2009年9月24日木曜日

型取りと芸術

私たちが目にしている物は、明らかにその空間に存在しているわけだから、それを空間にたいして実(ポジティブ)であると言い換えられる。
この空間に対して実の物体は、ある物に対しては虚(ネガティブ)であることも考えられる。例えば、コップなどは空間に対して実で内容物(液体)に対して虚を提供している。自動車や家なども同様である。
そうやって周りを見渡すと、以外と虚を提供している実は多いことに気付く。

彫刻に限らず、物作りの行程においては、この虚と実は日常的に用いられている。すなわち、型取りである。
型取りは、1つの原型から型を起こして、同じ形状のコピーを大量に制作するために発明された技法である。現代の私たちの身の回りは、型取りによって複製された物であふれている。型取りという技術の発見なくしては、現代文明は存在しなかっただろう。型取りの発見は、鉄器文化を生み、青銅(ブロンズ)と発展し、近代に至って合成樹脂の発明によって一気に身近なものとなった。鉄器、青銅器と並んで現代は「合成樹脂文明」と呼んでもいいくらいだ。
現代の産業としての型取りが精密で高度な技術を用いているのは、作られてきた製品を見れば明らかだが、雌型に素材を流し込んで作るという基本的行程に今昔の違いはない。その意味で、型取りは古典的な技法である。事実、芸術や工芸などの分野では、古い技法そのものが受け継がれており、鉄やブロンズの鋳造過程でそれを見ることが出来る。

型取りの作業で、切り離せないのが型である。完成品の素材が流し込まれる重要な物だが、その存在を見るものは行程に携わる技術者に限られ、一般にはほとんど型の存在が意識されることはない。
この型−雌型−を見ると不思議な感覚を覚える。虚の空間にも関わらず、強烈に実を意識させる。それは、物体は常に、何かに包括されているということを具現化させたようである。型取りを一度でも体験した人はその感覚が理解できるだろう。

物が存在するということと、そのために用意される空間。この関係性を考え、また感じることは、彫刻家にとって必須である。
彫刻家にとって型取りという作業は、計らずもその感覚の修練にもなっているかもしれない。

彫刻の技法は、素材を盛るもの(モデリング)と、素材を削り落とすもの(カーヴィング)の2つに分けられる。
しかし、モデリングで作られた物は、大抵の場合、そこから型を起こして型取り(キャスティング)され、ブロンズや樹脂などの別素材へと移される。
彫刻の歴史において、モデリングと型取りは切り離せなかったにも関わらず、型取りは芸術の表舞台へは出てこず「職人技の裏方」に徹してきた事実は興味深い。

現代美術において、型取りという行為と芸術を結びつけた表現が出始めている。日本では、西尾康之氏が思い浮かぶ。粘土で雌型を直接作るという技法は、実はより原始的であるにも関わらず、現代では「新しい」。
海外では、室内空間を丸ごと型取り、室内という虚空間を実に置き換えた表現などがある。

型取りという行為、それによって立ち現れる型という虚実の狭間の物体。それは、多くの場合取り壊されてしまうという事実もあいまって、それ自体が存在のあやうさと脆弱性を表しているようにも見える。

画像はVictoria and Albert Museumからの無断借用。

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