死、死、死。ニュースでは日々、誰かの死が伝えられる。交通事故、火事、転落、夏休み中のこの時期は「溺れた」、「流された」という水難も多い。その他に殺人事件も数日おきに報道される。いずれにせよ、ニュースになる死は、どれも「無かったはずの死」である。彼らのほとんど全員が、今日が自らの最後の日だとは思っていなかったはずだ。私たちと同様に、漠然と寿命まで生きると思っていたはずだし、大小さまざまな人生の予定を組んでいたのである。しかし、人生は断たれた。死によって、その人は人間社会から脱落し、彼らが歩むはずだった道は消える。
アクシデントによる死のニュースを聞くと、その人の”最後の苦しみ”を想像する。苦しみの果てに死があると、いつの頃からか信じているので、死んだ人は最大の苦しみを体験したのだろうと考えるのである。それは、私たち生きている人間は誰も体験したことの無いものだ。体験した人はすべからく死んでいるのだから。その、想像しうる最大限の苦しみやそれに付随する恐怖感を、望んでもいないのに経験しなければならなかった事の無念さを私たちは同情する。苦しかったろう、辛かったろうと。
ただ、その辛さも死によって消えた。生きている私たちが危険から遠ざかろうとするのは、痛みや辛さの記憶があるからである。私たちは、痛みを”知っている”。だが、死んでしまえば記憶もない。つまり苦しみも痛みも無い。当たり前のことだが、それがどういうものか、生きている側からは直感できない。命のないもの、例えば石も命がないが、では石のように考えなさいと言われてもそれは難しいのと同じである。命がない石は”考えない”。考えないことを考えなさい、とはどういうことか。これは、私たち生きている側の視点から見てしまうからおかしくなるのではないか。なにせ、生とか死とか分けるのは、生きている私たちだけなのだ。つまり、”考えない”は”考える”があって生まれる対の概念なのだから、”考える”がないのなら”考えない”もないのである。
死がどういうものか、死者を含め誰ひとりとして、体験しない。死は”生きている者”が作った対の概念である。別な言い方をすれば、死はこの世にしか存在しない。人は死ぬと死体となる。死と死体とは別物だ。
生きているとき、自分の体は自分の物だが、死体は死んだその人の物でさえ無い。死体はそれを”死体”と呼んでいるこの世の物、つまり生きている私たちの物である。これは実に奇妙に聞こえる。身体の所有権が自分から他者へ移ってしまうのか?実際はそうではなく、生きているときから、自分の身体は他者の物でもあるのだ。もちろんそれは物質的な身体ではなく、認識される身体としてであるが。つまり、死ぬことでその人の主観的認識だけが無くなるのである。それ以外は変わらない。こうして気付くことは、自己の認識と他者の認識とが、とても似通っているということだ。私たち人間は互いにそっくりで、相手の考えていることがなんとなく透けて見える。それは実は不思議なことではなく、他者の行動を自己として投影することで自意識が作られたからではないだろうか。その時、死体は理解不能な自己として映し出される。それは生きている限り未経験だからだ。死は生きている者が永遠にたどり着けない先であり、同時に死体はそれが起こった物質的証拠としてそこに横たわる。死が”生の先にあるもの”と感じられるのは、そんなところが理由の1つかもしれない。
死ぬと、生きていたことも忘れる。忘れるという概念すらない。時間は流れていないという物理理論があるそうだが、死を思うとそれも納得できる気になる。時を感じるのは生きている間だけなのだから。何年生きたのか、どう生きたのか、そういったことも死ねば全て無意味である。なにせ死ねば、死がないのだから、生もないのだ。
何でこんなことを考えているのか。生きているということを確認するためなのかもしれない。
2015年11月8日日曜日
自覚される生の終わり
死ねば全てが終わる。終わるというのは、生きている側からの感想で、死ねば「終わり」さえ無い。「死にたくない」というのは、本質的には本能の叫びだが、その理由をむりやり言葉すると、「大切な人と別れたくない」、「今までの努力を終わらせたくない」など、生きている現状や継続との断絶を嘆く。しかし、死ねばそれらを惜しむ感情さえ消えるのだと思えば、実は気に病むことでもないと言える。また、不慮の死や苦しみを伴う死であれば、その最後を哀れむ気持ちを残された側の人間は思うわけだが、死んだ側はそういった痛みも全て終わっている。そう考えるとまさに死こそは、生きている我々に必ず訪れる「完璧なる平等」であるように思えてくる。死を迎えた側にすれば、何歳まで生きたか、男だったか女だったか、良い人生だったか否かといった全てが意味を失うだけでなく、「生きた」という事実さえ消えるのだから。
つらい人生を、苦しみを、痛みを抱えて耐えて生きる人々が多くいる。生きている間の苦しみは真実である。地獄はこの世にあるのだ。
また同時に、この世界は喜びにも満ちている。期待し、この上ない幸せを感じるそれも真実だ。天国もまたこの世にある。
結局、私たちにとっての全ては、私たちが生きている間だけの事だ。過去を知り、未来を想う。それも生きている間だけの事。遅かれ早かれ、生きている全ての者に死は平等に降りてくる。生きている側から見る”死に方”は平等に映らないだろう。しかしそれは客観的な”死に方”であって”死”ではない。死はあくまでも平等な無である。
私たちは、無から生まれ、しばし生かされ、また無となる。結局、皆、死んで無に戻るのだから、産まれたことや生きる事に意味があるのだろうかと時に思う。しかし、生きている間は生きていることに意味がある。生きている間にする事は、生きている者にとって意味がある。だから生きている間に、どう死ぬのかを考えすぎることは本当はあまり意味がないのかもしれない。
周りを見れば、自分の生きる環境や文化は、かつて「生きた」人々によって構築され積み上げられたもので成り立っている事に気付く。例えば、この言語もしかり。
それと同様に、いま私たちが生きて活動することが次に生きる者のための何かになっていく。産まれ生きること自体が、この世界を作る基盤なのだ。死ねば私の全ては無となるが、生きた意味は何らかのかたちで世界に意味を与え、それは次へと伝播していくだろう。
つらい人生を、苦しみを、痛みを抱えて耐えて生きる人々が多くいる。生きている間の苦しみは真実である。地獄はこの世にあるのだ。
また同時に、この世界は喜びにも満ちている。期待し、この上ない幸せを感じるそれも真実だ。天国もまたこの世にある。
結局、私たちにとっての全ては、私たちが生きている間だけの事だ。過去を知り、未来を想う。それも生きている間だけの事。遅かれ早かれ、生きている全ての者に死は平等に降りてくる。生きている側から見る”死に方”は平等に映らないだろう。しかしそれは客観的な”死に方”であって”死”ではない。死はあくまでも平等な無である。
私たちは、無から生まれ、しばし生かされ、また無となる。結局、皆、死んで無に戻るのだから、産まれたことや生きる事に意味があるのだろうかと時に思う。しかし、生きている間は生きていることに意味がある。生きている間にする事は、生きている者にとって意味がある。だから生きている間に、どう死ぬのかを考えすぎることは本当はあまり意味がないのかもしれない。
周りを見れば、自分の生きる環境や文化は、かつて「生きた」人々によって構築され積み上げられたもので成り立っている事に気付く。例えば、この言語もしかり。
それと同様に、いま私たちが生きて活動することが次に生きる者のための何かになっていく。産まれ生きること自体が、この世界を作る基盤なのだ。死ねば私の全ては無となるが、生きた意味は何らかのかたちで世界に意味を与え、それは次へと伝播していくだろう。
2015年11月7日土曜日
自覚される生とされない生
生の自覚。私たちは自分が生きていることに疑いを持たない。それは生きている私たちにとって自明な事として感じられる。しかし、生きていると実感するから生きている訳ではない。それを自覚しようがしまいが、関係なく私たちは生きている。例えば、新生児は自分が生きていると実感しているだろうか。生きているという実感や自覚は、現象としての生とは別のものであり、ずっと後に生まれた感覚なのだろう。人間以外の動物を見渡してみて、どうだろうか。昆虫は生を自覚しているだろうか。プランクトンはどうか。細菌は?
自分が生きているという「生の自覚」は人類の進化の過程のどこかで生まれた。もしくは、気付いた。恐らく自意識の芽生えと時期を同じくするのではないだろうか。
夜なき朝がないように、生には死が対となってつきまとう。私たちは気付いたときには生きていたのだから、人類の歴史を遡ってもまず始めに知っていたのは死であろう。獲物を食べるにはその動物を殺さなければならない。身近な者の死も頻繁に目にしていたはずだ。永久に動かなくなる現象、すなわち客観的な死を認識するとき、そうなっていない状態が生として見えてくる。死なないにしても、怪我や病で苦痛を味わうこともある。そして、それが原因で死ぬ者を見る。その経験は、苦痛と死とを結びつける。私たちは苦痛を恐れ、苦痛の先には死があるように思う。死に近づくほど苦痛も増すだろうと想像するのだ。繰り返すようだが、死は客観的に観察され認識された概念である。誰ひとりとして自分自身の死を体験することはない。私たちが主観的に体験するのは生だけなのだ。客観的な発見である死によって、主観的な自らの生の自覚に至ったのだ。
しかし、この事だけで満足はできない。なぜなら、私たちは生を自覚する以前から生きていたのだから。苦痛は死に近いと知るずっと前からそれをしてきたのだから。私たちは死なないように気をつけてきたから絶滅しなかったわけではない。「死なないように気をつけてきた自分に気付いた」のに過ぎない。だから生は、少なくとも2つの段階に分けられるように思う。すなわち、自覚される生とされない生である。現代社会において語られる生は、当然ながら自覚される生が基準となっている。それは人間1人を単位として尊重され、それゆえ犯罪や戦争でもその有り様や質が常に問題視される。これら自覚される生はしかし、実体としては自覚されない生によって成されているのである。私たちは言わば、有無を言わせず生かされているのであって、これが自覚されない生、もしくは単に生命現象と呼べるものだ。
私たちが気付いた生や死、それと関連付いている苦痛や恐怖は、この生命現象の段階で既に組み込まれているはずである。苦痛や恐怖の自覚は私たちを死の危険性から遠ざけることに役立っている。問題はそれらの自覚がいつ与えられたのか(気付いたのか)、である。小さな虫も身の危険から自らを守ろうとしているのは明白である。また敵が近づけば逃げるか攻撃に転ずる。彼らは死もしくは身体的な危機から逃れようとする。そのもがきあがく姿からは、彼らが痛みを感じているだろうと想像させる。なぜなら、私たち自身が耐え難い痛みを感じるとき、もがきあがくからだ。つまり、客観的な行動を自分の主観と結びつけて捉えているのである。では、次に上げる例ではどうか。置いてある小さな玉に、一回り大きな玉を転がしてぶつける状況を想像してほしい。小さな玉は大きな玉がぶつかると同時にそこから離れるように転がり去る。これは見ようによっては、小さな玉が一回り大きな玉の”攻撃”を受けてそこから逃げていくようにも映る。だからといって、小さな玉が危険から遠ざかろうと感じているとは思わないだろう。このことから、「そう見える」現象が、必ずしもその通りであるとは限らないと分かる。以上は極端な例えとは言え、つまりは、小さな虫がもがきあがいているからと言って私たちと同様の苦しみを”自覚している”とは限らないということだ。
忌避行動がその自覚に基づいているわけではないという根拠は、自分の体でも見出される。例えば内臓疾患などはそこに炎症が起きていても実感されることがない。内臓を管理する自律神経系は通常私たちが意識できない領域である。自律神経領域の痛みを実感するのは、その炎症が広がって体性神経系にまで波及したときや、神経伝導路で体性神経系へ刺激が”漏れ出る”ことで気付かれたりするなど、二次的な行程を踏んでいるとされる。つまり、炎症が起こる当初は、私たちはその事に気付かない。気付かないにも関わらず、身体は異常を検知してそれを取り除こうとするのである。”意識的”な私たちは、自分の体についても意識的であると思いがちだが、事実はそうではなく、自分の身体状況の多くが意識に上ることなく処理されているのが事実なのだ。この、意識に上らずとも刺激に反応して私たちを”生かしている”神経系とそれに伴う器官系を総称して「植物的身体」と呼ぶことがある。それ以外の意識的な身体を「動物的身体」として、その対の概念である。なぜ植物か。実際の植物は私たちのような神経系統を持たず、ゆえに中枢も存在しない。光合成によって自らエネルギーを産生するので積極的に動く必要が無く、運動器系も当然持たない。繁殖による拡散は外部の自然環境にゆだねている。そう、植物は自らの運命を自分周囲の環境に完全に委ねている。委ねるのだから、積極的に対象を探る必要がないのだ。私たちの体の植物器官もまた、正にそのように存在している。例えば内臓たちがそうである。内臓は、取り込まれた食物からひたすらに栄養を取り込み、反対に不要物を選り分け排出している。臓器はそれだけで空間を移動することもできない。その意味合いにおいて、植物的な存在なのである。ただ、内臓は筋肉で出来ているので植物のように動かないのではなく、積極的な蠕動運動や拍動を繰り返している。何らかの刺激が加えられればそれに対して能動的な運動を見せることが植物とは違う。私たちが自覚せずとも自ずから生を全うしようと活動している様は、正に生命”現象”として映るものだ。つまり、自律神経系とそれに支配される器官は、私たち自身が持つ「意識されない生」を担っているのである。私たちが”生きよう”と努力せずとも日々生命を繋いでいるのは、この意識されない生によって継続されているからに他ならない。
もう一つの意識される生には、植物的身体の対概念である動物的身体が含まれる。これは、意識的な私たちにとってずっと理解しやすい。自覚できるからだ。動物的身体の神経系を体性神経系という。いわゆる脳と脊髄がその中枢であって、私たちが”感じる”世界は全てこの体性神経系に属している。ただ、自覚されない生に植物的身体がフィットしたように、動物的身体が自覚される生に素直に収めて良いのかとなるとそう単純ではない。なぜなら、自覚は自意識と密接だからである。植物的と動物的な身体の獲得はそれこそ数億年遡ることが出来る古さを持つが、こと自意識の獲得となると、話はまた別なのだ。自意識とは何かについては、現代においても明確に定義も出来なければ、それが本当にあるのかどうかの客観的判断さえあやふやなのだから。ただ、ここでは、私たち自身が主観的に”感じている”自己身体感覚は自意識に基盤を持つことを前提にしている。では自意識をいつから私たちは獲得したのだろうか。これは芸術表現の出現と密接ではないかと想像している。原始芸術での身体表現の始まりはつまり、自身の身体を発見したことを示していると言える。見つかっている原始芸術の人体表現で最も古いものが4万年ほど前だという。つまり、その頃には自分の体を客観的に気付いていた。その頃の人類は既に苦痛への恐怖を知り、その果てに自らの死があると(私たち同様に)思っていたかも知れない。ただ重要なのは、それは生物学的には事実ではないことと、また、4万年よりずっと前から、つまり意識的になるよりずっと以前から、動物的身体は対外的危機からその肉体を救っていたという事実である。これをどう捉えればよいのだろうか。意識は身体よりずっと新しいのだ。意識が生まれる以前には痛みも死の恐怖を自覚することはなかったものの、危険回避行動は行われてきた。自覚される痛みが絶対的でないことは、鎮痛剤や麻酔薬の効果を思えば直ぐ分かるし、就寝時に布団で窒息死するということがないように、痛みの自覚と忌避行動とは常にペアである訳ではない。つまり、自覚される痛みと、それに対応するストレス反応とは本質は違うものだ。自覚は意識の芽生えと密接である。つまり、痛みの自覚や死の恐怖は”後付けされた”ものなのだ。つまり、自覚される生は自意識の発展に伴って発見された動物的身体のことである。
人間社会で問題にされる生は、そのほとんどが自覚される生についてだが、上で記してきたように、実際の生はまず自覚されない生によって継続されている。それは生物学的な生、もしくは現象としての生とも呼べるようなもので、情緒の入り込む隙間がない。医療の現場で対処されるのはこの意識されない生の補修と維持だと言える。一方で、QOL(生命の質)が要求もされるが、それは自覚される生についての問題である。脳死や臓器移植などにおいて、生と死の捉え方の違いや線引きが問題となるが、結局これも自覚される生と自覚されない生との問題でもある。
私たちは、「生きている実感」と言うように、自覚してこその生であると感じているが、それは自意識の発達に伴う後付けの感覚に過ぎないのかも知れない。そして、それを維持”させる”ために快楽が与えられ、痛みや不安もまた用意された。自覚される生において、快楽という導きと痛み不安という側方防御に守られて私たちは前へ進んでいる。
生存への執着や死への恐れも、自覚される生がもたらしている。自覚される生は個人の外世界との対応において何より重要だが、それを獲得したもう一つの可能性として、社会性との関連がある。死という概念が客観的な観察からもたらされるように、その対としての生も観察され、それは自らの状態へと還元された。自覚とは自己客観性のことである。こうして、他人の生の状況が自らのそれと照らし合わされる。これは共感のことであり、それは社会性安定にとって重要な感覚である。生の自覚を伴う自意識の発達には人類の社会性構築という性格が深く関係しているように思われるのである。これを反対に捉えるなら、社会性がなければ自意識も自覚される生も必要性がない。自覚されない生、生物学的な生だけで十分だろう。このことから、恐らく、胎児は自分が生きているという自覚は持たないだろう。小さな虫も同様である。社会性昆虫も存在するが、彼らの社会性構築は人間のそれとは全く違うもので、むしろ、昆虫の社会性は細胞の分化や群体に近く、人間のように共感によって安定が図られているのではない。
結局、自覚される生を含む自意識そのものが、人類の社会性構築と関連しているように思われてくる。つまり、他者との比較が自意識を発達させ、共感を生み、やがて社会構築へと進んでいったのではないか。「私」を成り立たせるにはまず「あなた」が必要なように。
自分が生きているという「生の自覚」は人類の進化の過程のどこかで生まれた。もしくは、気付いた。恐らく自意識の芽生えと時期を同じくするのではないだろうか。
夜なき朝がないように、生には死が対となってつきまとう。私たちは気付いたときには生きていたのだから、人類の歴史を遡ってもまず始めに知っていたのは死であろう。獲物を食べるにはその動物を殺さなければならない。身近な者の死も頻繁に目にしていたはずだ。永久に動かなくなる現象、すなわち客観的な死を認識するとき、そうなっていない状態が生として見えてくる。死なないにしても、怪我や病で苦痛を味わうこともある。そして、それが原因で死ぬ者を見る。その経験は、苦痛と死とを結びつける。私たちは苦痛を恐れ、苦痛の先には死があるように思う。死に近づくほど苦痛も増すだろうと想像するのだ。繰り返すようだが、死は客観的に観察され認識された概念である。誰ひとりとして自分自身の死を体験することはない。私たちが主観的に体験するのは生だけなのだ。客観的な発見である死によって、主観的な自らの生の自覚に至ったのだ。
しかし、この事だけで満足はできない。なぜなら、私たちは生を自覚する以前から生きていたのだから。苦痛は死に近いと知るずっと前からそれをしてきたのだから。私たちは死なないように気をつけてきたから絶滅しなかったわけではない。「死なないように気をつけてきた自分に気付いた」のに過ぎない。だから生は、少なくとも2つの段階に分けられるように思う。すなわち、自覚される生とされない生である。現代社会において語られる生は、当然ながら自覚される生が基準となっている。それは人間1人を単位として尊重され、それゆえ犯罪や戦争でもその有り様や質が常に問題視される。これら自覚される生はしかし、実体としては自覚されない生によって成されているのである。私たちは言わば、有無を言わせず生かされているのであって、これが自覚されない生、もしくは単に生命現象と呼べるものだ。
私たちが気付いた生や死、それと関連付いている苦痛や恐怖は、この生命現象の段階で既に組み込まれているはずである。苦痛や恐怖の自覚は私たちを死の危険性から遠ざけることに役立っている。問題はそれらの自覚がいつ与えられたのか(気付いたのか)、である。小さな虫も身の危険から自らを守ろうとしているのは明白である。また敵が近づけば逃げるか攻撃に転ずる。彼らは死もしくは身体的な危機から逃れようとする。そのもがきあがく姿からは、彼らが痛みを感じているだろうと想像させる。なぜなら、私たち自身が耐え難い痛みを感じるとき、もがきあがくからだ。つまり、客観的な行動を自分の主観と結びつけて捉えているのである。では、次に上げる例ではどうか。置いてある小さな玉に、一回り大きな玉を転がしてぶつける状況を想像してほしい。小さな玉は大きな玉がぶつかると同時にそこから離れるように転がり去る。これは見ようによっては、小さな玉が一回り大きな玉の”攻撃”を受けてそこから逃げていくようにも映る。だからといって、小さな玉が危険から遠ざかろうと感じているとは思わないだろう。このことから、「そう見える」現象が、必ずしもその通りであるとは限らないと分かる。以上は極端な例えとは言え、つまりは、小さな虫がもがきあがいているからと言って私たちと同様の苦しみを”自覚している”とは限らないということだ。
忌避行動がその自覚に基づいているわけではないという根拠は、自分の体でも見出される。例えば内臓疾患などはそこに炎症が起きていても実感されることがない。内臓を管理する自律神経系は通常私たちが意識できない領域である。自律神経領域の痛みを実感するのは、その炎症が広がって体性神経系にまで波及したときや、神経伝導路で体性神経系へ刺激が”漏れ出る”ことで気付かれたりするなど、二次的な行程を踏んでいるとされる。つまり、炎症が起こる当初は、私たちはその事に気付かない。気付かないにも関わらず、身体は異常を検知してそれを取り除こうとするのである。”意識的”な私たちは、自分の体についても意識的であると思いがちだが、事実はそうではなく、自分の身体状況の多くが意識に上ることなく処理されているのが事実なのだ。この、意識に上らずとも刺激に反応して私たちを”生かしている”神経系とそれに伴う器官系を総称して「植物的身体」と呼ぶことがある。それ以外の意識的な身体を「動物的身体」として、その対の概念である。なぜ植物か。実際の植物は私たちのような神経系統を持たず、ゆえに中枢も存在しない。光合成によって自らエネルギーを産生するので積極的に動く必要が無く、運動器系も当然持たない。繁殖による拡散は外部の自然環境にゆだねている。そう、植物は自らの運命を自分周囲の環境に完全に委ねている。委ねるのだから、積極的に対象を探る必要がないのだ。私たちの体の植物器官もまた、正にそのように存在している。例えば内臓たちがそうである。内臓は、取り込まれた食物からひたすらに栄養を取り込み、反対に不要物を選り分け排出している。臓器はそれだけで空間を移動することもできない。その意味合いにおいて、植物的な存在なのである。ただ、内臓は筋肉で出来ているので植物のように動かないのではなく、積極的な蠕動運動や拍動を繰り返している。何らかの刺激が加えられればそれに対して能動的な運動を見せることが植物とは違う。私たちが自覚せずとも自ずから生を全うしようと活動している様は、正に生命”現象”として映るものだ。つまり、自律神経系とそれに支配される器官は、私たち自身が持つ「意識されない生」を担っているのである。私たちが”生きよう”と努力せずとも日々生命を繋いでいるのは、この意識されない生によって継続されているからに他ならない。
もう一つの意識される生には、植物的身体の対概念である動物的身体が含まれる。これは、意識的な私たちにとってずっと理解しやすい。自覚できるからだ。動物的身体の神経系を体性神経系という。いわゆる脳と脊髄がその中枢であって、私たちが”感じる”世界は全てこの体性神経系に属している。ただ、自覚されない生に植物的身体がフィットしたように、動物的身体が自覚される生に素直に収めて良いのかとなるとそう単純ではない。なぜなら、自覚は自意識と密接だからである。植物的と動物的な身体の獲得はそれこそ数億年遡ることが出来る古さを持つが、こと自意識の獲得となると、話はまた別なのだ。自意識とは何かについては、現代においても明確に定義も出来なければ、それが本当にあるのかどうかの客観的判断さえあやふやなのだから。ただ、ここでは、私たち自身が主観的に”感じている”自己身体感覚は自意識に基盤を持つことを前提にしている。では自意識をいつから私たちは獲得したのだろうか。これは芸術表現の出現と密接ではないかと想像している。原始芸術での身体表現の始まりはつまり、自身の身体を発見したことを示していると言える。見つかっている原始芸術の人体表現で最も古いものが4万年ほど前だという。つまり、その頃には自分の体を客観的に気付いていた。その頃の人類は既に苦痛への恐怖を知り、その果てに自らの死があると(私たち同様に)思っていたかも知れない。ただ重要なのは、それは生物学的には事実ではないことと、また、4万年よりずっと前から、つまり意識的になるよりずっと以前から、動物的身体は対外的危機からその肉体を救っていたという事実である。これをどう捉えればよいのだろうか。意識は身体よりずっと新しいのだ。意識が生まれる以前には痛みも死の恐怖を自覚することはなかったものの、危険回避行動は行われてきた。自覚される痛みが絶対的でないことは、鎮痛剤や麻酔薬の効果を思えば直ぐ分かるし、就寝時に布団で窒息死するということがないように、痛みの自覚と忌避行動とは常にペアである訳ではない。つまり、自覚される痛みと、それに対応するストレス反応とは本質は違うものだ。自覚は意識の芽生えと密接である。つまり、痛みの自覚や死の恐怖は”後付けされた”ものなのだ。つまり、自覚される生は自意識の発展に伴って発見された動物的身体のことである。
人間社会で問題にされる生は、そのほとんどが自覚される生についてだが、上で記してきたように、実際の生はまず自覚されない生によって継続されている。それは生物学的な生、もしくは現象としての生とも呼べるようなもので、情緒の入り込む隙間がない。医療の現場で対処されるのはこの意識されない生の補修と維持だと言える。一方で、QOL(生命の質)が要求もされるが、それは自覚される生についての問題である。脳死や臓器移植などにおいて、生と死の捉え方の違いや線引きが問題となるが、結局これも自覚される生と自覚されない生との問題でもある。
私たちは、「生きている実感」と言うように、自覚してこその生であると感じているが、それは自意識の発達に伴う後付けの感覚に過ぎないのかも知れない。そして、それを維持”させる”ために快楽が与えられ、痛みや不安もまた用意された。自覚される生において、快楽という導きと痛み不安という側方防御に守られて私たちは前へ進んでいる。
生存への執着や死への恐れも、自覚される生がもたらしている。自覚される生は個人の外世界との対応において何より重要だが、それを獲得したもう一つの可能性として、社会性との関連がある。死という概念が客観的な観察からもたらされるように、その対としての生も観察され、それは自らの状態へと還元された。自覚とは自己客観性のことである。こうして、他人の生の状況が自らのそれと照らし合わされる。これは共感のことであり、それは社会性安定にとって重要な感覚である。生の自覚を伴う自意識の発達には人類の社会性構築という性格が深く関係しているように思われるのである。これを反対に捉えるなら、社会性がなければ自意識も自覚される生も必要性がない。自覚されない生、生物学的な生だけで十分だろう。このことから、恐らく、胎児は自分が生きているという自覚は持たないだろう。小さな虫も同様である。社会性昆虫も存在するが、彼らの社会性構築は人間のそれとは全く違うもので、むしろ、昆虫の社会性は細胞の分化や群体に近く、人間のように共感によって安定が図られているのではない。
結局、自覚される生を含む自意識そのものが、人類の社会性構築と関連しているように思われてくる。つまり、他者との比較が自意識を発達させ、共感を生み、やがて社会構築へと進んでいったのではないか。「私」を成り立たせるにはまず「あなた」が必要なように。
2015年2月26日木曜日
ロダン 印象派彫刻
ロダンは印象派の彫刻家とも言える。いや、彼の生きた時代、場所からすれば、印象派の彫刻家と言って良い。ただ、印象派という言葉は、主に絵画芸術の運動と結びつけられるので、ピンと来ない。けれども、彼の造形を見れば、それが同時代の印象派絵画とそっくりのコンセプトが基にあることに気付く。要するにそれらは、実測に基づいた正確性というより、心に映る「らしさ」をより優先した造形である。また、彼の塑造の特徴である荒く見える粘土付けは、印象派絵画に見られる荒い筆のストロークを思い起こさせる。鑑賞者は、その整えられていない細部に、作家がまさに手を動かした証拠を目の当たりにし、そこに芸術家の心の動きを感じ取るのである。その作家の感動と同調するとき、彼の感動は私たちのものとなる。
思えば、絵画は印象派によって、外世界の描写から、作家の主観性へと対象が大きく変化したのだ。そこに描かれた風景は私たちの外の物ではなく、もはや内の物である。私たちが生きているように、その風景たちは独自の生命を持って立ち現れる。
ところで、印象派が絵画運動として見られるのは、絵画は光学的表現であって、それが眼という光学的器官を通して世界を見ることから始まる現象とリンクしている。つまり、印象派絵画は、「見る」や「見える」という視覚的、光学的感覚への探求が根底にある。
ロダンの彫刻に見られる激しい粘土付けのストロークが残る表面処理は、それがある程度の距離を離れて見られるときにもっともその効果を発揮する。その細かな凹凸の陰影が寄り集まり、それを包む大きな構造の陰影に”心地よいノイズ、もしくはリズム”を与える。凹凸が陰影として捉えられるとき、彫刻は光学的に捉えられる媒体となる。「触覚の芸術」から「視覚の芸術」へと延長が果たされているのである。
ロダンは、ボリュームやマッスのようにその存在感が強く謳われるが、それだけではなく、現代彫刻的な「非触覚的」で「光学的」な表現の近代的はじまりでもあるのだ。
さらにまた、「内的生命」を宿すと形容される彼の芸術も、まさしく印象派的手法によってもたらされたと言って良いだろう。ロダン彫刻が、それ以前と違って、作品独自の生命(感覚)を獲得し得たのは、それらがロダンという芸術家の生命が捉えた「生の印象」がそこに刻まれているからにほかならない。
思えば、絵画は印象派によって、外世界の描写から、作家の主観性へと対象が大きく変化したのだ。そこに描かれた風景は私たちの外の物ではなく、もはや内の物である。私たちが生きているように、その風景たちは独自の生命を持って立ち現れる。
ところで、印象派が絵画運動として見られるのは、絵画は光学的表現であって、それが眼という光学的器官を通して世界を見ることから始まる現象とリンクしている。つまり、印象派絵画は、「見る」や「見える」という視覚的、光学的感覚への探求が根底にある。
ロダンの彫刻に見られる激しい粘土付けのストロークが残る表面処理は、それがある程度の距離を離れて見られるときにもっともその効果を発揮する。その細かな凹凸の陰影が寄り集まり、それを包む大きな構造の陰影に”心地よいノイズ、もしくはリズム”を与える。凹凸が陰影として捉えられるとき、彫刻は光学的に捉えられる媒体となる。「触覚の芸術」から「視覚の芸術」へと延長が果たされているのである。
ロダンは、ボリュームやマッスのようにその存在感が強く謳われるが、それだけではなく、現代彫刻的な「非触覚的」で「光学的」な表現の近代的はじまりでもあるのだ。
さらにまた、「内的生命」を宿すと形容される彼の芸術も、まさしく印象派的手法によってもたらされたと言って良いだろう。ロダン彫刻が、それ以前と違って、作品独自の生命(感覚)を獲得し得たのは、それらがロダンという芸術家の生命が捉えた「生の印象」がそこに刻まれているからにほかならない。
2015年2月24日火曜日
死にものぐるいの形
「しっかり生きろ」や「何となく生きる」などのように、人としての生き方についての文言は多くある。要するに、社会に対してどれだけ関わっているかが、ここで問われている”生きる”の質だ。それとは別に、と言うか、生きるということの本質である”生物学的な生”で言うなら、人はすべからく「本気で生きている」ということになる。私たちの体は、細胞が受精したときから、一時たりとも、生きることに気を抜くと言うことをしない。
私たちは、気付いたときには「生きていた」から、生きるという現象をことさら不思議に思わないものだ。それが脅かされるような状況、つまり大けがや病気などになって初めて、普通に生きるということの驚異に気付くありさまである。我々が、自分の意思など遠く及ばない領域において”生きよう”としているのを実感するのは簡単である。息を止めてみればいい。自分の意思で、道具など使わずに息を止めて、それで死ねる人間はいない。
私たちは、35億年の長きに渡って、一度も途切れることなく継続できた、ほとんど奇跡的な現象の末裔である。それは、”生きよう”とするあまたの生命現象同士の篩いの掛け合いでもあった。地球上に登場してきた生物のほとんどがそこで通過できず、消えていった。だが、私たちは違った。残ったのだ。そこには、さまざまな過酷な状況を突破できた運と、何とかして乗り越えようとする生命現象的な意思とが見事に功を奏した幸運な成功者の姿がある。
そもそも「生まれた」という事実が、「生きよう」という現象の事実を物語っている。生きようとしない誕生など成り立たない。私たちを構成する60兆の細胞の全てが全身全霊で生きようとしていて、それによって構成された「私」という個体もまた全身全霊で生きようとしているひとつの体系なのだ。
だから現象としての生には、私たちの意識の入り込む隙間などない。私たちの存在は、何とか生き抜こうとするためにデザインされている。
「死にたい」なんて言葉をつい言いたくなるときもあるかもしれぬが、そんな言葉は体には関係がない。体が物言えるならこう言うだろう。
「そう思わなくたって、いずれそうなるさ」
多細胞生物としての個体死は必要だから用意されたものだ。私たちが35億年にわたり途絶えなかった成功の秘訣の1つが個体死の適応である。変わりゆく世界において変化に柔軟に、かつ常に刷新された形であるためには、そこに個の交代が必須である。だから、私たちの生には元から死もセットで組まれている。むしろ意味なく死なないことは害悪でしかない。それは、あたかも増殖を続けることで個体死をもたらす癌細胞を思い出させる。私たちの体は死ぬときを知っている。生きる意味が無くなったと判断されれば、速やかに生の継続を止める。
とにかく、私たちは皆、死にものぐるいで生きているのだ。自分の手を、鏡に映る顔を見て欲しい。無駄なお飾りでくっつけたような部分が1つでもあるだろうか。「死にものぐるいの生」に形を与えたら、人の形にたどり着いたのである。死にものぐるいの形である。
私たちは、気付いたときには「生きていた」から、生きるという現象をことさら不思議に思わないものだ。それが脅かされるような状況、つまり大けがや病気などになって初めて、普通に生きるということの驚異に気付くありさまである。我々が、自分の意思など遠く及ばない領域において”生きよう”としているのを実感するのは簡単である。息を止めてみればいい。自分の意思で、道具など使わずに息を止めて、それで死ねる人間はいない。
私たちは、35億年の長きに渡って、一度も途切れることなく継続できた、ほとんど奇跡的な現象の末裔である。それは、”生きよう”とするあまたの生命現象同士の篩いの掛け合いでもあった。地球上に登場してきた生物のほとんどがそこで通過できず、消えていった。だが、私たちは違った。残ったのだ。そこには、さまざまな過酷な状況を突破できた運と、何とかして乗り越えようとする生命現象的な意思とが見事に功を奏した幸運な成功者の姿がある。
そもそも「生まれた」という事実が、「生きよう」という現象の事実を物語っている。生きようとしない誕生など成り立たない。私たちを構成する60兆の細胞の全てが全身全霊で生きようとしていて、それによって構成された「私」という個体もまた全身全霊で生きようとしているひとつの体系なのだ。
だから現象としての生には、私たちの意識の入り込む隙間などない。私たちの存在は、何とか生き抜こうとするためにデザインされている。
「死にたい」なんて言葉をつい言いたくなるときもあるかもしれぬが、そんな言葉は体には関係がない。体が物言えるならこう言うだろう。
「そう思わなくたって、いずれそうなるさ」
多細胞生物としての個体死は必要だから用意されたものだ。私たちが35億年にわたり途絶えなかった成功の秘訣の1つが個体死の適応である。変わりゆく世界において変化に柔軟に、かつ常に刷新された形であるためには、そこに個の交代が必須である。だから、私たちの生には元から死もセットで組まれている。むしろ意味なく死なないことは害悪でしかない。それは、あたかも増殖を続けることで個体死をもたらす癌細胞を思い出させる。私たちの体は死ぬときを知っている。生きる意味が無くなったと判断されれば、速やかに生の継続を止める。
とにかく、私たちは皆、死にものぐるいで生きているのだ。自分の手を、鏡に映る顔を見て欲しい。無駄なお飾りでくっつけたような部分が1つでもあるだろうか。「死にものぐるいの生」に形を与えたら、人の形にたどり着いたのである。死にものぐるいの形である。
2015年2月21日土曜日
「私」と「いのち」はどこに? 電脳人格と機械犬
現在、インターネット上のネットワークを利用した人工知能の開発が進行しているという。その現状のいくつかが先日テレビで紹介されていた。その技術はマーケティング予想などで既に用いられているそうだが、その他に、「ひとの意識」問題にせまる研究も行われている。そのひとつは、既に亡くなっている人を人工知能で「蘇らせる」というもの。生前の画像や動画や日記、手紙など故人と関係する情報を次々と与えていくことで、人工知能が自律的にキャラクターを作り上げていくそうだ。情報が増えることで、その人工知能が返してくる返事はより故人のそれに近づいていく。そうして作り上げられる人工知能としての故人と自分の間に、ふたりの間でしか成立しないような親密な会話が成り立ったとき、人工知能は亡くなる前のその人と同じなのか、別人なのか。しかし、そこにあるのは「声」だけである。
別の例では、全くの仮想的な人格を生成させる。最終的にはその人工知能に感情が生まれるのかどうか、というところも含めて研究している。これは、出力媒体として、人間に似せた首から上のロボットが作られ、それが質問者に対して語りかける。シリコーンの皮膚を持ったリアルな首だけの肉体が、ぎくしゃくと動いて「機械声」で語りかける光景は80年代のSF映画の様だ。
マーケティング予想でも有効な回答を出すように、人工知能は非常に的確(であるように思われる)回答をしてくる。仮想的な人格でも成り立つほどの“精度”を持っていると言える。そうでありつつ、我々が知り得るのはいつも回答だけで、それがどのようにして無数の情報ネットワークから引き出されたのかは、提示されないのだという。その意味においても、私たち自身の意識と似ているように思われる。私たちは意識や感情は”実感”しても、それがどのように自発的に生み出されているのかは分からない。
今この瞬間にも、人工知能は膨大なネットワークを組み込んで、自らの知を膨らませ続けている。そこにやがて自発的な感情が生まれるのだろうか。それとも、それは既にあるのかも知れない。
人工知能が「情報」というソフトウェアであるなら、人工的な「身体」つまりハードウェアの研究もまた日々伸び続けている印象を受ける。すなわち、ロボットだ。10年ほど前にホンダが発表した人型ロボットは世界中に驚きを与え、我々一般人も日本の隠された産業技術力に驚きまた期待したものだったが、どうもそれ以降は飛躍的進歩は控えているように感じられる。その一方で、ここ数年、主にインターネットでコンスタントに話題に上るのがアメリカのボストン・ダイナミクス社が開発する4つ脚のロボットだ。頭部を欠いた胴体と脚だけの構成で、けたたましい動作音と共に、力強く動き回る。どうやら軍事使用が念頭にあるらしく、悪路でも自律的にバランスをとって歩行できることが何よりの「売り」らしい。やはり、自分で立つということが、機械が我々動物の仲間入りが出来るかどうかの第一関門ということか。
同社が配信した最新動画が最近ニュースで取り上げられた。そこで登場する4つ脚ロボット「Spot」が姿勢を保持しながら歩く姿は素晴らしく、また動画の中では姿勢保持技術の紹介として”伝統の”足蹴りが行われる。立っているSpotの脇腹あたりを横から思い切り男性が蹴りつける。するとSpotは、横に振られるがすかさず脚を踏み込み素早くバランスを取り直すのである。さて、ニュースで話題となったのはこのシーンだが、そこで取り上げられたのはロボットの姿勢安定技術ではなく、「ロボットを蹴るのが残酷だ」という視聴者の感想のほうだった。ロボットとは言え、足蹴にされる姿を見るのは心が痛む、他に表現方法はなかったのか、といった感想が多く挙げられたそうだ。同社がこれまで発表した4つ脚ロボットはこれまで、「LS3」、「Bigdog」、「Wildcat」と言った呼称が付けられていたが、今回は「Spot」である。これはペットの犬を想起させる。Spotの体もいままでのロボットより細く小さく、動きもスムーズで、より動物らしく見える。動画を見るひとには、犬のSpot(日本人ならポチやハチ)が思い切り足蹴にされているように感じてしまったのだ。動画をみたひとはこれが命なき機械だと当然分かっているはずである。Spotは蹴られたところで痛みも感じないし、”飼い主に裏切られた”と思う心もない。内蔵された高度なセンサーが駆動系と連動して見事なバランス保持を成し遂げたに過ぎない。そんなことは分かっている。しかし、脇に立つ男性に渾身の力で蹴られ、ふらつきながらも姿勢を正し、静かに佇もうとするSpotを見ると、多くの人が(いや潜在的にはほとんど皆が)心のざわつきを感じてしまうのである。この時、私たちの心には、ロボット犬Spotが自分たちと同じ生き物として映っている。心なく命なき機械に生命を見ているのである。
はじめに挙げた人工知能と、”ロボットを蹴らないで”というニュースは、『私たちにとって「生ある対象」という存在が、いったいどこに存在しているのか』という疑問に、ある示唆を与えてくれる。つまり、「命はどこにあるのか」という疑問だ。命は生物が持っているに決まっていると言われる。学校でもそう習った。では、学校で習った生物と非生物の違いで分けるならば、ここで出てきた人工知能の故人もロボット犬Spotも非生物ということで片付いて、取り立てて問題にも上がらないのではないだろうか。これらが私たちの興味関心を引くのは、まさにそのジレンマに感覚がくすぐられるのである。”物質なき人工知能”に生命が宿っているはずがない。そう断言できるはずなのに、そこには確かに”あの人”を感じ取ることも出来る。Spotも然り。そこには確かに生命を感じる。その感覚、感情をごまかすことはできない。では、機械たちの生命はどこにあるのだろうか。それは、私たちの内にあるとしか言いようがない。私たちの脳は、機械にせよコンピューターにせよ、その「振る舞い」のなかに生命を見るのである。そのように進化してきた。この「振る舞い」はとても広い範囲に及ぶ。それは突然の嵐に”怒り”を見たり、転がっている石ころに神という存在を見ることも含んでいる。人類が神の姿に人間や生き物の姿を見て、それを表現してきたように、「振る舞い」に見る生命感覚は、私たち自身に近づくほど強くなるようだ。だから、自然物そのままのカタチからやがて人の姿となり、それはポーズを付けるように変化していく。
だから、本来は生命感覚と生命現象とは分ける必要がある。生来的に私たちが持っているのは生命感覚である。これは物質である私たち自身が長い進化の間に動くようになり、そこから生命と非生命とを選別するために必須の感覚として獲得したものであろう。実際、敵を岩と勘違いするより、岩を敵と勘違いする方が、同じ間違いでも我が身を助ける。この生命感覚に対して、生命現象はあくまで科学の視点において見出されたひとつの概念に過ぎないと言える。私たちが生物の授業などで聞く、生物の定義うんぬんの話もここに属する。ちなみに現在の生物学においては生物の最小単位を細胞に置く。その見方ではだから、人間個人はおよそ60兆の命の集合体とも見なせる。そのように「個人」は「集合体」へ明確に分けられる存在となり、その概念は身体部位の取り替えも当然と言わせるのである。しかし、生命現象の定義のあいまいさを見れば、意識による後付けの強引さを感じもする。例えば身近なウィルスは生物か非生物か明確に言えない。
人工知能やロボット犬の例を待たなくとも、同様の感覚は日常的に味わっている。愛着のある物が捨てられなかったり、人形を壊すことに対する不快感などもそうだ。それらは私たちにとって、単なる命無き物質ではなく、確かに私たち同様に感覚ある存在として感じられるのである。この共感を持つがゆえに芸術という行為がうまれたといって良いだろう。
このことはまた、私やあなたといった個人の存在の所在にもスポットを当てる。誰でも確固たる自分の存在を感じることができる。この自意識があなたを規定し、それが他者や社会においても同様であると信じる。私たちは自意識をそのまま外部に対しても適応する癖があるから、自分の思う自分がそのまま他人にとってもそうであろうと思い込むのだ。しかし、これも実は違うという事実の断片を、例えば写真に映った自分や録音された自分の声への違和感からも知ることができるだろう。それに、他者に依る自分の印象を聞いて、「私の事を分かってないな」と感じたこともあるだろう。しかしそれは、こちら(つまり主観的な私)から見た一方的な視点に過ぎない。結局の所、自分の信じる自分とは、自意識の中にしかおらず、他者の中には他者が見たあなたがいることになる。他者が認識するあなたとは、あなたが人工知能に見る人格と、存在の重さにおいて差違がないのである。私たちはいつも表象をながめ、そこに自らの意識が自らに向ける生命感や自意識を投影することで理解しようとする。だからあなたが思うあなた自身と、世界が見るあなたの間にはかならず違いがある。「私」とは、各々が自意識で感じる隔絶的な存在なのかもしれない。あなたの信じるあなた自身とはあなたの中にしか存在していないかもしれない。つまり隣人が知っているあなたと、あなた自身の知っているあなたは別人であるとも言えるのだ。
人工知能やロボットに命ある存在や人格を投影するのは、私たちの本能だと言える。その指向は日常的に他者に向けられている。私たちは皆、他者の存在やその振る舞いから自己の中にその人を作り上げ、それと向き合っているのだ。同様に、私たち自身も、自意識が示す自分とは異なる自分が外世界に作り出され生きているのである。
私が小学生の頃に、仲良くしていた同級生がある日こんなことを言った。「知ってる。人形には命があって、生きているんだ。」私はそのことの意味を感覚において十分に同意できたにもかかわらず、”知識として間違っている”として、彼の意見を否定した。普通は感じていても言葉にしない曖昧な感覚を、彼は家族との会話か何かで聞いて始めて意識化し、その不思議さを仲間に開帳して見せたのだろう。当時の私は、言葉として「人形が生きている」と認めることはできなかったし、友人が違う価値観を示してきたことに対して否定的な感情を抱いたのだ。しかし、今ならこれが生命感覚と生命現象という、「いのち」を基点としつつも向いている方向が全く違うものをごちゃまぜに捉えてしまった私に非があることが分かる。「人形には命があって、生きている」ことを私たちは昔から知っていたし、それは人体をモチーフとした芸術を人類が作り続けていることが証明している。何より、それを否定すれば、この世界で生きているのは自意識で感じることができる私ひとりということになり、更に、その私は他者から見れば生きていないというおかしな矛盾に陥るのだから。
「いのち」の在る場所と「私」の居る場所を巡るさまざまな見方は、結局はいつも同じ場所にありながら、その見え方だけが時代ごとに変わっていく。人工知能は意識を持つのか? ロボットの犬ならば蹴り飛ばしても構わないのか? これらは現代的な形で、生命や意識の、そしてあなた自身の所在を私たちに問いかけている。
別の例では、全くの仮想的な人格を生成させる。最終的にはその人工知能に感情が生まれるのかどうか、というところも含めて研究している。これは、出力媒体として、人間に似せた首から上のロボットが作られ、それが質問者に対して語りかける。シリコーンの皮膚を持ったリアルな首だけの肉体が、ぎくしゃくと動いて「機械声」で語りかける光景は80年代のSF映画の様だ。
マーケティング予想でも有効な回答を出すように、人工知能は非常に的確(であるように思われる)回答をしてくる。仮想的な人格でも成り立つほどの“精度”を持っていると言える。そうでありつつ、我々が知り得るのはいつも回答だけで、それがどのようにして無数の情報ネットワークから引き出されたのかは、提示されないのだという。その意味においても、私たち自身の意識と似ているように思われる。私たちは意識や感情は”実感”しても、それがどのように自発的に生み出されているのかは分からない。
今この瞬間にも、人工知能は膨大なネットワークを組み込んで、自らの知を膨らませ続けている。そこにやがて自発的な感情が生まれるのだろうか。それとも、それは既にあるのかも知れない。
人工知能が「情報」というソフトウェアであるなら、人工的な「身体」つまりハードウェアの研究もまた日々伸び続けている印象を受ける。すなわち、ロボットだ。10年ほど前にホンダが発表した人型ロボットは世界中に驚きを与え、我々一般人も日本の隠された産業技術力に驚きまた期待したものだったが、どうもそれ以降は飛躍的進歩は控えているように感じられる。その一方で、ここ数年、主にインターネットでコンスタントに話題に上るのがアメリカのボストン・ダイナミクス社が開発する4つ脚のロボットだ。頭部を欠いた胴体と脚だけの構成で、けたたましい動作音と共に、力強く動き回る。どうやら軍事使用が念頭にあるらしく、悪路でも自律的にバランスをとって歩行できることが何よりの「売り」らしい。やはり、自分で立つということが、機械が我々動物の仲間入りが出来るかどうかの第一関門ということか。
同社が配信した最新動画が最近ニュースで取り上げられた。そこで登場する4つ脚ロボット「Spot」が姿勢を保持しながら歩く姿は素晴らしく、また動画の中では姿勢保持技術の紹介として”伝統の”足蹴りが行われる。立っているSpotの脇腹あたりを横から思い切り男性が蹴りつける。するとSpotは、横に振られるがすかさず脚を踏み込み素早くバランスを取り直すのである。さて、ニュースで話題となったのはこのシーンだが、そこで取り上げられたのはロボットの姿勢安定技術ではなく、「ロボットを蹴るのが残酷だ」という視聴者の感想のほうだった。ロボットとは言え、足蹴にされる姿を見るのは心が痛む、他に表現方法はなかったのか、といった感想が多く挙げられたそうだ。同社がこれまで発表した4つ脚ロボットはこれまで、「LS3」、「Bigdog」、「Wildcat」と言った呼称が付けられていたが、今回は「Spot」である。これはペットの犬を想起させる。Spotの体もいままでのロボットより細く小さく、動きもスムーズで、より動物らしく見える。動画を見るひとには、犬のSpot(日本人ならポチやハチ)が思い切り足蹴にされているように感じてしまったのだ。動画をみたひとはこれが命なき機械だと当然分かっているはずである。Spotは蹴られたところで痛みも感じないし、”飼い主に裏切られた”と思う心もない。内蔵された高度なセンサーが駆動系と連動して見事なバランス保持を成し遂げたに過ぎない。そんなことは分かっている。しかし、脇に立つ男性に渾身の力で蹴られ、ふらつきながらも姿勢を正し、静かに佇もうとするSpotを見ると、多くの人が(いや潜在的にはほとんど皆が)心のざわつきを感じてしまうのである。この時、私たちの心には、ロボット犬Spotが自分たちと同じ生き物として映っている。心なく命なき機械に生命を見ているのである。
はじめに挙げた人工知能と、”ロボットを蹴らないで”というニュースは、『私たちにとって「生ある対象」という存在が、いったいどこに存在しているのか』という疑問に、ある示唆を与えてくれる。つまり、「命はどこにあるのか」という疑問だ。命は生物が持っているに決まっていると言われる。学校でもそう習った。では、学校で習った生物と非生物の違いで分けるならば、ここで出てきた人工知能の故人もロボット犬Spotも非生物ということで片付いて、取り立てて問題にも上がらないのではないだろうか。これらが私たちの興味関心を引くのは、まさにそのジレンマに感覚がくすぐられるのである。”物質なき人工知能”に生命が宿っているはずがない。そう断言できるはずなのに、そこには確かに”あの人”を感じ取ることも出来る。Spotも然り。そこには確かに生命を感じる。その感覚、感情をごまかすことはできない。では、機械たちの生命はどこにあるのだろうか。それは、私たちの内にあるとしか言いようがない。私たちの脳は、機械にせよコンピューターにせよ、その「振る舞い」のなかに生命を見るのである。そのように進化してきた。この「振る舞い」はとても広い範囲に及ぶ。それは突然の嵐に”怒り”を見たり、転がっている石ころに神という存在を見ることも含んでいる。人類が神の姿に人間や生き物の姿を見て、それを表現してきたように、「振る舞い」に見る生命感覚は、私たち自身に近づくほど強くなるようだ。だから、自然物そのままのカタチからやがて人の姿となり、それはポーズを付けるように変化していく。
だから、本来は生命感覚と生命現象とは分ける必要がある。生来的に私たちが持っているのは生命感覚である。これは物質である私たち自身が長い進化の間に動くようになり、そこから生命と非生命とを選別するために必須の感覚として獲得したものであろう。実際、敵を岩と勘違いするより、岩を敵と勘違いする方が、同じ間違いでも我が身を助ける。この生命感覚に対して、生命現象はあくまで科学の視点において見出されたひとつの概念に過ぎないと言える。私たちが生物の授業などで聞く、生物の定義うんぬんの話もここに属する。ちなみに現在の生物学においては生物の最小単位を細胞に置く。その見方ではだから、人間個人はおよそ60兆の命の集合体とも見なせる。そのように「個人」は「集合体」へ明確に分けられる存在となり、その概念は身体部位の取り替えも当然と言わせるのである。しかし、生命現象の定義のあいまいさを見れば、意識による後付けの強引さを感じもする。例えば身近なウィルスは生物か非生物か明確に言えない。
人工知能やロボット犬の例を待たなくとも、同様の感覚は日常的に味わっている。愛着のある物が捨てられなかったり、人形を壊すことに対する不快感などもそうだ。それらは私たちにとって、単なる命無き物質ではなく、確かに私たち同様に感覚ある存在として感じられるのである。この共感を持つがゆえに芸術という行為がうまれたといって良いだろう。
このことはまた、私やあなたといった個人の存在の所在にもスポットを当てる。誰でも確固たる自分の存在を感じることができる。この自意識があなたを規定し、それが他者や社会においても同様であると信じる。私たちは自意識をそのまま外部に対しても適応する癖があるから、自分の思う自分がそのまま他人にとってもそうであろうと思い込むのだ。しかし、これも実は違うという事実の断片を、例えば写真に映った自分や録音された自分の声への違和感からも知ることができるだろう。それに、他者に依る自分の印象を聞いて、「私の事を分かってないな」と感じたこともあるだろう。しかしそれは、こちら(つまり主観的な私)から見た一方的な視点に過ぎない。結局の所、自分の信じる自分とは、自意識の中にしかおらず、他者の中には他者が見たあなたがいることになる。他者が認識するあなたとは、あなたが人工知能に見る人格と、存在の重さにおいて差違がないのである。私たちはいつも表象をながめ、そこに自らの意識が自らに向ける生命感や自意識を投影することで理解しようとする。だからあなたが思うあなた自身と、世界が見るあなたの間にはかならず違いがある。「私」とは、各々が自意識で感じる隔絶的な存在なのかもしれない。あなたの信じるあなた自身とはあなたの中にしか存在していないかもしれない。つまり隣人が知っているあなたと、あなた自身の知っているあなたは別人であるとも言えるのだ。
人工知能やロボットに命ある存在や人格を投影するのは、私たちの本能だと言える。その指向は日常的に他者に向けられている。私たちは皆、他者の存在やその振る舞いから自己の中にその人を作り上げ、それと向き合っているのだ。同様に、私たち自身も、自意識が示す自分とは異なる自分が外世界に作り出され生きているのである。
私が小学生の頃に、仲良くしていた同級生がある日こんなことを言った。「知ってる。人形には命があって、生きているんだ。」私はそのことの意味を感覚において十分に同意できたにもかかわらず、”知識として間違っている”として、彼の意見を否定した。普通は感じていても言葉にしない曖昧な感覚を、彼は家族との会話か何かで聞いて始めて意識化し、その不思議さを仲間に開帳して見せたのだろう。当時の私は、言葉として「人形が生きている」と認めることはできなかったし、友人が違う価値観を示してきたことに対して否定的な感情を抱いたのだ。しかし、今ならこれが生命感覚と生命現象という、「いのち」を基点としつつも向いている方向が全く違うものをごちゃまぜに捉えてしまった私に非があることが分かる。「人形には命があって、生きている」ことを私たちは昔から知っていたし、それは人体をモチーフとした芸術を人類が作り続けていることが証明している。何より、それを否定すれば、この世界で生きているのは自意識で感じることができる私ひとりということになり、更に、その私は他者から見れば生きていないというおかしな矛盾に陥るのだから。
「いのち」の在る場所と「私」の居る場所を巡るさまざまな見方は、結局はいつも同じ場所にありながら、その見え方だけが時代ごとに変わっていく。人工知能は意識を持つのか? ロボットの犬ならば蹴り飛ばしても構わないのか? これらは現代的な形で、生命や意識の、そしてあなた自身の所在を私たちに問いかけている。
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