2017年8月10日木曜日

仁王像について

 「あうんの呼吸」と言われる仁王像の阿形と吽形。二人ペアで、阿形が口を開け、吽形は閉じている。呼吸と言うのだから、2体のどちらかが息を吐いていて、どちらかが吸っているという事か。しかし、吽形の口は閉じている。ググってみても、阿形が息を吸って吽形が吐いていると説明しているものもあれば、その逆もある。ただし、「あ」も「うん」も、元々はその音を発声することらしく、つまり、本来は「あ・うん」はどちらも呼気(息を吐く)なのだ。「あ」と言うには口を開けるし、「うん」つまり「ん」と言うには口を閉じる。この対照的な口の姿勢と、発声とが結びついて形象化されたもののようだ。偶然なのか関連するのか、日本語の50音も「あ」から始まり「ん」で終わる。私たちは世界を言葉によって認識するのだから、「あ」から「ん」の間には世界の全要素が含まれることになる。西洋では同様に「アルファ・オメガ」と言う。

 興福寺の金剛力士像を見ると、阿形は左脚重心、吽形は右脚重心で始まって、互いに対称の存在であることを示している。「あ」と「ん(うん)」が対称であるように、これら2体には対称的要素が多くちりばめられている。

二体を並べてみると、阿形はアゴを引いているのに対して、吽形のアゴは上がっている。それだけでなく、吽形は腰から上の上体が若干上向きに反っている。この姿勢から、吽形は息を肺に吸い込んで、その息を吐かずに喉の奥でぐっと”息んでいる”だと分かる。私たちも普段、何か重たい物を持ち上げる時などに、ぐっと息をこらえるものだが、それをしているのだ。背骨に肋骨が組み合わさってできている胸郭は、よく「心臓や肺の保護」のためと言われるが、一番の働きは呼吸である。肋骨を筋肉で持ち上げることで胸郭内腔を拡げて肺に空気を押し込んでいるである。だから胸郭は、呼吸のたびに動いている。一方で、胸郭の外側には多くの筋肉が付着していて、その中には腕を動かすものもある。効率的に大きな腕の力を発揮したいときには、胸郭がぐらぐらと動いてしまっては力が逃げてしまうので、息を吸い込んで胸郭を膨らませた状態にして息をこらえるのである。
 繰り返すようだが、息を吸い込むということは胸郭を膨らませるということで、これを「胸を広げる」とも言うように、胸郭は若干反るような形になる。胸が反ればアゴも上がる。
  
 吽形の右手は失われているが、復元した同様の像の写真を見ると、ぱっと開いた手のひらを胸郭の横の位置で、前面に向けている。左手は拳を握って腰の高さに下げているが、その腕の筋は膨隆している。これらの手の姿勢は、目に見えない何か重たいものを力を込めて押しているように見える。右手は前に向かって、左手は下に向かって。それら”見えぬもの”の質量は相当で、吽形は全身を力ませて応じている。そのような、関節運動を伴わない筋収縮を等尺性収縮と言うが、ここではそれが起きている。等尺性収縮では最大の筋活動量が発揮される。


 それに対して阿形は、口を開き、アゴを引いていることから、口から息が出ている事が分かる。それも何かを発声している。私たちの呼吸の基本は「鼻呼吸」で、口でする呼吸はあくまでも補助である。吐く息を利用して声を出すようになったが、その際には、口腔内は共鳴装置としても働き、大きな音を出すときには、トランペットのように音の出口を大きく拡げる。阿形は、凄まじい大声を上げている。広げられた右手は反らすようにして、肘を力強く伸ばしている。手の甲側へ反った指が体側を向いている事から分かるように、その腕は肩から内旋している。前腕も回内位を取っている。肩関節から腕全体を内旋させる大きな力は、大胸筋が生み出す。阿形の腋にはピンと張った大胸筋が(若干、膜っぽいとは言え)現されている。仮に手を握って胸の前方へこの腕を伸ばすなら、それはボクサーがパンチを出したときのようになる。つまり、この腕は、素早く力強く腕を伸ばした瞬間が表されているのだ。阿形は伸ばした右手の方向を向いている。その方角から何者かが上がってきている。彼はそれを素早く右手で制し、声でも制圧しつつ、左手は次の一手に向けて力を溜め込んでいるようだ。その右腕の肘が完全に伸びていることからも、この腕は今、伸ばしきった瞬間であり、同様に高らかと上がった左肘もぐっと振り上げられた一瞬である。彼は激しく動いており、吽形と同じように筋が盛り上がっているとは言え、その働きは対照的である。このような関節運動を伴う筋収縮は等張性収縮と言う。

 こうして見ると、阿形は動、吽形は静の力が表されていると分かる。また、視線を見比べると、阿形は近、吽形は遠を見ている。筋張力とその仕事で見れば、阿形は外、吽形は内である。
 様々な要素が対照的に表されている仁王像だが、両者で共通していることは、非常な緊張状態にあるということだ。ただ、彼らは怒っている訳では無く、制止制圧しようと必死なのだ。彼らの高緊張状態は何と対照しているのかと言えば、本殿にいる本尊であろう。仁王たちが何か邪悪なものを制止制圧しているからこそ、本尊は優しく穏やかでいられるのである。その関係性は、私たちの健康と免疫系に似ている。免疫系は常に体内の異物に目を光らせ制止制圧を続けている。免疫に安息はなく、もし人の姿を取れるなら仁王のようだろう。

 興福寺の金剛力士像は、身近な寺にあるような仁王像は違って、その身体表現に写実性がある。西洋のような方向では無いが、それでもこれは相当な観察を要しただろうし、その効果を作品上に高度に反映させるのは誰にでもできるものではない。それでも、大胸筋の下の両側に見える前鋸筋と外腹斜筋が作る起伏などは様式性が強く出ていると思っていたが、先日、筋量の多い男性モデルで、本当にこのような見え方をしていて驚いた。胸郭から腹に変わる部分の肋軟骨でできる上向きのカーブを肋骨弓と言うが、仁王像の多くがこれが幾つもの連続した起伏で表現されている。そういうことは無いだろうと思い込んでいたが、その男性モデルでは肋骨弓をまたぐ外腹斜筋の筋尖が厚みを持っていて連続する起伏として現れていたのである。これによって胸郭には、外側から内側へ、前鋸筋、外腹斜筋の胸郭部、外腹斜筋の肋骨弓部の3列ができる。それぞれが筋尖の起伏をもつために、時に亀甲様の連続性を見出すことがある。
 また、腹部の表現も、現代人が見慣れた西洋風な6つに割れた腹筋というものが表されていない。これも同じ男性モデルは筋量が多いにも関わらず、腹直筋の縦の割れ線(白線という)などは目立たず、金剛力士像を彷彿とさせるものだった。そもそも、”割れた腹筋”が力強さの象徴としては見られていなかったという事はこれらの像から分かる。金剛力士像を見ていると、これにもし腹直筋の縦線があったら、体表起伏のリズムが崩れるように思われる。

 仁王像は、ギリシア由来の西洋美術を見慣れつつある現代人(私)の目で見ると、極端な様式化と観察に基づく正確さとの調和に違和感を覚えることもあるのだが、細かく検討していくと、その形態から興味深いものが見えてくるのかもしれない。

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