的に言われている”違い”は、もちろんそれ以外の全身に渡って探し出せるもので、手足の先端までに至る輪郭線ひとつとっても見慣れた東洋人のそれとは異なっていて、身体に現れる曲線が全て引き伸ばされているように見えた。脊柱の弯曲も若干強いので、前面では肋骨弓が強く張り出し、骨盤下部は後方へ引っ込む。胸郭は垂直に立ち気味なので、そこから上へ伸び出る頚は垂直に近く立っている。
 「日本人のふくらはぎは低く、欧米人のそれは高く見える」と受講者からの意見。しばしば比較に出される部位で、実際そのような違いがある。ふくらはぎは、膝を曲げる筋とかかとを挙げる筋の複合体で、後者の筋腹がより低く位置し立位では足首を固定する姿勢維持筋でもある。収縮力を持つ筋腹は厚く重い。その重量物は脚の運動の起点である胴体に近いほど、前後に振り戻す際の力が少なくて済む。実際、高速移動型の動物は重たい筋腹を胴体側に集めていることは馬の体型を思い出せばよくわかる。反対に、東洋人のふくらはぎのように筋腹が作用点つまり足首に近い場合、脚の高速運動には明らかに不利に働く一方で、かかとを挙げた姿勢で”てこ棒”(モーメントアーム)を長くできる。なぜこのような違いがあるのか分からないが、東洋人の身体は高速で移動するデザインではない。
 また、頭部における耳の位置の違いも質問で出た。耳は頭部の目立つ部位でありながら、その表現においては二の次に扱われる。それはおそらく人の表情の構成要素ではないからであろう。耳は頭部の中を個人差で移動するものではない。耳の位置は頭部の位置と強く関係している。普段私たちは耳は音を聞く器官ほどしか思わないが、耳の本当の働きは頭部の位置、それも立体空間内での位置を同定するためにある。頭部以外の身体は、大げさに言えば頭部の位置に従っているに過ぎない。もしくは、頭部の望むべき場所と位置を叶えるために存在している。内耳と呼ばれる耳の奥深くは液体で満たされ、身体とは別のもう一つの空間が再現されており、頭部の動きや位置はこの空間との差異によって同定されている。そして、もうひとつがいわゆる外耳が拾う外世界の音だが、単に音を聞いているというより、音波の高低と大小の違いから外世界との相対的な位置を算定している。自分が止まっていれば周囲の音源を立体的に探索することができるのは、耳が左右についているからであり、目が左右にあることで視覚的距離感を得ることと理論的に大差がない。ただ音は光より遅く進むので、到達時間の差異を探索に利用することができる。どうするかというと頭部を動かすのである。犬や猫が頭をかしげることがあるが、それは音で距離を測っているのだ。ちなみに私たちのかしげる動作は「分からない」というメッセージになっているが、これも音による探索から来ているのかもしれない。話を戻すが、耳は音の差を拾うために、頭部の両側(互いの距離が最大)に置かれ、その回転中心に頭と頚の関節がくる。こうすることで、ちょうど回転レーダーの傘と軸のように機能している。人間の耳も同様で、外耳孔の真下に頚との関節が位置している。つまり、耳の位置は頭の中で決定するというより、頚椎と頭が連結する部位との関係性で決まるのである(もう少し細かく言えば、空間内における特定の動物ごとの頭部の運動軸)。
 西洋人は耳から前方までの距離が長く感じられるが、これは一言で言えば長頭だからで、ではなぜ長頭なのかと言うと”よく分からない”。ただ、長頭という一言でまとめてしまうと若干大づかみで、例えば化石人類は顎が丈夫で長いために長頭だが、西洋人のそれはもちろん異なる。むしろ、額の突出と大きな鼻がそう見せている。そのうちの鼻は中が空洞だが、額は脳の前頭葉によるものだから重さが相当ある。頭関節から遠方が重いのでそれを支えるには後頭部を下に引っ張らなければならない。より小さな力で引っ張るには”てこ棒”を長くすれば良いので後頭部も突出する。結果的に前後に長い長頭となる。頭関節を間に介して頭部の前後を比較すると、ちょうど脳の体積を前後に2分するような位置にあることがわかる。ただ前方には脳に加えて顔があり、顔は丈夫で重たい下顎やそれらを動かす筋が付着するので重さが増す。とは言え、獲物を捉えるためにできた顎はいたずらに短くできない(人類は十分に短いけれども)。短すぎると咀嚼力の低下か、それを補うための厚く重たい咀嚼筋を具えるかのジレンマが生まれる。その際どい拮抗点が人類の今の顔の前後長であろう。対して頭関節から後方には強力なうなじの筋を目一杯つけることができる。頭部をペンチ(はさみでもいいが)に例えれば、グリップが後頭部だ。大人が力任せに握れるならグリップは短くてもいいだろう。だから頭部を耳を起点として前後長を比べると必ず前方がより長い。一方で顎が小さくて筋力が弱い幼児では、後頭部が相対的に長く突出して見える。

 クロッキーを行う部屋の天井は蛍光灯が全面に取り付けられ全光源になっている。そのため、モデルの体にも反射光を含めると全体に光が回る。これは輪郭線を追うには良いが、身体の起伏を追うのには実は向いていないことに、今更ながら気付いた。モデルの肌は白く、日本人以上に光を吸うので数メートル離れると起伏がほとんど消えてしまう。そこで部屋の奥側の蛍光灯を消して見たところ、凹凸が強調され、全く見えなかった微細な起伏を目で追うことも可能になった。思えば西洋絵画の古典のほとんどが蛍光灯や室内灯などない時代の光線をもとに作られている。今後は光源のコントロールも念頭におきたい。

 セッション後に、西洋人の「動き」も観察したいという意見を頂いた。確かにそれも興味深い。今後は、人種の違い、光源、そして動きなど、要素の拡大を考慮していきたい。