2018年2月26日月曜日

パパとケン 肉体の有無

    日本人なら誰でも知っているリカちゃん人形。アメリカのバービーも有名だ。それぞれ成人男性の人形もあって、リカちゃんでは「パパ」、バービーでは「ケン」である。
   この日米の両者を並べてみると興味深い差異が見られた。


 まず、両者の身長。人形の大きさは購買対象の女児が扱いやすいものになっているはずだ。両者を並べるとケンが頭半分ほど大きい。下に引いたグリッドは1センチなので、ケンが31センチ、パパが28センチほどである。仮にパパが身長170センチならば、ケンの身長は188センチとなる。なかなか現実味のある身長差だ。ところが、衣服を外して見ると興味深い真実が現れる。

   裸にした2つの人形で共通しているのは、胸部つまり大胸筋の強調である。鍛えられた“厚い胸”がたくましい男性のイメージとしていかに重要なのかが見て取れる。面白いのは、ケンでは頚まで太く、それは腕も同様であるのに対して、パパでは頚も腕も細い。似た傾向は脚でも見られる。ケンのシリーズは幅広く、スーツ姿から海パン一丁のものまであるので、腕や脚の肉体描写も重要なのだろうが、それ以上に日米における身体性の捉え方の違いが根底にはあるように思える。
   下半身では、どちらも外性器の描写は一切ない。つまり、その位置にわずかな膨らみさえ表現していない。外性器に独立した意識があったなら、この歴史的な無視に対してどのような声を挙げるのだろうか。ともあれ、そこで面白いのがケンのウエスト周りに造形されているベルトのようなレリーフだ。なぜ裸にベルトが?と思ったが、これはベルトと言うより“パンツのゴム”であろう。そう見ると確かに脚と胴体の関節部にも布の折り返しのような造形表現が見られる。人形を後ろから見ると、お尻の割れ目がケンでは表現されていないことも彼がパンツを履いている事を示している。つまり脱着可能な衣服を取り除いても、ケンはパンツだけは手放さなずに履いているのである。そうすれば、男性器が造形されていないことへの言い訳になる。つまり、男性器の存在を無かったことにしているのは日本のパパの方だけであった。

パンツの表現
 全身から見た股の高さは、両者ともにほとんど同じである。パパは脚の長さが身長の半分を超えており、現実味よりも理想がはるかに重視されている。その脚が胴体と連結している部分の構造が両者では大きく異なる。ケンでは胴体の股関節部が大きくえぐり取られていて、そこに大腿部がそれなりの幅を持ったままはまり込んでいる。対してパパでは、胴体が腰からほんのわずかに収束するだけで、その両側から脚が差し込まれているような形だ。そのためにパパでは脚の最上部が左右に張り出さざるを得ず、人体の輪郭はほとんど破綻している。後ろから見ると、ケンの殿部は前面より幅広く、これもパンツ造形と関連している。パパでは殿裂が表現されているがその両側の脚の関節が同じく体のラインを乱している。
 
 ケンは裸体での体のラインを重視した脚の連結のために、股関節の可動範囲はパパほどではない。例えば、股関節屈曲は90度に達さない。そのため、床に脚を伸ばして座らせようとすると、若干後ろへ仰け反ったような姿勢になる。逆方向、つまり股関節の過伸展はケンでは35度ほどであるが、パパは90度でも曲がる。この場合、より実際の人間の股関節可動域に近いのはケンだと言える。
ケンの脚は直角まで曲がらない
   肩関節の可動域はどうであろうか。これは、ケンとパパはどちらも似ている。人形の肩関節で単純なものは、股関節と同様の構造で、体の両側に差し込むだけである。これで可能な動きは体の両側で腕をぐるぐると回すだけで、まさしくリカちゃんの肩はこの作りである。しかし、パパは違って、腕を左右に開くこともできる。
腕は肩関節から外転する
この、腕の開閉、解剖学で言う外転と内転、ができることで可能な姿勢のバリエーションが幅広くなる。これがパパの構造の最大のウリであろう。ケンも同様の肩構造である。この3次元的な運動を可能にするために腕の付け根は内側が球状をしている。腕を前へ挙上してそのまま外転させると、その球構造が露出する。この時ケンでは、球の中心部に固定軸が見える。前方へ腕を挙上すると、いわゆる“前へならえ”の姿勢になるが、この時にパパでは、両腕の上腕部を外側から内側へと指で押さえ込むと腕がしなって両手が合わさる。これで、軽い物ならばそこに挟ませることで、何かを持たせたり受け取ったりするようなしぐさを模することが可能である。一方のケンの腕は、使用されているプラスチックが硬いのできない。
   頭部は、ケンもパパも中空の柔軟性のある樹脂でできていて、それを頚の上端にはめ込んでいる。可能な運動はどちらの人形も左右の回旋のみである。

   ここで、シリーズの主人公であるリカちゃんも比較してみたい。リカちゃんをグリッドに置くと、およそ23センチで、パパよりも頭ひとつ分以上小さい。パパが170センチならばリカちゃんはおよそ140センチで、これは10歳から11歳の平均身長である。
   前面からの裸のリカちゃんでは、年齢に合わない誇張された乳房が目立つ。これは人形で遊ぶ女児の憧れ、つまり“綺麗なお姉さん”としての役割が人形に与えられていると言うことだろう。リカちゃんの胴体は上下が別体で、そこから回旋が可能である。これはパパやケンにもない可動部である。一方の肩関節は、すでに述べたが、体の側面で回転するだけの単純なものだ。股関節も同様である。腕と脚は使われている樹脂が柔軟でよく曲げることができる。指先で押しつぶすとわかるが、上腕部は中空になっていて特に柔軟である。そのためパパと同様に、腕を両側から内側へと押すことで、両手で物を持つ動作が可能である。脚も柔軟性を活かして脚を組んだり開かせることが多少は可能である。いずれも、中に針金を入れて曲げた姿勢を維持できる“ベンダブル(Bendable)”ではない。
首をかしげる
   リカちゃんの頭部は、パパやケンと異なり、首をかしげることができる。素材はパパ同様の柔軟な樹脂だが、ジョイントの仕組みが異なるようだ。首をかしげるだけで、人形がより多くの表情のニュアンスを模することができる。このように、リカちゃんはパパと比べて頚部と腰部の可動が多いのが特徴である。

体型がわずかに異なる
   リカちゃんシリーズには、より現代的な表情を持ったつばさちゃんがある。身長はリカちゃんと同じなので、頭部だけを取り替えているように見える。しかし、両者を比較すると異なり、全く別に設計されたものだと分かる。腕はリカちゃんより大きく長く、脚も太い。特に股関節部の曲線に注意が払われており、骨盤から大腿へと流れる造形に拘りが感じ取れる。結果的にリカちゃんより幅広の腰となり、これはより大人の女性の体型に近づけていると言える。胸部の乳房はリカちゃんよりわずかに高く、小ぶりである。ウエストの連結部の幅は両者でほとんど同じだがごくわずかにつばさちゃんが大きい。つばさちゃんの頚が立ち上がる部位、すなわち頚根部にはネックレスが印刷されている。腕や脚の柔軟性はリカちゃんと同様である。手の大きさはつばさちゃんが1.6センチで、対するリカちゃんは1.2センチしかなくその小ささが際立つ。頭部はリカちゃんと同様、柔軟性のある樹脂製のものに頚部が差し込まれるような構造だが、リカちゃんよりタイトにはまっていて、あまりかしげることができない。
 両人形の脚は、前後に開いた状態の腰部に挟みこむ構造で連結されており、それは殿部の下を見れば分かる。足はどちらの人形も軽い爪先立ちの姿勢で、足の裏には長方形の溝が開いている。これは靴を固定するためのものである。

平面的で正面性の強い顔面
立体的で構造的な顔面
   ここからは再び目をケンとパパに戻し、その体表面の造形を比べながら見て行こう。まず頭部では頭髪の表現は明らかに異なって、パパでは植毛がされている。なお、ここで比較に用いているパパは持ち主によって“散髪”がなされており髪型は市販品と異なる。一方のケンの頭
髪は一体成型で、着色によって分けているのみだ。顔面では、眉と目と口が着色され、特に目のまぶたは造形されず色分けのみなのはどちらも同様である。しかし、顔面を含む頭部の構造的な造形はケンのみに見られる。そのために、光による陰影はケンは写実的であり、パパはそうではない。決定的なのは目の周囲の造形で、パパの目は正面からの“平面画”で、側面から見るとその平坦な様がよくわかる。側面から見たパパの顎から耳にかけてのラインと耳の後ろから後頭部へのラインも全く造形されていない。これらは、作れなかったと言うより、作る必要性が考慮されていないと見なせるものだ。これらから言えることは、この頭部はほとんど正面性だけで作られているという事実である。この点でケンは全く異なり、下顎のラインは耳介の前下方へ向かっていて、それが頭部領域と頚部領域とを明確に分けている。この部分の胴体側の頚部は単なる円柱だが、そこから下へおりて首の付け根に至ると主要な筋構造、胸鎖乳突筋と僧帽筋の起伏が表現されている。また、僧帽筋と鎖骨の間の窪んだ大鎖骨上窩がよく目立つ。一方のパパでは、頚部は終始円柱に過ぎず、僧帽筋の表現も皆無である。鎖骨の下にある大胸筋は両者ともに表現されているが、現実味のあるのはやはりケンで、外側が胸郭へと切り込んだ造形は鍛えられた大胸筋の見え方に真実味を与えている。その下に続くアーチ状の起伏(肋骨弓)と、その下の腹直筋のレリーフも調和を持ち、わずかに正中の溝を押し下げてヘソを表し、その下にはもはや溝が見られないが、これは実際の人体の見え方と同様である。また、胸郭の両側面には縦に走る起伏が造形されており、正面から見た時に上半身の逆三角形型を強調している。これは広背筋だが、実際よりも垂直に落ち過ぎている。しかし、胸郭の下部にある別の前鋸筋の下部筋尖が盛り上がっていると、それが広背筋の起伏と合わさることでケンの様に見える事もある。
西洋彫刻的なケンの体幹

   背部を見ると、パパでは肩甲骨の起伏が目に入る。しかし、それと胴体下部の殿裂以外には現実味のあるレリーフ表現はない。一方でケンは、背部にも多くの現実的な要素を造形している。ケンの背中で肩甲骨の起伏は見られない。しかし、それを無視しているのではなく、肩甲骨周囲の筋が発達した状態が造形されているのである。例えば、肩甲骨下角に当たる部位に膨らみがあるがこれは大円筋である。また、それより内側に上下方向の起伏が見えるがこれは僧帽筋の上行部である。しかし、両筋ともに実際よりも若干位置が高い。それより下には、背骨の両側に脊柱起立筋の力強い膨らみが見られる。腰部でちょうどメーカーのロゴが入っている部位が筋が皮下で胸腰筋膜に包まれている部位である。
背面の筋も造形されている

上がケン、下がパパ
   腕の造形も、パパではほとんど“先細りの棒”に過ぎないが、ケンでは主要な起伏が表現されており、特筆すべきは手である。ケンの上腕部では、上方の三角筋と前方の上腕二頭筋そして後方の上腕三頭筋が明確に区分し造形されている。上腕二頭筋の直線的な筋腹や三頭筋の上方ほど大きく膨らむ様は実際の筋の見え方に即している。また肘の内側では前腕との繋がりとして上腕筋が表されている。同じく外側では腕橈骨筋などによる起伏と、それらによって作られる外側上顆のくぼみが正しく表されている。肘の前面には肘窩があるが強調がやや強い。手のひらは非常に現実味が強く、内側の骨格の存在を感じるような力強さがある。手の甲には中手骨のみならず伸筋腱まであるようにも見え、手のひらも肉の膨らみが詳細に追われている。何よりこの手のひらにリアリティを与えているのは、手の全体が持つ曲線が追われているからである。それは手を指先側から見ると親指から小指にかけて中指を頂点とするカーブを描いている。また側面から見ると、指の付け根を頂点とするような縦方向のカーブも見られる。さらに、並んだ人差し指から小指までの4本は中指の先端へと収束するような方向性を持っている。
写実的なケンの脚
   脚の造形も、パパは“先細りの棒”状に過ぎないが、ケンでは大きく捉えた主要な筋が美しくまとめて造形されている。大腿部は下腿部と比較して実際よりも細身に造形している。鼠径部は股関節の可動部に入っているため表現されていない。大腿部は、内側に内転筋の塊があり、膝のすぐ上の内側には内側広筋の膨らみが表されている。また外側の上方は中殿筋と外側広筋(と大腿筋膜張筋)の境の起伏差が表され、この部位の現実味のある輪郭に寄与している。膝下は、前面では直線的な脛骨とそれに対する前脛骨筋の丸さがしっかり表され、後面では下腿三頭筋の筋腹とアキレス腱が造形されている。また、腕における手と同様に、ここでも足の造形が一際目を惹く。内外のくるぶしによって下腿の上下方向の流れが止められ、そこから足が始まるが、内側にある骨格で作られる足の構造が明快に単純化されている。
写実的なケンの足
   足を外側から見ると、外くるぶしのすぐ前に膨らみがあり、その下には浅い溝がある。この膨らみは足の甲の骨格(踵骨の前外側部)と筋肉(短趾伸筋)で構成されるもので、それが若干強調されている。これより下では足底の“パッド”がせり出て、その結果としてここにくぼみが生じる。このくぼみによって甲と底の構造が分けられ、視覚的にもアクセントとなるので重要である。また足底の外側を指でなぞると小指の付け根から踵までの中間部にごくわずかだが起伏がある。これは小指の中足骨の結節で、わずかとは言え足の形態表現において外すべきではないが、実際は多くの造形で見逃されているものだ。足の指も、母指は外側に正しく反るだけでなく先端の爪部を上方へ反らせて造形し、小指は他の指よりわずかに上方にするなど、明確な理解の元に作られている。

   ここまで見てきて、リカちゃんのパパとバービーのケンの身体表現が全くと言っていいほど異なっていることがわかった。ケンの身体表現は意識的で、身体の解剖学的な構造と美術における身体表現の一通りが理解された上で作られている。引き伸ばされた四肢などは16世紀のマニエリスム彫刻を思わせるようなところさえある。頭身数はケンが7強で、パパはほぼ7である。
   ケンの造形理念とは真逆を向いているようなリカちゃんパパの体を見ると、そもそも服の下の肉体が存在しないかのように思える。パパの肘や膝がわずかに曲がっているのは、着衣時に直線的になりすぎるのを防ぐためだろう。手と足は衣服から出るので、指まで作ってあるが、それでも現実味のあるものではなく、あくまでも素早く描いた少女漫画のペン画を立体化したような概念的なものだ。パパやリカちゃんの乳房の造形も着衣時の衣服に現れる起伏を目的とした“当て物”としての造形に見える。リカちゃんやパパの手を見ていて思い出したのが、雛人形の手だ。雛人形の着物の下には肉体は無い。胴体は藁や樹脂の塊で、腕は左右に通した針金に藁を詰めた和紙の円錐を差しはめてあるに過ぎない。その針金の両端に手だけが差し込まれる。そのノッペリとした手はリカちゃんやパパの手とそっくりである。

裸を想定していない造形
 身体は見える部分だけで、衣服の内側ではそれがない。パパの体は、その存在を生かす本体ではなく、衣服の見栄えを裏で支える黒子である。つばさちゃん人形のネックレスの印刷も着衣だけを考えているからであろう。かつて、日本人は他者の裸を“無いもの”として無視する、という記述を読んだ記憶があるが、それに近いものをパパの造形に感じた。遊ぶ目的としても、リカちゃんやパパは、裸体の状態は想定外なのだ。彼らの身体は衣服をまとわせるマネキンやハンガーにより近い。日本人にとって肉体とは着衣時のそれを言うのだろうか。衣服が外皮として機能するなら、その下層の裸体はもはや内臓であり、そこに他者の視線を意識する必要はなくなるだろう。
   一方でケンの体には骨格があり、それを厚い筋肉が覆っている。彼は間違いなくその肉体で生きていて、薄い衣服は容易にその機能的肉体のシルエットを浮かび上がらせる。彼を動かす主体はあくまでも肉体である。衣服は機能的な纏わせ物に過ぎず、必要ならばいつでもそれを脱ぐ準備はできている。パンツを除いては。

   着せ替え人形と言っても、そこには身体の捉え方の文化的差異が見えるようでなかなか興味深い。

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