2009年12月8日火曜日

境界 「在る、居る」ということ

ある空間内において、「有る」、「居る」を定義するには、境界が必要だ。私たちの感覚では視覚と触覚がそれを認識する。
視覚で境界を認識するとは、要は「見える」ということだが、外部現象としてもう少し細かく言えば、光線がぶつかる対象が在るということだ。視覚器は光を捉える器官だから、空間内である物が見えるというのは、そこに光線が反射できる対象が存在することを意味している。机が見えるというのは、それに反射した光線を網膜が拾い上げているということだ。机の前まで行けば、当然それに触れることが出来る。「見える=触れる」という経験の進化的な積み重ねで、私たちは見えるものは存在するという感覚的常識を強くしてきた。しかし、「見える」とは光線の反射に過ぎないのだから、厳密に言えばその限りではない。夏に現れる陽炎(かげろう)や蜃気楼などは、目に見えてもそこに存在しない。鏡やテレビなどの映像もその列に並ぶ。目に見えてかつ存在もするが、捉えられないものとしては雲や蒸気などがある。夏空の積乱雲などは大山のごとき存在感であるが、飛行機などでそこに近づくとその輪郭は曖昧になってゆき、遠目で見えていた実体感がなくなってしまう。
目に見えるのに触れられないという対象は、私たちの体験においてまれであったために、そういう状態を体験すると違和感を感じ、不安感を覚える。幽霊などが、見えるけれども触れられないような存在として登場するのもそこが関連しているだろう。

触覚で境界を認識するとは、つまりは「触れる」ということで、触れたときに押し返される刺激があることでそこに物が在るということを認識する。これは、触れる対象によって様々な触覚としてフィードバックされる。私たちが日常触れる物はコップや鞄などのように多くが「硬い」。つまり、明確な形を持っている。それ以外にも、水のように形を持たない物もあるが、それらは触れたときも明確な形としてのフィードバックはない。視覚でも登場した雲なども触れることが出来るが、触覚のフィードバックはもはや無いと言える。

こうしてみると、物が「在る」ことを認識するための境界は、空間中の壁のように確固たるものではないことが分かる。それは言わば、空間中の物質の濃度差のようなものだ。
大気中には水分子は漂っているが、普通は見えない。それが一定の条件下では凝縮し、光線の多くを反射しうるようになると雲として目に見えるようになる。その濃度がさらに高くなると水になり、曖昧ながら触覚に訴えるようになる。固体の氷となると、不動の確固たる物質然とする。水の液体相と固体相を鑑みると、濃度差に加えて分子のふるまいも関係すると言える。

彫刻は空間に素材の境界を持って存在する。私たちも同様に空間中に境界を持って存在している。彫刻という「物」と、人間という動く「物」。「在る」、「居る」ということを掘り下げて考えたい。

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