2013年7月15日月曜日

ヌードと人体解剖


 日、夜の大都会某所で、表現のための人体構造を学んだ学生たちを対象にヌード・モデルを用いたセッションが行われた。広い空間をパーティションで2つに区切り、それぞれに男性モデルと女性モデルを入れるという贅沢なものだ。同時に同じポーズをしてもらい、学生は男女モデル間を自由に行き来することができる。途中、男性モデルには上腕運動時の上肢帯(肩甲骨と鎖骨)の連動的運動を実演してもらい、女性モデルには乳房の可動範囲を示してもらった。
 モデルの体型や今回のセッションの内容については事前にエージェントへ伝わっているものの、どのような方が来るのかは当日まで分からない(海外では、モデルのプロフィールや写真などの情報開示をしているところもある)。今回のお二人は若いうえに、ポージングにも慣れていてリクエストにも好意的に対応してくれたことで非常に良いセッションとなった。

 初のポージング始めにモデルが臆せず下着を脱いでポーズを取ると、初めての学生達はモデルの正面に陣取って、皆が背中が壁に着かんばかりに後ろへ下がっていたのが微笑ましく印象的だった。ただ、そんなのははじめだけで、皆すぐに観察と描写に夢中になりどんどんモデルに近づいていく。
 学生たちのほぼ全員がヌード・モデルを描くのは人生で初だったのではないかと思う。そんな彼らを見て、”人間が人間を見る、それもまじまじと”という行為の奇妙さと求心力の強さを感じた。全く我々は奇妙は動物だ。
 目の前のモデルが持つ肉体と、ほとんど同じ物を皆が持っている。そんな、言わば究極の身近でありながら、それを冷静に客観的に見るという行為は一般的生活を送る人々はほとんど体験することがない。だから、ヌード・モデル・セッションはその意味において非日常性の高い奇妙な体験である。
イメージ

 ともと志の高い学生達だが、この日の皆の集中力は特別だった。休憩時間になってもペンが止まらない者、画力の理想と現実の差にため息を突く者、男女モデルを同時に観察したいのでどうにかならないかと聞きに来る者、とにかく時間が足りないと嘆く者・・。こんな積極性を見せるのは初めてで、どれもこれも、本物を目の前にして、それを捕らえてやりたいという欲求が強烈に引き出された故だろう。
 私としては、彼らのクロッキーを見て、構造で対象を捉えたうえで表現(描写)へ反映させるということの難しさを改めて感じた。講義では、人体を構造の複合体として捉えられることが表現を輪郭線という平面性の呪縛から解き放つ強力かつほとんど唯一の手段であることを具体的に示してきた。ところが、いざ目の前に”総天然物”である裸体が立ちはだかると、そんな座学の知識はほとんど力を持たず、輪郭線で対象を追うことで精一杯という描写がほとんどだった。また、顔が整った女性モデルだったので、ある学生はその描写に捕らわれた結果小さな体が巨大な顔の下にぶら下がったような描写になっていた。
 これらを、残念な気持ちで見ていたのではない。ヌード・セッションが学生達から”ぎりぎりの本気”を引き出した、その”場のちから”に驚いていたのだ。ポーズは静止しなければならないので、20分ごとに休憩が入る。今回は毎ポージングごとに違う姿勢だったので、学生達はたった20分の間に目の前の描きたい部位を出来るだけ紙の上へ収めなければならないというタイム・プレッシャーが掛かっていた。これも、彼らの本気を引きずり出す主要因のひとつであった。とは言え、何と言っても強力な要因は”目の前の裸体”であることは疑いがない。捕らえどころのない人体を目の前にして時間内に何とか画帳へ留めようとペンを走らせるとなると、身になっていない知識など吹き飛んでひたすらに”今まで通りの”輪郭線で追うしか出来ない・・。そんな切羽詰まった様子が見て取れた。
 構造視と実物観察。この往復作業を数回繰り返すことで、もっと実質的な描写力へと繋げていけると感じる。今は第一歩を踏み出したというところか。

 回は指導側ゆえに、モデルと観察者とが作り出すこの空間を客観的に感じられた。この空間には、画力向上という本来の目的以外に、何某か心に訴えかけるものがある。それは有機的な感覚と繋がっている。観察という冷静さが、有機的な暖かいものと繋がるという経験で近いものを思い浮かべていた。それは、人体解剖だ。実習室に並んだご遺体との対面と、実習を通しての内部構造の観察。腰が引けているのは最初だけ。剖出が始まれば、直ぐに作業に夢中になっている。そうして、その間冷房の効いた実習室では冷静な観察と理解が求められるが、それらの知識は皆、”人が人を治し助ける”という有機的暖かさと繋がっている。それだけではない、生前は決して見せることのない自分の内側(内部器官)という究極のプライベートの開示と観察とがこの空間では許されている。見せる側の生命はもはや無くとも”見ても良い”という遺志がそこには明確に強くある。要求と許諾。求め許すという行為がそこには流れているのだ。
 ード・モデル・セッションもそこが似ている。他人に裸を見せるというのは相当にプライベートに入り込んだ行為だ。そこには「こっちは賃金を払っているのだから」というような無機質さだけでは成り立たない類の、感情のやりとりがある。それは金銭を超えた要求と許諾である。そういった暗黙の取り引きはあの空間にいることで”感覚的に”くみ取ることができる。だから皆、真剣になるのだろう。
 解剖実習は「死」のイメージを払拭できないが、ヌード・モデル・セッションにはそれがないどころか、「生」の瑞々しさや、なまなましささえ漂っているという決定的な違いがある。それに、解剖見学は厳しく限定されているが、ヌード・モデル・セッションは求めるなら基本的に誰でも参加できるものだ。

 ード・モデル・セッションの一義的な目的は「生きた人体の形状の観察」だが、その看板に書かれない独特な空気感を体験するだけでも参加する価値が十分にあるのではと、この日思っていた。