2015年2月17日火曜日

「ヒトのカタチ、彫刻」感想その2 作品について

 本展のカタログのテキストにも書いたが、彫刻はライヴショー的な要素をはらんでいる。つまり、鑑賞者が劇場つまり展示会場へ赴かなければ味わうことができない。そんなことはない、写真などの画像でも見られるではないかと思うかも知れないが、それは彫刻の最も重要な要素がすっぽりぬけおちた幻影、影に過ぎない。それはつまり、「立体感」である。立体感には付随する幾つかの感覚がある、すなわち、量感であったり重量感であったりするものだ。それらが互いに解け合いつつ、しかし全体をまとめ上げ彫刻として空間内に確立させる最重要の感覚が立体感だ。立体感はまず、私たちの左右両目で対象を見るということから始まる。人の両目が2つ並んで同じ方向を向いているのは、他ならぬこの立体感を得るためである。しかし、ここで分けておきたいことは、立体視と立体感の違いだ。両目で見ることが立体視である。空間上のある一点を両目で見ると、右と左の目では僅かなズレが生じる。そのズレから目と点との距離を得る。それらは目玉の裏で細胞興奮へと翻訳され脳において様々に分解統合が行われる。その過程において生み出されるのが立体感である。
 しかし、この世界で映像や画像が溢れていることから明らかなように、私たちは量感なき映像でも不自由することがほとんどない。人間の両眼立体視はかつて樹上で生活するために役立ったという。つまり、空間内において自分の体の位置を相対的に捉えるために必要だった。簡単に言えば、木の枝から落ちずに移動できるために必要だった。自然界の目を持つ生き物を見回しても、この両眼立体視をするものは圧倒的に少ない。そして、その多くがハンターである。彼らは自らの体を動かし、獲物と自分との距離を視覚から精密に測る。こうしてみると、両眼で距離を取る行為には、生きるための必要に迫られた身体能力であることがわかる。片眼をつぶしたチーターなどは生きていけないだろう。それは我々にとってもそうだったに違いない。枝から枝へ移れなければ死ぬしかなかったのだ。しかし、人間となった今では、両眼立体視に生死をかけることはもはやなくなった。立体感がなくても生きられるなら、それでいい。脳にとっては画像処理の手間が省けて省エネになるというものだ。だから、カメラという「片眼」で捉えられた世界の画像を違和感なく受け入れる。画像、写真ははなから距離感、立体感という情報を持っていない。それに慣れた私たちは、写真に撮られた彫刻も、実際に肉眼で見た彫刻も同じだと思い込んでしまうのだ。彫刻にとって、最も重要な、それ自体を成り立たせる根本的アイデンティティーである「立体感」だけがすっぽりと抜け落ちているというのに。彫刻という芸術に取り憑かれている人は、その立体感がもたらす、一種の迫力に惹かれているに違いない。それは存在感とも表現される。

 今回、美術館の入り口を入ると、藤原彩人氏の作品がまず目に飛び込む。首を逆さにして壺に見立てた大きなもの。会場のエントランスホールが奥まで見える。そこに青木千絵氏の大きな作品が横向きに立っている(吊されている)のが見える。そして光が大量に降り注ぐ左側の白い床に、藤原氏の白い人体が列を成して立っている。この人体は実物より小さく(2分の1ほどか)、写真で見ると線が細く華奢に見える。しかし、実物は違う。もっと太く、しっかりと堅く、エッジの立った鋭利な印象さえ抱かせる。おそらくそれは思いの外細かく造形された顔など末端処理に依るのだろう。美術館の入り口でこれらの作品が目に飛び込んできたとき、写真ではこれを伝えることはできないことを再認識した。

 藤原氏の作る人体は概ねどれも同じフォルムをしている。そして二本脚で立っている。頭が細く下に行くほど太くなり、足は大きい。それは可塑性を持っていた粘土が自重と闘いつつ自立するために必要な形態でもある。だから、組成が違う人間と同じ形には”なれない”。なで肩で上に行くと細く長くなる様は、まるでソフトクリームの先っぽのようだ。藤原氏がこの人体形状について、興味深いことを言っていた。原型を作っているときの作品と自分との距離がこの形にも反映されているという。だから、等身より小さいこの人体に近づいて、作家が作っていたときほどにまで近づいて、上から見下ろすと、遠近差によって頭部が大きく、足が小さく見える。作品の形には実に様々な要因が関係している。ぜひ、実作を上から見下ろして「逆ダヴィデ現象」を味わって欲しい。
 会場入り口に置かれた人頭の壺は、分かりやすく分かりにくい。私は思うのだが、この「分かりにくい」にどれだけ「旨味」がつまっているかが芸術は大事なんじゃないかな。ひっくり返った頭部。普段の制作で、型から外した人体像の頭部を見て思いついたそうだ。頭頂部を開口させず、首がわをそのまま口とした。それが良い。首は物質の通り道だ。空気や食べたものを通している。空気や食べ物はどちらも顔にあいた穴すなわち鼻と口が起点である。壺となっても首は本分を果たしている。同作は「意識の壺」と名付けられ、釉薬は顔面部で両手の輪郭をなして避けて流れる。作家のお子さんが両手で顔を覆って自分が消えたと信じている・・そんな微笑ましい親としての視点もヒントとなっているようだ。幼児はまず親を「顔だけの存在」として認識するという。親が顔だけならば自分もなおさらだろう。この壺の顔は見えない手で顔を覆って隠れたつもりで居るが、その耳穴だけは開けていて周囲をしっかり捉えようとしていた。彼は顔面の物質門を閉じ、耳という情報門だけを開け放つ。鼓膜で音は情報化され脳の意識に積み重ねられる。

 会場でその大きさから目を引くのは、青木千絵氏の縦に長い造形物。磨かれた漆は深い黒の光沢を放つ。胴体は上に行くに従って茶色くなりさらに白濁して行く。一見すると木目のようだがそうではない。極々単純に形を言うなら、円柱と脚だが、円柱が持つ曲線は胴体部分では背骨の持つ弯曲となり、そのまま尻へと繋がる。脚の表面は滑らかだがその量は力強い男性のそれだ。足首が細く、足指も独立して長い。日本人というより西洋人の体を思わせる。少なくとも、青木氏の身体表現には西洋彫刻の流れを見て取れる。その傍らには、横たわった下半身と巨大な黒い水滴のようになった上半身がある。もう一つの作品は、立位前屈をしているように見える。しかしこれも上半身はひとつの塊に溶けている。大きく曲げられた背中が作る、背骨とその両脇の筋肉の盛り上がりが詳細に追われている。青木氏の人体表現には、局所にこだわりを見る。その仕上がりにこだわりを感じる。局所への偏執的とも見えるような追求が工芸的な要素なのだろう。この3体の作品たちは、みな脚という運動器だけを留めて、あとの体は形を失った。体の形は、氷が溶けて1つの水滴となるようにまとまり、体積に対して最小の面積を外界に晒す。溶けた部分には体幹と上肢があった。上肢は運動器だが、人間では体を運ぶと言うより、物を運び、先端の手指はコミュニケーションツールでもある。体幹は内臓を含んで、私たちが生きるのに必須の部位である。そして意識の座、脳がある。脳も腕もなく溶けた体幹は重々しくもある。そこでは意識、無意識が交ざり判別がつかない。しかし、脚だけは力強く、まるで動物としてこれだけは失うわけにはいかないのだと、訴えているようだ。自然界において(そして私たち人間も)、動けなくなることは死を意味する。動くことは、まさしく「動く物」である私たちの宿命である。縦に長い作品「昇華」だけは印象が違う。題名も言っているように、この体は上へ昇り、拡散している。上へと引っ張る力は足先まで伝わり、まだ人の形をしているつま先も、もはや宙に浮いている。おそらく数秒後には、彼は天へと引き伸ばされ拡散して消える。そこでは個はなく何かと渾然一体となるのだろう。私たち陸上生物は、常に体の一部が地面と繋がっている。そこから他動的に引き離されることに非常な恐怖を感じる。いや、かつて幼児だった頃はそれを受け入れ、安心感へと繋がっていた。私たちはいつも親から持ち上げられ、抱きかかえられ、運ばれていたのだから。しかし、自意識が確立し、自由に体を操れるようになると、こんどはそれを拒むようになる。自意識の赴く方角へ自分を運ぶことが、自分を広げ生かす事に直結していることを知る。だから、それを他者によって奪われることは、負け、諦め、そして死をも意味する。どれほどの俊足を誇っていても、1ミリ宙に持ち上げられるだけで、もはや無力なのである。だから、「昇華」の彼の下半身はまだ力を目一杯入れて、最後の反抗を試みようとしているようにも見える。つま先まで力に満ちている。しかし浮いてしまった。もう、彼の身体能力は意味を成さず、間もなく彼は現状を受け入れざるを得ないだろう。一体、彼を昇華させるものは何か、それは彼が望んだことか、それとも抗えない大きな存在だろうか。

会場奥に設置された津田亜紀子氏の作品たちは、少々先の2作家とは趣を異にする。もちろん、「ヒトのカタチ」をしているが、その存在意義が異なっている。先に挙げた藤原氏と青木氏の作品たちが「それ自体で生きている存在」として表されているに対して、津田氏のそれはあくまで表象されたものとして映るのである。それらは、物語であり、夢であり、記憶である。だからそれは一時ヒトのカタチを成しているものの、表面には布地による色彩とパターンが溢れ、存在の量感をかき消す。それらは存在とは違うベクトルのストーリーを語る絵画である。作品たちは体中に窓枠のような出っ張りが出ている。これは原型から型取りするときに作られる型の枠の残りで、通常は仕上げ処理の段階で丁寧に削り取られるものだ。これが積極的に作品に残されることで、「これらのヒトのカタチは、カタチに過ぎず、生きている物そのものではありません」と断りを述べている。ならば、そこに生気を感じないか、というとそうでははい。それは残された記憶や夢を喚起させ、見る物それぞれの脳内にいるかもしれない彼女たちが動き出すのである。あくまで模られた存在としてそこにあり、かつてどこかにいたようなリアリティを想起させるもの。津田氏の作品を見てすぐに思い浮かんだのは、ポンペイの石膏人だった。古代ローマ時代に突然の火山噴火に伴う火砕流で多くの住民が灰に埋もれた。それは長く伝説だったが、18世紀に再発見され、研究者は死体が腐ってできた人の形の空間(そこには骨だけが残されている)に石膏を流し込むことで、住民の最後の姿を復元したのである。それはまさしく、死の瞬間の表象である。その形を見る者たちは、おのおのの脳内で彼らの最後を繰り返し見るのだ。

 彫刻は、ロダン以降、作品そのものが生きていると見なされる「内的生命」となった。これは彫刻としての生命である。だからそれを成り立たせる要素として、生物学的なそれを割り当てる必要など無い。そこはあえて強調すべきであろう。彫刻家が見出す内的生命とは、三木成夫が言うところの”鑑照畏敬的”な姿勢によって見出される、言わば生命現象の”すがたかたち”のことである。だから、彫刻がヒトのカタチをしているから人に近いとか、抽象形態だから生きていないとか、そういうことは全く言えないのである。今回の展示では、人の形をしている彫刻が集った。藤原氏の作品は2本脚で立っている。だからといって、これが人間が実際に立つ行為の単なる写しと言えるだろうか。人間が二本脚で立つのは、生きている間だけだ。ほとんど動かずに立ちすくむこともできるが、その時の体は多くの筋と感覚を動員して不断の見えざる運動を続けることで立っている。立つだけでも、運動である。藤原氏の作品は人が立つのとは根本的に違う。より正しく言うなら彼らは「2本脚で置いてある」のである。そう言い切ってしまうとしらける感もあるが、それでは、ここで立っている意味は何だろうか。彼らは人が立つという”すがたかたち”が写し取られた形態である。本来自立しない物質が、そうすることで、「立つ」という私たち人間にとって呼吸と等しいような無意識的運動の奇妙さと、「二本脚で立つが故にヒトである」という定めにスポットを当てるのである。

 「Living presence」として立ち上がる、ヒトのカタチたち。それらは、鑑賞、鑑照されることで命を宿す。それは、見る側、私たち自身の命の反射に他ならない。